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『遺跡保存方法の検討−水中遺跡−』文化庁 平成12年 より
日本における水中遺跡の調査 荒木伸介
1.水中遺跡の定義 「水中考古学」という名称がいつから使用されるようになったか確証はないが、今日では一般的に認知され定着している。しかし「水中」という言葉は必ずしも適当なものとは思われない。遺跡や遺物は水中に浮遊して存在するものではなく、水底あるいは水底下に埋没しているからである。したがって「水底考古学」の方が正確な表現である。しかし「水底」と「推定」とは語音が同じであり誤解を招く恐れがある。英文では“Underwater
Archaeology”が広く用いられ、水深がとくに深い場合には“Deepwater Archaeology”が使われたり、「海底考古学」の場合は“Marine
Archaeology”や“Maritime Archaeology”などが使用されている。しかしこれでは、遺跡の場所によって「湖沼考古学」や「河川考古学」などのように使い分けなければならず煩雑である。陸上と区別する上では「水中考古学」以外に適当な名称は存在しないようである。
では、水中考古学の対象となる場所は、陸上の考古学の場とどのように分けられるのか。とくに水深が深い場所では問題とならないが、水深が浅く時々に陸化するような場所はどちらの領域に属するのか不明瞭になる。一般的に、水中において調査を実施する場合は、潜水用器材を必要とする。今日、このような器材はかなり進歩改良され、安全な潜水を可能としている。しかし、潜水しなければ到達できない遺跡のみが水中遺跡とは限らない。潜水を必要としない浅い遺跡もある。こうした場所では、堤防や矢板などで調査範囲を囲み、内部の水を排出し、一時的に陸化させて発掘調査を実施している。いわゆる「ドライ・ドック方式」である。
ここでは、水中考古学の対象となる「水中遺跡」とは、水面から遺跡までの水深に関係なく「常時水面下にある遺跡」と定義することとする。
2.日本における水中遺跡調査の歩み 石原 渉
(1)はじめに
日本における水中遺跡の調査研究は、陸上遺跡の調査研究量と比較すると、数千分の一あるいは数万分の一程度の実績しかない。これが現実であるが、このことは必ずしも水中遺跡の絶対数が少ないということを意味するものではない。陸上と同様に、あるいはそれ以上に水中に遺跡が埋蔵されている可能性もある。そういった意味では、水中遺跡は未知の可能性を秘めたフィールドである。総じて水の中では土の中より遺物の保存状態が良いし、陸上の遺跡にみられる耕作による撹乱など、後世の人為的な改変を受けることも少ない。しかし、それはこれまでのことであって、これから先もそうであるという保証はない。現に最近の開発の波は、リゾートブームによって海浜部に的を絞りつつあるし、公共事業の埋め立て計画も多い。これら開発事業から水中遺跡を保護するためには、まずその実態を知ることが大切である。
そこで、これまで日本において実施された水中遺跡に関する研究や調査事例を紹介し、日本における水中遺跡調査の歩みを辿ることにしたい。記述にあたっては、海・河川・湖沼・池など遺跡の所在する水域の種別による分類、沈船や沈島あるいは遺物散布地など遺跡の内容による種別により分類することにしたが、これらの分類はあくまでも現時点における便宜的なものであることをあらかじめ断っておく。また各々については、研究史的な意味合いを重視して、なるべく年代順に整理することとした。なお、以下に紹介する事例は、先に定義した水中遺跡について広く取り上げたもので、必ずしもすべてが水中考古学的手法によるものではない。また、水中遺跡調査の範疇に入るのか疑問視される遺跡があるかもしれないが、ここでは水中より発見された遺跡や遺物すべてに水中遺跡研究の名を冠することとした。それは特殊であると思われがちな水中遺跡が、意外に身近にあることを喚起するためである。
(2)水中出土遺物に対する関心の萌芽
わが国は南北に連なる細長い国土を有し、四季うららかな温帯性気候は、適度な降雨をもたらせ、地表への雨水や雪解け水は、次第に小さなせせらぎとなって大小の河川へと続き、最終的には四囲の海洋へと流入する。実に水資源に恵まれた国である。その歴史もまた水と深い関わりをもっており、水中に眠る遺跡や遺物も多いものと予測される。古来より人々は、時折、水中から引き揚げられる遺物に関心を示し、今日でもそれを文献史料上に見ることができる。
18世紀の中頃、木内石亭はその著書『雲根志』において、琵琶湖中の沖島付近において石鏃が発見されたことを報告しているし、藤井貞幹は『集古図』巻10(1789年)において「讃岐国高松海中所出鉾」と述べ、栗原信光もまた『柳菴雑筆』(1848年)において、同じく「讃岐高松海中」からの磨製石剣の出土を書き記している。なおこれについては、松平定信が『集古十種』に紹介し、松岡信正も『讃岐国名勝図絵』(1853年)の中で同様に取り上げている。
さらに、井手道貞は『信濃希勝録』巻1(1834年)で野尻湖より石斧を発見したことを述べ、蜷川式胤も『瓦器類』(1873年)において、「淡路国津名郡借屋浦海中より須恵器発見」の記述を残している。
このように18世紀の中頃以降、各地の“好古家”によって陸地の遺跡や遺物と同様に、水中から引き揚げられた遺物も、人類史の痕跡の一部として書き残されているのである。海外においても、19世紀中頃からこうした水中遺跡に対する本格的なアプローチが開始されているから、水面下に対する好奇心は、時をほぼ同じくして、日本人の中にも同様に萌芽し始めていたと言えよう。しかしその後、この水面下の出土遺物に対する関心は衰えたものか、記録は絶え、関心の再萌芽は文明開化の明治期をまたねばならない。あるいは幕末における幕藩体制の崩壊や鎖国制度の撤廃といった動乱の時代背景が、それを許さなかったのかもしれない。
やがて明治41年、長野県の諏訪湖底から石鏃が発見され、それがきっかけとなって、近代における水中遺跡研究への関心が高まっていく。
(3)曽根論争の展開
明治41年10月24日、諏訪教育委員会の依頼で「諏訪湖の研究」を実施していた東京帝国大学田中阿歌麿の地元助手で、高島小学役の代用教員であった橋本福松は、その日も湖に漕ぎだして、曽根と呼ばれる水域へ蜆鋤簾をおろし湖底の地質調査を行っていた。その鋤簾にたまたま2個の石鏃がかかった。翌年、橋本は、師の勧めで『東京人類学雑誌』24巻278号にその記録を紹介し、曽根は他の湖底とは底質の異なる場所であり、「この湖が更に大きく深かった時代には、湖底における一丘陵をなしていたものなることが判断される」と自説を発表した。
また、同雑誌の同じ号で、ヨーロッパの湖上住居址を実見しその研究成果を印象深く学んだ坪井正五郎が、「石器時代杭上住居の跡は我国に存在せざるか」との論文を発表し、湖底に遺物の存在する理由を検証して、杭上住居址の存在を高らかにアピールしたのである。
同年12月、坪井正五郎は曽根の第一回目の調査に乗り出し、その記録を『東京人類学雑誌』の279号から291号まで連載することになる。このうち280号の「石器、石片の湖底に存する所以」の項では、遺跡成因(水没原因)について、@石器製造地の陥没、A陸上から河川に流されて曽根水域に溜まった、という二説を上げ、Aを地形的理由から除き、@は根拠に乏しいと結論した。そして第三番目の説として、杭上住居説を本格的に掲げたのである。
これに対し神保小虎は、同誌282号において、地質学的見地から坪井説に疑問を投げかけた。すなわち同地の地滑りなどの事例を示しながら、地震や地殻変動による「土地の陥没もありえたかも知れぬ」と主張し、湖上生活ならば、その支柱となるべき杭が冬季結氷期の圧力に耐え得るものか、と疑問を呈している。
これに対し、坪井は『東洋学芸雑誌』26巻337号において、痛烈な反論を展開すると共に、『人類学雑誌』においても285号で反論を開始した。論旨は、まず植物性遺物に着目し、そのうち木片の発見例を杭上住居の杭の一部と仮定した上で、水没以前にこの地に生えていた木、他所からの木片の流れ込み、あるいは木製遺物の沈没も可能性としてあるものの、木が生えていた証拠としての小枝の発見例がないこと、さらにはいずれの場合も確たる根拠に支えられていないことなどから、将来、湖底の泥土中から杭材が発見される可能性に期待を寄せている。
保科五無斎は『信濃博物学雑誌』において、「諏訪湖底ソネに関する憶測」と題する論文の中で、遺跡は湖の島の上に営まれその後に沈下したという沈島説を地質学的見地から発表して、神保の説を支持した。また湖沼学からは、田中阿歌麿が、湖底質と平均水深(約2m)から以下のような遺跡沈下説を唱えた。@湖盆の原形を露呈する部分と湖底の沖積地があること、A曽根の湖底質が砂質の固くしまったものであるのに対し、他の地区の湖底質は泥質であることなどから、曽根遺跡は沈下したものと推測し、その主な原因は地滑りであるとの結論を与えている。
以上のように明治末期の学会は、杭上住居址説と遺跡沈降説の二つに別れて論争を展開したのであるが、前者の説は杭上住居址からの遺物の落下によった遺跡の成因説をとり、いわば水底の遺物散布地としての性格づけをしたのに対し、後者は人間生活の場である空間そのものが水没したとして、本格的な意味での水中遺跡の概念を形成し始めていた。
その後、大正に入ってから、鳥居龍蔵・八幡一郎・両角守一らが曽根湖底の調査を行い、石器や土器片などの採集から、陸上の遺物散布地と同様の性格をもつ水中遺跡と結論づけた。ただし、鳥居は諸説の検討の中で、@陥没、沈下説は急激な地殻変動か、あるいは一定期間の継続的沈下かの論は、その生起した年代ないしは時間的な速度が語られておらず、当時の水面標高、遺跡の絶対年代も決定されていないので、問題は将来に保留すべきであるとした。また、A水上住居説ならば、(a)杭上、(b)築島、(c)舟上・筏上の三様式が考えられるとし(a)ならば西欧の水上住居址に認められる有機物質の遺存のない点を指摘、(b)ならば遺物の撹乱がないことから徐々に水没したと考えられ、曽根と湖岸の諸遺物が別棟式であることから、曽根は時間的、また空間的に湖岸とは隔離されていたと理解しなければならず、(c)ならば欧州中石器文化のマグレモーゼ(Maglemose)期に類似した筏上住店址(Floating roft)と考えた。
鳥居はこれらの中で筏上住居址の可能性を初めて指摘し、その根拠として曽根遺跡発見の黒曜石の石片中に、スイスの湖上住居址で発見された石刃と類似するものが存在することを論拠として掲げた。縄文文化の初期に中石器文化の様相が認められると主張していた八幡一郎は、ここに細石器問題を提唱することになる。
その後、昭和35年には早稲田大学の直良信夫が「湖水増水説」を、同じく藤森栄一が調査報告として「諏訪湖曽根の調査」を発表した。それによれば、かつて曽根は陸続きの岬で、矢出川(細石刃)文化、御子柴(大型槍先)文化よりも後出の、刃器・ナイフ形石器文化に相当すると考え、剥片を利用した石鏃が発生、続いて長脚鏃・三角鏃・長身鏃が生み出され、この頃に爪形文士器が発生するに至るとした。そして次に、縄文早期の局部磨製石鉄が出現するがそれはわずかで、早期の土器のないことから、この頃にはすでにこの地は住める状況になかったとしている。また、その論拠として、『諏訪史』第一章の「諏訪盆地の地質構造に関する考察の一端」における、@諏訪盆地は過去も現在も沈下現象を続けており、A歴史以前に於ける盆地、諏訪湖は一大湖沼というより、各所に沼沢ないし深くない湖沼のある地域で樹木も生育していたとする三沢勝衛の説を援用し、遺跡は沈下現象によるもので約一万坪の沈下地域に宛されたものと結論した。
こうして、明治から昭和にかけての長きにわたる曽根論争は、細石器文化の研究を促しながら、かつ人文科学系の考古学者と自然科学系の地質学者との視点の違いを明確にした。さらに藤森栄一をして、それまでの湖上からの探索データにもとづく推論から、一歩進んで水底の遺跡に到達しなければ真の結論はえられないという、水中遺跡発掘の問題意識を想起させるに至った。藤森は「大きい無蓋のタンクを沈めて、ポンプ排水による陸化の方法」と「周辺を環状に埋め立てて排水し、調査後内部を埋める方法」の二つを考案したが、前者は技術的理由で、後者は資金の関係で、実現に至らなかったのは誠に残念であった。
(4)海揚がりの品をめぐる解釈
明治44年4月の『人類学雑誌』27巻1号において、坪井正五郎は「越後の海底から引き上げられた朝鮮土器という雑録を記している。これは新潟県西蒲原郡隅田濱の沖合32kmの海底から、漁網によって引き揚げられた須恵器の大甕のことで、水没の理由として「運搬船の転覆によるものか、一種の祭式を行いて故らに投ぜられたるによるか、余は今判断の材料を有せず」と述べている。
後日談になるが、この他にも三島郡の出雲崎では横瓮が、西頸城郡名立町の沖合では須恵器の片口などが、いずれも海底から引き揚げられており、その数は現在までに43点にのぼっている。また時代的には弥生後期の壷から中世の珠洲焼にと多岐にわたっており、大場磐雄は、一応、土地の陥没説を示しながらも、遺物散布地の水深が180m〜240mの海底にあること、また問題の海上は海流も速く、しかも10月から3月までの冬場は激しい西風の吹く海域であり、いわば海の難所であったとして、難破船の積み荷か、もしくは航海安全の祈願を込めた海神奉祭として献供物を投入した可能性を指摘した。さらに大場は、『紀記』や『続日本記』、『太平記』などの記載を引用して、「古く海神を祭るには、海中に神の好物を投入したことは明らかである」として「海神投供」を提起し、古代の神霊献供の一型式として認定している。
このような海揚がりの品物として、和歌山県友ケ島沖の紀淡海峡の通称「イカ場」(水深60m〜250m)の海底から引き揚げられた中国陶磁器類が、江戸時代初期から「深日茶碗」の別名で知られていた。深日とは、ここを漁場とする漁民の生家たる和泉国深日浦のことで、記録としては嘉永6年(1853年)の箱書きが入った青磁があるという。現在でも時折、漁網に掛かるというから、恐らくこれまでに数百点にのぼる陶磁器が海底から引き揚げられている可能性がある。これらの品はすでに古美術商の手を経て散逸しており、その全体像を知ることはできないが、これを研究した保田憲三や森浩一・白石太一郎らは、堺の港を目指して沈んだ貿易船の積み荷の一部であろうとの推論を立てた。完形品が多く器種の形式にも統一性が認められることから、海底下に沈船が存在する可能性は極めて高いが、学術的な調査は未だなされていない。
(5)池底の遺跡の調査
唐古遺跡 昭和11年、奈良県森最前を縦断する国道15号線の敷設工事にともない、田原本町に所在する「唐子池」が採土場に決まり、早速、池底の土砂採掘が開始された。工事の着手にともない、水を抜かれた池底から大量の弥生土器が出土し、日本考古学史を飾る発掘調査が開始される契機となった。調査の結果、池底からは竪穴107基や弥生土器をはじめ、土師器・須恵器・瓦質小皿などが相次いで出土した。中でも弥生時代の遺物は、その保存状態が良好であったため、それまでの弥生時代観を塗り替えるほどの豊富な情報を提供することになった。奈良県下では、このほか県南部の下明寺池で弥生時代から鎌倉時代にかけての遺物が、さらには発志院伝法池で平安時代の住居跡が、池底の調査によって発見されている。
各地の鏡池 全国各地に「鏡池」という名をもつ池が多い。鏡のように静かで、しかも美しいという意味を名称の由来とするものが多いが、実際に鏡が池底から出土する鏡池が存在する。最も有名なものは、山形県にある出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の一つ、羽黒山の羽黒神社境内にある鏡池であろう。昭和7年6月、当時の内務省神社局考証課に、同神社の斎藤宮司から古鏡190面が提出された。これは前年において池底から発見され、危うく転売を免れたもので、当時、同考証課に勤務していた大場磐雄の手によって研究されることになる。鏡は平安時代から鎌倉時代の和鏡が主体で、室町時代以降から江戸時代にかけての鏡も若干存在し、中には宋代の湖州鏡といった舶載鏡が含まれる。また大場磐雄は、この池に鏡を奉祭品として献供する習俗は、ほぼ修験道の盛行期と密接に関連するとして、その中心時期を鎌倉時代に比定した。
また島根県松江市の八重垣神社内の鏡池からは土馬や須恵器の壷・高杯・平瓶などが出土しており、茨城県鹿島郡鹿島町の沼尾池跡(現在は水田)からも古鏡が発見されるなど、池への奉祭と関連した遺物の発見例が全国各地で知られている。
(6)湖沼の遺跡の調査
葛籠尾崎湖底遺跡 わが国最大の湖である琵琶湖は、世界一深い湖底遺跡をもつ湖である。滋賀県湖北町尾上より、3kmの湖上を隔てた対岸の飛地、葛籠尾崎より東沖へ600m〜700mの水域下、水深70mの湖底谷に位置する葛籠尾崎湖底遺跡がそれである。
遺跡発見の端緒は、大正13年、尾上の漁民が底引網漁を操業中に土器を引き揚げたことにある。翌年、柴田常恵が『人類学雑誌』40巻1号に「琵琶湖底より土器を発見」と紹介し学界の注目を集めるところとなった。昭和3年、島田貞彦は『滋賀県史跡調査報告』第1冊の中で、この湖底遺跡を取り上げ、その成因について、@湖岸の遺跡地より押し流された場合、A事故の為落下された場合、B湖流等の関係にて一所に集合する場合、C遺跡地付近に地層の変化ありし場合の四つの仮説を立てた。その後、昭和25年には、小江慶雄が『琵琶湖底先史土器序説』を著し、遺物類に対する研究から、「湖底の文化遺物が全て包含せられた原遺跡を、葛籠尾半島上に求めようとする推定は、ある程度許されるであろう」とし、遺物の故地を葛籠尾半島東岸に求めた。昭和32年、江坂輝弥は『考古学ノート』2(1957年)の中で、遺跡形成の要因を「断層による遺跡地の陥没」および「垂直動の地盤沈下が考えられる」とし、局地的な地形変動を唱えた。また同年、西村嘉介は『広島大学文学部紀要』11号に、湖東に水没した条里遺跡の研究を楷まえた上で、条里制実施以後の湖岸の沈水と遺物のある程度の移動をもって説明できるとした。
こうした論議の中、ようやく湖底遺跡に対する本格的な調査が実施される。昭和34年、琵琶湖総合調査の一環として、東京水産大学の協力をえて、初の水中撮影や音響測深などが行われた。昭和32年と34年の2回にわたり、湖底の音響測深を実施した小谷昌は、『地理調査時報』24(1969年)の中で、「琵琶湖葛籠尾崎湖底遺跡の地学的調査」を著し、「葛寵尾崎湖底遺跡の遺物は明らかに遠来のものであり、遺物の移動経過は次の三つが考えられる」として、小江慶雄の研究を引用しつつ、(a)古生層山地より山腹の崩壊によって湖水に運び込まれた、(b)東岸の陸上から河流に因って吐出され、重い石器のみ余呉川遺物地点(河口沖200mの水深11m地点に殊生時代の石器が散布していた)に残留し、漂流性のある土器のみが葛寵尾崎付近に沈底した、(c)人手によって運ばれ、沈没、遺棄、投下のいずれかによった、との仮説を立てた。
多くの研究者によって湖底遺跡の故地とされる葛籠尾崎は、琵琶湖の最北端から竹生島に向かって張り出すように突出し、その先端部は古生層を露出する絶壁である。また岬東側の崖下には、ごく僅かの汀線部しかなく、現在では遺跡が営まれた場所を想像するのは困難である。しかし小江慶雄の研究によれば、乾元元年(1302年)作と伝える「管浦文書』の一つ『竹生島図』に描かれた葛籠尾崎の情景に、数件の屋舎や僧堂と思われる建物が描かれており、地名伝承にも寺ケ浦、土山(堂山)の名が残されているという。また周辺漁民の伝説上にも、葛籠尾崎の沖合を通ると水底から読経や鐘の音が聞かれるなどといったものがあり、かつて僧堂が存在したことを暗示している。しかし湖底遺跡からは、縄文時代早期から平安時代までの非常に時代幅の広い遺物が採取されており、採集された土器の多くが完形品もしくはそれに近い部分的な欠損品である点を考慮すると、陸上の遺物の二次的な流れ込みとは考え難いのである。
昭和57年、滋賀県教育委員会は、県費と国庫補助金によって同遺跡の総合調査を行い、遺物散布地が葛籠尾崎の南端部分や西方海域、さらに竹生島の南西水域の湖底まで広がっていることを確認した。また葛籠尾崎から竹生島や西野山、竹生島から東西方向へと10箇所において、音波による地層の断層調査を実施し、過去20万年前後の間、同地周辺部での陥没等は一切みられなかったと報告している。なお、昭和59年に水中探査テレビでの調査や、水深20m地点での試掘、同地点より沖合30mにかけてのトレンチ試掘においては、遺跡の存在は確認されなかったという。まさに遺跡の性格は、深い水底と同様、謎のベールに包まれたままになっている。
琵琶湖では、このほかにも大津市来津貝塚が、昭和27年、藤岡謙二郎の素潜りとボーリング調査によって確認され、湖岸の微高地に営まれた遺跡が、その後に水没してできた湖底遺跡であることが判明した。昭和55年には、文化庁の「遺跡確認法の調査研究」事業に取り上げられ、次年度に行われた範囲確認調査により、遺跡は縄文早期から中期前半に形成された純淡水産貝塚で、貝殻のC14年代測定では4920土120B.P.という年代がえられている。
なお、昭和58年からは南湖東部の志那沖において潜水調査が行われ、赤野井湾から志那、平湖まで4.5kmにかけての湖底で、縄文晩期から弥生前期の包含層が確認されており、葉山川河口では沖合300mを矢板網で囲み、中を排水陸化して発掘調査が実施された。同様に瀬田川河口においても、昭和58・59年に矢板網と遺跡の陸化による発掘調査が実施され、縄文から中世に至る遺物を検出している。さらには多景島周辺の湖底からも、平安時代の焼土や炭が藩水調査で検出されるなど、遺跡が4m近く水没して湖底遺跡となった事実が判明している。
網走湖の調査 昭和38年、オホーツク海に面した日本最北の湖底遺跡として、網走湖が調査された。
この湖は周囲46km、面積34kuという広さで、女満別川河口より北西に約1km、湖岸より220m沖合のごく限られた範囲に遺跡が存在した。調査は網走市郷土博物館が中心となり、調査水域を一辺30mのグリッドで区切り、湖岸からの位置測定を行いつつ遺跡の範囲確認を目指した。発掘には蜆取具を利用した採集とダイバーによる潜水調査が行われ、昭和40年には第二次調査を実施して遺跡の全容を把握している。網走市郷土博物館の米村哲英は、これらの調査結果をふまえて、以下のような結論を述べている。すなわち遺跡は土器からみて縄文早期中頃、絶対年代では7000年前のもので、北海道中央部から東北部にかけての平底文化圏に属し、シベリア大陸から渡来した集団によるもので、その営みは漁労に主体をおき、石錘の出土例から網による漁法も存在しただろうというものであった。また遺跡の水没については、海進による海水面の上昇によって、遺跡が立地した汀線付近が水没したと結論している。
