『遺跡保存方法の検討−水中遺跡−』文化庁 平成12年 より
鷹島海底遺跡の既往の調査
昭和55年度(1980)〜昭和57年度(1982)
文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」
のうち「水中考古学に関する基礎的研究」による調査
茂在寅男「水中遺構・遺物の探査並びに保存に関する研究」(1984年)
※音響測探機による海底探査やダイバーによる遺物の引き揚げ作業を行った。
また、海底上の砂泥を吸い上げるエアーリフトを試作し、使用実験を行った、
昭和58年度(1983)7月25日〜9月23日
床浪地区港湾事業(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(460u)
鷹島町教育委員会・床浪海底遺跡調査団『床浪海底遺跡』(1984年)
平成元年度(1989)6月8日〜8月6日
床浪地区港湾事業(埋立て・浚渫)にともなう緊急発掘調査(1400u)
試掘調査1988年9月1日〜20日
鷹島町教育委員令『鷹島海底遺跡』(1992年)
※海底のシルト層をエアーリフトにより吸い上げる排土作業をともなった、
初めての本格的な海底発掘調査となった。
平成元年度(1989)〜平成3年度(1991)
文化庁による調査研究事業「遺跡保存方法の検討」による調査
平成元年度(1989)〜平成3年度(1991)
文部省科学研究費補助金(総合研究A)「鷹島海底における元寇関係遺跡の
調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」(研究代表者西谷正九州大学文
学部教授)による調査
『平成元年〜三年度科学研究費(総合研究A)研究成果報告書』(1992年)
簡単に内容を紹介する
平成4年度(1992)7月20日…9月5日
床浪地区港湾事業(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(2400u)
『鷹島海底遺跡U』(鷹島町文化財調査報告書)第1集(1993)
※水深25mの位置から縄文時代早期の遺跡を発掘調査した。
平成6年度(1994)10月11日〜12月12日
平成7年度(1995)7月17日〜9月7日
神崎港改修工事(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(2400u)
『鷹島海底遺跡V』(鷹島町文化財調査報告書)第2集(1996)
『遺跡保存方法の検討−水中遺跡−』文化庁 平成12年 より
平成3年度までの調査 石原 渉
1.鷹島海底遺跡の概要
九州の西北端、壱岐水道に面した伊万里湾口に浮かぶ鷹島は、長崎県北松浦郡鷹島町に属し、東は日比水道を隔てて佐賀県東松浦郡肥前町に、東南は長崎県福島町、南は松浦市に接し、西方に平戸島、北に壱岐島を遠望することができる。この鷹島は、中世の日本を震撼させた蒙古襲来の歴史上の舞台として知られ、文永11年(1274)の「文永の役」では、鷹島と周辺が主戦場となり、また弘安4年(1281)の「弘安の役」では、鷹島沖に集結した第二次日本征討軍の東路軍および江南軍あわせて約4,400隻の大艦隊が、大暴風雨により一夜にして壊滅的打撃を被った、元寇終焉の地として世に名高い。
この史実を裏付けるように、島内には元寇の激戦にまつわる塚や五輪塔・供養塔が数多く存在し、原免には江戸時代に海底から引き揚げられたという伝承をもつ銅造の如来座像(高尾仏)を祀る小堂がある。また同海域からは、壷や碇石などが地元漁師によって多数引き揚げられており、とくに印面に元のパスパ文字で「管軍総把印」と刻まれ、側面に「至元十四年(1277)九月造」と製作年代が刻まれた銅印は、弘安の役で壊滅した蒙古軍の遺品として世に広く知られている。これらの遺物は、現在、鷹島町立歴史民俗資料館に保存され、一般に公開されている。
こうした元寇関係の遺物を包蔵する海底遺跡は、昭和56年7月20日に提出された遺跡発見届により、鷹島南岸の東端「鵜ノ鼻」から西端「雷岬」までの7.5km、打線より沖合200mの範囲について、周知の埋蔵文化財包蔵地として登録され、現在に至っている。
2.鷹島海底遺跡の考古学的調査
鷹島海底遺跡に関するこれまでの考古学的調査は、昭和55年から3ケ年にわたって行われた文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」のうちの「水中考古学に関する基礎的研究」を嚆矢とする。
