小値賀町文化財調査報告書 第16集


山見沖海底遺跡
ー小値賀町山見沖海底遺跡確認調査報告ー
2002

は じ め に

 小値賀町教育委員会は小値賀島の埋蔵文化財に対して、その包蔵地が陸上のみならず、小値賀島周辺の海底にも存在することを以前より把握していた。海底の文化財に対する関心と理解、それを裏付ける真摯な活動は今回の山見神海底遺跡の確認調査となって実を結んだ。

小値賀位置図 五島列島は古代より中国大陸あるいは朝鮮半島に近いため、対外交流の手段として早くから船を用いて活発な海上活動が行われてきた。小値賀島は歴史的、地理的環境を有効的に活用して重要な海上交流起点となりえた。そのような活動の一端を示す考古遺物に小値賀島島内で出土する中国陶磁器や周辺海底で引き揚げられた碇石などがある。小値賀島が東アジアの中で積極的な対外交流に関わるのは、8世紀頃から遣唐使船が五島列島を経由して中国大陸へと向かうようになってからであろう。五島列島から方位と緯度線上を大きくそれないように、西へ直線的に航海すれば中国大陸に到着するという地理的な小値賀島の位置と、当時の航海術に支えられていたとおもわれる。船体構造や気候条件を除外して、より安全性の高い航海を望むとすれば、航海する時間を短縮しなければならない。目的地への最短距離・短時間となる航路が最も理想となる航路となると、五島列島の最南端から渡航するか、あるいは九州沿岸を時間をかけて下り、さらに島伝い奄美、琉球列島へ南下して、そこを経由して、いっきに目的地の中国大陸に到達する最短距離を短期間に航行できる航路が採られるようになる。

 近世になると、船による海上活動が地球規模で活発になり、ポルトガルによる西回り航路の開拓や、その後に大きく東アジアの貿易に関わるオランダ東インド会社、更にイギリス、フランスも同様に中国との貿易を行う。東シナ海で西欧諸国の辿った航路は、中国のジャンクが古代より海に張り巡らした、それぞれの地域と緊密な交流関係を築き上げた航路に載ったのである。そのなかには中世に開拓された航路もあり、遣唐便船が採った航路を逆に東進して、北上し九州本土に至っている。西欧の大航海時代の経済的海上活動と中国の歴史的経済活動の中で地理的に繰り込まれたのが五島列島の小値賀島であろう。近世に平戸や長崎へ到る九州近海の航路で中国と西欧の船では異なった航路を採っているのも、東アジアで歴史的に発達してきた海上活動に根ざしているものと思われる。
 今回の調査が行われた山見沖海底遺跡では遺物の産地、種類、時期、さらに分布状況を確認することができた。しかし船体や船に所属していたと思えるものは見つかっていない。遺跡としてその性格を決めるには、まだ多くの資料に欠けていると言える。沈没したと思われる船体や船籍などもこれから解明すべき重要な課題となるであろう。またこの確認調査と平行して、唐見崎の半島の北側に位置する鵜の鳥瀬で潜水調査を行った。地元の漁師による「底引き漁の最中に碇石を網にかけ、引き揚げる途中で網が破れ、海中に落した」という情報が得られ、この碇石を確認するため調査を行ったが、発見するに到らなかった。
 小値賀島の海底で大航海時代の東アジアでの経済活動の一端を裏付ける確証を得ることができた。そのため山見沖海底遺跡の全容解明が今後必要となる。本格的な海底調査が行われるならば、小値賀島が歴史的、地理的に果たした重要な役割が水中考古学を通して海底から蘇るであろう。