富士五湖の調査 昭和49年・50年には、箱根の芦ノ湖と富士五湖の山中湖が調査された。まず昭和49年7月、箱根神社の文化財総合調査の一環として、地元の文化財保存会と東海大学潜水訓練センターが協力して、明治の廃仏毀釈によって沈められたと推測される箱根権現の仏教関連品の探索が実施された。潜水調査は箱根神社下の鳥居から元箱根寄りで行われ、調査の結果、鎌倉時代末から南北朝時代に至る陶片を採集した。この調査により、江戸時代以降の遺物がみられない理由に関しては、九頭竜信仰によって湖が神聖化され、湖に対する物の投入がなくなった可能性が推論された。湖はヘドロの堆積が厚く、潜水調査も満足のいくものではなかったが、箱根神社の足跡をかなり正確にとらえることができたのは収穫であった。
昭和50年の山中湖の調査では、山中湖湖底調査団が結成され、4月と5月の2回に分けて調査が実施された。まず第1回目の調査では、水深6m〜11mに水没した立木を確認し、旧山中湖は承平7年(937)の富士噴火以前は、水深2m〜3m程度の浅い湖か、あるいは川程度の規模であったことが判明した。さらに5月の第2次調査では、水深11mの涌水付近で人工の積み石を、水深4m付近で火山灰に埋もれた丸木舟を発見した。これらの事実から、同調査団では、承平の富士噴火を境に水深が増したことを重視して、『弘仁式』や『貞観式』に記載のある古代の駅家である「水市駅」の所在地は、少なくとも水深6mより浅い位置に存在していたと推測し、陸上に埋没している可能性を指摘している。ただ自生するフジマリモの調査中に、水深11mの湖底で石碑が発見されたとの話もあり、集落跡の水没もありうるとして将来の調査に期待を寄せている。
(7)海底の沈船の調査
「開場丸」の調査 沈船に対する本格的な水中発掘調査は、昭和49年から実施された北海道檜山郡江差町の「開陽丸」調査が最初であろう。
「開陽丸」は、明治維新の動乱の中にその運命を翻弄された旧徳川幕府の軍艦で、オランダのピップス造船所で建造され、150日を要して日本に回航された当時の最新鋭艦であった。ところが、慶応3年(1867年)に徳川慶喜の上洛以後、急速に高まった倒幕の動き、そして幕府の崩壊へと、時代はめまぐるしく流れ、やがて旧幕臣榎本武揚ら不満分子をして開陽丸の強奪と北海道への逃避行へと展開する。しかし榎本武揚らがようやくたどりついた新天地の北海道江差湾で、「開陽丸」は暴風雪のため座礁し沈没という悲運に会い、海中にその姿を消した。明治元年11月5日のことである。大正7年には、沈没記録を頼りに最初の遺物引き揚げが行われ、海底から大砲が引き揚げられている。
昭和49年から開始された「開陽丸」の調査は、江差町教育委員会が同海域を埋蔵文化財包蔵地として周知化した上で、荒木伸介の指導のもとに本格的な海底での発掘調査に着手した。調査は遺物密集区域に10mのメッシュを組み、堆積した砂泥をエアーリフトと呼ばれる吸引式の排土装置を使用して除去し、水中での実測や写真撮影等による慎重な記録作成を行いつつ、遺物の引き揚げが行われ、最終的には大砲5門、砲弾2,500発をはじめ、3,000点を越える遺物が海底から引き揚げられた(第4図)。これらの遺物は保存処理を必要としており、鉄製品が2%のカセイソーダ溶液で、銅や真鍮の製品は5%のセスキ炭酸ナトリウム溶液で脱塩処理がなされ、皮革製品や繊維製品にも適切な保存処理がなされている。「開陽丸」は、昭和47年に行われた防波堤の築堤によって船体が二分されており、その外港側の調査は終了したものの、残りの船体を留める内港側は、船体にシートをかぶせて現状保存されている。調査報告によれば、船体の三分の二が未調査のままであり、調査の再開と組織的な調査の継続が期待される。
水の子岩の調査 香川県小豆郡内海町の海上に、通称“水の子岩”と呼ばれる岩礁がある。
ここは地元のダイバーたちの恰好のダイビングスポットである。ある日、岡山県立博物館にひとつの備前焼の壷がもちこまれた。器面にはびっしりとカキ殻が付着している。もちこんだダイバーの話では、“水の子岩’’の下、水深20m〜40mの場所から採集したという。この発見が発端になり、昭和52年1月に予備調査が行われ、備前焼の完形品や船のバラストに使用したと思われる河原石などが確認された。同年4月には「水の子岩学術調査団」が結成され、本格的な調査がスタートする。遺跡は水深40mという深場にあり、調査に携わるダイバーに潜水病の発生が懸念されたため、現場海域に作業台船を係留し、ダイバーのために減圧カプセルを水中に降下して作業の安全を図る一方、遺物散布の状況を記録するため、作業用の足場パイプを組んで岩場の斜面沿いに降ろして、測量の便を図った。また排土作業にはエアーリフトやジェットポンプなどを利用している。この結果、引き揚げられた遺物は、備前焼の鉢や壷など10器種210点、金属製品や石製品なども含まれていたという。遺物は、調査団の顧問であった鎌木義昌が分析し、これらの備前焼が単一期に生産されたものであること、また一括して岩礁下に散布していた状況から、遺物は遭難した船の積み荷であったろうと推測している。香川県下では、香川郡直島町の直島頼戸の海底から、陶守三郎が昭和15年に二百数十点の備前焼を引き揚げ、「上陸備前」の名で世に知られていたが、それ以来の大量の発見となった。しかしながら、ともに遺物のみの発見に終わり、船体の確認ができなかったのは残念である。
鷹島海底遺跡 昭和55年、文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」のうち、水中考古学による遺跡・遺物の発見、調査、保存をテーマとする研究がスタートした。
3ケ年計画で実施された同研究は、蒙古襲来の舞台で、弘安4年(1281年)に大暴風雨により歴史的な大被害をうけて元軍が覆滅した長崎県北松浦郡鷹島町沖に的が絞られた。この地は、およそ800年前、蒙漢軍と高麗軍からなる第二次日本征討軍の東路軍と江南軍のあわせて約4,400隻の大艦隊が集結し、沖合を埋め尽くしていた。弘安4年閏7月1日(現在の8月22日)、鷹島沖の元軍に大暴風雨が襲いかかる。その被害状況について『東国通鑑』は、「日本遠征に参加して帰還しなかった者は、元軍(蒙漢軍と蛮軍)10万有余人、高麗軍7千余人」と記す。これを裏付けるように、同海域からは当時の遺留品が数多く出土し、元寇遺跡として古くから知られていた。
研究には学際的見地から、歴史・考古・郷土史の人文科学分野の研究者に加え、船舶工学・水中音響工学・潜水科学等の理工系研究者を加えて実施された。調査は昭和55年8月から実施され、海底の状況を探るためにサイドスキャンソナーおよびソノストレイターといった音響測深機器が導入された。この測定の結果、72地点から海底下の異常反応を検知して、調査ポイントが絞り込まれ、次年度の本格的調査に引き継がれた。翌昭和56年7月、茂在京男を調査団長に、東海大学潜水技術センターのダイバーらを交えて海底調査が行われ、褐釉壷など148点、右製片口や石弾など4点、磚9点などが引き揚げられた。翌57年には岡島神崎免の海岸部を中心に、海岸線にセオドライトを設置し、海岸部から沖合100mの範囲にロープを張り、それを基点として遺物の散布状況をダイバーらに記録させる実験も試みられた。その際に引き揚げられた遺物は、褐釉壷の破片173点、青磁碗1点、碇石10点、石製片口1点、石臼・石弾それぞれ1点である。同研究による調査はこれで終わったが、埋蔵文化財を包蔵する海底は、昭和56年7月20日をもって周知の埋蔵文化財包蔵地として登録されることになった。
昭和58年には同島床浪地区の埋蔵文化財包蔵地内で港湾事業が計画されたため、その事前調査としての海底発掘調査が7月から実施された。調査団長には「開陽丸」の調査を指導した荒木伸介が、また調査員には明治大学考古学専攻生が当たり、水深20数mの海底から完形の褐粕壷や青磁碗などが検出された(第5図)。同地区の海底には厚いシルトの堆積層があり、それをエアーリフトで排土しながらの苛酷な作業であったが、海底の発掘調査としては同海域で初の試みであった。なお、同海域では、昭和63年にも同種の港湾事業が計画されたため、同年9月の予備調査の結果をもとに、平成元年6月から8月にかけて本格調査が実施されている。また平成元年度から3年度にかけて、文部省科学研究補助金総合研究Aによる「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」が、九州大学の西谷正教授を研究代表者として3ケ年継続して行われた。これらの調査では未だ元寇船の発見には至っていないが、木片や船材の一部とみられるものも出土しており、今後の計画的、本格的な調査が期待されるところである。
坂本竜馬の「いろは丸」 昭和63年、広島県福山市走島町宇治島の南方4km、水深27mの海底から一隻の沈船が発見され、坂本竜馬の「いろは丸」ではないかと新聞紙上を賑わせた。記録によると、慶応3年4月23日、坂本竜馬の率いる海援隊が座来した伊豫大洲藩所有の「いろは丸」(160トン)は、備後灘の六島沖の海上で、紀州藩の明光船(887トン)と衝突、機関部に損傷を受け、鞆港への回航途中に沈没した。後にこの事件は、わが国初の賠償問題を提起し、国際法の適用や、航路定則の範となって幕末維新史上有名な「いろは丸事件」として歴史に残った。この船が先に述べた沈船ではないか、「鞆を愛する会」はこの疑問を解決すべく、田辺昭三が主催する水中考古学研究所に調査を依頼した。昭和63年と平成元年に行われた2回の調査では、沈船の中央部から先端部分を検出して鉄船であることを確認し、積載されていた日用什器備品の年代から、ほぼ「いろは丸」と断定しうる資料をえることができた。「開陽丸」と同様、歴史的事件にかかわる船舶が調査によって特定できた貴重な成果である。
(8)海底の遺物散布地の調査
昭和60年、日本の最南端沖縄県と最北端の北海道で、海底の遺物散布地の調査が実施された。
シタダル遺跡 沖縄県石垣市の名蔵湾にある通称シタダル遺跡は、中国明代の陶磁器が浜に打ち寄せられる場所として知られ、米国のジョージ・H・ケアー博士の琉球文化財調査(1961年〜1964年)などの分布調査をへて有力な海底遺跡として知られていた。日本水中考古学会の茂在寅夫は、朝日新聞の後援をえてこの遺跡を調査し、青磁や白磁の皿類など291点を引き揚げた。
上ノ国港内 北海道檜山郡上ノ国町では、漁港改修工事に伴って、漁港内に散布する陶磁器類に対する事前調査が実施された。
荒木伸介の指導のもと、2ケ月に及ぶ調査で、肥前系の近世陶磁器類を中心とした3,
000点におよぶ遺物が出土した。調査は、港内の透明度不良の悪条件下にもかかわらず、遺物散布地全体をグリッド区画し、エアーリフトによる排土作業を行い、遺物出土地点の記録作成を重視するなど、地上の発掘調査同様の成果がえられた。
沖縄と北海道のいずれの調査においても遺構は検出されず、遺跡は遺物散布地と結論されたが、上ノ国の調査報告書は、遺跡形成の理由として、@船上投棄遺物、A番屋生活廃棄遺物、B市街生活廃棄遺物の可能性を提起し、最も高い可能性として、16世紀末葉以来、当該地区に集落を形成した住民の生活廃棄物の集積と推論している。
(9)沈島伝説とその調査
別府市瓜生島 風光明媚な温泉地として知られる九州最大の観光地大分県別府市は、その眼前に国東半島と佐賀関半島に囲まれた別府湾が広がる。この湾内には現在島影を見ないが、伝承によれば東西3.9km、南北2.3kmにおよぶ「瓜生島」(別名を建部島あるいは沖の浜島)が存在したといい、慶長元年(1596年)閏7月12日午後2時過ぎ、出国高知沖の海底を震源とする大地震(伏見大地震)によって、住民もろとも海没したと伝えている。
瓜生島は、室町時代頃から豊後最大の貿易港として隆盛を極め、12ケ村数千戸を有し、島の中心部分には三条の大通りが走っていたと伝える。豊後府内藩の藩士であった戸倉貞別が元禄12年に著した郷土誌『豊府聞書』にもその名を見ることができる。
昭和41年、この伝承の島を求めて潜水艇による調査が、昭和52年には「瓜生島調査会」の二度にわたる海底調査が実施され、遺物や島の存在こそ発見できなかったものの、海底下地層の音響測深調査の結果、沖合750mから2kmにおよぶ扇形の地滑りを観測し、別府湾を走る活断層とほぼ平行することを確認した。今後、幻の島の探索が現実のものとなる可能性も高い。
益田市鴨島 島根県益田市中須町の益田川河口にも、海没した伝承の島「鴨島」がある。万寿3年(1026年)の大地震で海没したといわれる「鴨島」は、梅原猛が柿本人麻呂終焉の地(鴨島に流刑されその地に没したとする仮説)として話題になった。昭和52年、「鴨島遺跡学術調査団」が結成され、田辺昭三らを迎えて組織的な調査が実施された。水中ビデオや遺物浮揚機などを投入、島跡とおぼしき岩盤の広がりや、柿本神社の遺構らしきものも発見したが、確たる物証をえるには至らなかった。同海域には益田川から流入した浮泥やシルトの堆積も多く、調査は困難を極めたようである。今後の調査の再開と具体的な遺物や遺構の発見が期待される。
(10)海外調査への協力
海外からの協力要請に答え、技術支援をも含めた学術的文化交流の一環として、これまでに外国の水中遺跡の調査研究への協力がいくつかなされている。
クルナの水没文化財引き揚げ
昭和46年10月から翌年の1月末日まで行われたティグリス河とユーフラテス河の合流点、クルナにおける水没文化財引き揚げ調査もその一つである。
1955年5月、フランス探検隊がメソポタミアで入手した発掘の成果品40ケースと、英国アッシリア発掘財団がプロシア政府から受けた寄付への見返り品として、当時のベルリン博物館に贈る予定のニルムドやクュンジクから出土した遺物80ケースを満載した1隻の船と4隻の筏(羊の革袋を組んだもの)が、ティグリス河とユーフラテス河の合流点、クルナの北方3マイルの地点で、アラブ人の襲撃を受け、これらの貴重な文化遺産の多くを船もろとも失ってしまった。これが世に名高い「クルナの災難」の全容である。失われた出土品には人面牛身像や有翼神像など貴重な遺物が含まれていた。
昭和46年6月、日本・イラク両国で文化財引き揚げ調査に関する正式な協力協定が結ばれる。調査は日本オリエント学会とイラク考古総局、中日新聞社の三者合同で行うことになり、江上波夫を調査団長に、3部門総勢34名の調査団が結成された。探査や揚陸、考古・美術・補修・保存・言語などに関する学識経験者が選抜され、水中考古学分野では小江慶雄が参加した。
調査は10月1日に開始され、水没地点と思われるナイフ・ベグを中心に、ソノストレイター(磁歪振動式音波探査機)を備えた船で河底の調査を行い、河底の地層中に異常なエコーがある16箇所を検知し、補助地点8箇所を加えて、その箇所への潜水、ドレッジによる掘削等の確認作業を行った。残念ながら水没文化財の発見には至らなかったが、水中遺跡(水没文化財)調査への技術協力として初の海外遠征であり、それが果たした役割と意義は高く評価される。
シリア沖古代遺跡 昭和58年4月、NHK取材班が、番組取材中にシリアのタルトス沖海底から1個のアンフォラを引き揚げ、沈船を発見した。地元の海綿採り漁師の情報によるものである。
昭和60年7月、江上波夫を委員長とする「シリア沖古代遺跡発掘運営委員会」が組織され、3次にわたる海底発掘調査が、日本、シリア政府、シリア考古総局の共同で行われた。沈船遺跡のある水深32mの海底は、石灰質砂泥の堆積した平坦な場所で、しかも地中海特有の透明度を誇り、海藻類や魚介類も少ないことから、沈船自体もかなり保存状態が良好であった。
この発掘調査には田辺昭三が調査指導にあたり、コミュニケーションシステム、長時間潜水(バウンスダイビング)、水中写真測量に画期的な最新技術が導入された。コミュニケーションシステムとは、水中で調査に携わる調査員を3台の水中テレビで撮影し、船上でこれをモニター監視して、水中スピーカーで調査員へ指示を与える方法である。バウンスダイビングは、深い水深で作業を行ったダイバーに対する減圧対策法で、通常は順次浮上する際に一定の水深に溜まって減圧を行うのに対し、船上に設けた再圧室で減圧する方法である。これにより海底での長時間作業が可能となったが、素早く浄上して5分以内に再圧室へ入らなければならず、今後の深々度潜水作業には魅力的な方法ではあるが、国内の現行法規下では実施が難しい。
水中写真測量では、まず水中カメラを海底より6mの位置に固定して、遺物の集積範囲を俯瞰で14枚撮影する。その写真を3倍に拡大したものをスキャナーで読み取ってデジタル化し、さらにそれをコンピューターにかけてモザイク画面を作り、解析図化機で標高データを割り出し、最終的な実測図を作り上げていく。細部の測量には4mの位置から撮った82枚の写真を同様の方法で図化して用いている。こういった最先端の技術力をもって、海底からアンフォラ850個を引き揚げた。海底の沈船にはまだ大量のアンフォラが残っており、船体の保存状態も良好と伝えられるので、調査の継続とその成果が期待される。
水中遺跡調査の現状 石原 渉
今日でも、水中考古学は一見宝探しと見られかねないが、学史的に見ると宝探しが水中考古学の発展に寄与してきた側面も否定できない。国によっては、未だに文化財としての正しい取り扱いがなされていないところもあるが、わが国では、当然のことながら、領海内にまで文化財保護法が及ぶため、今日では宝探し的な行為は許されないようになっている。
わが国の水中考古学は、明治42年、坪井正五郎によって長野県諏訪湖底の調査が行われたところから始まる。この調査は、水深が浅かったため、蜆取りのジョレンによって湖底を掻き上げて遣物を採集するといった、今日から見れば、かなり単純で荒っぼい調査ではあったが、世界的に見ても、水中遺跡に目を向けたのは決して遅くないのである。しかも、今日まで諏訪湖底遺跡は継続的に調査が行われており、着実に成果を上げている。
大正13年末には、滋賀県湖北町尾上の漁民が、琵琶湖底から底引き網で数個の縄文・弥生土器を引き揚げたことから、考古学者の関心を集めたが、調査のメスが加えられたのは昭和32年になつてからのことである。琵琶湖学術研究会の総合調査の一環として、京都大学院湖実験所・京都教育大学・滋賀大学・東京水産大学が中心となり、音響探査・ボーリング調査・ドレッジ採集など、当時としては可能な限りの科学技術を導入してさまざまな調査が行われたが、水深70メートルの湖底に、は直接到達することができなかった。しかしながらこの調査は、湖底遺跡に考古学者の目を向けさせ、科学探査機器が考古学調査においても有効な手段となりうることを実証した点で高く評価されるものである。
発掘調査をともなう本格的な調査は、昭和49年から始められた徳川幕府の戦艦「開陽丸」の調査が最初である。この船は戊申戦争の際、北海道江差沖で座礁し、沈没、そして破砕されていた。調査にあたり、発掘調査の方法から、木造船体部分・武器・弾薬・日常生活用具にいたる多種多様な遺物の脱塩などの保存処理方法まで、すべて初めての経験であり、関連分野の研究者による委員会を構成し、さまざまな問題を実験的研究を行いながら解決し成果をあげてきた。
その後、琵琶湖をフィールドとした水中遺跡調査法の研究、瀬戸内海水ノ子岩遺跡、鷹島海底遺跡、石垣町シタダル遺跡、さらには福山市沖の「いろは丸」の調査など、ようやく水中遺跡に対する関心が深まってきた。これらの歴史的展開は本書第2章第2節を参照されたい。しかしながら、調査の方法、技術などの点で未解決の点も多く、陸上における調査と同等の水準に到達すべく、今後さらなる実験研究を積み重ねていかねばならないであろう。本研究もこのような問題の解決を目的としたものであった。
水中遺跡は、文献資料や伝承などによって遺跡の存在が推測されても、実際に遺跡を発見することはきわめて困難である。推定地に直接潜水して調査する単純な方法もあるが、鷹島のように広範囲に広がる遺跡では不適当な方法である。本研究では、できる限り科学的探査方法を導入すべく、いろいろな実験を試みた。その成果に基づき、水中遺跡調査に際してとるべき手順について、次に試案を提示することにしたい。
3.水中遺跡調査の方法 荒木伸介
現在のところ、あらゆる目的に対応できるような探査機器は存在しない。しかし、いくつかの探査機器を組み合わせることによって、かなり精度の高い遺跡情報をえることができる。
陸上においては、肉眼で広範囲を見渡すことも可能であり、航空写真で地形を撮影し、観察を加えることもできる。しかし、水中では、わずか数メートルの範囲しか目視できない状況にある。したがって肉眼あるいは航空写真に代わるものとして、音波を利用した機器に頼らざるをえない。音波は光波に比較して解像力ははるかに劣るが、全体地形を記録し観察するには、今のところ、これ以外に方法はない。
遺跡や遺物が発見されたからといって、直ちに発掘調査に取りかかれるものではない。遺跡の基礎情報をえるために、第1段階として、@地上で通常行われる航空写真に代わる調査法として、サイド・スキャンソナー(Side Scan Soner)を用いて全域を映像化し、詳細な海底地形図を作成する。これをもとに検討を加え、A遺物が集中している可能性が高いと判断された場所では、磁気探査や電磁誘導探査により金属製遺物の分布状況を把握する。この場合、海底の地形のみから判断するのではなく、海流や潮流、風向などの平均的データを参考にしなければならない。現段階では陶磁器類や木製遺物を探査する方法はないが、遺物が最終的に安定埋没する場所には、金属製遺物も混在している可能性が高いと考えられるため、金属製遺物の探索を手がかりにしているのである。Bその結果をふまえ、次にその集中箇所の地層探査のため、サブボトム・プロファイラー(Sub−bottom profiler)を用い、堆積状況を把握し、さらにボーリング調査や試掘調査を実施すれば、具体的な資料をえることができる。Cまた、これらの作業位置を正確に記録しておかなければ、再度その場所に到達するのは至難である。そのため、基準点や図根点を設け、精度の高い測量を実施する必要がある。海上面の位置や船の位置を地上から測量することは可能であるが、それを海底に正確に投影する手段としては、音波を利用した機器の今後の開発に期待せざるをえないのが現状である。現在のところ、水面で位置を求め、そこから鉄筋などを垂直に降下させるか、逆に、海底から浮きを上げるなどの原初的方法しかない。しかし、多くの点を設けることによって、かなりの誤差は修正が可能である。