また昭和58年には、同島床浪地区で港湾事業が計画されたため、その事前調査として海底遺跡の発掘調査が実施された。同海域では、昭和63年にも同種の港湾事業が計画されたため、平成元年に記録保存のための本格調査が実施されている。また平成元年度から3年度にかけて、本事業と並行して、文部省科学研究補助金総合研究Aによる「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」が3ケ年継続して行われた。
これらの調査のうち、昭和55年から3ケ年継続で行われた文部省科学研究費による「水中遺構・遺物の探査並びに保存に関する研究」が最も大規模な学際的調査であり、初めて本海底遺跡に学術的な調査のメスが加えられ記念碑的な調査であった。ここでは、その成果を少し詳しく紹介することにしよう。
3.昭和55〜57年の文部省科学研究費による調査
(1)調査の経緯
昭和55年度から3ケ年計画で実施されたこの研究は、文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」のうち、水中文化財の科学的研究と保存を目的とするもので、水中遺跡に関する初の本格的な調査であった。水底下における古文化財の発見と考古学的調査法の開発研究を目的としたため、研究スタッフも、歴史学・考古学・郷土史などの人文科学系の研究者のほか、船舶工学・水中音響工学・潜水技術等の工学系研究者を交えた学際的なものとなった。調査体制は、茂在京男(東海大学教授)を調査団長に、研究分担者10名、研究協力者14名、潜水協力者6名、それに多数の現地協力者からなり、元寇という歴史的事件を水中考古学の立場から解明し、あわせて水中考古学の調査研究方法を確立することを主眼に、長崎県北松浦郡鷹島町周辺海域を調査対象地に選んで実施された。
(2)昭和55・56年度の調査
調査初年度の昭和55年度は、同島周辺海域において、音響測深機のソノストレーターおよびサイドスキャンソナーを使用して海底下の状況を調査した。その結果、異常反響が72地点であり、海底下の地層中に遺物が埋没している可能性が認められた。
昭和56年度の調査は、7月6日から20日までの15日間の日程で、元軍の軍船が沈没したとされる同島の南西部沿岸を中心に、潜水班および機械班の2班に分れて実施された。潜水班には東海大学潜水技術センターから技術員の参加があり、潜水による遺物の確認と写真撮影、およびその引き揚げ作業を担当した。機械班は、今回の調査のために光電製作所が開発したカラーソナー(海底下の状況をカラーディスプレーする)を駆使し、反応のあったポイントにブイを投下して、位置確認の作業を分担した。
また海底下の発掘方法を研究するため、エアーリフト(空気吸い上げ機)の試作を行い、海底の砂泥地帯において実験的な発掘作業を行った。このエアーリフトは、鉄パイプの先にコンプレッサーから圧縮空気を送り込み、海底で泡がパイプの開口部に向かって上昇する際に起きる吸引力を利用したもので、直径9cm、長さ110cmの亜鉛引き鉄管を筒先とし、長さ30mのホースを接続したものである。
潜水班は2人を1組とし、合計6人で同島南西沿岸の床浪から俵石鼻を中心に調査を実施した。沿岸から沖合に約50m内外(平均水深10m)の浅瀬および岩礁部を調査して、遺物の確認と写真撮影を行い、浅瀬の海底に露出する褐釉壷などをサンプルとして引き揚げた。同海域には遺物がとくに集中しており、海底では約2m間隔で壷の破片が確認できる状況であった。引き揚げられた遺物は、褐釉壷の破片143点(完形品3点)のほか、投石弾や片口などの石製品4点、鉾先やインゴットなどの鉄製品8点、磚9点、青磁碗・小鉢3点など、総計171点を数える。
また潜水班は、エアーリフトの実験を行うため、7月17日と18日の両日、同島神崎港沖合120mのST2(水深20m)と同沖合220mのSTll(水深25m)のポイントで作業を実施した。これらは以前、ソノストレーターで海底下1.5mに明瞭な反応のあった地点である。同調査を指揮した工藤盛得(東海大学教授)によれば、海底は極めて軟弱な泥層であり、海底での透視度も2m程度と悪く、エアーリフトによる浚泥は25分間で直径約1m、深さ30cm程度しか進捗せず、作業は困難を極めたという。両日で合計12回の試掘を実施した結果、ST2で1.2m、STllで1.8mまで掘り下げることに成功し、STllでは海底下1.6mで貝殻混じりの固い地層に到達、1.8mで約30cmの厚さの固い地盤を確認し、その下は再び軟弱な地層となることを確認している。
