
| はじめに | |
| 世界にはいろいろな肌の色の人がいます。白い人、黒い人、こげ茶色の人。そして、日本人は黄色い肌といわれています。もちろんそれは自分で選んだことではありません。それなのに、もしも皆さんが「あなたは肌が黄色いから、この学校に来てはいけません。」と言われたり、「あなたは白い肌ではないから、このホテルに泊まることはできません」などと言われたらどう思いますか? たぶん皆さんは、そんな話があるわけないと思うでしょう。 しかし、これは本当にあったことなのです。しかも、そんな昔ではありません。差別が法律で決まっていて、肌の色の違う人が恋人同士になったら逮捕されてしまう社会が南アフリカ共和国でした。「共和国」というのは国民みんなが平等な権利を持って政治を行う国のことですが、この「共和国」は人口の80%をこえる人たちを国民としては扱いませんでした。南アフリカ共和国のこのような社会のしくみをアパルトヘイトといいます。国際連合によって「人類に対する犯罪」とまでいわれたこのしくみについて、いっしょに考えていきましょう。 |
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| 人種分類 | |
| アパルトヘイトを日本語では「人種隔離政策」(じんしゅかくりせいさく)といいます。人種によって差別するしくみだからです。では、どのように人種を区分けするのでしょうか。アパルトヘイトでは法律で人種を4通りに分けました。 @白人…ヨーロッパのオランダやフランス、イギリスなどからアフリカ大陸に移り住んできた人たちの子孫なので、「ヨーロッパ人」と呼ばれることもあります。オランダ系の人たちとイギリス系の人たちではふだん使う言葉も違うのですが、アパルトヘイトの中では区別しません。 Aカラード…オランダ人が移り住んだ頃、結婚相手の女性がとても少なかったので、もとから住んでいたコイサン人の女性や奴隷(どれい)として連れてこられた女性と結婚しました。その子孫がカラードと呼ばれます。 Bインド人…南アフリカをイギリスが支配していた時代に、さとうきび畑を働かせるためにたくさんのインド人が連れてこられました。そのため今でもおおぜいのインド人が南アフリカにいます。 C黒人…バンツー系の言葉をしゃべるいろいろな民族の人たちのことです。もともとアフリカにいた人たちなので「アフリカ人」と呼ばれることもあります。 この4種類の人たちがどれくらいの割合で南アフリカにいたか1985年の統計をつかってグラフにしてみました。 |
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| 差別の内容 | |
| アパルトヘイトは個人的な気持ちで行う差別ではありません。ひとつひとつ法律で定められたしくみなのです。差別のために作られた法律は数え切れないほど多いので、おもなものをいくつか説明します。【 】の中の言葉は法律名です。 @国土面積の14%の土地が黒人専用とされました。そこに10個のホームランドと呼ばれる「国」を作らせ、南アフリカの黒人はそこの「国民」とされました。黒人は南アフリカという国にとって「外国人」となるため、南アフリカ市民としてのさまざまに権利は一つも持てないことになります。選挙にも参加できません。選挙したければ、ホームランドの「国」でしろ、というわけです。 【原住民土地法、バンツー自治促進法など】 Aレストラン、ホテル、電車、公園から公衆トイレにいたるまで公共施設(みんなで使う施設)はすべて白人用と白人以外の人用に区別されました。例えば、レストランのテーブルを白人と黒人がなかよく囲むことは法律で禁止されたのです。海水浴場でさえ、白人専用ビーチが作られて、そこに立ち入った黒人はすぐに逮捕されました。【隔離施設留保法】 個人の家もかってに住むことはできません。人種ごとに住む地域が決められました。【集団地域法】 B人種の違う男女が結婚することを禁止しました。【雑婚禁止法】 たとえ結婚しなくても、恋愛関係だけで罰せられました。【背徳法】 |
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| アパルトヘイト時代の白人居住区のようす(ルーズベルトパーク1988年撮影)。 白人が黒人をやとって手入れさせている緑豊かな美しい道路。ゴミ一つ落ちていません。右の写真はけっしてお金持ちではなく、ごく普通の白人の家です。 |
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| アパルトヘイト時代の黒人居住区のようす(アレキサンドラ1988年撮影)。 白人用高級住宅街サントンのすぐとなりに広がる黒人居住区で、舗装されていない道路は雨が降るとぬかるみ、晴れれば土ぼこりが舞います。いたるところにゴミがちらかり寒々しい町並みが続きます。 |