このような第1段階の調査結果を総合的に判断し、本格的調査の実施計画を立案すべきである。しかしながら、探査結果から遺跡の内容や範囲を正確に判定するには、未解決の問題点も残されている。今後、既知のものから未知のものへと、より多くの場で実験的研究を継続的に行い、データを蓄積し、判定のマニュアルを作成していく必要があろう。今回のアンケート調査で所在の明らかになった遺跡については、その基本資料の整備のために、少なくともこの第1段階の調査を行う必要性があるだろう。
4.水中遺跡と文化財保護法 荒木伸介
(1)遺跡保護の制度
「文化財保護法」にいう埋蔵文化財とは、「土地」に埋蔵された文化財のことをいい(法第57条第1項)、文化財の種類ではなく、文化財の存在する状態を意味する。「土地に埋蔵されている」という状態には、土に埋まっているもののみならず、水中に没しているものも含まれる。一般に埋蔵文化財というと、陸上において埋蔵された遺跡や遺物を想起しがちであるが、水中にある遺跡にも文化財保護法が適用されるのである。
文化財保護法では、文化財が埋蔵されている土地を発掘調査しようとする場合、事前に文化庁長官に届け出ることが義務づけられている(法第57条第1項)。これは濫掘などによる遺跡の破壊を防止するための制度であり、水中の遺跡についても、ダイバーなどが勝手に遺物を引き揚げたり、遺跡の現状を改変することができないことになっている。また、埋蔵文化財を包蔵する土地として周知されている土地において土木工事などを実施する場合にも、事前の届出や通知が必要とされており(法第57条の2、第57条の3)、遺跡の新発見にともなう規制(法第57条の5、第57条の6)もある。これらは当然のことながら水中の遺跡にも通用される。
(2)出土品の取扱いに関する制度
一方、出土品の取扱いに関しては、民法第241条「埋蔵物の発見に関する規定」及びその特別法である遺失物法第13条の「埋蔵物に関する規定」に準拠しつつ、文化財保護法により文化財の特性に沿った制度が設けられている(文化財保護法第60条から第65条)。
すなわち、出土品についても、まず民法上の「埋蔵物」とされ、遺失物法の規定による手続きがとられた上で、それが文化財と認められる場合に文化財保護法の制度の対象となるのである。
「埋蔵物」とは、土地その他のものに包蔵され、発見の時点ではその所有権の帰属を容易に識別することができない状態にあるものをいうとされいている。したがって、水底に沈んでいたものも、所有権の所在を容易に知ることができないものであれば、地中からの出土品と同じように、遺失物法により発見地の警察署長へ差し出す必要があり、これが文化財と認められる場合には、文化財保護法第60条以下の規定による、文化庁長官への提出、文化財であるかどうかの鑑査、所有権の国庫帰属、発見者や発見場所の土地所有者等への譲与等の、一連の制度が適用される。
(3)水難救護法との関わり
水中の沈船やその積み荷の引き揚げに関しては、埋蔵場所の特殊性から遺失物法によらず民法の特別法として設けられた「水難救護法」による手続によらなければならない場合もある。水難救護法第24条は、沈没品もしくは漂着物の所有権の帰属に関する制度を定めているが、引き揚げられた物が、かつて何人かの占有に属していたものであって、その者の権利の保護を要すると認められることが適用の条件となる。考古学的な遺物がこれに該当することは稀であろうが、同法が適用された場合、物件の拾得者は遅滞なくこれを市町村長に引渡すこととされており、市町村長は本来の所有者へ返還するための手続きをとることとなるが、最終的に所有者へ返還することができない場合は、物件を拾得者に引き渡すことができるとされている。つまり、この場合は、物件が文化財であっても文化財保護制度との連絡規定がなく、物件の処分は市町村長の権限に委ねられ、文化財としての所有権確定のルートから外れるのである。
(4)今後の水中遺跡の保護にむけて
水中遺跡の現状が安易に改変されたり、遺物が勝手に引き揚げられることを未然に防ぐためには、陸上における遺跡保護の方法と同様に、水中遺跡の所在状況を把握し、それをもとに積極的に埋蔵文化財包蔵地として周知化することが必要である。これにより水中遺跡を調査する場合の事前の届出、あるいは土木工事などを実施する場合の事前の届出・通知を義務付けることが、保護の第一歩となるのである。そのためには、本研究で検討したように、文献記録や伝承地における埋蔵文化財の所在確認、埋蔵文化財包蔵地の位置の記録と範囲の特定作業、不時発見時の早急な対応が必要であり、そのための調査方法の技術的検討とともに、埋蔵文化財として保護の対象とすべき水中遺跡の時代や種類・内容の考え方に関する論議も必要となろう。
外国における水中遺跡の調査 林田憲三
1.水中遺跡・水中考古学の概要
(1)はじめに
外国における水中遺跡調査は、最近ますます活動が盛んになり、それらの活動の結果さまざまな事実が解明されつつある。水中遺跡調査では、海に関わる調査が最も盛んである。第二次世界大戦後、水中遺跡調査の活動が盛んになったのは、水中機器の発達が第一に挙げられる。さらに、1960年代になると地中海を中心に、1)沈没船の発掘調査、2)海岸に臨む水没した都市あるいは洞穴遺跡と、水中考古学が新しい学問専門領域の確立をめざし、学史的にもその存在理由が問われる10年間であった。1970年代はまさに世界各国で水中への学問的関心と共に人類の水への社会的な関心、それはエコロジー的な関心が増大してきたことと関連している。水中考古学はそのような環境の下で大学研究機関の専門学科として確立をめざし、アメリカでは学科の新設の動きがあった。この分野での活動が社会的・学問的に評価された結果、受け入れられたのである。世界各国ではこの分野に関わる研究機関が地域的な枠を越えて国際的研究活動を推進し、水中遺跡調査の学際的協力体制の充実をはかり続けている。1980年代は水中考古学の実践の10年間であったと言える。
今回の報告では1980年代(1980〜89)の地球規模で行われている水中調査活動の状況をできるだけ詳細に把握することに努めようとするものである。さらに、この10年間に発掘調査までには至らなかったが、遺構あるいは遺物の存在が考古学的な方法の手続きを採って確認調査が行われ、水中遺跡として正当な評価を受けた「周知の遺跡」として将来条件さえ十分に整えば発掘調査する必要があると評価された遺跡をも含め、発掘調査を行った遺跡の例を網羅し、それぞれの遺跡の発見の経緯、遺跡の地理的位置、調査方法、調査期間中の遺構・遺物の検出状況とそれらの歴史的背景を述べる。この結果遺跡の性格を理解し、これらのデータが今後の日本の水中考古学さらに水中遺跡調査に何らかの方向性を導き出す役目を果たすことができるものと考える。
(2)水中遺跡と考古学
日本において水中考古学の定義は、これに関わる研究者間で若干の隔たりがある。水中考古学は学問としての「考古学」の専門領域の一部を構成することに異論はない。しかし外国の状況では「人類学」もしくは「考古学」のどちらかに属しており、今日の陸上の考古学の抱えている間遠がやはりこの領域にもその影を落としている。ジョージ・バスが水中考古学に関連する講座を開設したテキサスA&M大学では人類学科に属している。彼はこの大学に付属の「海事考古学研究所INA(Institute of Nautical Archaeology)」を設置し、これまで古典考古学の分野である地中海地域を、人類学科の中で発掘調査している。この状況はバスが意図した水中遺跡に対しての古典考古学的なアプローチが決してこの大学で解決されてなかったことを示している。バスはペンシルヴァニア大学古典考古学科に講座を設けることをテキサスへ移る前に運動したが、大学はこの事には消極的であった。この出来事の背景を理解するためには、アメリカの考古学の学史的状況を理解せずしては間道の核心には迫れない。「考古学」は古典考古学(Classical Archaeology)と捉えるか、人類学に属する考古学(AnthropologyとしてのPrehistoric Archaeology)と捉えるかで、その目的とするもの、理論に違いがある。人類学のバラダイム(paradigm)を構築するための資料が水中に存在するとして捉えるのか、歴史学の文献記録ではなく考古学的記録としての資料、その資料を水中に求めるのかである。
水中考古学をこの学問分野に冠するのであれば、当然その言葉の翻訳として“水中”は“underwater”である。この言葉が「考古学」に限定した理論的な定義を与えるとすれば、それは調査する対象が異なる特珠環境にあることのみで、学問自体を定義するほどの確固たるものではない。いわゆる“水中環境”なのである。沈没船が海底で発見されたとしても「考古学」の専門の中で発掘調査しなければならない理論的根拠はない。これからの課題は“水中環境”を「考古学」の対象とするための基準を確立する必要がある。現状で唯一の拠り所となっているのは考古学的な発掘の方法だけなのである。
世界の水中考古学はその研究の目的が比較的確立している。“underwater”archaeologyもそれに内包され、アメリカのバスに代表される“nautical”archaeologyは、船を専門とする考古学者にその理論が受け入れられている。調査対象は沈没船とその積載品であり、それを解明するための発掘調査方法の確立を目指し発掘調査・研究フイールドとなっているのは地中海である。“maritime”archaeologyはイギリスの故マッケロイに代表され、人類学を専攻する学者に受け入れられている。海上で行われた人間のあらゆる活動を対象とした「人類学としての考古学」的研究全般で、その基本的資料は沈没船である。また沈没船の「考古学」的資料の組合せ(assemblage)を取り出すための発掘技術・方法(methodology)である。沈没船を資料とするこの特徴は“nautical”archaeologyがもつ理論をも含むものといえる。その他“marine”archaeologyがある。これは「考古学」的対象が海だけに限定されるものである。
以上、水中遺跡と考古学について、その概略を述べた。つまり水中考古学は各国で何を調査対象とするのか、また歴史学としての考古学なのか人類学としての考古学なのかで、水中遺跡の評価や定義が異なっている。このような諸外国の状況を把握すると、日本の水中考古学を歴史学としての考古学として扱う学問の立場に立とうとするならば、演繹的な理論構築による調査対象の評価ではなく、調査の対象とした遺跡を帰納的な方法で水中考古学の遺跡として評価することのほうが必要であろう。
(3)水中遺跡の名称と分類
世界の水中遺跡を1980〜89年の10年間に実施した調査で、対象とした遺跡を分類すると、以下のごとく分類できる。この分類にしたがって発掘調査を遺跡ごとに概観する。また各遺跡名称は調査報告に従い、それ以外の遺跡名は本報告に限定して使用することにする。
@ 沈船(これは船体(Hull)そのもので、考古学的に遺構として捉える。)
A 船に関わる遺物(積載品、船からの廃棄品、これらの資料の組合せや遺物の出土状況より沈没船の存在が想定可能な場合も含む。)
B 港湾都市とそれにともなう遺構・遺物
C @〜Bのカテゴリーに含まれない遺構・遺物
D その他・不明
(4)水中遺跡調査の地域分類
世界各国の水中遺跡を以下のごとく地域別にわける。次節ではそれぞれの地域で1980年代(1980年〜89年まで)の10年間に発掘調査された水中遺跡を先に述べた遺跡の分類に従って述べることにする。なお、記録・伝承、発見届けのあった事例が「水中遺跡」として研究機関及び考古学者により先に分類した遺跡のカテゴリーにもとづいて確認され、正当な水中遺跡として評価され、将来に発掘調査の必要があるとして認定された「水中遺跡」は、できうる限りこの報告書に載せた。しかしそれらの多くの確認された水中遺跡は、曖昧な遺跡発見地点や漠然とした発見地点の環境しか報告がなされていないことが多い。ある程度の発見地点を既に報告された資料から推定し、この報告書では水中遺跡としてその地点を地図上に落とすことにした。過去において海底あるいは港等が自然環境変化で陸地化した例も、ここでは取り上げた。
世界水中遺跡の地域分類
A アメリカ大陸地域:
1.北アメリカ大陸地域(アメリカ・カナダ)2.カリブ海地域(カリブ海地域及びバーミューダ島海域)3.南アメリカ大陸地域
B ヨーロッパ地域:
1.北欧地域((1)スウェーデン、(2)デンマーク、(3)ノルウェー) 2.東欧地域 3.西欧地域((1)フランス、(2)ドイツ、(3)オランダ、(4)スイス) 4.イギリス地域((1)イギリス、(2)アイルランド)
C 地中海地域:
1.ギリシア・トルコ及び東地中海地域 2.イタリア・フランス及び西地中海地域
D アフリカ地域
E オセアニア地域(オーストラリア・ニュージーランド)
F アジア地域:
1.東南アジア地域((1)タイ、(2)インドネシア、(3)フィリピン、(4)マレーシア)
2.中国地域
3.韓国地域
G その他の地域
なお、1980〜89年までの水中遺跡の発掘件数及びこの期間中に調査された年代別の水中遺跡数は第14・15表のとおりである。
2.世界の水中遺跡調査
A・アメリカ大陸地域
この地域の水中遺跡調査は、新しい学問として水中考古学がいま抱えている問題を直視せずして語ることはできない。それは水中考古学の対象が文化遺産としての水中遺跡の保護を目的とするのに村して、宝探し(Treasure Hunting)、あるいはアマチュアダイバーによる沈没船ダイビング(Wreck Diving)などは遺産の盗掘をしばしばともなうからである。しかる結果は遺跡破壊にいたる。
この行為に各国の対応はまだ十分満足のいくものではない。例えばカリブ海地域ではスペインガレオン船アトカ(Atocha)号(1622)の沈没船がフロリダのキーウエスト沖のホーク海峡(Hawke Channel)で1985年に発見され、その財宝約4億ドル相当(270kgの金魂、1200個の銀の延べ棒(1個=31.5kg)、25万枚の銀貨、その他47tの貴金属・宝石類)がメル・フイッシャーによって引き揚げられた。この事件以来宝探しを商業ベースにして会社を経営する人々が増え、その数も今では24社にも達した。その中には専門の考古学者を雇った企業もあり、“文化財の盗掘”に対する社会的な批判をかわすために利用されている水中考古学者もいる。今日350万のアマチュアダイバー人口を抱えているアメリカでは大規模な水中遺跡の破壊に積極的に貢献している人々がその中に存在している事実も忘れてはならない。今日、米国国立公園内で指定され、記録されている水中遺跡は100件近くにのぼる。しかし各国の主権の及ばない公海上の水中遺跡には自国の法律、さらに文化財保護の規制からも逃れて現代の海賊的野蛮な行為が起きている。例えば二、三例挙げるとすれば、セントラル・アメリカ号やワイダハー号がそうである。フロリダ沖で沈没したスペインのガレオン船は、約30隻以上がスペインの公文書館に記録として残っている。それらの沈没船は1940年代から沈没船宝探しとして興味の対象となっている。
1980年代アメリカにおける水中の文化財に対する全体的な動向を評価すれば、先の10年間と比べて社会の関心度が増大したことである。それは1)水中遺跡調査活動に対して限られた専門家達によるのではなく市民達自らの「草の根」運動的なレベルでの啓蒙活動をその第一に挙げられるであろう。さらに、2)アメリカの数多くの研究機関・協会のなかで、水中遺跡調査活動に専門的・経済的にも協力し、全面的に活動を支持する組織が増えつつあることも事実である。3)水中遺跡調査をより科学的な視点で、これまで抱えてきた問題を解決しようとする積極的な動きである。さらに、80年代はアメリカが水中遺跡を“保護する”という自らの立場を明確にしたことであろう。それは1988年に水中の「文化財保護法」(Abandoned Shipwreck Act)が施行されたことに表れた。この法律が1990年代のアメリカの水中遺跡調査活動に対して善き保護者となれるか。さらに、スポーツダイバーをどの程度啓蒙でさるかがこれからのアメリカの水中考古学の課題のひとつとなるであろうことは十分に予測できる。しかしアイロニーはこの年のスキンダイバー誌(Skin Diver)1988年12月の特集記事として“Treasure Diving”、さらに、1989年10月には“Caribbean Shipwrecks”の記事でダイビングの新しい経験として、その面白さを奨励している。アメリカの水中遺跡と水中考古学にはパラドックスな社会的認識がこれに携わる人々を悩ましている現状も見逃してはならない事実なのである。
A−1.北アメリカ大陸地域−アメリカ・カナダ地域
ワイダハー(Whydah)号海底遺跡(図1)
この遺跡は1717年4月26日に沈没したワイダハー号の遺構である。この沈没船はいわゆる“海賊船”として名を馳せた船である。マサチューセッツ州、コッド岬のウエルフリート(wellfleet)の東海岸沖の5〜8mの海底で1984年に発見され、86年からワイダハー号共同企業(Whydah Joint Venture)による発掘が「歴史遺跡保護法」(National Historic Preservation Act[NHPA])の106条項の発掘手順、調査・遺物保存方法の規定に従って行われてはいるが、資金の投資者が引き揚げた遺物の売上金の配当を受けることができるなどの商業的発掘である。これに対して考古学者は88年に成立した水中の「文化財保護法」による反対をしているが、この法の厳格な運用がこの州ではなされていないのが現状である。この遺構の本格的な学術的発掘調査が至急に望まれる遺跡である。
デフェンス(Defence)号海底遺跡(図2)
この遺跡は1972年にメイン州のストックトン(Stockton)の港内で発見された独立戦争時に活躍した船で、77年からINAはこの遺跡の調査に参加して、発掘に携わった。発掘の最終年度の1981年には船体の中央部と後部左舷側を調査した。
シャンプレイン(Champlain)湖底遺跡(図3)
この湖はニューヨーク州とヴァーモント州の境にありハドソン川とカナダのセントローレンス川を結ぶ交通の要所である。湖を含むこの地域にはアメリカ独立戦争時代、南北戦争時代の遺跡が数多く残っている。この湖底遺跡は独立戦争時代の沈没船の遺構である。1984年にも調査は続いている。
バーリントン湾(Burlington)湖底遺跡(図4)
この遺跡はシャンプレイン湖のほぼ中央東岸ヴァーモント州側にあるバーリントン湾の水深15mの湖底に立ち上がった状態で沈んでいる。馬の動力を使用した全長19mのフェリー(horse ferry)で、甲板の直下に水平に設置された大きな木製の円盤状の台の上を馬に歩かせ、その動力を中央の歯車に受け、さらにそこから両側に付いたパドル車輪に伝えて走る。この推進方法は1819年に考案された。この遺構は1820〜30年代に建造されたと推定されている。今日でも対岸のニューヨーク州のケント船着場(Port Kent)を結ぶ新しい型のフェリーが運航されていて、この地域の重要な交通手段の一つである。遺構は1983年に確認され、その後発掘調査は続いている。
ボスコー工ン(Boscawen)号湖底遺跡(図5)
この遺跡はニューヨーク州シャンプレイン湖南端部に近いタイコンデロガの砦がある近くで1957年に建造され、そこで1763年頃に沈んだイギリスの115t、全長21mの一本マスト(sloop)船の遺構である。遺構は2.1mの湖底で検出された。第一次発掘調査は1984年に実施され船体の約半分が発掘された。遺構にともなう遺物には大工道具、鉄砲の弾、個人の所有物、食料品、マストの付属品の他にHIのイニシャルが彫られたスプーン等がある。85年引き続き調査が行われた。
イーグル(Eagle)号湖底遺跡(図6)
この遺跡はニューヨーク州シャンプレイン湖最南端のポートニー(Poutney)川のホワイトホール(Whitehall)の河口岸に1825年廃棄されていた。1981年に沈没船の遺構が発見され、82・83年と発掘調査が行われた。その間船体の一部が検出された。
ジョンフレーザー(John Fraser)号湖底遺跡(図7)
この遺跡はカナダのオンタリオ州にあるニピッシング(Nipissing)湖マニトウ(Manitou)島とグース(Coose)島の間で1893年火災に遭い水深14mの湖底に沈んだ船の遺構。後部に備え付けられた木製のパドル車輪で推進する蒸汽船である。1985年から本格的な調査が始まり88年まで発掘調査は行われた。
ジェファーソン(Jefferson)号湖底遺跡(図8)
この遺跡は五大湖の一つオンタリオ湖東端で、セントローレンス川への入り口付近にあるサケット(Saket)湾に沈んだ軍用船である。「1812年戦争」で使用された。この船は1814年に建造され、18年にはこの湾で廃船となって係留され、その後湖底に沈んだ。1984年に発掘調査が始まり、水深1.2〜3.6mの湖底に船体の側面を下にした状態で検出された遺構である。
アトカ(Atocha)号海底遺跡(図9)
この遺跡はスペインのガレオン船のアトカ号(Nuestra Senra de Atocha)沈没船遺構であろう。“宝探し家”のメル・フィシャー(Mel Fisher,Treasure Salvors,Inc.)により遺跡の発見がなされたが、アトカ号船体の遺存については何ら報告はなされていない。アトカ号は1622年9月4日新大陸植民地から本土のスペインへ向けて、キューバのハバナ港を出航しフロリダ、キーウエスト(Key West)の西方沖に在るマーケサス(Marquesas)群島にさしかかった時にハリケーンに遭い、遭難して沈没した。この沈没船探しは1968年に始まり、71年には多くの大砲、金属、銀貨(1622年以前の鋳造)等の遺物が引き揚げられた。さらに75年にはこの船の所有を示す青銅製の大砲が1門発見された。82年、85年には多量の金魂を発見するにいたった。
セントラルアメリカ(Central America)号海底遺跡(図10)
この遺跡はノースカロライナ沖の大西洋に張りだした大陸棚の先端に近い海底で水中ロボット探査機で沈没船の遺構の存在を確認した。遠隔操作によるテレビモニターは遺物のなかに金塊の存在を確かめ、その回収を行っている。“宝探し”を目的とした調査である。南北戦争以前にカリフォルニアの所謂ゴールドラッシュで金の採掘が盛んになり、金塊をこの船で東海岸へ輸送途中、この海域で遭難沈没した。
モニター(Moniter)号海底遺跡(図11)