(3)昭和57年度の調査
57年度の調査は、前年度の継続調査として実施され、探査機器の改良実験と並行して、水中に散布する遺物の確認と、位置の測定ならびに引き揚げが行われた。とくに鷹島町神崎免海岸部においては、海岸線にセオドライトを設置し、海岸部から沖合100mの範囲にロープを張り、各ロープは20m、10m、5m、1mと、それぞれ間隔を狭め、測定密度についても検討を加えた。
神崎沖で引き揚げられた遺物は、褐釉壷の破片など173点である。褐釉壷はいずれも破片で、ほかに磚57点、碇石10点、石弾2点、青磁碗・石製片口・石臼各1点がある。
(4)調査の成果と課題
調査の目的は、水中考古学における調査法の研究開発に主眼をおき、海底下の遺物の発掘と実測、記録作業を行う予定であったが、準備不足と人員の関係から、当初の目的を十分に果たすことができなかった。とくに海底に露出した遺物の引き揚げについては、遺物の出土位置に関する記録が不十分に終わったため、将来の調査に課題を残す結果となった。
潜水調査は、元軍が暴風雨に遭遇したと思われる鷹島の南側の海域、すなわち俵石鼻から床浪にかけての沿岸海域を重点的に調査し、水深10m内外の岩礁および浅瀬に褐釉壷の破片が散乱する状況を確認しているが、当該区域はいずれも海岸部分から岩礁性の岩場が海底面に張り出しており、その岩場の隙間に集積した遺物が調査員に発見され易かったという事情があろう。また、昭和55年度の探査で遺物の可能性のある反応が顕著であった地区であるため、潜水調査が集中的に実施されたことも、かかる結果を生んだ原因のひとつと考えられる。しかし、そうした状況を配慮しても、床浪地区が天然の良港であること、また小河川ながら床浪川の河口部が存在する点を考慮すると、飲料水確保を目的に当該地区に元軍の艦船が集中していて、荒天に際して浅海部の岩礁が仇となって、悲劇的な難破と沈没ひいては積載物の散乱という事態をもたらした可能性が想定できる。この点は、当該地区で碇石の発見が顕著であったという事実からも類推されるところであるが、こうした問題の解決のためには、今後、鷹島南岸海底の徹底した分布調査や確認調査の実施が必要であり、その結果をもとに判断すべきであろう。
またこの調査で、機械班が実施したカラーソナーとソノストレイターの実験は、海底下の遺物発見に有効であることがわかったが、航行する船舶に搭載した計器類が遺物確認のエコーをキャッチしても、同海底にブイを打ち込む際に、船舶のスピード等の関係から、確認地点がそれて、だいぶ離れた海底に着底するという問題があり、その誤差をいかに縮めるかが大きな課題となっている。またカラーソナー自体も、船底から海底に発射する音波のビーム幅が広いため、精度の点ではかなり改良の余地がありそうである。
以上の反省点から考えて、今後の調査では、@水中での測量および遺物の正確な位置確認と記録、A機械班と潜水班の共同作業における連絡手段の確立整備、B新たに陸上に測量班を編成して、陸上から調査船ないしは遺物の存在を示すブイの位置確認作業を行うこと、C保存処理用溶液ないしは処理施設の充実、などの改善策を講じる必要があろう。また潜水調査を行うダイバーに、考古学的な知識や技術を熟知した者を参画させる必要性が痛感される。
以上、多くの推測を混じえての総括となったが、鷹島海底遺跡の発掘調査が、元寇という歴史的事件の実態解明のために、より豊富な歴史資料を提供するのは確実であり、引き続き、水中遺跡の調査方法の確立と、本海底遺跡の計画的・組織的な調査の実現に向けて、多くの課題を克服する努力が必要となろう。
『遺跡保存方法の検討−水中遺跡−』文化庁 平成12年 より
平成3年度以降の調査 高野晋司
鷹島海底遺跡においては、今回の調査研究の後もいくつかの調査が実施されている。まず、平成4年と平成6・7年には、港湾改修事業にともない鷹島町教育委員会が緊急発掘調査を実施している。このうち平成4年の調査は床波港に関わる改修事業であり、平成6・7年の調査は、鷹島南岸でも東方の神崎港の改修事業にともなうものである。また、鷹島町教育委員会では、緊急調査とは別に、鷹島海底遺跡の分布調査を継続して実施している。ここでは、平成4年度以降のこうした調査について概要を紹介する。