第T章 調査の概要

1.確認調査に至る経緯

 小値賀島の北東に突出し、南東側の殿崎半島とともに前方湾を形成する唐見崎半島の沖合から、数点の陶器が引き揚げられたのは1992年の夏のことであった。
 小値賀島は1974年には長崎県の年間生産量の9.53%、全国の同1.26%を占めたほど豊富なアワビ資源に恵まれた島であり、伝続的な素潜りによる鮑採浦、即ち海士漁が盛んな土地柄である。換言すれば、小値賀島周辺の海底の大半は海士によって状況が把握されていると言う事である。筆者が陶磁器の大量水没地点があるという情報を得たのも、彼らからであった。内容確認のため同僚の古川学氏を通して、現地である前方郷唐見崎の通称『山見』沖の海底から宮崎俊治氏によってサンプル資料が採取されたのが同年であった。
 採取された6点の陶器が16世紀末〜17世紀初頭のタイ国ノイ川窯系の陶器であることが判明し(註1)たことによって、本海域の水没陶器が中世末〜近世初頭の平戸貿易時代に沈没した国外貿易船積載物の可能性が高いと判断された。
 国内でこうした時期の沈没貿易船発見は初めての事であり、遺跡のさらに詳細な情報を得る必要性が生じたが機会を得ぬまま10年の歳月が過ぎてしまった。そうしたおり進行する経済不況対策の一環として事業化された平成13年度「緊急雇用対策事業」に提出した計画が採用され、ようやく内容解明の一歩を踏み出したのが今回の調査である。
 「緊急雇用対策事業」は地方自治体が直営せず民間委託が原則である為、本事業は多くの実績を有する九州・沖縄水中考古学協会に委託して実施する事とし、平成13年11月1日付で同会と小値賀町長との間で委託契約を締結し、同月3日から7日にかけて潜水を含む現地調査を実施した。


註1
塚原博1994『五島列島の貿易陶磁器出土遺跡』「長崎県の考古学−中近世特集−」長崎県考古学会



2.確認調査の組織

 今回の調査は平成13年11月3日から7日まで九州・沖縄水中考古学協会が小値賀町からの委託調査により、小値賀町教育委員会および小値賀町歴史民俗資料館の協力を得て行った山見沖海底遺跡の確認調査である。調査に参加した協会員は林田憲三(会長)、塚原 博(運営委員)、野上建紀(運営委員)、小川光彦(運営委員)、横田 浩(運営委員)、山本祐司(運営委員)と石本 清(潜水士)、三浦清文(潜水士)である。調査期間中には冷たい雨や季節風が吹き、調査海域も潜水に不適な波浪のある日もあったが、無事に確認調査を終了し、多くの成果をあげることができた。調査海域への調査員の搬送および潜水中の調査海域の安全には警戒船「友弘丸」の魚屋船長に多大の協力をいただいた。また海底より回収した遺物の整理には小値賀町歴史民俗資料館の魚屋優子、馬田幸、北村ニカ、増元美紀および有田町歴史民俗資料館には大変お世話になったことを感謝したい。


第U章 遺跡の立地と歴史的環境

1.遺跡の地理的歴史的環境

 小値賀町は長崎県北松浦郡に属する。東経129度3分30秒、北緯33度12分30秒の交差点を中心として、五島列島の北部に位置し、小値賀島を中心とする16の小島と、2個の大岩礁からなっており、北は宇久島に7.5km、南は中通島に5.5km、東は九州本土に、西は東シナ海に臨む、東西23km、南北10kmの地域である。小値賀町の中心である小値賀島は、面積12.95ku、宇久島の約半分の大きさながら、低平で小面積の割には丘が多い。これは鮮新世における大陸系玄武岩類の火山活動によるもので、直径100m〜1000mで、海面上に高度100m足らずの小火山島が互いに結合してできた火山島群からなっており、そのため低高度・広面積の特異な形状を示す島となったものである。したがって地質学上では、上五島岩系の玄武岩から分化の進んだ安山岩の広い範囲をもっている。なお洪積世に火山活動が行われた宇久島、野崎島は安山岩類が主であるが、現世に火山活動がおこなわれた小値賀島は、すべて玄武岩類である。また、小値賀島の地形は、中央部に海抜104mの番岳があり、西方、北東方、南東方には火山の噴出によって生じた丘陵がある。さらに平坦ながら海岸線の出入りが多く、東方には自然の良港である前方港、南方には小値賀港がある。土層は深いものの高山や森林に乏しいため、水源には恵まれておらず、水田は少なく畑作が主である@