この遺跡は南北戦争の北軍の装鋼艦である。2門の大砲が回転する砲塔をデッキに乗せた軍艦で、南軍の装鋼艦メリマック(Merrimack)号をハンプトンロード(Hampton Roads)で撃沈させた。モニター号はノースカロライナ州ハッテラス(Hatteras)岬沖で嵐のために1862年に沈没した。1973年に沈没の位置と海底70mに沈んでいる船が確認された。77年には調査が始まり船体が逆さま状態であることが判明した。79年では考古学者を含めた潜水艇を利用した調査であった。87年には潜水艇による詳細な写真実測が行われた。
ハミルトン(Hamilton)号湖底遺跡
「1812年戦争」に活動した沈没船の遺構である。ニューヨーク州のオンタリオ湖の湖底に沈んでいる。
スクレージ(Scourge)号湖底遺跡
「1812年戦争」に活動した沈没船の遺構である。ニューヨーク州のオンタリオ湖の湖底に沈んでいる。
“ブロッサムフェリー”(“BloSSom's Ferry”)川底遺跡(図12)
この遺跡はノースカロライナ州ウイリミントン(Wilmington)を流れているノースイースト・ケイプ・フェアー(Northeast Cape Fear)川のキャスルハイン(Castle Hayne)で発見されたフェリーの遺構である。フェリーはこの川を渡るための交通手段として利用された。アメリカ独立以前のこの地方のプランテーションへの入植者の交通手段としてのフェリーサービスが1730年代に確立する。遺構の調査は1981年に始まり、複合遺跡であることが確認された。川底には2隻の木造の平底を持つフェリーが狭い範囲にわずかに隔たってあり、船体の遺存状態は良好であった。18〜19世紀にかけてこれらのフェリーは使用されていた。発掘調査は82年、83年に行われた。
ペンブローク・クリーク(Penbroke Crook)川底遺跡(図13)
この遺跡は植民地時代の港湾都市で、プランテーション入植者の人々にとって新大陸の中南部の門戸として発展した町の山一つであるエドントン(Edonton)にある。水中遺跡はノースカロライナ州エドントンヘ流れ込んでいる川ペンブローク・クリークの川底で、調査は1980年に始まり、川底に40カ所程の異常反応が現れ、そのうち1/4は現代の廃棄物であったが、2カ所で木造船と思われるものを発見し、これら反応の地点で確認調査が行われた。その河口で沈没した船の船体が確認され、発掘調査が行われた。1750〜75年のアメリカ独立前に属すると思われる船の船体は長さ31m、幅8.4mを測る。川の透明度は良好ではなく、1mの鉄柱で船体の側壁に沿って地底に突き刺しながら船体の全輪郭がプロットされた。厚いシルトに発掘調査は困難であった。この遺構にともなう遺物にはレンガ、建築材のバラスト、また船底の近くで砲弾が4点検出された。沈没船の船名などは不明。
フォウェー(Fowey)号海底遺跡(図14)
この遺跡はフロリダ、マイアミの南東に位置し、南北に延びる砂州、エリオットキー(Elliot Key)の東方の沖約1.8kmの海底にある。この地域はビスケイン国立公園(Biscayne National Park)内のリガレアンカレージ(Legare Anchorage)にあり、この名前の由来は1855年にこの海域の海図作成に従事した船の名前である。遺跡は米国合衆国国立公園局南東考古学センター(United States National Park Service's Southeast Archaeological Center)によって水中文化財として指定・登録された遺跡(The Legare Anchorage Shipwrek Site,BISC-UW-20)である。フォウェー号は1744年にイギリスで建造され、1748年にはこの海域で沈没している。公園管理局による1983年調査により海底の沈没船の船名と海底遺構の同定が行われ、遺構は遺物の年代・機能・文化的所属、さらにこの船の船長の沈没位置の記述と一致することが確認された。遺構は水深7.8〜9mの砂と海藻で覆われた海底にある。遺構の調査は1980年より遺構全体の写真撮影に始まり、遺構の中心、長軸を決定し、軸に従って、810uの遺構全体にロープによる3×3mグリッドを90区画設置し、それぞれの区画を写真に撮り、海底直上面にある、原位置を留めていないと思われる遺物は引き揚げられた。
ショーアル(Shoals)沈船海底遺跡(図15)
この遺跡は北部ニューイングランド、ニューハンプシャー州の東約10kmのメイン湾、複数の島からなる。この島の最も大きい島ダック(Duck)島の水深8〜9mの海底で沈没船が確認され、1982年から調査が始まり、83年〜87年と調査は続いている。
ムスタング(Mustang)海底遺跡
この遺跡はテキサス、南部のメキシコ湾に面したコーパスクリスティー(Corpus Christi)の沖に南北に連なる砂州の一つのムスタング島で出土した木杭を規則的に刺した筏である。この島の海岸で1980年にハリケーン“Allen”がテキサスを襲った時、この遺構が砂丘の中から出現した。1985年に発掘調査が行われ、磁気探知機を用いて遺構の状況、艶囲を調査した。筏の遺構は大きく3遺構に別れる。一番大きい遺構の規模は11.58×10.66mを測る。筏は南北戦争時(1861〜65)の北軍の軍事用の筏(“anti-torpedo”)である。南軍は自軍の港を北軍の侵入、攻撃から保護するため爆薬を仕掛けた機雷(“torpedo”)を港の底に沈めた。それに対して北軍は港への安全な侵入のために筏を船の前に設け、機雷原を突破するために使用されたものである。
ミシシッピー(Mississippi)川底遺跡
この遺跡はミシシッピー川を利用し、人、物資を南部、北部地域に運送した船(外輪船、船首や船尾の平らな船、両端の尖った船)が存在し、この川で活躍した。1987年のアメリカの夏は雨が少なく、川の水量はいつもの年より少なく川の水位が下がり、川底が露出する所が続出したため、川底に沈んでいた船の船体の一部が発見された。これは考古学アーカンソー支部による発掘調査が1987年から行われている。
ノーラ(Nola)号海底遺跡(図9)
この遺跡はバーミューダ島の北西、最も近い島から沖約2km、水深約9mの珊瑚に囲まれた砂地の海底に沈んでいるノーラ号(1863)の遺構である。アメリカ南北戦争当時の南軍所有の船で、北軍の海上からの経済封鎖を打破し、南部の生命・生活を維持する目的で英国で建造された。これまでの大西洋を航海する船と比較すると、速力(18knt)をだし、船体は軽量で細長い(10:1)構造をしていた。しかし燃料用石炭の積載能力は低かった。これら南軍の船は、中立の立場のキューバ、バハマ諸島、ノーバスコシア島あるいはバーミューダ島を利用してヨーロッパからの輸入物をこの海域でこれら船脚の速い船に積み換え、北軍の封鎖海域を突破した。ノーラ号はスコットランドのグラスゴーの造船所で1863年に建造され、船の両側に推進用のパドル車輪を持つ蒸汽船である。1982年、86年に調査が行われ、遺存状態は良好で80%にも達する。
マリーセレスティア(Mary Celestia)号海底遺跡(図10)
この遺跡はバーミューダ島の南西の沖約1.5km、水深約18mの海底にある。遺構は約1mのシルト層に覆われている。アメリカ南北戦争当時の南軍所有の船で、北軍の海上封鎖を打破し、生活物資を南部に供給した。1864年にこの近くの浅瀬に乗り上げ沈没した。1986年に調査が行われている。
ヴィクスン(Vixen)号海底遺跡(図11)
英国で1864年に建造されたスクリューで推進する初期鋼鉄船で、1873年にこの地でその役目を終える。この遺構は世界の船舶史を考えるうえで重要な資料の船である。遺跡はバーミューダ島の最西端のダニエルズへッド(Daniel's Head)から0.4km沖の珊瑚礁に挟まれた狭い水路の深さ10.7mの海底で良好な遺存状態にある。この遺構は1986年から本格的調査が始まっている。
シイベンチサー(Sea Venture)号海底遺跡(図12)
この遺跡はイギリスから新大陸の植民地への入植者を乗せて1609年にプリマス(Plymouth)港を出港して、バージニアのジェームスタウン(Jamestown)へ向かう途中に嵐に遭いバーミューダ島を形成している北東にあるセントジョージ島の沖で1609年に沈没した300tの移民船である。この遺構の発掘調査は1958〜59年に始まり、さらに1978〜81年に第2次調査を行い、続いて1982年〜84年と調査が行われ、沈没船の船体の遺構の発掘調査とそれにともなう遺物が検出された。引き続き発掘は続いている。出土した遺物はバミューダ海洋博物館(Bermuda Maritime Museum)に展示されている。
レッドペイ(Red Bay)海底遺跡(図16)
この遺跡はカナダ、ニューファンドランドのセントジョーンズ(St.John's)島の北に位置するベルアイル(Belle Isle)海峡の入口近く、北岸のレッド・ペイの海底で発見された16世紀のガレオン船である。この海域では複数の沈没船の発見が1978年に報告されている。この海域は捕鯨漁に適した所として、イギリス、フランス、ポルトガルからの商業捕鯨活動が盛んであった。この遺構は1979年から発掘調査が始まり84年まで続けられている。船体の遺存状態は良好で、その船体の部材の引き揚げに重点がおかれている。つまり船体復元(船体構造及び技術)のために詳細な考古学データの収集を可能にする遺構の発掘調査方法と技術の開発、さらに船体の部材を小さなブロックごとに引き揚げるのではなく、あらゆる部材を海底で解体し、それと同時に船の建造過程の様相と精密な造船手続きの解明を海底において行うことを調査目的とした。そのために海底での船体の小区域ごとの解体は、その作業前に遺構の写真投影、ビデオ撮影、平面および断面実測が行われた。写真撮影(Photomosaics=グリッドごとに遺構の小区域写真を撮影、それを繋ぎ合わせて遺構の全景写真とする)を船体の@上部構造、A船内の床部、B外部構造部に従ってする。それに船体の各部材の実寸のトレースを行う。このようにして船板の部材3,000個以上の木片にタッグが付けられた。それ以外にも数千の船体の小さな部材片があった。これらは記録はされたが、実測にはいたらなかった。
A−2.カリブ海地域
この地域はコロンブスによる1492年の新大陸発見地となった。その後1504年まで4回にわたりこの海域に航海しカリブ海諸国をスペインの植民地とした。コロンブス第一次航海(1492〜3)では、サンタマリア号(遭難)を含む3隻、第二次航海(1493〜96)は、17隻のほかに4隻、第三次航海(1498〜1500)は6隻のほかに30隻、第四次航海(1502〜4)にはキャピタナ号(遭難)、サンチャゴ号(遭難)、ガリエガ号(遭難)、ビスカイナー号(遭難)4隻と、コロンブスのカリブ海地域への航海を続けた4回の期間(12年間)にこの地域へ航海した船の数は64隻にのぼる。この間にコロンブスが自ら航海に使用したカラベル船やナオ船の9隻をこの海域で失っている。これらの事実からこれらの沈船の発見が今や重大な関心になっている。
1492年コロンブスによる新大陸発見から数えて1992年はその500年目にあたる年である。アメリカでは1984年に政府レベルでコロンブス新大陸発見500年祭(Quincentennial)を祝うためのクリストファー・コロンブス500年記念委員会(Christofer Columbus Quincentenary Jubilee Commission)が発足し、祝賀事項に関する法案もアメリカ議会を通過し、これによりアメリカ国内ではコロンブスに関するあらゆる国際会議、催し、国際調査を計画した。スペイン系の人々による委員会も設立され、さらに母国スペインでも1992年に向けての動きが始まった。大学や研究機関、さらに報道機関も500年祭の独自の企画を計画した。このような動きにカリブ海諸国も関心を示し、経済的効果を狙った観光事業や数々の催しが計画されている。カリブ海地域の歴史的環境はアメリカの研究機関を巻き込んだ多くのコロンブス船発見プロジェクトに人々の興味の深さを感じる。そして1992年に向けて多くの発掘調査がこの海域で行われている。
ジェノヴェーサ(Genovesa)号海底遺跡(図1)
1730年に沈没したスペイン船でジャマイカのペドロ浅瀬(Pedro Bank)約6mの海底に沈んでいると思われている。1981年にINAによって調査が始まった。磁気探知機(Magnetometer)を使用して異常反応があった4カ所の地点からは大砲、錨、クギ、マストのリング等が発見された。その内1カ所からは船のバラストが長さ30mにわたって堆積しているのが確認された。82〜83年引き続き調査が行われている。
ポートロイヤル(Port Royal)海底遺跡(図2)
ジャマイカの南西岸に位置する港町で、1692年6月7日に大地震に見舞われ市街地の60%が湾内に没した。この遺跡は1981年からINAによって調査が始まった。初年度の調査では煉瓦を使用した建物の床が検出され、82年以降毎年調査が行われている。83年にはアルミ製のパージ船(3.6×7.2m)を調査区域の上に据えて発掘調査が行われ、居酒屋、肉・皮革屋、タバコパイプ屋の建物の部屋の一部が検出された。84年には地震当時のライム街の建物(Building 1)、ジェームス砦の一部の発掘調査が行われた。86年には建物(Building 1とBuilding 3)、さらにライム街の歩道一部が発掘された。87〜88年には建物(Building 5)、89年には建物(Building 5)の遺構の上で沈没船の船体の一部を検出した。船体の一部は約7.5mのキールの部材である。
モラセスリーフ(Molasses Reef)珊瑚礁海底遺跡(図3)
この遺跡は東カリブ海のタークス&カイコス(Turks and Caicos)島の珊瑚礁の海底6〜8mに長さ20m、幅3m、厚さ0.6mに堆積したバラストのマウンドが確認され遺構としての船体の存在を確証するものであった。発掘調査以前にこの遺跡はすでに盗掘を受けていたが船体のごく一部と大砲等の遺物が1982年のINAの発掘調査で引き揚げられた。この年にも商業をベースにした宝探屋によって遺跡が破壊されている。この遺跡からは、1,000点を超す遺物が出土したにもかかわらず年代を決定するに十分な資料がなく、16世紀半ば頃に比定できる沈没船の年代が弾倉装填式の鉄製大砲の型式編年に依っている。尚、国籍や船名などはいまだ明らかではない。石灰化した皮膜に覆われた遺物の検出にはもっとも有効な磁気探査機が使用された。バラストの下から7.7×2.5mの船底部が検出された。この遺跡の発掘調査は83年にも続けられた。84年には沈没船の乗組員が救助されるまでの生活遺構の存在を検証するためにこの遺跡に最も近い西カイコス島で調査が行われた。この島からは80年に1枚のサントドミンゴ銅銭(Santo Domingo)が発見された経緯がある。85年は調査は行われていない。86年に発掘調査は完了する。
カーヨヌ工ボ(Cayo Nuevo)海底遺跡(図4)
この遺跡はユカタン半島カンペーチェ(Campeche)の北西約160m沖のメキシコ湾の珊瑚礁の浅瀬にある。この遺跡は1979年に発見され、青銅製大砲3門、錨が引き揚げられた。その大砲の一つからは遺跡の年代決定の手がかりとなる15□2(□は5の可能性が大きい)の年号が見つかっている。1981年にはINAを中心として調査が始まり、磁気探知機を使って遺跡の状況を確認し、その結果3カ所に遺物の堆積を確認した。エアーリフトを使った試掘がCN(Cayo Nuevo)1地点で行われ、バラスト、青銅製・鉄製大砲、象牙製品、真鍮のピン・蝋燭立て、赤色の陶器が出土した。CN2地点ではスコットランドのキャロン(Carron)社製の1774〜75年製造の大砲が出土しており、CN1とCN2は同じ遺跡ではなく複合遺跡である可能性が考えられる。82〜83年引き続き調査は続けられた。
バーハムヘレス(Bahia Mujeres)海底遺跡(図5)
この遺跡はユカタン半島の東端沖のユカタン海峡で1958年に地元の漁師によって発見され、60〜61年にはメキシコのダイビングクラブ(CEDAM)が大砲や錨を引き揚げている。遺跡は引き揚げられた遺物や海底の遺物写真状況から15世紀後期〜16世紀初期のスペインのカラベル船の沈没が想定できるものであった。1984年には遺跡の正確な位置や遺物確認の再調査が行われ、約20mにわたりバラストの堆積が確認された。
ハイボーンケイ(Highborn Cay)海底遺跡(図6)
この遺跡は大バハマ諸島の北方に位置するエグマ(Exuma)群島の一つにある。ハイポーンケイ島北端沖の海底約7mで1965年にアマチュアダイバーによって堆積したバラスト(12×5m、厚さ2m)、石灰質の殻に覆われた大砲等が発見された。翌年の66年と67年にはバハマ政府より発掘許可を得た彼らによって大砲、砲弾、その他の金属品が引き揚げられ、錨も発見された。これらは調査の結果16世紀に属する遺物であることが判明した。1983年にはINAによる再調査が正確な遺跡の確認から始まり、バラストの両端部を取り除く作業を行った結果その下から沈没船の竜骨を含む船体の船首と船尾の部材が確認された。86年には遺構調査区全体にグリッド(2×2m)を設定し、残存する船体の発掘調査、さらに中央部にトレンチを新設して船の主マストのほぞの付いた部材の比較的良好な資料が得られた。
ケイマン(Cayman)海底遺跡群(図7)
この遺跡はいくつかの遺跡から成り立ち、複数の島で発見されている。複数の島はキューバの南232km、ジャマイカの北西222kmのカリブ海のほぼ中央に位置して、ケイマン群島を形成している。この地域ではスペインの陶器、錨、青銅製の大砲等が海底から出土している。この群島では海底遺跡約70カ所で船体や船に関する遺物の存在が確認されている。
リトルケイマン(Little Cayman)島では1979年に海底遺跡(Turtle Wreck)の確認調査が行われ、海亀の漁で栄えた島は、それに関連する遺跡の存在が予想された。島の南側の浅瀬の入江の海底で17世紀に比定できる沈船の船体の一部がバラストに混じって出土した。
グランドケイマン(Grand Cayman)島では1980年に周辺の海底遺跡の分布調査を行い24カ所の地点で沈没船の船体の一部や遺物が確認されている。
アイスラセリトス(Isla Cerritos)遺跡(図8)
この遺跡はユカタン半島の北東端の沖に約500m、周囲約600mの無人島である。しかしB.C.100〜A.D.1200には人々が住んでいた。まわりの浅い海には石組遺構が島の南側に約330mの長さにわたって構築されている。1984,85年にメキシコの学者によって調査され、人工的な港の防波堤の役目をしていると考えられている。
A−3.南アメリカ大陸地域
ジェラム(Jhelum)遺跡
これは東インド会社所有の商船(長さ約36m、重量428t)で、1849年リバプールで建造され、1870年フォークランド(Falkland)諸島のポート・スタンレーの港に係留され、港に廃棄された。1983年にはこのジェラム号の調査が行われている。良質な材料を使用した木造の船体は百数十年たった今でも比較的良好な状態である。
B・ヨーロッパ地域
B−1.北欧地域
(1)スウェーデン
クロナン(Kronan)号海底遺跡
エランド(Oland)島の東海岸約40km沖、深さ26mの海底で発見されたスウェーデン王国の旗艦で、1676年にデンマークとの戦闘の結果沈没した。この船は全長約60mである。1980年には遺存状況の確認調査が行われ、81年から発掘調査が始まり、4t程の大砲の引き揚げが行われた。その中にはデンマーク製の物も含まれている。83年には海底にグリッドを設置し、84年にはテスト・トレンチを遺構上に設け、89年まで発掘調査が継続されている。船体の残存状態は全体的に良好ではない。
オスカースハムンコグ(Oskarshamn Cog)遺跡
この沈没船(Cog)はボオスホルメン島の近くで、地域住民によって1964年既に海岸近くまで引き揚げられていた。1984年に写真によって再確認され、85年には本格調査が始まった。調査はさらに86〜89年まで続き、その間87年にはこの船は海から引き揚げられている。年輪による年代測定では1250年頃の年代が与えられている。
ティングトレードトラスク(Tingstrade Trask)湖底遺跡
この遺跡はバルト海に位置するゴトランド(Gotland)島で見つかった木製枠組構築物遺跡である。所謂ブルバーケット(Bulverket)と呼ばれ、1921〜36年にかけて初めて調査され、1986年から再調査が行われている。12世紀前半のスカンジナヴィアのバイキング時代の終末期にあたる遺構である。
エリックノルデエウォール(Eric Nordewall)号湖底遺跡
この遺跡はベッテルン(Vattern)湖の水深45mの湖底で出土した初期蒸汽船の遺構である。船体中央部の両舷側に付けられたパドル車輪で推進する全長45.7mの船である。湖はバルト海とカテガット海峡を結んでいるイエータ(Gota)運河(1832)のほぼ中央部に造られた人工湖である。エリック・ノルデエウォール号は1836年に建造され1856年に沈没した。1980年に沈没の位置が確認され、1986年にはスウェーデン海洋博物館(Swedish National Maritime Museum)による調査が始められた。この調査の最終目的はこの沈没船を引き揚げ、保存処理をし、修復して永久展示することである。
(2)デンマーク
この国の水中遺跡調査活動の歴史は古く、初めての本格的調査は1864年に始まる。ショレスウイッグ(Schleswig)のニーダム(Nydam)で発見された紀元350〜400年頃の船で、考古学者によって発掘調査された船は復元されて、博物館に展示されている。その後1921年にアラス(AIs)島のハイジョルトスプリング(Hjortspring)で出土した鉄器時代初頭(前350〜300年)の小型船の発掘調査がある。この国では歴史的な経緯からバイキング時代の船の遺構に最も関心が深いのは当然といえよう。
(3)ノルウェー
この国の水中遺跡調査はデンマークと同様バイキング時代の船の遺構の発見に関心が深い。それらの遺構はゴタスタッド(Gokstad)、オーセバーグ(Oseberg)、オスロフィヨルド(Oslofjord)、カルメイ(Karmoy)、カバルサンド(Kvalsund)、テューン(Tune)等から出土した。船が埋葬施設として使用されているために遺存状態が良好である。