(1)平成4年度の調査
床波港の防波堤工事にともない、海底に堆積した厚さ4mのシルト層を浚渫したのち、平成4年7月20日〜9月5日まで発掘調査を行った。
この調査においては、縄文時代早期の土器などが海底下約5mのシルト層から集中的に出土し、標高-25mの深さに縄文時代早期の遺跡が存在することが判明した。押型文士器を中心とする土器類が283点、石器片76点、獣魚骨類120点、貝類などが出土している。縄文土器は、山形文・楕円文・格子目文などの押型文士器を中心とし、これに若干の無文士器や撚糸文士器が加わるが、いずれも磨滅していない。動物骨としては、イノシシ・シカ・イヌのほか、人為的な解体の痕跡を残すイルカなどが良好な保存状態で検出された。なお、このシルト層から採取した2種類の貝殻についてC14による年代測定を行った結果、8630±105B.P.,8410±105B.P.という数値が示されている。
本遺跡が水没した原因としては、@地滑りなど斜面崩壊による遺物包含層の滑落、A地殻変動、B氷河性海面変動などが考えられるが、当該地海底の音波探査の記録などから、本遺跡周辺には活断層や活褶曲などの活構造はなく、むしろ地殻変動は静的と考えられることから、専門家は@やAが原因とは考えられないと報告している。したがって、Bの理由、すなわち後氷期の氷河の融解による海面上昇つまり縄文海進が原因と考えられる。
年代と水深の関係については、床浪港の東北東1.7kmに位置する浦下沖の海底ボーリングコアの解析の結果、−35mの砂層中のマガキから10,570±350B.P.という数値がえられている。これは、鷹島海底遺跡の所在する伊万里湾における完新世の海面変化曲線に一致している。
以上の事実は、考古学のみならず、地形学や地質学・第四紀学などに完新世の海面変化や古環境に関する貴重な資料を提供するものとして評価が高い。
(2)平成6・7年度の調査
鷹島神崎港の防波堤工事にともない、平成6年11月3日〜12月12日と平成7年7月17日〜9月7日にかけて潜水による発掘調査が実施された。平成6年度の調査において、はじめて海底に埋没した状態で碇が発見された。
平成6年度の調査は、防波堤建設工事が予定された6,000uを対象とするものであったが、当然ながら海底下の遺物の包蔵状況は不明であったため、まず事前の地層探査を行った。地層探査器を搭載した探査船により、対象海域を5m間隔で縦横に探査した結果、4箇所において異常反応が認められた。その地点は、陸上に設置した2基の光波測距機と地層探査機によって正確な位置と深度が確認された。それによると、異常反応のあった地点は水深約−22mで、海底面から1〜2m下部の位置にあたることが判明した。
次に、この異常反応の内容を確認するため、浚渫船に装備された大形グラブによって、注意深く海底表面のシルトを1mほど除去することとした。慎重に浚渫を行った結果、異常反応があった4箇所のうち近接する2箇所において碇石と木片が発見された。この段階で、グラブによる浚渫から、エアーリフト使用による本調査に切り替えることとした。
本調査にあたっては、遺物が出土した地点を中心として、海底に10m×10mを1単位とする地区設定を行い、順次エアーリフトによる潜水調査を開始した。出土した遺物については、調査員による実測・写真・ビデオ撮影などの記録作業ののち引き上げた。遺物が出土した地点は、およそ水深−20m〜22mの間であった。
1号〜4号碇は、先端の部材がほぼ残存する良好な遺存状況のもので、列をなして検出された。全て同一方向に打ち込まれたものであり、また層位から見ても同一時に投錨されたものと考えられる。いずれもアカガシ製である。このうち3号碇がもっとも大きく、現存長2.6m、幅3.12mで、復元的に考えると堆定8〜9mの長さになると思われる。先端部の残りが良いのは、海底の砂層に突き刺さっていたためで、基部側は腐食や虫害によって失われている。
これらに装着されていたものを含め、碇石は合計17点出土している。花崗岩・石英班岩・疑灰質砂岩・石灰岩などの石材があり、長さ1.3m・0.7m・0.5mの3種の規格が見られる。1号〜4号碇によれば、木製碇の軸部先端にX字に歯が取り付けられているが、碇石は歯と直行するように2個が装着される形態であった。
