消えた「東京都立養育院」
1999年12月東京都議会第4回定例会は、「東京都立養育院」127年の歴史に幕をとじる「養育院廃止条例」を日本共産党都議団の反対だけで通過させました。日本の福祉事業発祥の場所といわれる「養育院」を、高齢化社会への対応の充実がもとめられるいま、なぜ廃止されたのでしょうか。東京の福祉は、どんな方向に進もうとしているのでしょうか。
養育院とは?世界に誇れる「老人総合施設」だった
養育院は、養護老人ホーム、軽費老人ホーム、ナーシングホーム、老人医療センター、老人総合研究所からなる老人総合センターとして世界にも例をみない施設でした。詳しくは、一番ヶ瀬康子先生の話をご参照ください。
理由は民営化
老人医療センターは、いまどのようになろうとしているのでしょうか。近くにある都立豊島病院と統合して民間に委託するという方向に進んでいます。養護老人ホームは、「ノーマライゼイション」を口実に移転。ナーシングホーム(特別養護老人ホーム)も運営の民間委託。老人総合研究所は特殊法人化というようにバラバラにされました。
最近、民営化は効率的経営の代名詞のように使われていますが、委託業者の選定をめぐって汚職事件までおきていることをみれば、福祉や医療を金儲けの材料にするというその本質がはっきり見えてくるではありませんか。
60年間院長をつとめた渋沢栄一
いまも養育院の中庭には、渋沢栄一の銅像が立っています。渋沢栄一は養育院事業の開始から、93歳、王子の渋沢邸で息を引き取る(昭和7年)まで院長をつとめました。
明治の実業界をしきる巨人というイメージの裏には、福祉事業に生涯をかけた渋沢栄一のもう一つの顔がみえてきます。かつて「公費を使って貧乏で働けないものを養育することは、怠け者を作ることになる」と反対した東京府議会の論調にたいして、「政治は仁に基いて行なわれなければならない」と、敢然と反撃した渋沢栄一には、今日の事態がどのように映っているのでしょうか。
養育院は日本の福祉事業の生みの親といって養育院事業の意義を説いた元日本女子大学教授一番ヶ瀬康子先生の講演の一部を紹介します。ちょっと長めですがぜひご一読ください。
「帝都の恥かくし」からはじまった養育院
養育院が始まったのは、1872年、明治5年にロシアの皇太子大使アレクセイが、東京に訪れることになったのが直接のきっかけです。大ロシア帝国の皇太子が、東京に来るということで、ときの明治政府の要人は、東京をすこしよく見せないと当時の不平等条約を是正することができなくなるということで東京を見渡したわけです。
その頃、東京には、明治維新の犠牲になって浮浪化している人たちが目についていました。今の言葉でいえばホームレスの人たちが、ロシアの皇太子の目に止まったら恥ずかしい、とにかく彼らをどこかに収容しようということになりました。つまり、その人たちを、いま東大の赤門のそばにあった加賀百万石の屋敷の真っ暗で陽のあたらない長屋に閉じ込めてしまったのです。「帝都の恥かくし」という言葉がその頃の公文書に書かれています。
その後、そうして集めたホームレスの人たちの生活を面倒みるのが営繕会議所でした。当時の商工会議所で、その事務長が渋沢栄一だったのです。
渋沢栄一は、働く力のない人については公的に面倒をみるのが当然である、としばしば主張していました。彼は、徳川慶喜の弟である徳川昭武の随員としてフランスにいったとき(パリ万博の幕府代表)に、フランスで大きな慈善院がどの町にも存在していることを知りました。渋沢は、そこで身寄りがなく働けない人が生活している姿を見ており、江戸時代の七分積金制の残りを使いながら、彼らを養育したのです。
七分積金制は、養育院ばかりでなく、銀座のガス燈などにも使われましたから、だんだん少なくなっていきました。そのため渋沢は、東京府が養育院を引き受けて、働けない人を公的に養育していくことが必要だということを訴え続けたのです。
その時期の問題の一つに、ギリギリの僅かなお金でほんとうに生きてるだけの養育しかされなかったということです。しばらく長谷部善七という江戸時代の非人を扱っていた人へ預けていたのですが、本郷から浅草に移転することになり、それも経費が足りないということで、結果的にまた上野へ帰ってきます。ところが上野でも博物館を作ろうとしているのに見苦しいということで神田に移されてしまいます。結局、その人たちをたらい回しにしながら、一方で、東京府の議会では、どうして彼らを養育しなければならないのかという議論が高まったりして、大変不安定な状況が続いていたのです。