B−2.東欧地域
この地域に関する新しい資料がないために詳細な水中調査活動を述べることはできない。しかし水中考古学による発掘調査よりも、偶然に遺構や遺物が発見される例が数多い。とくにロシアでは水中考古学への関心は1930年代に黒海を中心としてすでに始まっている。第二次世界大戦後、潜水器具の急速な発達はロシアの水中考古学の活動にもその影響をもたらした。1950〜60年代の黒海沿岸沿いの古代ギリシャ植民都市の発掘調査は組織的に行われた。ギリシャ植民地活動では母市からの移住による植民地建設が良港を中心とした選地にあった。そのため海進により海岸線が後退し、これらの植民都市が海底に沈む結果となった。湖沼の調査も行われ、イッシククル湖の集落跡などに組織的な水中発掘調査が行われた。
B−3.西欧地域
(1)フランス
フランスが戦後、水中遺跡調査の先駆者として果たした役割は大きい。それは水中機器の開発に重要な貢献をしているからである。地中海を中心に水中活動を拡大しているが、中でも1952年に調査されたグランコングルエ(Grand Congloue)海底遺跡は地中海の水中遺跡調査の先駆けであり、海底遺跡に対して総合的・科学的に考古学的手続きを踏まえた発掘調査として評価されるべきものである。このことが後年になって遺跡の復元を行うことを可能にした。また遺跡の再検討は再び新しい発見をすることになる。それは異なる年代に属する2隻の沈没船が海底で互いに上下に重なりあった状態で検出されていた遺構である。2隻の沈没船遺構は所謂複合遺跡といえよう。フランスの水中遺跡の調査を次の2地域に分けて概観することとする。@国の西側に広がるイギリス海峡・ビスケー湾における調査、A地中海における調査。地中海の水中遺跡調査はここでは説明せず、地中海地域の(2)イタリア・フランス及び西地中海地域で述べることにする。
メイドストーン(Maidstone)号海底遺跡
この遺跡はブリタニア、ビスケー湾に面したノアールムーチェ(Moirmoutier)島の海底で検出されたイギリス籍のメイドストーン号(1747)の遺構である。カリブ海からフランスへ帰航中のフランスの商船軍団に攻撃を仕掛け、フランス海軍のドロメデール(Dromedair)号を捕捉するための操船を行い、誤って座礁し沈没した。1980〜85年にかけて発掘調査が行われた。
アーバーラック(Aber Wrac'h)海底遺跡
この遺跡はブルターニュのイギリス海峡に面した半島の先端、ブレスト(Brest)の町から北へ30kmのアーバーラック川の河口、水深8〜15mの海底で出土した沈没船の遺構である。この遺構は1985年に発見され、沈没船であることが確認された。1986年に本格的発掘調査が始まり、87〜89年に調査が行われ、その後も調査は継続している。遺構は長さ20m、幅6mである。この遺構にともなう出土遺物は少ない。そのうち銀貨8枚(イベリア銀貨6枚、ブリトン銀貨2枚)が船の床部材の上で検出された。ブリトン銀貨は1399〜1442年に鋳造された。土器はブリタニア地方のセイントジェンラポテール(Saint Jean La Poterie)の窯で作られたもので、16世紀頃までブリタニア地方でみられるものである。ブリトンの記録には、この地の海域でイギリスの商船が1435年に遭難、沈没したことが記されている。
バッセーデカン(Bassesde Can)海底遺跡
この遺跡は南フランスのバッセーデカンの水深80〜90mの海底で発見された。1988年の調査では海底からアンフォラが出土している。
ベナー(Benat)海底遺跡
この遺跡は南フランスのベナーの水深328mの海底で発見された。1987年の調査ではこの海底から前2世紀に属するアンフォラが出土している。
(2)ドイツ
ドイツの水中遺跡に関しては、まず国土の地理的な環境を考えなければならない。ドイツの国土で海に接している地域はわずかしかない。そのわずかな地域はデンマークの北に延びる半島を挟んで東西に海岸線が続く。東はバルト海沿岸、直線にして約200km、西は北海に面していて約160kmである。このような環境のため、水中遺跡調査は河川、湖沼、運河に限られてくる。しかしドイツの考古学や海洋研究機関は、地中海海域(ギリシア、イタリア)での沈没船や港湾都市の海底調査を積極的に行っている。
オーベルシュタイン(Oberstoin)川底遺跡
この遺跡はラインランド地方のライン川に流れ込むナーエ(Nahe)川で出土した1〜2世紀に比定できる軍事用の船である。遺跡からは2隻の船の遺構が検出され、1988年に発掘調査が行われている。船体の造船法としては所謂pegged motice-and-tenon jointsが採用されている。地中海で広く採用されている造船技術のひとつである。
(3)オランダ
オランダの国土は海より低く国土の拡大は浅い海を干拓せざるをえなかった。この干拓工事に伴う付近の海底からの沈没船の発見の記録は古くから残っている。1822年に中世の軍船がコーネリウスとガリヴィマンス(Carnelius and Glivimans)によって発掘されている。オランダでは1940年代にズイーダージー(Zuyder Zee)のドライ化が始まり、この時に12〜20世紀に比定できる小型〜中型船(Duch Ferr)の遺構が350以上の地点で発見されている。1980年代に入ると開発にともなう水中遺跡の破壊という現代が抱える緊急を要する重要な問題が生じている。最近のロッテルダム港の港湾施設の充実、規模の拡大計画・開発工事にともなう海底遺跡の破壊という状況がここで起きている。いわゆる「開発による遺跡の破壊か保存か」なのである。海底遺跡はライン川の河口、サルフター(slufter)地区のデルタ地帯での浚渫時に遺物や沈没船の遺構が海底で相次いで発見されている。この地帯の海底はシルト層(fluvio-marine deltaic sediments)が水深21mまでかなりの厚さで堆積している。水深21mで前フランダース陸地の上面に相当する所謂“ベルセン層”(Layer of Velsen)が出現する。この海底を水深28mまで下げる工事が現在進行している。海底の堆積層の中から中石器時代の遺物が発見された地点は3カ所、19世紀以前の沈没船の遺構は4カ所である。その内1隻は船体の構造から伝統的なオランダ船、スマク(Smak)級の船で、年輪年代(Dendrochronology)によると使用された船の部材に1796年という年代が示された。19世紀以後の沈没船の遺構は5カ所の海底の堆積層の中から検出されている。オランダの水中遺跡については、とくに沈没船の海底遺跡を挙げなければならない。しかしこれら海底遺跡は国内に存在しているのではなく国外にある。それらは彼らの経済活動の歴史を海底で証明する物的証拠である。海上活動を証明するものはオランダ東インド会社である。
オランダ東インド会社(Verenigde Oustindische Compagnie)は1602年に設立され、1799年にその活動を終える。その間約1,700隻が建造され、その内246隻が失われ、105隻は目的地に到着する途中に遭難し、246隻は帰路の途中に遭難にあっている。オランダ東インド会社(VOC)の船舶は遭難した246隻のうち27隻がイギリスの領海内で沈没している。その内これまでに調査された沈没船は9隻にのぼる。内訳はイングランド島の南のイギリス海峡で6隻が沈没し、その内4隻(Campen1627;Prenses Maria1686;Hollandia1743;Amsterdam1749)が調査されている。イギリス北端にあるシェットランド島、ヘブリデース島で遭難し、これまでに調査された沈没船の5隻(Haan1640;Lastdrager1653;Kennemerland1664;DeLiefde1711;Adelaar1728)を沈没時期とその時代の歴史的背景を考慮すると、沈没原因はオランダとイギリスの両国の国際関係に起因していると思われる。つまり両国の関係が悪化するのは第1次英蘭戦争(1652〜54)で、これはイギリス公海法(English Navigation Act 1651)が原因である。さらに、第2次英蘭戦争(1665〜67)、オランダ仏英戦争(1672〜78)によって、オランダ船のインドへの航路は、アムステルダム港を出航し、進路を直ちに南にとりそのままドーバー海峡やイギリス海峡を通過するのではなく、イングランド島の北を迂回する航路をとっている。
ベヒテン(Vochton)川底遺跡
この遺跡はユトレヒト(Utrecht)近くで1988年に出土した沈没船で1世紀頃に比定できる。
ツワマーダム(Zwammerdam)川底遺跡
この遺跡はツワマーダムで出土した沈没船の遺構である。1988年に発掘調査が行われている。遺構の年代については今のところ不明である。
アルメール(Almere)遺跡
この遺跡はアルメールの町で1988年に出土した15世紀頃の小型船(Cog)といわれたもので、INAとオランダのケテルハーベンにあるオランダ船舶考古学博物館(Dutch Museum for Ship Archaeology)との共同調査である。
(4)スイス
スイスでは湖沼上に丸木の杭を打ち込みその上に建物を建て、集落を形成する。いわゆる「湖上住居跡」が数多くチューリッヒ湖、ヌーシャテル湖、ファヒイコン湖から発見されている。これらの遺構は湖の水面が低下したおり発掘調査が行われたり、あるいは漁師の網に偶然にこれらの遺構に関連する遺物が引き揚げられたりして、これまで調査が行われてきた。最近は水中機材の発達(ドライスーツ、フーカー潜水で長時間の水中調査が可能)により厳冬の気象条件(湖水の凍結が水面を低下させ水深が浅くなることや湖水の透明度がよくなる)を利用した発掘調査が行われている。
B−4.イギリス地域
イギリスでは水中遺跡文化財保護法(Protection of Wrecks Act)が1973年から施行された。1989年までにこの法律により指定されたいわゆる周知の遺跡は34件に達している。マリー・ローズ号はこの最初の年に指定された遺跡である。水中考古学が世界的にその高まりを始めた1960年代から70年代に入り水中遺跡の発掘調査という学問的関心と共に水中文化財を保護する必要性が説かれ始めた。この地球的規模の動きのなかでイギリスは早くから水中考古学への強い関心があり、その学問の歴史も古く、ヘルメット式潜水器によるスコットランド地方の湖底遺跡の調査は20世紀初頭にはすでにこの国で始まっている。その時以来水中文化遺産への人々の関心はこれらの遺跡をどのように専門的学問領域で解明するかであった。一方水中遺跡は湖を含め国を取り巻く海岸地帯で多くの沈没船が文献的にあるいは実際の調査で確認されている。その中でも、最大の関心事はイギリス東インド会社所有の沈没船である。イギリス東インド会社(English East India Company,[EEIC])は設立後、その活動を終了するまでに約200〜220隻の船舶を遭難で失っている。その内イギリス領海内で沈没し、これまで調査の行われた船は7隻である。これら全てイギリス南部の海岸地域で行われている。この事実からこれらの船がロンドンあるいはポーツマス港を母港として航行していたことがうかがえると共にインド方面への航路も推定できよう。その他スウェーデンの東インド会社の船は2隻がイギリス領海で沈没し、すでに調査が行われている。デンマークは1隻が沈み、その調査が既に行われている。またこの海域で沈没したオランダ船27隻のうち9隻が何らかの形ですでに調査されている。
(1)イギリス
オークパン(Oakbank)湖底遺跡
この遺跡はロックタイ(Loch Tay)湖で検出された遺跡である。この遺跡はいわゆるクランノグ(crannog)と言われる人工島遺跡である。このクランノグは石組の遺構で、この石組の上に住居をつくり生活した遺跡である。この遺跡は1980〜90年にかけて調査が行われていて、ヨーロッパの青銅器時代に属するものである。この湖では18カ所でクランノグが確認されている。
ロックバラブハット(Loch Bharabhat)湖底遺跡
この遺跡はスコットランドのルイス(Lewis)湖で検出された遺跡で、1985〜90年にかけて調査された。ヨーロッパ鉄器時代のクランノグ遺跡である。このルイス湖には多くの人工島が存在しており、そのほとんどが鉄器時代に属する。1984年にこの湖の人工島の調査が始まり、これまですでに24カ所で遺構の存在が確認されている。
アムステルダム(Amsterdam)号海底遺跡
この遺跡はヘースチングンの海岸で発見されたオランダ東インド会社(VOC)の船で1749年にこの地で遭難し、沈没した。1984年から調査が行われている。
クラインノグファウル(Clynnog Fawr)海底遺跡
この遺跡は北ウエールズ地方のカーナフォン(Carnarfon)湾で発見された石組の構築物で、13世紀初頭の魚を集めて捕る仕掛の梁で、1988〜89年に調査されている。
ケンナマーランド(Kennomorland)号海底遺跡
この遺跡はシェトランド(Shetland)島のアウトスケリース(Outskerries)沖で1664年に沈没したオランダ東インド会社(VOC)の船で、アムステルダムからインドネシアのバタビアに向けて航行途中に遭難した。1984、87、88年に調査が行われている。
ヤーモー卜ロード(Yarmout Roads)海底遺跡
この遺跡はワイト(Wight)島、ヤーモスの沖約250m北側で1984年に沈船が発見され、本格的な調査は1986年から始まっている。調査の結果、この沈船の年代が16世紀初頭〜半頃に比定できることが判明し、陶磁器、鉛の水差し等の遺物も引き揚げられている。
アルビオン(Albion)号海底遺跡
この遺跡はテームズ川河口に位置し、1765年に沈没したイギリス東インド会社(EEIC)の船で、17mの砂質の海底で検出されている。1985−87年にかけて調査が行われた。
サクソン(Saxon)河川遺跡
テームズ川の支流リヴェアリー川のクラファンの西側川岸の地表下6mで発見された丸木船である。1987年に調査が行われ、年論測定で950〜1000年の年代が与えられている。
アールオブアバーゲイブニー(Earl of Abergavenny)号海底遺跡
この遺跡は1805年にイギリス海峡のウェイマス(Weymouth)湾で沈没したイギリス東インド会社(EEIC)の船である。第5次のインドへ向かっての航海を始めた矢先の遭難である。この船は同じ船名を持つ2代目の船である。沈没船の遺構は海岸から沖2.5mの水深18mの海底で、砂質の浅瀬になった場所で検出された。積載物資は2年後の1807年までにほぼ回収された。1950年代後半に遺構が発見され、1960年代は回収業者による船体の部材引き挙げ後の売却、さらにスポーツダイバー用の沈没船として、遺跡は破壊されていた。1979年になり科学的な水中調査がこの遺構で始まり、1980年から遺構の現状況の調査から始まり90年以降も調査は続いている。
カルデコットキャスル(Caldicot Castle)湖底遺跡
この遺跡はウエールズ地方、ネダーン(Nedern)川の河口に1988年に人工湖を造るときに発見された青銅器時代の遺構・遺物である。1990年には船板が完形ではないが、出土している。長さ3.55m、幅0.65m、厚さ0.6cmを測る。C14の年代測定によると約2800年B.P.が与えられた。
マリーローズ(Mary Rose)号海底遺跡
この遺跡は英国で1973年に施行された水中の文化財保護法(Protection of Wrecks Acts)により最初に指定された沈没船遺構である。ヘンリー8世の旗艦でポーツマス港の沖のソレント海峡でフランスとの戦闘中に操船の誤操作で1545年に沈没した。船体は1836年にジョン・デーンとウイリアム・エドワードによって部分的な引き揚げ作業が行われた。1960年代になって再び沈没船の位置が確認され、新たにこの沈没船の発掘調査が具体化し、引き揚げの全面的な調査が1979年に始まり82年に終了した。船体の上部構造は欠損しているが、左舷側を下にして沈んでいた為、左舷の2/3が残存していた。遺構の実測には3点のデータポイントを設置し、その地点からのテープによる直接実測方法(Direct Survey Method[DSM])を採用し、コンピューターの座標軸の上に誤差を修正して、その位置を正確に落とす実測を行った。この方法は水中の透明度の悪い環境ではより効果的で、実測は簡単、時間的にも節約できる長所がある。この方法はバーミューダでのシーベンチャー(Sea Venture)号、オランダ東インド会社(VOC)所有アムステルダム(Amsterdam)号の発掘調査でも採用された。
インヴィンシブル(Invincible)号海底遺跡
この遺跡は1758年にソレント(Solent)のホーステイル(Horse Tail)で沈んだ船である。英国の文化財保護法の第2番目に指定された沈没船遺構である。フランス海軍の船として建造され、1747年フィニスター(Finisterre)の海戦で共国に破れ、それ以来英国所有に変わった。1980年より調査が始まった。
ハーザーダウス(Hazardous)号海底遺跡
この遺跡はブラックルシャム(Blacklesham)湾の南東約800mの水深7m程の海底の砂質底にあるハーザーダウス号の沈没船の遺構である。潮の流れの速い海底である。1966年に地元の漁師によって発見された。しかし沈没船の正確な位置は1976年まで確認されず、その後チチェスター水中クラブ(Chichester Sub-aqua Club)のアマチュアダイバー団体組織により77年に初めて確認調査が行われた。1979〜84年にかけて定期的に発掘調査が行われ、磁気探知機を用いての遺構の範囲や状況が調査された。1986年には本格的な発掘調査組織がつくられ、沈没船保護法(Pretection of Wrecks Act)にもとづいての調査手続きがとられ、「周知の遺跡」として、この遺構の発掘調査が行われている。さらに87年以降も発掘調査は続けられている。この船は1698年にフランスの軍艦として建造され1703年にイギリスとの海戦の戦利品としてイギリス軍に渡り、イギリス船籍としてアメリカの植民地へ向けて出航、その途中1706年11月にこの地で座礁し、沈没した。
アムステルダム(Amstordam)号海底遺跡
この遺跡はイギリス、ドーバー海峡に面したヘースチングス(Hastings)の町から西のブルバーハイスの海岸で座礁し、沈没したオランダ東インド会社のアムステルダム号(1749)の遺構である。船は1741年に制定された船の新しい規格にしたがって「150ft船」として1748年に建造された。最初のインドへの航海にアムステルダムを出航して間もなくこの遭難事故に遭った。遺構は約6mの砂質の海底に埋没した状態で検出された。遺構付近の環境は平坦な海底を呈し、ほとんど岩礁らしき物はない。海岸汀線(最高高潮面)から約300mの沖に遺構はあり、潮の干満の差は6mにも達する。水中の透明度は良くない。春の季節に潮位が最も下がるわずかな期間だけ残存する最上部の部材が船体の輪郭状に少し浮かび上がり、わずかにその船体の全容がうかがえる。この遺構は1969年に再発見された。その間この遺構からの遺物はかなりの規模で盗掘を受けていた。1975年になりアムステルダム文化・市政省(Ministry of Culture and the Minicipality of Amsterdam)の援助で船体の発掘調査、引き揚げ、保存復元、アムステルダムの博物館に特別展示をすることを目的としたアムステルダム号財団(Stichting VOC Ship Amsterdam)が設立され、発掘には初め遺構のドライ方式が計画されたが、船体の環境を急激に変えない、部材の良好な遺存状態を保存するという視点から採用されなかった。1983年に財団はイギリス・オランダ合同の考古学者、ダイバーからなる調査協力体制を確立し、1984年にこの遺構に最初の発掘調査がはいった。さらに1985年、86年と続いた。船体は長さ50m、幅12m、高さ6mが残存する。船体を潮の干満、波の影響から保護すること、さらに遺構全体に堆積している覆土を取り除くと遺構内部が外圧の増大により遺構自体が崩壊することを防ぐために周りに矢板を打ち込み船尾から20mを囲い、遺構のすぐ近くに作業台を設営する。さらにこの発掘調査の目的には教育的な要素も含まれている。考古学専攻の学生には水中考古学の知識・技術の習得、アマチュアダイバレには海底発掘調査を体験学習として開放していることである。実測にはマリーローズ号で採用された直接実測方法(DSM)がこの遺構の発掘にも使われている。(DSM)の基準点(datum point)を矢板に渡した幾つかの横板に設置し、3点測量を行い、それと同時に測点のレベルをだす。これらのデータは全てコンピューターに入れられ、立体的な位置として確立する。
(2)アイルランド
ロウキナール(Lough Kinale)湖底遺跡
この遺跡は所謂クランノグで、湖岸から20m、深さ2mの場所に構築された人工的な島で、祭祀遺跡である。1986〜87年にかけて調査され、出土した青銅製品は8世紀頃に比定できる。
C.地中海地域
地中海は「考古学」が新しい専門領域の学問として「水中考古学」を進めて行くうえで、重要な役割を果たしたといえる。海を取り巻く環境はこの新しい学問に極めて積極的に援護した。その環境とは、(1)水中活動を飛躍的に容易にした水中機器の目覚ましい開発が、フランスのジャック・イブ・クストーを中心にして進められたこと。(2)この地域の水没した遺跡を考古学的方法で解明しようとする様々な学問分野の研究者に恵まれていたということ。(3)西洋文明の揺籃の地であること。このような状況でみていくと、地中海に面している国々の学問としての水中考古学の興味は歴史的あるいは経済的な背景や遺跡自体のあり方を考慮に入れるとその対応にも隔たりがあると言える。ギリシアでは1976年に水中古代局(Department of Underwater Antiquities)が発足して70年代後半以降水中遺跡とくに海底の調査にその関心を示してきた。ギリシアには過去の経緯から海底より引き揚げられた古典時代・ヘレニズム時代の彫像の出土例が少なからずある。ここでは地中海地域を東西2地域に便宜上分けて述べることにする。(1)ギリシア・トルコ及び東地中海地域、(2)イタリア・フランス及び西地中海地域、とする。
C−1.ギリシア・トルコ及び東地中海地域
ヤシアダ(Yassi Ada)海底遺跡T(図1)