今回の調査以前に、鷹島海底から16個の碇石が発見されていたが、それらの特徴としては、@よく整形された扁平な箱形なものが多い、A完形品はなく中央部から折れた状況で片方のみの出土である、B大形のものは少なく長さ80cm程度のものが多い、といった点が一般的に認識されていた。こうした特徴のうち、とくに半載品が多いという認識は、博多湾をはじめ西北九州の沿岸地域などから発見される碇石が、蒙古碇石とよばれる角柱状の大形の碇石であり、こうした形状が本来の姿であると考えていたからであった。しかし、今回の調査において、碇石が実際に木製碇と装着された状態で発見されたことにより、ひとつの碇に1個の碇石が装着されるという認識が誤りであり、鷹島海底出土の碇石の場合は、2個の碇石が対となって左右に装着されることが判明したのである。
碇の材であるアカガシ亜属は、中国南部、韓国南部、九州〜沖縄あたりの亜熱帯か暖帯に広く分布するもので、産地を推定することは困難であるが、花崗岩については、化学分析とK−Ar法による放射年代測定の結果、中国南部産である可能性が高いとされている。
以上のように、今回の碇の埋没状態は、かつてこの海域で大海難事故が起こった事実を示すもので、弘安4年(1281)の元寇の事実を改めて想起させる発見となった。また、今回木製碇と碇石が組み合わさって出土したが、同様な事例はこれまで東アジアの中でも報告されておらず、その構造が判明したことは、当時の船の碇の研究上極めて重要なものとして特筆される。
なお、木製碇をはじめとする木製遺物の保存処理については、平成8年・9年度に国庫補助により建設された鷹島町の埋蔵文化財センターで現在脱塩処理中である。
(3)鷹島海底遺跡の分布調査
鷹島町では町の単独事業として、鷹島海底遺跡の分布調査を平成4年度から実施している。鷹島海底遺跡として周知されている範囲は、鷹島南岸の汀線から沖合200mの幅で、南岸の総延長7.5kmにわたる。その範囲のなかで、どの地域にどのような遺物が包蔵されているのかを把握するために潜水により実施しているものである。実際の潜水作業については、九州・沖縄水中考古学協会に依嘱している。
海底分布調査は、毎年、対象となる水域に100m×50mの大地区をロープを張って設定し、そのなかについて目視による潜水調査を行うもので、遺物が見つかった場合は、位置を記録し一部をサンプルとして引き揚げている。
調査区の設定にあたっては、まず大縮尺の図上に調査区域を設定し、その上で陸上の定点(護岸の上)に設置した2台のトランシットで計測しながら、大地区の四隅の部分を決定する。ただし、実際のロープ張り作業は、陸上からの指示によって小船を移動させながら行うため、潮の止まった時間帯や風向きを十分計算しながら行っているが、多少の誤差が生じざるをえない。
一方、こうした目視のみによる潜水分布調査では、岩場に露呈している遺物は別として、基本的に砂やシルトの下に埋没している遺物を発見するのは困難である場合が多く、詳細調査のためにはこれに替わる方法が必要である。ただし、海底遺跡の場合、掘るという行為を行うには、厚く堆積しているシルトなどを除去するためのエアーリフトと呼ばれる特殊な装置が必要になるなど、小規模な確認調査を実施するだけでも、かなり大がかりにならざるをえない。また、地層探査機器による海底下の探査は、現況では機器の精度に疑問があるとともに、費用もかなり高くつくという難点がある。これらの諸問題を解決するためには、今後、高度の潜水技術をもった調査員を確保するとともに、試掘程度の小規模な調査を簡易に実施するための方法の確立が不可欠であると痛感している。今回のアンケートの結果でも、全国に多くの海底遺跡や湖底遺跡が埋没していることがわかった。
『遺跡保存方法の検討−水中遺跡−』文化庁 平成12年 より
文永・弘安の役の概要
日本再征計画 文永11年(1274)、フビライの命により日本遠征に赴いた征東都元帥の忻都が指揮する遠征軍は、大小あわせて900隻の艦船に、蒙漢軍の主力2万人、高麗軍5600人、棺工水手など1万5000人、総兵力4万6000人の大軍で博多湾に殺到したが、日本軍の激しい抵抗をうけて、遠征計画は失敗に終わる。
