用語解説(歴史・政治・文化)

アパルトヘイト 1948年以降南アフリカの政権を握ったアフリカーナー中心の国民党がすすめた政策で、「人種隔離政策」と訳される。出生時に肌の色等で人間を4人種(白人・カラード・インド人等・黒人)に分類し、生活のあらゆる領域で「区分け」を行った。白人政権の最終的ねらいは、圧倒的多数をしめる黒人を安価な労働力のみを提供する「外国人」化することであり、そのためにホームランド政策が強行された。
アパルトヘイトの終焉 アパルトヘイト根幹法(法律の名称ではない。アパルトヘイト政策を支えたさまざまな法律のうち、特に支柱となる「原住民土地法」「集団地域法」「人口登録法」「バンツー教育法」をまとめて根幹法と呼ぶ)のうち最後まで残っていた「人口登録法」の廃止が議決された1991年6月17日をもってアパルトヘイト廃止の時期とする説が罷り通っているが、これは誤りである。根幹法には含まれない関連法の中で最重要の「選挙法」があいかわらず黒人の選挙権を否定していた時期に、「アパルトヘイトはなくなりました」などと言えるわけがない。アパルトヘイト批判を行ってきた国際連合も、1991年時点でアパルトヘイト消滅の確認などしていない。日本においても1991〜94年の時期こそ反アパルトヘイト運動の正念場であったという事実を明記しておきたい。
アパルトヘイトの終焉は全人種参加の選挙が挙行された1994年4月27日である。
アフリカ民族会議(ANC) 黒人解放闘争の主柱となった組織。1912結成の南アフリカ原住民民族会議(SANNC)をもとに1923年ANCが発足した。マハトマ・ガンジーの非暴力主義を継承するとともにある時期においては武装闘争を実行した。1956年制定の「自由憲章」がANCの綱領的存在。ノーベル平和賞受賞のアルバート・ルツーリやネルソン・マンデラもANC議長であった。
ガンディー インド独立運動の指導者マハトマ・ガンディーは、1893〜1914年弁護士として南アフリカで暮らした。南アフリカ東岸のナタール州には砂糖キビ栽培のため移り住んだ多くのインド人がいて、彼らの地位向上のために仕事をしたのである。⇒ガンディー肖像
グレート・トレック 1835〜40年にかけてイギリスの支配を嫌うアフリカーナー(オランダ系白人)が、牛車に家財を積み込み内陸部へ移動した。そして、イギリス支配の及ばない「トランスバール共和国」(1852年)・「オレンジ自由国」(1854年)を作ることになるが、その過程において多くの先住黒人諸民族の命を奪うこととなった。1838年12月16日の「血の川の戦い」では数千名のズールー人が殺害された。
シャープビル事件 1960年3月21日、トランスバール州シャープビルにおいてパス法(黒人に身分証明書携行を義務づける法律)反対のために集まっていた民衆数千人に警察官が無差別発砲した事件。死者69名、負傷者186名。その多くが背後から撃たれた。1966年よりこの日は「国際人種差別撤廃の日」となっている。
スティーヴ・ビコ 黒人の主体性を強く訴える黒人意識運動(BCM)の指導者。1977年9月12日拘禁中の傷害(おそらくは拷問)が原因で死亡した。30歳。リチャード・アッテンボロー監督の名作『遠い夜明け』(1987年制作 原題名『CRY FREEDOM』)でも描かれた。彼の思想は『俺は書きたいことを書く』(現代企画室1988年刊)に詳しい。
ソウェト蜂起 1976年6月16日、ヨハネスブルク郊外のタウンシップ(黒人用居住地)であるソウェトにおいて起きた大規模な反アパルトヘイト暴動。死者140名、負傷者1,000名以上。蜂起のきっかけは、黒人生徒に対するアフリカーンス語(主にアフリカーナーが使用するオランダ語起源の言語)教育の強制だった。これに反発した高校生たちへの発砲事件が引き金となり、大規模な反乱に発展したのである。8月にはケープ州にも波及した。
⇒25周年記念切手
統一民主戦線(UDF) 1983年に結成された緩やかな連合組織で自由憲章を支持する数多くの市民や労組が参加し、非合法化されていたANCに代わって反アパルトヘイト闘争をリードした。
日本反アパルトヘイト委員会(JAAC) 1969年に結成されたアフリカ行動委員会(JAAC,Tokyo)や、ナプモ、静岡アフリカに学ぶ会、アパルトヘイトを考える市民の会・名古屋、こむらどアフリカ委員会、日本反アパルトヘイト女性委員会、京都南部アフリカ問題研究会、広島アフリカ講座実行委員会、松戸アフリカから学ぶ会、日本反アパルトヘイト委員会・熊本、札幌反アパルトヘイト委員会の市民グループによって構成された反アパルトヘイトの運動体。
日本とアパルトヘイトの関わりを一貫して追及し、南ア商品不買運動なども強力におしすすめた。
日本南ア友好議員連盟 アパルトヘイト政策をおしすすめていた南ア白人政権との友好を目的に1984年6月に作られた自民党議員の団体で40人が参加した。二階堂進、竹下登、石原慎太郎など有力者が名を連ね、南アフリカの稀少金属や経済的メリット目当てに、高まる反アパルトヘイト世論と逆行する言動を繰り返した。
パン・アフリカニスト会議(PAC) 1959年4月、ロバート・ソブクエに率いられてANCから分裂した組織で、黒人主導の運動を提唱。シャープビル事件の発端となったパス法反対闘争もPACが全国的に展開したものである。
ホームランド 南アフリカ領土内(多くは不毛の大地)に10のホームランドとよばれる「国」を作り、南アフリカの黒人を民族ごとに所属させようとした。民族の独自性を確保するためというのが政権側の言い分だが、結局のところ、南ア黒人の「外国人」化をはかることが目的であった。
トランスカイ、シスカイ、ベンダ、ボプタツワナ、クワズールー、レボワ、ガザンクル、クワクワ、カングワネ、クワンデベレのうち最初の4つは「独立国家」とされたが、南アフリカ以外のどの政府もそれを承認などしなかった。
マンデラ 1994年、黒人として最初の南アフリカ共和国大統領に就任。1999年引退。 ⇒詳細
ユグノー 1688年に移民してきたフランスの新教徒で、アフリカーナーと同じカルバン派である。1685年新教徒に寛大な「ナントの勅令」がフランス国王ルイ14世に破棄されたため多くのユグノーが難民となり、一部が南アフリカにまでやってきたのである。ワイン産地フランシュフークは彼らによって拓かれた。
リーベック
1652年、オランダ東インド会社のメンバーとしてケープに上陸。ヨーロッパ人として最初
の入植を行う。1659年、南アフリカ初のワイン生産に成功。         ⇒詳細