この遺跡はボドラムのある半島の最西端とギリシア領プセリモス島(Pserimos)間の海峡に集まっている小島群にある。付近の海底遺跡から、かなりの数の沈没船が見つかっていることからもこの地域が船の航海にとって決して安全に通過できる環境になかったと考えることができる。この遺跡にも@とAの沈没船の遺構があるように複合遺跡である。
@4世紀ローマ/ビザンチン沈没船、A7世紀ビザンチン沈没船は地中海北東地域に起源をもつ全長20mの商船で、625年頃コス島の北、小アジア西海岸の沖の浅瀬で遭難したのである。船体は引き揚げられ、部材のPEG処理が終わり、船体の復元作業がボドラムの博物館(Bodrum Museum of Underwater Archaeology)で続けられている。出土したアンフォラはこれまで考えられていたこととは異なり再利用されていたことが確認された。
ヤシアダ(Yass Ada)海底遺跡U(図2)
この遺跡は複合遺跡で、39〜42mの深さにある。16世紀のオスマントルコ帝国の沈没船の船首がより古いもう一隻の沈没船の船尾に乗り上げ、一部が重なり合った状況で遺構が検出された。この遺跡は1967年に偶然に発見され、第一次発掘調査は82年からはINAによって行われ、この年は船体の左舷側の実測と引き揚げ、83年は右舷側の調査を行っている。2×2mのグリッドを用いた実測、ステレオ写真撮影が海底の遺構、遺物の記録作業を正確かつ迅速に行うために採用された。船体の規模は21〜23m、幅約7mである。この遺構から出土した1枚の銀貨はスペインのフイリップ2世の統治していた1566〜89年に鋳造されたものであった。
セルスリーマニ(Serce Limani)海底遺跡群(図3)
@この遺跡はロードス島の北西に面したトルコ南西部のエーゲ海に突き出た半島の南側に位置している。この遺跡から出土した多量の遺物はイスラム系ガラスである。出土遺物のなかにはファティマ朝の度量貨幣として用いられたガラス製の錘ディスクにより11世紀初期(1024/25あるいは1021/22)の年代が与えられている。この遺跡はいわゆる“ガラス沈没船”(Grass Wreck)と呼ばれる商船の遺構で、1973年にINAの地中海地域の海底遺跡分布調査によって発見され、1977年から33mの深さでの調査が始まり、79年まで発掘調査は続いた。その後引き揚げられた船体はボドルム博物館に搬入され、そこでPEGによる保存処理が行われた後、復元作業が行われた。復元作業も1987年には終了した。この遺構より出土した100万個のガラス破片が整理され、その内500個体は接合復元され、それらの器形も200以上に達した。
Aこの遺跡は“ガラス沈没船”の近くで1973年に35mの海底で確認された。ヘレニズム時代(紀元前3世紀)の沈没船の積載品のアンフォラ等が出土している。1978年から本格的な調査が行われ、81年には終了している。
Bこの遺跡はセルスリーマニ海底遺跡から約35km離れた沖合70mの海底25〜36mで1984年に発見された。10〜11世紀に比定できる沈没船(部材の一部)とその積載品(ガラス製品)、その他の遺物が確認されている。
青銅器時代(Bronze Age)海底遺跡(図4)
トルコ南部小都市カシュ(Kash)沖のウルブルン(Ulu Burun)の入江の海底45〜51mで検出された後期青銅器時代(紀元前14世紀)の船体の一部とその積載品をともなった遺跡である。1982年に地元のスポンジをとるダイバーによって発見されていた遺物で、遺跡確認のサンプルとして銅インゴット(“oxhide”ingot)1点を引さ揚げた。83年からINAによって本格的な調査が始まった。84年は遺跡の25%が調査され、船の竜骨や船の部材を検出した。遺物としては銅インゴット、カナン系のアンフォラ、土器、金、銀、琥珀、ファイアンス製装飾品、象牙材料、青銅製武器や道具類、円柱形をしたガラスのインゴット等が検出された。85年、86年の発掘調査は42〜53mの遺跡の深い地域での遺物の検出、87年は遺跡の最西端に近い斜面になった調査区や中央部での発掘調査であった。前者の区域からは銅インゴット、船のバラスト、鉛の錘、壷、後者の区域からは銅インゴット、碇石、ガラスのインゴット、土器類が出土した。88年は遺跡全体の遺物配置図の作成をした。
ゲリドニア(Gelidonya)海底遺跡(図5)
この遺跡はゲリドニア岬で発見された。沈没船の遺構とその船にともなう積載品である。1960年にジョージ・バスらによって発掘調査された。1988年の調査は、60年の発掘調査で未解決になっていた問題(遺構を潰している状態にあった大きい岩が船の沈没する以前から存在したかどうか)の解明を目的とし、また遺跡全体を再度精査することにあった。小型の金属探知器を使用して若干の遺物を引き揚げている。
キレニヤ(Kyronia)海底遺跡(図6)
この遺跡はキプロス島北西海岸のキレニヤ沖で発見された船体の遺構である。紀元前4世紀に比定できる遺構である。沈船は引き揚げられ、復元された。この復元船を元にレプリカ船「キレニヤU号」が作られている。
イスカンデリバーヌ(Iskandil Burnu)海底遺跡群(図7)
@この遺跡は1973年にトルコの南西のダトチャ(Datca)半島の先端に近い海底25〜35mにアンフォラが堆積したマウンドが発見された。砂質の海底には沈船の船体が死存する可能性をもたせた。1982〜84年の3回にわたる写真撮影、遺物の実測の結果引き揚げた。出土した遺物には少量のアンフォラがある。これらのアンフォラはクニドスで造られていて、把手のスタンプでそれが確認された。その他に鍋、水注、皿が出土し、これらは東地中海パレスチナ地方の土器と比較できるもので、6世紀の後期に比定できる。
Aこの遺跡は1973年にトルコ南西のダトチャ(Datca)半島先端より少し北側にまわりこんだ入江の海底3〜15mで発見され、1982年に再調査があり年代決定のため、アンフォラが数個体引き揚げられた。遺構は潮流のため残存状態は良くない。1987年の調査では海底37mの地点で残存状態の良好なアンフォラを発見し引き揚げている。
クニドス(Knidos)海底遺跡(図8)
この遺跡はダトチャ(Datca)半島の先端の町クニドス沖32mの海底で1984年発見された。アンフォラが十数個体引き揚げられ、形式から判断するとビザンチン後期時代に属するものと考えられる。
ボドラム(Bodrum)海底遺跡群(図9)
この遺跡は半島の北側の海岸沖35mの海底で1984年にコス島製造のアンフォラの破片が引き揚げられている。前1世紀のローマ時代の小型船の遺構の可能性がある。
マルマラ(Marmara)海底遺跡(図10)
@この遺跡はトルコの西北部にあるマルマラ海の海底6〜8mで1984年に発見された。引き揚げられた遺物にはビザンチン時代の屋根瓦、うわ薬が施された土器などがある。その他に沈船の可能性もある遺跡である。この他マルマラ海域では6カ所の海底遺跡で遺物の発見がある。
Aこの遺跡もマルマラ海の海底14〜17m、沖合約30mで1984年に前4世紀半頃のキオス島製造やビザンチン時代の土器と共にアンフォラが比較的多量に出土した。沈没船の可能性のあった遺跡であったが、遺構の破壊が著しく、沈没船の確認は不可能。
ダトチャ(Datca)海底遺跡(図11)
この遺跡はダトチャ半島南岸と南にあるシミ(Simi)島に挟まれた海域にある。遺跡自体1973年に発見され、1987年に再確認調査が行われた。海底約50mの深さでアンフオラが確認された。沈没船の遺存状態は海底が軟らかいシルト層であるため非常に良好であると予想される。アンフォラの年代は7〜8世紀に属すると考えられる。
ゴコバ(Gokova)海底遺跡(図12)
この遺跡は1973年に発見され、1987年に再調査が行われた。ボドラムから沿岸沿いに東へ約20kmの海底10〜15mにロードス島生産のアンフォラの破片が出土した。この遺物の年代は前3〜2世紀に比定できる。沈没船の船体が残存する可能性がある。
セリホス(Sorifos)海底遺跡(図13)
この遺跡は1985年にキクラデス諸島のセリホス島南東にあるレヴァデイ湾の海底12mでアンフォラが発見された。出土した遺物からヘレニズム時代(前250〜225年)に比定できる。さらに海底25〜32mに他のアンフォラの堆積した地点が確認できた。この遺跡では沈没船は今のところ確認されていない。
アギオスイオアニテオロゴス(Agios Ioannis Theologos)海底遺跡(図14)
この遺跡は1985年にギリシア本島フィティオテス(Phthiotis)のアトランテ(Atalante)湾に臨む場所にアギオスイオアニテオロゴス漁村で沖約750mの海底20mで発見された。アンフォラが約50個程、鉄製(Y字形)の錨2本と共に検出された。この錨はセルスリーマニ海底遺跡より出土した錨と比較でき、年代も11〜12世紀に属するものである。
カマラキ(Kamaraki)港湾都市海底遺跡(図15)
この遺跡はアッテカ北東地方のオロボス(Oropou)の東5kmにあり湾を隔ててエウボイア島があり、古代はデルフィニオン(Delphinion)といわれたところである。遺跡は港の建造物である。1988年に調査が行われた。ヘレニズム時代の遺跡で紀元前2世紀頃と考えられる。
カボヴォデイ(Kavo Vodi)海底遺跡(図16)
この遺跡は1988年ロードス(Rhodes)島の北端の町ロードスから約10m南岸のヴォデイ岬の北側沖420mの海底23〜27mでアンフォラが発見された。その内2点が引き揚げられ前5世紀中頃キオス(Chius)島で作られたことがわかった。沈没船の可能性は少ない。
タッソス(Thasos)港湾都市海底遺跡(図17)
この遺跡はマケドニア地方のアトス半島の北東約60kmのクッソス島にある港内遺跡である。古代港の遺構で、水深1.5〜3mの海底にあり、古典期の港はその規模からしてアルカイク期の港より小さい。1984年に発掘調査が始まり、85年、87年と引き続きフランス考古学研究所との合同調査が行われた。
ピサゴリオン(Pithagorion)港湾都市海底遺跡(図18)
この遺跡はサモス(Samos)島の南東に位置している。ピサゴリオン港内の古代防波堤の遺構である。1988年に今ある防波堤を補修改築するために発掘調査が始まる。古代防波堤の構築物遺構は長さ480mである。遺構の上部は海面下2.75〜4.43m、底部は海面下14mである。遺構上面からはアンフォラ等の土器が多数出土している。
アマソス(Amathus)港湾都市海底遺跡(図19)
この遺跡はキプロス島の南岸リマソール市の東10kmに位置し、水深1〜6mの海底に石組遺構があり、海岸線を方形に港を取り囲む様に配置され、防波堤の役割を果たしている。1984年から発掘調査が始まり、85年、86年と続いた。この右組遺構には南西側の隅に20mにわたって石組遺構が存在しない箇所があり、この地点は港の入口となる所である。西側の石組は長さ130m、南側は180m、東側は145mを測る。右組の組み方には特徴があり面取りをした石灰岩のブロック(3×0.7×0.7m、重量3t以上、縦の両側面には釣り上げるための突起が削りだされている)が海底の深さにより3〜7段に積み上げられている。
ドーコス(Dhokos)海底遺跡(図20)
この遺跡はペロポネソス半島東端と沖のハイドラ(Idhra)島の間に挟まれたドーコス島の海底にある。この遺跡は1975年に32mの海底に土器片が広い範囲に散乱していることが確認されていた。89年に本格的な調査が行われたが、沈没船の船体などは確認されていない。遺物の種類や出土状況から判断すると、船体が遺存する可能性がある。遺物の実測にはステレオ写真撮影を行い、音波位置測定器(Sonic High Accuracy Ranging Positioning System〔SHARPS〕)による実測を採用した。出土した遺物の編年にはEHI−Vが与えられている。
カステロリソン(Castollorizon)港湾都市海底遺跡(図21)
この遺跡はトルコのリシア(Lycia)の海岸から15km沖にあるカステロリソン島の北側に良好な入江を持つ港町マンドラキに残存する波止場の壁や道路の遺構である。この港町は古くはメギステイ(Megisti)と呼ばれた。近くにはセルスリーマニ(Serce Limani)沈船海底遺跡があり、1982年に海底に遺構のあることが確認された。この遺跡は地球の地殻変動の影響を受けた事例として評価される。潮の干満の差はほとんどなく25cm以下である。マンドラキの入江の浅い海底では土器片・建物・道路の遺構が出土した。
ファラサルナ(phalasarna)港湾都市遺跡(図22)
この遺跡はクレタ島最西北端のコウトリ岬(Koutri)にあるリバデイ(Livadi)湾の沿岸に古典・ヘレニズム時代、B.C.約350頃に建設された港湾都市ファラサルナである。紀元後365年に地震が起き、港町の大半が土砂に埋もれた。今では海岸から100mも離れた、海抜6.6mの内陸部にある。この遺跡は1986年に発掘調査が行われた。この港湾都市は古代からしばしば記録に載り、旅行・地理学者のストラボ(strabo、10章一4:2)も記述している都市である。港は方形状に造られ、水深は少なくとも1.85mはあった。
参考資料、AJA92(1988)436−79;Hesperia59(1990)513−27
カエサリア(Caesarea)港湾都市・海底遺跡(図23)
この遺跡は東地中海、レバント海域の海岸に臨んだローマ時代の都市である。港遺構としては水没した防波堤及び沈没船がある。
@この遺跡はローマ時代ヘロデ王がパレスチナを統治(紀元前22〜10)した頃のカエサリア港湾遺構。1980〜85年に発掘調査が行われた。
Aこの遺跡はカエサリア港内で沈没したローマの商船で、海底3.5m水深に沈む。1976年に確認された遺構である。1983年に発掘調査が始まり、86年、87年、88年と発掘調査は行われた。外洋に剥出しになったこの港の地理的環境は常に海底の砂が遺構を覆うことで、調査のない間に遺構は埋まってしまう。船体は全長45m以上あり、船の部材の規模は大きく、厚さも9cm程もある。竜骨やマストを固定した部材はまだ確認されていない。部材には松の材質を使い、鉛の薄板で巻き止める方法が使われ、この技法は所謂ギリシア・ローマ式の造りである。遺物としては86年に排水ポンプ、ロープ、サイコロ等が出土した。
タントラ(Tantura)海底遺跡(図24)
この遺跡はハイファ(Haifa)から南へ20km、地中海沿岸に面したタントラとそのすぐ北側約3kmにあるテルドール(Tel Dol)の港町のほぼ中間地点にある浅い入江(Tantura Lagoon)の海底で発見された。この遺跡は1961−64年にかけて鉄砲、砲弾、大砲が引き揚げられこの地に船あるいはそれに関する遺物の存在が認められたがこれまで沈没船遺構は検出されていない。その後1976年に調査が行われた。81年には全長1.6mの青銅製の大砲が他の遺物と共に出土した。大砲の表面にはトルコの三日月と星、スルタンの画(tugra)が見られ、さらにスペインのチャールズW世のWが鋳造されていた。大砲は18世紀後半〜19世紀初頭に位置づけられる。
アトライト(Atlit)海底遺跡T(図25)
この遺跡は海底で検出した農耕集落跡である。1983年に始まったイスラエルの考古学研究所海事研究センター(Center for Maritime Studies,Institute of Archaeology)とハイファ大学海事学(Maritime Studies,Haifa University)の合同調査が地中海沿岸のカーメル(Carmel)海岸地域で行われ、複数の海底遺跡が確認され、アトライト遺跡もその一つである。この地域はパレスチナの初期農耕文化を知る上で重要な所であり、青銅器時代からの集落の発掘調査が行われてきた。このような地理的・歴史的環境のもとで、海底遺跡分布調査及び発掘調査が行われた。この結果、この地域の海底から港湾都市、沈没船、その積載品等が出土している。
ハイファの南方約13kmにアトライトヤム(Atlit-Yam)村があり、1984年にこの村の海岸から沖へ約400m、水深9〜12mの海底で紀元前8000年頃の新石器時代の住居跡群が確認され、アトライトの初期農耕社会を形成した村落がパレスチナのこの地域に存在したことが分かった。確認された海底遺跡の範囲の一部(100×300m)が発掘された。その結果、当時の海岸汀線が集落の西側300m先にあったことも判明した。この地域は当時より13.5mほど海面が上昇している。高度に発達した建物群が検出され、村の中で重要な建物には内庭があり、床を小石などで舗装している部屋も検出された。食料としたエンマ小麦、農耕具の鋤、鍬、斧、鎌、轢き臼、臼等が出土した。動物の骨には羊、ガゼル、鹿、豚、牛がある。この遺跡が新石器時代の村の様子を知る上で良好な資料を提供している。この遺跡を含む多くの海底遺跡がこの沿岸には存在している。アトライトの北にはメガディム(Megadim)、テレヘライツ(Tel Hreiz)、カファーガリム(Kfar Galim)、カファー北ガリム(Kfar Galim North)、カファーサミール(Kfar Samir)等が連なってある。
アトライト(Atlit)海底遺跡U(図26)
この遺跡から出土した遺物は1980年にアトライト沖の海底で出土した古代軍船の船首に装着するバッタリングラム(Battering Ram)である。ラムは相手の船のオールを破壊し、さらに船に衝突させ沈没させるためのもので、船首の喫水付近に装備する。古代ではギリシア、ローマ、フェニキアの軍船に採用されていた。このラムは青銅製で、船体のキールの先端部材が一部が残存して、原位置を保ち検出された。鋳造されたこのラムは長さ2.26m、幅0.83m、厚さ2cm、重量600sである。ラムの両側面にはレリーフが見られ、鋳りのある把手を持つ3本刃の短剣、7本のスポークをもった鉾、植物の冠をあしらったヘルメットがあり、後の二つの文様は「ゼウスの子供達」の意味を持つものである。さらに上部のすみにはワシの頭部をあしらっている。ラムは古代において貨幣、壁、土器、船型品、石碑、モザイク画にしばしば描かれている。年代の決めてになる共伴遺物がないため、このラムの年代決定は困難であるが、紀元前4世紀半〜終末期に遺物年代を位置づけている。C14による年代測定では400±130年B.C.という年代値が与えられている。
ニューヤム(Newe-Yam)海底遺跡(図27)
この遺跡からは石製の碇がニューヤムの沖の地中海の海底で多量に出土した。1984年から本格的な調査が始まる。船体の遺構は確認されていない。碇は中期青銅器時代(前16世紀)に比定できる。
マーガンミイカエル(Ma'agan Michaol)海底遺跡(図28)
この遺跡はイスラエル、入植地キプツのマーガンミカエル沖70mの海底で出土した紀元前約400年の船の遺構である。船体は船首を北東の方に向け横たわり、右舷船首近くに木製の錨が1989年に検出された。遺構の発掘調査は1988年に始まり89年に終了した。船体は全長13mで、右舷側の部材が良好に残存する。この船はフェニキアの商船であると考えられている。
テルナミ(Tel Nami)海底遺跡(図29)
この遺跡はテルナミの北の地中海の海底で中期〜後期青銅器時代に属する遺構である。キプロスとの関係のある資料も出土している。また石製の碇も数多く出土した。この青銅器時代の遺構の下0.7mで中期新石器時代の集落の建物の壁が波の作用によって出現して、確認された。1987〜88年発掘調査が行われている。
アルアシュケロン(Ar Ashkelon)海底遺跡(図30)
この遺跡はガザ(Gaza)の北約20kmの地中海沿岸にあるアルアシュケロンの海岸より沖約100mの海底で1988年に検出された。この遺跡からは大規模な建物の部材が出土した。これらと共に石製の碇やローマ時代に属する鉄製の碇が出土している。
ホファーカーメル(Hofha-Carmel)海底遺跡(図31)
この遺跡はハイファの南約1.5kmに位置し、地中海に面しているホファーカーメルの沖で発見された遺物である。1982年の海底調査で、この海底に調査区域(20×20m)を設定し、その小地区(6×6m)範囲を試掘調査の結果、銅インゴットが石製の碇4基をともなって検出された。インゴットは後期青銅器時代に属する。沈没船の遺構は確認されていないが、この地中海に沿った地域は自然の港となるような地形ではなく、人工的な港がないこの地域では船は嵐を避けることが困難であった。このような自然環境が海上交通の盛んであったパレスチナ沿岸に数多くの沈没船の遺構を海底に残しているといえる。
キネレット(Kinneret)湖底遺跡(図32)
この遺跡は1986年、ガリラヤ(Galilee-Kinneret)湖の西北岸のキブツ(Kibbutz)の町ギノサール(Ginosar)で発見された全長8mのポートの遺構である。86年は湖の水面が例年になく下がり、湖岸の堆積した土の中から遺構が出土した。この近くの遺跡から出土している船のモザイク画は紀元前後に比定されている。モザイクの絵にはマストが中央部近くに大きく張りだし、さらに船首が反った船が描かれている。
パトリオット(Le Patriote)号海底遺跡(図33)
この遺跡はアレキサンドリア港の沖の浅瀬に乗り上げ座礁した沈没船である。ナポレオン軍のエジプト遠征時に商船として使用され、1798年にこの地で失われた。エジプトとフランスの合同調査が1986年に行われ、黒紫檀、青銅製品、ガラスビン、大砲等が引さ揚げられた。
マレア(Marea)港湾都市遺跡(図34)
この遺跡はエジプト、アレキサンドリアの南に広がるマリュート(Maryut)湖の西へ約45kmの湖の沿岸に開けた港町である。ナイル川の流入水量の低下で湖の水位が下がり乾燥化が著しく、この都市も今では乾いた湖の湖底に存在する。この状況は水中遺跡とは言えないが、今後の気候環境に変化があれば再び水をたたえ、この遺跡は湖底に戻ることも想像可能である。マレア遺跡は1978年から調査が始まり、1980年、81年はビザンチン時代に比定できる船のドライドックの遺構が検出された。
以下の海底遺跡はトルコ沿岸海域でINAが水中遺跡分布調査を行い、遺跡確認したものである。正確な発見場所は報告されていない。
前4世紀末海底遺跡
この遺跡からは遺物のほか沈没船の部材の一部が1984年に確認される。
前4世紀後半〜3世紀初期海底遺跡
この遺跡では沈没船の部材が1984年に確認、わずかな遺物も出土する。
10〜11世紀海底遺跡
この遺跡は1984年に発見され遺物のみ確認する。