6年後の弘安3年(1280)8月には、日本再征に関する作戦会議が、上都の西南にある察罕脳児においてなされ、フビライを中心に、忻都、洪茶丘、范文虎らの諸将が一生に会して、以下のような作戦を立てた。まず、東路軍は高麗の合浦から出発し、江南軍は揚子江河口付近の慶元から、それぞれ出発する。両軍は日本の壱岐島において集結し、日本本土を攻撃する。出発は弘安4年(1281)の5〜6月頃とし、両軍の集結は6月中旬とする。元軍の編成は、征日本行省右丞相の阿刺罕を総司令官に、忻都を東路軍司令官(征日本都元帥)とし、蒙漢軍長(征日本都元帥)洪茶丘率いる兵力1万5000人、高屁軍長(征日本都元帥)金方慶率いる兵力1万人、高農相工水手1万7000人からなる総兵力4万2000人の大部隊で、船舶900隻で編成されていた。一方、江南軍は司令官(征日本都元帥)に范文虎、蛮軍(南宋の降兵)長に夏貴を配した総兵力10万人の大部隊で、船舶3500隻からなっていた。遠征軍の編成は弘安3年(1280)7月から蒙漢軍の再編、南宋の蛮軍の改編などを開始。兵站物資としては、長期占領に備えて、鋤鍬などの農具、種もみ、日用生活に使用する什器類も携行した。
戦闘の経緯 1281年の春、遠征間近の江南軍は、自らの情報収集によって、両軍の集合地は肥前(長崎県)平戸島が有利と判断し、集合地を壱岐島から平戸島に変更した。その変更理由は、平戸島が日本軍の防衛準備地域外にあり、船団の仮泊地に適するという判断に基づくものであった。また江南軍は総司令官である阿刺罕が病気で倒れ、新たに阿塔海を総司令官に任命するという予期せぬ事態に陥り、出発予定が大幅に遅延した。
一方、東路軍の主力は集合地の変更を知らないまま、予定より早めの5月3日には900隻の大船印が合浦を抜錨、壱岐島を目指した。5月21日、船団は対馬を攻撃、26日には壱岐島に至り、数カ月前に着任した鎮西奉行少弐経資の子、資時の手勢百余騎と交戦、これを潰滅させた。続いて前役の経験者の多い東路軍は、江南軍の到着をまたずに博多への直接攻略に踏み切った。まず別動隊300隻をもって長門(現在の山口県)を攻撃し、6月8日から9日にかけて山口県豊浦郡豊前神玉村土井ケ浜、及び黒井村八ケ浜に3500の兵力で強襲上陸し、長門守備の日本軍主力と交戦した。残りの東路軍主力は6月6日に博多湾にその姿を現し、偵察行動の結果、日本軍守備隊が沿岸に沿って石塁を構築し、強固な防衛陣地で固めていることを知り、同湾の先端部に位置する志賀島と能古島沖に錨を下ろした。この時、日本側守備隊は小型の船に分乗して夜襲を敢行している。6月8日、東路軍は志賀島に上陸し彼我の攻防戦が行われたが、13日には博多湾を退いて壱岐島に後退している。
この頃、慶元の江南軍はようやく出発の準備を整え、6月18日、別動隊300隻を先発させて集結地変更を東路軍に伝えることとし、主力は平戸島を目指して慶元を抜錨した。
6月29日、東路軍の残存部隊と江南軍の別動隊が壱岐に集結中との知らせを受けた少弐経資は、海上追撃を決意し、博多に集結中の薩摩・筑前・肥後・肥前の各部隊を指揮して攻撃。7月2日に元軍が戦闘を離脱して平戸島に向かうまで、追撃を試みている。
元軍の壊滅 7月上旬、ようやく平戸島において両軍の集結を終えた元軍は、全軍の再編成を行い、一挙に博多湾に侵入すべく7月29日に鷹島沖へ移動を完了。一方、元軍が鷹島に集結中との報告を受けた日本軍は、7月27日・28日にかけて軍船による夜襲を敢行し、元軍に多大な損害を与えている。
このように彼我の緊張が極限まで高まる中、鷹島沖に集結中の元軍に、7月30日夜半から翌閏7月1日にかけて、激しい暴風雨が襲いかかり、元軍の船団は次々と海底の藻屑と消えるという予期せぬ結末を迎える。兵士は溺死する者が多数を占め、暴風の被害から逃れた兵士も、日本軍の掃討作戦にあって壊滅的打撃を被り、遂に日本再征計画は不成功に終わったのである。その損害状況を『東国通鑑』は、「日本遠征に参加して帰還しなかった者は、元軍(蒙漢軍と蛮軍)十万有余人、高麓軍七千余人」と伝える。
この暴風雨については、最近、真鍋大覚氏(九州大学工学部助教授)が、中国南部の泉州湾の海底から引き揚げられた南宋時代の軍船(全長35m、総トン数374トン)をもとに、風と波に対する船の復原力を計算する「船舶安全基準」にあてはめて、同軍船を沈没させるほどの風速を計算したところ、風速は54.57m(最大瞬間風速)で、平均38.59m、台風の諸元を推計すると、中心気圧938ミリバール、毎秒25mの暴風圏をもつ、昭和29年の洞爺丸台風に匹敵する大型台風であったろうと推測している。