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| 差別する側の言い分 | |
| 南アフリカの人種差別は、ヨーロッパから移り住んだ白人たちが先住民のコイサン人やバンツー系黒人よりも優れていると思いこむ優越意識から生まれたものです。しかし、20世紀になると、人種差別を正当化する「理論」が語られるようになりました。それは 『南アフリカはたくさんの民族でできていて、ひとつひとつの民族はそれぞれ独自の文化を持っている。それをまぜあわせることはできない。日本とイギリスが別々の国として発展しているように、白人社会と黒人社会は別々に発展していくべきだ。』というものです。アパルトヘイトをおし進める側の人たちはしばしば分離発展という言葉を口にするようになりました。『アパルトヘイトは差別ではない、分離発展だ』。これが差別する側の言い分でした。 | |
| アパルトヘイト社会の現実 | |
| アパルトヘイト社会では、個人の努力とは関係なく、肌の色の違いが生活のすべてを決めてしまいます。白人でさえあれば、きれいな校舎での学校生活や、庭付きの大きな家で家事を行う黒人をやとってのゆとりある生活が約束されました。 一方、黒人達は白人が経営する農園や工場で働きました。給料は白人の10分の1以下。しかも失業が多いため、一人の給料でたくさんの親戚(しんせき)をやしなうこともめずらしくありません。それでも住む家があればいいほうで、中には空き地に粗末な小屋を立てて生活する人たちもおおぜいいました。 アパルトヘイトは町並みの違いとなってもあらわれました。よく整備され、もちろん完全舗装(ほそう)されているのは白人地域の道路。ゴミ一つ落ちていません。 芝生がしきつめられた歩道さえありました。やとられた黒人の人たちが毎日掃除や手入れをします。黒人達が住むホームランドや黒人居住区の道路は舗装されていない道が多く、舗装されていても穴ぼこだらけ。町中のいたるところに汚水やゴミがたまっています。同じ国の隣り合った町なのにこんなに違いがありました。 |
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| アパルトヘイトとの戦い | |
| 人間の尊厳(そんげん)をふみにじるアパルトヘイトをなくすために多くの人たちが努力しました。差別された黒人はもちろん、白人の中にも差別反対の声が高まりました。国際連合をはじめ、外国の人たちもアパルトヘイト廃止(はいし)を訴えました。しかし、残念なことに、南アフリカでは自由のために声をあげた人たち(「自由の戦士」と呼ばれました)がおおぜい命を落としました。アパルトヘイトを守ろうとする人たち、権力を持った人たちに殺されたのです。それでもようやくみんなの努力は実を結びました。1994年の春、とうとうすべての人種が参加する選挙が行われ、27年間も牢獄(ろうごく)にとじこめられていた黒人政治家ネルソン・マンデラさんが新しい大統領になったのです。アパルトヘイト関連の法律はすべてなくなり、人間の平等が新しい南アフリカ共和国の理想となりました。「悲しみの大地」から「虹の国」(レインボーネンション。大統領就任演説でマンデラさんが口にした言葉です)へ、南アフリカは大きな一歩をふみだしました。 | |
| アパルトヘイトがなくなって | |
| 1994年にアパルトヘイトがなくなって南アフリカはどんな社会に変わったのでしょうか。ここは南アフリカのワインについてのホームページなので、ワインを例にとって説明します。 南アフリカにはたくさんのワイナリー(ワインを作っているブドウ農園)があります。ワイン作りの責任者をワインメーカーといいますが、今までは全員白人でした。白人の指図にしたがって働く農園労働者は黒人やカラードでした。そのような南アフリカに、黒人ワインメーカーが生まれました。アパルトヘイト時代には考えられなかったことです。ですから、黒人ワインメーカーはアパルトヘイトがなくなったことの証明です。しかし、黒人のワイナリーはたった1カ所しかありません。他はあいかわらず白人が経営し、黒人が働くというしくみのままです。これは、アパルトヘイトの名残(なごり)ともいえます。 政治的には平等になりましたが、経済的には昔のまま。ほとんどの黒人は旧黒人居住区から離れることができません。離れるのは自由ですが、お金がなければどうしようもないからです。貧しさの中で希望を失った人の中には犯罪に走る人もいます。HIV-エイズの広がりも貧しさと無関係とは言えません。 マンデラ元大統領が唱えた「虹の国」の実現にしても、ムベキ大統領が唱える「アフリカ・ルネサンス」にしても、貧しさに苦しむ人をなくすことが大切です。豊かな白人・貧しい黒人という区別がない世の中になってはじめてアパルトヘイトは遠い過去の話になるのだと思います。今はまだアパルトヘイトの「負の遺産」が残っている時代です。 |
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