11〜12世紀海底遺跡
この遺跡は1984年に発見され遺物のみ確認する。
17〜18世紀海底遺跡T・U
@この遺跡は1984年に発見された。オスマントルコ帝国の軍船で10〜25mの海底で確認された。遺物には錨、大砲、帆の操備品がある。
Aこの遺跡は1984年に発見された。オスマントルコ帝国の軍船で20mの海底で確認された。遺物には大砲、帆の操備品、その他生活必需品が出土している。
C−2.イタリア・フランス及び西地中海地域
スラブロッシー(Slave Rossii)号海底遺跡(図1)
この遺跡は1780年に南フランスのイルドレバン(Ile du Levant)島の付近で島の切り立った海岸に衝突し、水深約38mの海底に沈没したロシアの軍船である。1957年に地元のダイバーによって発見され、さらにフランス海軍のダイバーが10門の大砲を引き揚げた。1980年には、フランス水中考古学研究所から許可を受けたフランス海軍、マックス・グエロ(Max Guerout)等によって1981年までの2年に渡って発掘調査が行われた。船体は海底に沈む途中で、大きく破損し、残存状態は良くなく、約35×5mの船体約1/2が残っている。遺物は沈没時の状況を反映して、2カ所に大きく別れて出土した。深い地点からは船尾部分(居住部屋)にあった個人所有の刀、皮ベルト、ピストル、ライフル、陶器、食器、ビン、グラス、80点の銅、青銅、真鍮製のイコンが検出された。浅い地点からは大砲、砲弾等が検出された。
ボンツァ(ponza)海底遺跡群(図2)
この遺跡はナポリから西へ約110kmの沖に位置する小さな島である。この島のまわりの数カ所の海底から遺物が1984年に引き揚げられている。しかし沈没船と思われる遺構はこれまで出土していない。この島は古くから海上交通の要地である。本格的な調査は行われていない。
@1世紀に属するローマのアンフォラがフリシオ(Frisio)港の海底で出土している。
A3世紀のアンフォラがボンツア湾の入り口にあるマリア(Maria)の東数km沖の小島ラビア(Ravia)の水深10〜15mの海底で出土している。
B2世紀後半のアンフォラ、台所用品、レン方、瓦等がマリア(Maria)の東数km沖のラビア(Ravia)島の海底で出土している。
@マドンナ(Madonna)岬の沖の水深15〜30m海底で土器類が多量に出土している。
サンタリベラタ(Santa Liberata)港湾都市海底遺跡(図3)
この遺跡はローマから北へ約125kmのアルゲンタリオ(Argentario)島の北側、タラモネ湾に面した海岸に位置している。港の防波堤、漁業施設等の遺構が海面下に認められ、ローマ時代のアンフォラも海底で出土している。またこれらの遺構から約20m沖の海底では前2世紀後期〜3世紀のローマのアンフォラが出土している。
ポッツェーノ(Possino)海底遺跡(図4)
この遺跡はポピエロニア(Populonia)の北、バラッテイ(Baratti)湾の海底で出土した沈没船の遺構である。1989年の発掘調査でローマ船(前2世紀後半頃)が検出された。船体は全長15〜18mである。船体の部材を鉛のベルトで接合するという、これまでに例のない技術を採用している。船内に入った水を排出する装置も備えている。この船の積載品も多量に出土している。積載遺物のアンフォラはドレツセル(Dressel)1A型式のカンパニアで製造されたものである。ロードス製のアンフォラも供伴している。
プレミリオ(Plemmirio)B海底遺跡(図5)
この遺跡はシシリー(Sicily)島シラキュース(Siracusa)市の近くの水深22〜47mの海底で1953年に発見されたローマの沈没船(A.D.200)の遺構である。この遺構は1974年、83年にイギリスのブリストル大学による調査があり、85年、87年にはケンブリッジ大学による発掘調査が行われた。出土した遺物には鉄製品、北アフリカ製のアンフォラ、青銅器(道具)、陶製のランプ等が出土している。
パナレア(Panarea)海底遺跡(図6)
この遺跡はアエオリア(Eolie)諸島の東に位置し、シシリー島のメシナ市の北西約60kmにあるパナレア島の水深36〜39mの海底にある。この島は幾つかの小さな岩礁島から成り立ち、海面にわずかにしか頭を出さない瀬もある海域である。沈船の遺構はこれまでは確認されていない。発掘調査は1985年から始まり、86年、87年と続いている。出土した遺物はアンフォラ、スキフォス、把手付きのカップ、碗、小型碗、水注、ランプ、等の土器があり、さらに鉛の碇のストックも発見された。出土遺物は前4世紀に位置づけられる。
ジーリオ(Gig1io)海底遺跡(図7)
この遺跡はトスカナ地方のオルベテロの約30km東のティレニア海にあるジグリオ島カンプセス(Campses)湾の水深45〜50mの海底で1961年に発見された沈没船の遺構である。調査は1982〜86年にかけて行われた。遺構は前600年頃のエトルスクの船と考えられている。この遺構に伴う遺物にはエトルリアのアンフォラ、銅や鉛のインゴットがある。
プンタデルフェナイオ(Punta del Fenaio)海底遺跡(図8)
この遺跡はジグリオ島のカンペセス湾の北側の水深60〜75mの海底にある。所謂tubi fittliといわれる筒状土製品(これを連続的に組み合わせて建物の天井部のアーチを作る)が多量に1984年に発見された。沈没船の船体の確認はされていない。この遺跡はかなりの盗掘の被害を受けていることも判明している。この遺跡からは北アフリカ起源の3〜4世紀の時期に属するアンフォラも出土している。これらも盗掘者による引き揚げである。
コルテラッソ(Coltellasso)海底遺跡
この遺跡はサルデニア島の海底で1980年に遺物が発見され、1982〜84年にかけて発掘調査が行われた。
ジアルディニナクソス(Giardini Naxos)海底遺跡(図10)
この遺跡はシシリー島タオルミナ(Taormina)の南ジアルディニ湾の北側、タオルミナ岬の南約500m沖の水深24mのなだらかな斜面の海底で、1985年に(Echo-sounder,side scan sonar,sub-bottom profiler)探査機を用いての調査で検出された。海底にシルト層に覆われた高さ0.6mのマウンドが探査機で揃えられ、そのマウンドの中から大理石製の建設材が出土した。発掘調査は1986年に始まり、まず遺構の状況を把握するために遺構全体の検出を行う。遺構は13基ブロックと24基の円柱が重なるように平行して東西に向けて横たわり、沈没船の存在を示すものとして、遺構が比較的原位置を17×5〜6mの範囲で保っていることから、船体の船底部分がこれら建材の下に遺存することが推定される。出土遺物には青銅製あるいは銅製角釘(丸い頭部をもつ)、青銅製の飾り、錠、石臼、アンフォラ等がある。遺構からの石材は約90tの重量が推定される。石材産地はブロックはギリシアのエウボイア島南端にあるオーチャ(Ocha)山の麓のチポッリノ(Cipollino)に比定され前2〜1世紀には盛んにここから切り出され、ローマ世界では広く利用された。円柱の産地は比定されていないが、ギリシアのエウボイア島かアッティカ地方の産と想定されている。
エクイールペルドゥート(Ecueil Porduto)海底遺跡(図11)
この遺跡はコルシカ島の南端の東側、ボニファシオ海峡に位置するペルドゥート岩礁の北西の海底で発見された沈没船の遺構である。遺構は海底の15×4mの範囲で検出された。船体の残存状態は盗掘もあり良好でないが、3mの長さの竜骨を含む船の身材が検出され、この船の遺構にともなう遺物はアンフォラ、碇石、木片が出土している。船体の構造はスペイン地方の船と比較される。アンフォラには底部近くにスタンプが印されている。それらスタンプはスペイン起源のものである。遺構は前1世紀〜紀元後1世紀に位置づけられる。
マルサラ(Marsala)海底遺跡(図12)
この遺跡はシシリー島の西端にあった古代港湾都市リリベウーム(Lilybaeum)の港の海底から出土した。発掘調査は1982〜84年まで行われ、建築材として用いられた筒状土製品(tubi fittili)がアンフォラ等の土器と共に出土した。遺物の年代は前4世紀後期あるいは前3世紀初期のビザンチン時代に比定できる。これら建築材に使用された筒状土製品は平均の長さが約15cmである。
ヴァドルグーレ(Vado Ligure)海底遺跡(図13)
この遺跡はリグレシア海に面したヴァドルグーレ港の海底で出土した中世〜現代の遺構である。この遺構は海底の浚渫が1975−85年まで行われ、その浚渫にともなう海底からの遺物が引き揚げられた。地形の変化により水没した遺構が存在していると判断できる。
エルセック(El Sec)海底遺跡
この遺跡はスペインのマジョルカ(Majorca)島海底で出土した前4世紀の遺物である。遺跡の発掘調査は1987年に行われている。
バラモス(Palams)海底遺跡
この遺跡はスペインのゲロナ(Gerona)の沖の海底で発見された沈没船の遺構である。この遺構は1958年に初めて発見され、確認調査が行われた。1981年になり、この遺構の発掘調査が再開された。遺構にともなう遺物ではアンフォラがある。これには「L.VOLTEIL」のスタンプが押捺されている。円形土製品はアンフォラの破片を再利用した栓である。この遺構の年代はこれらの遺物から前1世紀に位置づけられる。
D.アフリカ地域
モーリシャス(Mauritius)号海底遺跡
この遺跡はアフリカ西海岸方ボン共和国のケープ岬沖、1.8kmにあるロイレットの瀬(Loiret Bank)でマレーシアからの帰路の途中、1609年に沈んだオランダ東インド会社(VOC)の船である。深さ10〜12mの海底に、高さ3〜4m、長さ50m、幅23mの高まりとして1985年に検出され、中央部が膨らんだ円形あるいは楕円形を呈する亜鉛のインゴット、中国陶磁器(神宗帝の時期に比定できる明染付)、大砲28門が引き揚げられている。
オースターランド(Oustor land)号海底遺跡
この遺跡はテーブル湾で発見されたオランダ東インド会社(VOC)所有の船で、1697年に沈んだ。1988年の調査では1685年の年号が入った青銅製の大砲、中国陶磁器、香料等が出土している。
ボードゥース(Boudouso)海底遺跡
この遺跡はセイシェル諸島のアミランテ島のボードゥースの入江で1970年に地元漁師によって偶然に発見された沈船である。76年になると本格的な調査が始まった。船の所属、年代はいまだ特定できていない。遺跡は海岸より100m沖に50mにわたって、幅5〜10mの水路を形成した状況にある。船体の一部、タイ陶磁器、6本の錨、青銅製の大砲、鉄を鉛で覆った砲弾が検出された。
サントアントニオデタナ(Santo Antonio de Tanna)号海底遺跡
この遺跡は1697年にケニヤのモンバサの港で沈んだポルトガルの軍艦で発掘調査は1976〜80年に行われた。
E.オセアニア地域
この大陸地域での水中遺跡はほとんど海底に限られている。これまでに発掘調査が行われた遺跡は17世紀前半以降の沈没船の調査で西オーストラリア地域に集中している。オーストラリアの西欧諸国による交易活動はイギリス、オランダ、ポルトガルのいわゆる“東インド会社”の所有する船を使った交易がその活動の中心であった。これらの船はヨーロッパを出航してアフリカの南端の喜望峰をまわり、東に南緯30゚付近の貿易風に乗るとアムステルダム島の中間地点を通過し、西オーストラリアに到達する。さらに進路を北にとると西南アジア諸国に行く。そこには香料を中心とした交易品がある。この歴史的な経緯の中で、西オーストラリア沿岸海域は珊瑚礁や浅瀬が発達しているためここに17世紀前半から沈没船の記録が存在するのである。この海域で沈没した船はイギリス船(1隻)、オランダ船(4隻、バタビア号(1962)、ヴェルグルドドレーク号(1656)、ズートドルプ号(1713)、ジーウイク号(1727))がある。これらの水中遺跡に対してオーストラリア政府は1976年に連邦政府による沈没船史蹟法(Historic Shipwrecks Act)を適用し、保護措置を講じている。その遺跡の調査・保護は全て西オーストラリア博物館が行うことになっている。この法には@水中遺跡の指定を受けた地域から引き揚げられた遺物は全て国家に属する。Aまた新しい水中遺跡を発見したものには報告の義務と、それに対しての報償金を与える。ということが明記されている。1791年にグレートバリアリーフで沈没したパンドラ(Pandora)号の発見者には10,000AUドルが支払われている。また西オーストラリアのポイント・クローテス(Point Cloates)の沈没船の発見では17,500AUドルが支払われた。海底文化財に対する個人の関心・理解は「報償金」という形で還元され、この事がさらにオーストラリア社会全般の啓蒙活動を支えている。
ニュージーランドの状況は以下のごとくである。1975年にニュージーランド議会は1954年に提案・提出された歴史史蹟法(Historic Places Act)を通過させ、沈没船に対してもこの法律が適用されることになった。1980年には若干修正が行われ今日に至っている。1983年にこの法にもとづく裁判が初めて行われ、2人のダイバーが沈没船から遺物を引き揚げ、その行為により起訴されたが、結果は有罪とはならなかった。この歴史史蹟法に対する裁判所の出方がこれから注目される。ニュージーランドではいわゆる沈没船ではエンデバー(Endevor)号がこの法の指定を受けている。798年にヨーロッパから最初の移住入植者がこの地に入って以来、1839年までに270件の沈没事故が起こり、さらに1860〜79年までに690件の沈没事故が発生している。これらの沈没船をこれからどのように確認、評価し、さらに発掘調査を行ってどのような保存措置をとるのか、今後に多くの課題を抱えている。
トライアル(Tryal)号海底遺跡(図1)
この遺跡は西北オーストラリアのスンダ(Sunda)海峡のモンテベロー(Monte Bello)諸島の最北端にあるトライアルロック(Traial Rocks)の海底で出土した沈没船の遺構である。この船はイギリス東インド会社(EEIC)所有のトライアル号で1622年にこの地で座礁し沈没した。1969年アマチュアダイバーにより大砲、錨等が発見され、1971年には遺構確認のための調査が行われている。85年には本格的な発掘調査が西オーストラリア海洋博物館によって行われた。トライアルロックは複数の岩礁からなり、潮が引くと岩が海面に現れる珊瑚礁の浅い地域である。潮の流れが速く潜水作業は困難な条件下にある。この遺構は海底の砂が厚く堆積している近くにある珊瑚礁の上で検出された。遺構にともなう鉄製大砲は17世紀初期に比定でさる大砲で、イギリスによって使用されたことが大砲の基部に印刻された数字(25-0-?)から確認された。
ラピッド(Rapid)号海底遺跡(図2)
この遺跡は西オーストラリア、エクマウス(Exmouth)の南に位置するポイントクローテスの珊瑚礁の浅い海域で1978年に地元の漁師によって発見された。西オーストラリア博物館によって沈没船が遺存していることがわかった。船体は珊瑚礁が途切れた水路の入り口付近の水深6mの海底で検出された。船体は左舷を下にして横たわり、上部構造は火災を受けて消失している。バラストは10×25mの範囲で検出した。この遺構にともなう遺物として3門の小型砲、3本の錨、鉄製のストーブ、錨巻き上げ機等が出土した。またスペイン1ドル銀貨(1759−1809鋳造)が19,000枚、アメリカ1ドル銀貨数枚、1セント銅貨6枚、イタリア銀貨、中国銅銭、ポルトガル貨幣、鐘が船体の船尾地点から出土している。アメリカの東アジア、中国貿易に関する資料にラピッド号がボストンを活動の中心にしてアジアとの交易を行い、1811年にこの海域で座礁沈没する記録があり、この遺構からの出土遺物からこの船と断定でさる。調査は1978年に始まり79年、80年に船体の前半分が調査された。
パンドラ(Pandora)号海底遺跡(図3)
この遺跡はトーレス(Torres)海峡の珊瑚礁の浅瀬に座礁して沈没したイギリスの軍艦のパンドラ号の遺構である。タヒチ島でのイギリス海軍のバウンティー号の反乱により、これら反乱者の捜索、逮捕の命を受け、パンドラ号は1790年に母国イギリスを出航し、タヒチ島で反乱者のうち14人を揃えて、英国本土に帰還途中、1791年8月にこの地点で沈没した。1977年に海底に遺物が散乱しているのが発見されたために、1976年に西オーストラリア地域だけを対象にしていた歴史的沈没船法(Historic Shipwreks Act)をこの東北部地域にも適用し、1979年にこの遺跡の発掘調査が始まった。この遺跡をどのように評価すべきかが検討され、その結果、調査は1980年以降続けられた。遺物は40×10mの範囲で海底にあることが確認された。
シリウス(Sirjus)号海底遺跡(図4)
この遺跡はシドニー湾内のノフォーク島沖に1790年に沈んだシリウス号(HMS Sirius1780〜81建造)で1983〜88年にかけて調査されている。
トーポ(Taupo)号海底遺跡(図5)
この遺跡はニュージーランドのプレンティ(Planty)湾のメイヤー(Mayor)島付近で沈没したスクリュー推進の初期の蒸汽船である。1879年にトーポ号がタウランガ(Tauranga)港に入港する際に浅瀬に座礁した。その後1881年に離礁させ、オークランド市へ回航する途中、船は浸水し始め、メイヤー島付近で再び沈没した。1982年になりこの沈没船の遺物の盗掘が起きて問題になった。それ以来保護を受けることになる。
ザントー(Xantho)号海底遺跡(図6)
この遺跡はフリーマントル(Fremantle)とポートグレゴリー(Port Gregory)との途中で1872年に沈没したオーストラリアの初期鋼装の蒸汽船で、スクリューで推進する船である。この沈没船は1848年にイギリスで建造され、その当時は外輪船であった。しかし1871年に改造され、スクリューを装備した。沈没船の船体は港から約100m沖、水深5mの砂質の海底に残存している。この遺構の発掘調査は1983年に西オーストラリア博物館によって始まり、84年、85年と続き、引き続き発掘が行われている。それと平行して、引き揚げ作業が行われ、遺物の保存処理にも十分に注意が払われている。
F.アジア地域
アジアの水中遺跡調査はヨーロッパや地中海地域での調査活動と比べるとその歴史は浅い。本格的な水中調査の始まりはアジア各国ともほぼ同じ、1970年代の前半である。各国の出土例でみると、日本では江差町沖の「開陽丸海底遺跡」、韓国は「新安海底遺跡」、中国では泉州市の河口堆積土砂から発見された中国ジャンクの「泉州遺跡」がそうであろう。
東南アジア地域での水中考古学の調査活動は1970年代半ば頃に始まった。とくにその調査活動の中心はタイ国である。タイ国では国土の南方に広がるタイ湾で海底遺跡の発掘調査例が近年になって著しく増加している。タイ国においても当初は水中考古学に対する理解は低く海底遺跡から引き揚げられる文化財の密売が横行していたが、1974年になるとデンマークの考古学者の協力を得て、タイ美術局(Fine Arts Department of Thailand)に水中考古学課(Underwater Archaeology Section)を新設し、これを期にして、水中考古学課の最初の調査がタイ湾の奥まった海域のコクラム(Ko Khram)海底遺跡で行われた。出土遺物としてタイ国産の陶磁器類が多量に引き揚げられ、その成果をあげた。
さらにタイ国は1979年にフリーマントルにある西オーストラリア海事博物館(Western Australia Maritime Museum)に併設されたオーストラリア水中考古学研究所(Australian Institute of Maritime Archaeology)と共同調査の合意に達し、これまで約10遺跡程の海底遺跡が両国の考古学者によって発掘調査が行われた。これまで調査されたタイ湾の海底遺跡の多くは16世紀代におさまる年代を示している。
F−1.東南アジア地域
(1)タイ
コーシーチャン(Ko Si Chang)1号海底遺跡(図1)
この遺跡は1982年に初めてコーシーチャン島の西方沖3kmの海底で遺構確認の調査があり、翌年の1983年、さらに85年にタイ・オーストラリア合同による発掘調査が行われた。沈没船は水深31mのシルト層で検出された。船体の残存状態は比較的良好で、船の隔壁の存在も確認された。しかし船の構造はこれまで調査された中国船とは異なっていることがわかった。この沈没船遺構にともなうタイや中国陶磁器の中には明の神宗の期年銘「大明萬暦年製」(1573〜1619)のある染付皿もある。さらに漆器、中国の鍵、タイの将棋の駒等が検出されている。
コーシーチャン(Ko Si Chang)2号海底遺跡(図2)
この遺跡は1982年に初めてコーシーチャン島西方沖、コーシーチャン1号海底遺跡からわずかに離れた西南方向の海底で遺構確認の調査がタイ・オーストラリア合同で行われた。さらに1987年にオーストラリアの協力による発掘調査が行われた。この遺跡では沈船の残存状態が良好であることは先の確認調査で判明していた。出土遺物の中にはタイや中国南部からの陶磁器類がある。
コーシーチャン(Ko Si Chang)3号海底遺跡(図3)
この遺跡はコーシーチャン島の北端から北北西に約10km沖の20mの海底にあり、1985年に初めてタイ陶磁器(大型の四耳壷)、船の部材が確認された。それらは20×10mの範囲に分布するが、遺構自体は海底に露出せず、わずかにシルト下に埋もれた状態にあった。タイ美術局水中考古学課は盗掘やトロール漁船による破壊の恐れがあると判断し、翌86年に本格的な調査を行った。この調査はタイで初めての国際的な調査隊による発掘で、調査隊の中にはタイを含むインドネシア、サバ、マレーシア、フィリピンなど東南アジア諸国からの参加もあり、十分な調査体制がとれた。2カ月にわたる調査で良好な残存状態にある船が検出された。発掘調査はその調査過程を4段階に分け、(1)調査区域をコンパスによる主軸方位を磁北にとり南北の座標軸にもとづいて、30×20mの範囲に2×2mのグリッドの設定、(2)遺構の上に堆積しているシルトを取り除さ、全体の遺構検出、(3)遺構・遺物の実測、(4)遺構周辺の調査を行った。海底における実測では誤差を士10cm以内にし、その精度を上げた。カメラ実測では±0.5cmの誤差の範囲にとどめる努力がなされた。船の部材・乾葡萄をC14年代測定法サンプルとした結果、1440±60、1540±120という年代がそれぞれ与えられている。