その頃、有名な東洋経済新報社を建てた田口卯吉が「税金を使って、貧乏で働けない人を養育することは結果的に怠け者を作ることになる。税金で養うべきではない」という議論を述べました。それに対して、論語をよく読んでいた渋沢栄一は、政治は論語でいう仁に基いて行なうのは当然であると公立で続けることを主張しました。
しかし、田口卯吉たちの議論が力を持つようになり、委任経営で行なう時期を迎えます。それでも訴え続けて、やっと東京市営になったのが明治23年、1890年です。加えて「転々と転居することは、そこで生活を続けている人にとってもよいことではない。フランスをはじめ当時のヨーロッパには大きな慈善施設があって、しっかりした建物である」と渋沢栄一は言い、大塚にその建設を求めたのです。
この大塚の建物を見てみると、作った方もさることながら、当時の日本の慈善施設に比べて、施設としては、非常によくできていました(のちに板橋に移転)。銀行などを建てた妻木頼黄という一流の建築家の方に頼んで建てさせたということです。そして渋沢栄一は官界財界に顔をきかせながら、院長職を続ける(約60年間)のです。
美濃部都政のもとで脚光
美濃部都政になって、どれくらい養育院が光を浴びたかということをいくつか聞きました。
一番目は、ずっと前から暮らしておられる利用者の方に、一体なにが一番嬉しかったかと聞きましたら、それまでは同じような着物を着せられて、町を歩いても養育院の入居者とすぐ分ったし、逃げ出すこともできませんでした。そのことを対話集会で美濃部さんにいった利用者がいまして、早速、売店を院内に設けて、金券で自分の好きな洋服を買えるようにしたのです。のちには近所の店で洋服を買えるようにしました。
「美濃部さんの時代から、自分たちが画一的にものを押しつけられるのではなく、自ら選ぶことができる衣食住の生活に変わったのだ」と褒めておられました。
二番目の変化は、趣味とか学習を大事にしたことです。
三番目に、かつての養育院は、非常に暗い塀で囲まれ、門はしっかり閉まっていて、塀の上のに針金、ガラスの破片が張りめぐらせて逃げ出せないようにしてありました。美濃部都政のもとで建て替えられた養育院は、自由に出入りできるようになりました。外から中が見えるだけではありません。講堂の前の池のところは、地域の人たちも自由に座って話しができる公園になっています。
そして四番目に、それまであった付属病院は、それこそ東洋一というリハビリテーションの設備を兼ね備えた病院として造り替えられたことです。
福祉と医療の総合機関
(革新都政時代に養育院には、総合老人研究所、老人医療センター、ナーシングホーム、養護老人ホーム、軽費老人ホームをもつ総合施設として充実発展しました)
いずれにしても、福祉と医療と研究機関が同じ場所にあって、介護のやり方、あるいは利用者の実態、更に看護のありか方なども研究所で研究して、その成果を院のなかで公表され、実際の医療とか介護に反映されていきました。「ほんとうにこれで安心になった、倒れたら、あそこに入れるんだと思うと元気がでる」といっておられました。
養育院は日本の福祉事業の生みの親
養育院は先駆的というよりも日本の福祉事業の生みの親だと思います。この養育院が革新都政の誕生によって飛躍的に発展し、現在、その充実が求められているといっていいでしょう。ところが、1997年3月に発表された東京都行政改革大綱によると、都の直営の福祉施設は、民間福祉法人、社会福祉事業団に管理運営を委託し、直営組織を廃止することを検討するとなっています。更に公的介護保険制度及び措置制度の動向を踏まえ、民間社会福祉施設職員の給与の公私格差是正事業のあり方について見直しをするとしています。
125年の成果というのは失敗の苦しみの経験も含めて新たに作れるものではないのです。私は、125年の歴史を消してはならないと思っているのです。
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