パタヤ(Pttaya)海底遺跡(図4)
この遺跡はタイ・オーストラリアの共同調査が1982年に行われ、1987年に調査が再開されている。沈没船の存在は確認されているが、本格的な発掘調査にはいたっていない。遺跡の年代決定のために引き揚げられた船の部材のサンプルに対してC14年代測定法の結果1370±50が与えられている。
コーリン(Ko Rin)海底遺跡年代測定法(図5)
この遺跡発掘調査は1987〜88年にかけて行われた。これまで遺跡の位置を確認することが困難であったが、1988年になって中国陶磁器(明の染付)の破片がシサッチャナライの陶磁器と共に多量に見つかった。船の部材等はいまだ確認されていない。
ランクエン(Rang Kwien)海底遺跡(図6)
この遺跡は1978〜81年にかけてタイ美術局水中考古学課により発掘調査が行われた。この遺跡はこれまで盗掘を受けていたが、船の竜骨を含むかなりの部材が残存していることが確認された。竜骨には、その中央部に水の流れる溝が削りだされている。出土した遺物にはスタンプの文様を持ったタイ陶器、銅銭200kg、銅インゴット、陶磁器、象牙、ドラ鐘等がある。1987年にはC14年代測定法による遺跡の年代決定に使用するためのサンプリング調査が行われ、船の部材が引き揚げられた。その結果1270士60が与えられている。しかし象牙の年代は1800±150となっていて、遺構としての沈船とそれにともなう遺物としての象牙には年代的にかなりの隔たりがある。
コークラム(Ko Khram)海底遺跡(図7)
この遺跡は1970年代半ば頃に存在が知られていた。その後、タイ・デンマーク共同調査で多量のタイ陶磁器が引き揚げられた。87年にはC14による遺跡の年代決定のためのサンプリング調査が行われた。遺構の残存状態もその時調査され、非常に良好であることが判明した。この遺跡からの遺物としてはスコタイやスワンカロク地方の窯、さらにシサッチャナライの窯からの陶磁器類、他にヴェトナムからの陶磁器も出土している。
C14による遺跡の年代は船の部材やその他2例のサンプル(資料名不明)が使われ、その結果1380±50、1520±140、1680±270がそれぞれ与えられている。
コーサメサン(Ko Samao San)海底遺跡(図8)
この遺跡はコーサメサン島の東側の沖の海底で確認された。この遺跡に関しての詳細な調査報告はない。
サメドナン(Samed Ngan)河川遺跡(図9)
この遺跡はタイ美術局水中考古学課によって1982年、88年に発掘調査が行われた。サメドナン川の岸辺に近い場所、約1mの堆積土のなかで船体の一部(21×7m)を検出した。出土遺物は少なく、遺跡の年代を決定する決め手には成り得ず、船の部材サンプルを使用したC14年代測定法の結果は1800±150が与えられている。この船は今のところ中国のジャンクと考えられている。
コークラダット(Ko Kradat)海底遺跡(図10)
この遺跡は1979〜80年にかけて調査され、遺跡からは船体の一部が検出された。この遺構からはタイのスワンカロク地方の窯からの陶磁器類と中国の明染付皿等が供伴遺物として出土した。その中には底部に世宗の「大明嘉靖年製」(1522〜66)銘のある染付も見つかっている。銘のある染付は沈没船の年代を16世紀半ば頃に比定でさる手がかりとなっている。
プラチャップクリカーン(Prachuap Khiri Khan)海底遺跡(図11)
この遺跡を含む近くの海底には幾つかの沈没船の遺構の存在の可能性があると言われているが、1987年の調査ではいまだその確認はされていない。ただし1カ所だけ陶磁器が出土する低い丘のある海底が確認された。陶磁器にはメナムノイの窯出土の物に類似していることが指摘されている。
(2)インドネシア
ブキットジャカス(Bukit Jakas)海底遺跡
この遺跡はリオー諸島にあり、1981年この遺跡の発掘調査がインドネシア考古学研究所により行われた。遺跡から沈没船の船体の一部が検出された。年代決定のために部材の一部をサンプルとして採取し、その資料をC14年代測定法にかけた。結果は1445士80の年代が与えられている。
ゲルダーマルセン(Geldermalsen)号海底遺跡
この遺跡はスマトラ島東海岸沖で1752年に沈没したオランダ東インド会社(VOC)船の遺構である。
バレンバン(Palembang)遺跡
この遺跡の詳細な資料は入手できないため、現状では不明。
トウーバアン(Tubuan)海底遺跡
この遺跡はジャワ島スラバヤ市から北へ海岸沿いに約90kmにある小さな海岸都市である。ここでは海岸から沖1kmの砂質の海底から陶磁器が発見され、引き揚げられていることが広く人々の間で知られていた。遺跡は盗掘をしばしば受け、遺跡破壊が以前からかなりの程度まで進んでいた。1983年にこの遺跡の発掘調査が行われたが、この調査では沈没船らしき遺構は確認することができなかった。この調査で引き揚げられた遺物は中国陶磁器、タイ、ベトナム陶磁器がある。
ジャンブアイル(Jambuair)海底遺跡
この遺跡はスマトラ島の北端に近いジャンプアイル岬沖のマラッカ海峡で1990年にポルトガルの東インド会社(Estada da India)所有の船でフロ・デ・ラ・メール号(Frolu dela maru)と思われる沈船がサルベージ業者によって発見され、青銅製の大砲、錨、陶磁器、ボルトガル銀貨等が引き揚げられている。ポルトガルは1600年頃までに西南アジア地域にいくつかの貿易の拠点(マラッカ、マカサール、アボポイナ、マカオ)を設立している。しかし18世紀になるとこの地域はオランダの進出が盛んになり、ポルトガルがマカオを除いてこの地域から締め出される歴史的な経緯がある。
(3)フィリピン
フィリピンにおける水中調査活動は1970年代に始まった。それ以来この地域での遺跡調査は主にヨーロッパ大航海時代(16〜19世紀)にともなう西欧諸国の沈没船が対象となった。特にオランダ、ポルトガル、イギリスによるいわゆる「東インド会社」の設立がこの地域への交易拠点の確保及び経済利権の拡大をもたらせた。一方スペインは、1521年のマゼランによるフィリピン諸島への到達以来、本国からメキシコを経由する太平洋西回り航路によって、西南アジア「香料諸島」への航路開拓、さらにヨーロッパ帰還航路の確立が課題となり、先の国々によって独占されたこの地域への経済活動へくさびを打ち込む必要があった。そのためには西南アジア地域の最も東に位置するこのフィリピンに橋頭堡を築く必要があり、この国への西回りによる接近がなされた。
このような状況のなかで水中調査の関心がヨーロッパとフィリピンとの関係を結びつける物的証拠として、沈没船が重要視されたのは当然であろう。この地域においても外国の水中考古学機関からの合同調査の提供が盛んである現状はこの様な理由からであると思われる。この国を取り巻いている歴史的環境が、そのまま水中考古学の発掘調査の傾向に何らかの影響を与えていると考えられる。フィリピン国立博物館が水中考古学調査に関心を持ち始めていることはこの分野の学問の研究傾向の偏りを是正することになるであろう。フィリピン国立博物館はこれまでフィリピン全国の16地点で海底遺跡を確認し発掘調査を行っている。
ボリナオ(Bolinao)海底遺跡T・U(図1)
この遺跡はルソン島のほぼ中央西部海岸(マニラから北西約240km)のボリナオ付近の海底の2カ所で遺物の確認があった。
@ダガポロ(Tagaporo)島沖の水深3mの海底で1988年の調査で確認された。この遺跡は異なった2カ所の海底から遺物が出土していることが確認されているが、異なる地点から出土する遺物器種、型式に隔たりはなく、遺跡が2グループに分かれるのではなく、珊瑚礁の浅瀬に乗り上げた船から積載品が落下し、二次的に波によって遺物が拡散し、広範囲に遺物が散布するものである。
Aシラキ(Silaqui)島の北の海底で船の碇石が出土している。この碇石は長さ約210cm、幅30cm、厚さ20cmを測る。中国の泉州で出土している碇石と比較することができる。
サンアントニオ(St.Antonio)海底遺跡(図2)
この遺跡はルソン島西部(マニラから北西約110km)のザンバレス山脈西側のサンアントニオ沖の海底50mで確認され、宋時代の陶磁器が引き揚げられたと言われているが、この遺跡の詳細は不明。
プエルトガレラ(Puorto Gaiora)海底遺跡(図3)
この遺跡は1983年ミンドロス島プエルトガレラ港付近の海底で、沈没した船体の一部が存在していることが発掘調査で確認されていたが、調査中に盗掘に遭い、ほとんど遺構は残存しない。しかし船体の構造はいわゆる「バランゲイ・タイプ」と呼ばれるものであったと言われている。船の遺構にともなう遺物としては陶磁器片が1点のみ出土している。
さらに港から2門の鉄製の大砲が引き揚げられている。その一つにはAVOCのマークがあり、中央にFの印が付けられたスウェーデン製、もう一つはGの印があるイギリス製の大砲である。これらの大砲の製造年代は17世紀末〜18世紀初頭になるものである。
バルデ(Vordo)海底遺跡(図4)
この遺跡は1983年ミンドロス島の北のバルデ(Verde)島の南端の沖合、水深約8mの海底で、沈没した船体の一部が存在していることが確認され、発掘調査が行われた。船の遺構にともなう遺物としては中国やタイ陶磁器が出土している。船体の竜骨、肋骨、板材の部材が出土している。1987年に竜骨と船体の僅かな部分が引き揚げられている。この遺構は18世紀のマニラガレオン船、ヌエトラ・セニョーラ・デラ・ビダ(Nuestra Senorade la Vida)号と言われているが、その船に比定するための決定的な物的確証はない。
マリンドゥケ(Marinduque)海底遺跡(図5)
この遺跡はルソン島南部のタヤバス(Tayabas)湾に面しているボクク(Boac)島のマリンドゥケ沖の海底で発見されている。
北パラワン(North Palawan)海底遺跡(図6)
この遺跡は北パラワン州のクイニルバン諸島の海域で1987年にその存在が確認された。船体の存在は確認されていないが、しかしその遺構の存在をうかがわせる遺物として碇石が2点程出土している。その外の出土遺物には陶磁器類がある。
ロイヤルキャプテンショーアル(Royal Captain Shoal)海底遺跡(図7)
この遺跡はバラワン島の西側、南シナ海で1985年にフランスの調査隊によってその存在が確認された。船の存在は確認されていないが、遺物として中国の染付が出土している。
ブトゥアン(Butuan)川底遺跡(図8)
この遺跡はミンダナオ島北部にあるブトゥアン市アグサン(Agusan)川の河口デルタ地帯、海岸より6km上流地点の堆積土の下から発見された。今日の川の流れからは約1km離れている。船は全て平底を持つバランガイ(Balanghai)船で最初に出土した残存部の長さ1.6mの船は20年以上前の発見である。2隻目の船の遺構は約1km南西へ行った地点で1977年に確認された。残存部は14mを測る。3隻目は2隻日の地点から数m南東の地点で出土し、引き続き発掘調査が行われた。引き揚げられた2隻日の船体は保存処理を施し、フィリピン国立博物館に展示されている。船の遺構にともなう出土遺物が調査期間中に盗掘されるなど船の年代決定については困難な状況がある。C14によると(学習院大学による測定)第1隻目は320士110と1630±110、第2隻目は700士90という年代が得られている。最初の資料はブトゥアンにある。しかし船体の実測及び復元は行われていない。
グリフィン(Griffin)号沈船海底遺跡(図9)
この遺跡は1761年中国からの帰路の途中スール海で沈没したイギリス東インド会社(EEIC)所有の商船グリフィン号である。フィリピン国立博物館とフランスの水中考古学者によって1985〜87年にかけて調査が行われた。沈没船は深さ12mの海底下約6mにわたって堆積した砂層から検出されている。
グリフィン号は英国ブラックウォール市のジョン・ペリー造船所で1748年に造られた。全長約40m、重量500tの船である。沈没に遭うまでに、中国に4度航海している。航海日誌によれば、最後の航海は1960年広東省のマカオ付近に停泊していたが、フランス東インド会社の軍艦がマラッカ海峡を通過している情報を得て、翌年1月1日に中国を離れた。その時の船荷は茶、絹地、陶磁器が主である。フランスとの衝突を避けるために迂回してポルネオ島とセレベス島の間のマカツサル海峡を通過することにして、フィリピン、ミンダナオ島の西に広がるスール海に船を向けた。出航して3週間後船は浅瀬“グリフィンの瀬”(Griffin Rocks)に座礁した。調査の結果、船体の2/3にあたる約29mの船首〜中央部にかけ上部構造は失っていたが、船体の遺存状態は良好で、船の外板、肋骨さらにデッキの一部を検出した。引き揚げられた遺物には清朝時代の中国陶磁器等がある。
タール(Taal)湖底遺跡群(図10)
この遺跡はマニラから南へ約60kmにあるカルデラ湖のタール湖底で発見されたスペイン統治時代の集落跡である。タール湖の沿岸には多くの集落があり、今日それらの幾つかの集落は水没している。これらの遺跡の調査は1982〜83年に行われている。
@旧リパ(Old Lipa)湖の東方にあり、水深20mの地点で壷が発見された。これは15〜16世紀の年代に比定できる。さらに北に0.5km、沿岸から沖へ100mの水深8〜9mの湖底で建築遺構を確認する。1〜2mの高さのある壁と思われ、20〜25cm程の石を組み上げている。壁の上面は平坦で、長さ3mである。
A旧タナウアン(Old Tanauan)湖の北東にあり、沿岸から100m沖に“岩”と呼ばれる地点で、乾期には水面より約1mほど岩の上部が現れる。その表面12カ所にピットが穿たれている。さらに方形をした穴が2カ所にある。この”岩”から南に6m離れた地点の水深3mの湖底には高さ1〜2m、長さ20mの石組の壁が“岩”をとり囲む様に並び、さらに南東に70m離れた地点の水深8〜9mの湖底には高さ2〜3m、幅2〜3mの石組の壁が検出された。この地域からはさらに石組遺構が検出されている。沿岸より50m沖の水深9mの湖底に高さ5mの半円形状に並ぶ。ほぼ中央には2.5mの幅の入口と思われるものがある。
(4)マレーシア
リスダム(Risdam)号海底遺跡
この遺跡はマレーシア半島東海岸沖で1727年に沈没したオランダ東インド会社(VOC)の沈没船リスダム(Risdam)号である。1984年にこの遺跡からの盗掘品が公になったおり、遺構の存在が想定された。1985年に遺構の確認がマレシング(Mersing)の沖にあるプラウ・バトゥー・ガジャハー(Pulau Batu Gajah)島の北約500mの海底でされた。遺構は海底下約1〜4mの間で船体が確認された。船体は右舷を下に15゚傾いている。遺構は長さ約37mが残存している。供伴遺物にはタイ四耳壷、スズのインゴット、鉛のインゴット、象牙、オランダ煉瓦、サッパン木、滑車等がある。
ポンティアン(Pontian)海底遺跡
この遺跡の詳細な資料は入手できず不明。
ジョホールラマ(Jahore Lama)海底遺跡
この遺跡はマレー半島の南東海岸の沖合で発見された。この海底遺跡の詳細な性格等は資料が入手できず不明。
F−2.中国地域
この地域での水中調査の活動は1970年代に始まったといえる。それは福建省泉州で発見された南宋時代の一隻の中国のジャンクである。この遺構は海底にあったのではなく、河口に堆積した土砂のなかから出土した。この発掘調査以来中国では水中考古学への関心が起こり始めた。中国では水中から引き揚げられた船体あるいは遺物といった考古学的な資料は増加している。しかしこれに携わる専門の知識を持った考古学者が不足している。このような現状を解決していくために中国歴史博物館から二人の考古学の職員がアメリカのINA研究所で数カ月の研修を受け、さらに1989年にはオーストラリアの研究機関との間で、水中考古学調査を行える体制づくりをするための協力関係ができ、水中考古学に関する講義、実技は全てオーストラリア側が提供することで考古学者(9人)、写真家(1人)、化学者(1人)を対象に、約1年間にわたる研修が青島及び福建省で1990年まで実施された。研修には@潜水技術習得、これは安全で効果的な潜水、さらに発掘調査で使用する器材、器具に精通すること。SCUBAトレーニングではまずCMAS初級☆ダイバー(One Star Diver)のカリキュラムを習得し、さらに上級のレベルのカリキュラムを修了する。A水中遺跡の発見及び発掘調査の方法、(a)発見地点にブイマーカーを上げる、(b)遺跡全体のスケッチ、(c)ベースラインの設定、(d)番号札を付けて調査地点を決定、(e)遺跡の全景写真撮影(フォトモザイク法)、(f)テープによる遺物の三角測量、(g)正確な遺構図面の作製、に重点が置かれた研修である。このような国際協力がアジアの地域で行われていること、さらに中国のこの新しい学問に対する姿勢は正しく評価されるべきである。
F−3.韓国地域
韓国では、1980年代に水中考古学調査が行われ、その発掘の経緯、検出された遺構・遺物の報告が何らかの形で公にされているのは次の4件である。なかでも、いわゆる新安海底の沈没船発掘調査は韓国社会の水中考古学への関心を高め、新しい学問として韓国のみならずアジア地域の水中考古学の発展をもたらせたと評価できる。
新安海底遺跡
全羅南道新安郡知島邑防築里道徳島沖で1975年に漁師の網に偶然、陶磁器がかかったことから、1976年に全面的に海底調査が始まり、水深20〜25mの海底には中国の船とみられる船体も発見された。調査は、水中環境(透視度ほぼゼロ、潮の干満の差が大きい)が良くないことから、グリッド法(2×2m)によって出土地点のみを記録することに重点をおいて行われた。沈没の時期は船荷の中に見つかった木札から1323年頃に中国を出港したことが考えられる。
莞鳥海底遺跡
全羅南道莞島郡薬山面漁頭里沖の海底約15mで、1977年に漁師によって高農青磁が引き揚げられたことが調査のきっかけとなり、1983〜84年に本調査が開始され、多量の青磁器類が発見された。また、船体の一部も引き揚げ、この船は角材(80〜200mm×300〜350mm)を使用した平らな船底をもつことが判明した。陶磁器類の研究で沈没時期は11世紀中頃〜後半頃と考えられる。
満山海底遺跡
瑞山郡新進島里馬島沖で発見された遺跡で、1981〜83年にかけて、3回の調査が行われたが遺構としての沈没船の船体は確認されていない。船の積載品と思われる遺物(陶磁器、鉄製品)等が引き揚げられている。
北済州海底遺跡
済州島北済州郡新昌沖で発見された遺跡である。1983年に調査が行われ船体は確認されてはいないが金製品等が引き揚げられた。
おわりに
ここでは世界をいくつかの地域に分け、1980年代にそれぞれの地域で行われてきた水中遺跡の調査活動の概略を述べてきた。そこでは水中考古学が市民権を得るべく、独立した学問としての急速な発展を遂げた確かな足跡をたどる事ができた。また水中という未知の世界に文化遺産が存在し、研究の対象となることがでさることを水中考古学が社会に教え、与えた影響は大きい。遺跡の発見に対して、これまで通り地道に情報を収集することが不可欠であることに全く変わりはないが、先端科学の積極的な採用もこの10年間の結果である。コンピューターを使用し、遺構・遺物のデータ化による遺跡から出る多量の資料を分析・整理ファイルすることが可能になった。
今回の報告では、1980年代の水中遺跡調査の実態を知るべく全地域から遺跡を収集し、各遺跡の性格を説明する努力をしたが、資料や時間の制約のため多くの点で遺跡、地域の発掘状況を十分に把握することがでさなかった。このような条件下で、統計的なデータには誤差が大さく生じることとなり、データとして満足のいかない結果となった。地域的なデータの偏りもみられることから全体の傾向や性格を読むことには不備が残ってしまった。この点を十分に反省し、再び別の機会に全遺跡に対して集成を試みたい。1980年代の科学的及び社会的な活動として、水中考古学のなしえた成果が、この学問の学史的な中でどのような評価を受けるのか。さらに、1990年代の水中考古学にその財産として、何を受け渡したのか。世界の水中遺跡調査活動と日本の水中遺跡調査活動を比較した時に、解決しなければならない問題点は何か。それらの答えがわずかでも今後の日本の水中遺跡調査に携わろうとする人々の励みになることを望んでやまない。
参考文献
(1)American Journal of Archaeology (AJA)
(Volumes 85-95 (l981-91), the Archaeological Institute of America, Boston)
(2)Antiquity
(Volumes 55-65 (1981-91), Antiquity Publications at Oxford University, Oxford)
(3)Archaeology
(Volumes 34-44 (1981-91), the Archaeological Institute of America, New York)
(4)The International Journal of Nautical Archaeology and Underwater Exploration
(Volumes 10-20 (1981-91), Academic Press, London)
(5)INA Newsletter.
(Volumes 10-18 (l981-9l), the Institute of Nautical Archaeology, College Station, Texas)
(6)The Journal of Field Archaeology
(Volumes 8-l8 (1981-91), Boston University, Boston)
(7)KOSUWA Newsletter
(volume 1:2 (1991),九州・沖縄水中考古学協会、福岡)
(8)National Geographic
(Volumes 166-76 (1981191), National Geographic Society, Washington)
(9)Kemp, Peter, The Oxford Companion to Ships and the Sea (Oxford University Press, 1988, Rep. Ed.)