位置と環境 この小値賀島に人類の足跡を辿ってみると、その遡源は旧石器時代に見ることができる。最終氷期の最寒冷気には100mほどの海道が推定されるが、その等深線で陸化した五島列島は九州本土と陸続きとなり、長崎県北部と同じように人類活動の痕跡を見ることができる。特に列島最北の宇久・小値賀島には遺跡が集中している。これは風化土壌の形成が弱いこと、さらには黒曜石原産地と距離的に近いことが関係しているA。小値賀町ではオオサコ遺跡(同町斑島郷字中田)から、朝鮮半島に源を発する2万5千年前の剥片尖頭器が出土しており、ヌゲ遺跡(小値賀町納島郷納島)、玉石鼻遺跡(同町斑島郷字斑島)、などからも旧石器を散見することができるB
 縄文時代に入ると、大型魚の漁労具と考えられる石鈷状の尖頭器(後期)や、有茎石錯(後期前葉)といった刺突用具を出土する殿崎遺跡があり、環対馬海域の海浜遺跡における漁労採集のありようを見ることができるC。また、小値賀島の東方2.5kmにある、野崎島の野首遺跡は、平成2年から同5年にかけて多目的ダム建設に伴なう緊急発掘調査が実施され、縄文前期から中世にいたる約40万点にのぼる資料が得られた。特に縄文土器は轟式・野口式・阿多式・曽畑式・並木式・阿高式系・船元式・西平式・黒川式・山ノ寺式など縄文時代の各時期の土器類や、大形磨製石斧、小形定角磨製石斧、垂飾品、?状耳飾、十字形石器などが出土したD。また、小値賀島と斑瀬戸と呼ばれる150mの海峡を挟んで位置する斑島の目崎遺跡からは、縄文早期の田村式と呼ばれる山形・格子・楕円の各押型文や、薄手の粗製無文の土器群が出土する。さらに隣接する岩陰遺跡のハモキ遺跡からは、早水台式の山形押型文土器が出土することから、縄文早期段階で、九州本土と切り離された状況にあった当該地域は、九州本土との間を「舟」により往来し、交流があったことを物語る貴重な証として注目されるE 農耕文化の流入は、当該地の墓制にも変容をもたらした。小値賀島と250mの海峡を挟んで南側に位置する黒鳥には弥生時代から古墳時代に及ぶ神ノ崎遺跡がある。同遺跡は昭和57年に発見され、翌58年に発掘調査がなされた。遺構は30基あり、このうち精査が行われた8基のうち2基が弥生時代、2基が古噴時代に属し、残り4基は所属時期を特定する遺物が検出されなかった。弥生時代の遺構は板石積石棺・箱式石棺であり、支石墓の外観をもつ遺構も存在する。また、板付U式の碧棺破片が出土していることから、弥生時代前期終末にはこの墳墓群が成立していたことがうかがえる。特に20号石棺は、長軸1.55m、幅1.06mと同時期の石棺と比しても大型の箱式石棺であり、棺材は数十キロ離れた別の島の砂岩の切石4枚を使用している。また埋葬は最低5人で、従前の被葬者の頭骸骨のみを最終被葬者の枕元に集めた感じを受けるという。また、朝鮮半島南部の伽耶地方の板状鉄斧2点や、ヒスイ製丁字頭勾玉など42点の玉類が副葬されていた。こうした弥生時代の埋葬遺構では、弥生前期半ばの板付U式の土器を伴う石棺や、中期前半の棄棺が出土した殿寺遺跡(小値賀町前方郷相津)、板付Va古段階の小壺を伴った地下式板石積石棺墓や弥生中期城ノ越式の壺型土器片などを伴う板右図い璧棺墓が検出された笛吹遺跡(小値賀町笛吹郷字小渕)などがあるF。古墳時代に入ると五島列島では稀有である2つの古墳が築かれている。その一つ水の下古墳(小値賀町笛吹郷字水ノ下)は、小値賀島中央の番岳から東南に伸びる舌状台地の先端部、標高15m、海岸から50mに築造された7世紀代の横穴式古墳であるが、既に墳丘も原形を失っており、周囲も削平を受けていた。出土遺物は平瓶、横瓶、台付直口瓶など須恵器10点、碗、皿など土師器3点、鉄器数片が検出された。もう一つの神万古墳(小値賀町前方郷相津)も、封土は流失し周囲が削平されており、羨道部と玄室下部の一部を残すのみであるが、出土した須恵器の編年から、6世紀代の横穴式石室をもつ15m前後の円墳であったことが推定されている。また、先述した神ノ崎遺跡からは古墳時代の地下式板右横石室墳が確認されている。この墳墓形式は隼人の墓ともよばれ、熊本県南西部から鹿児島県北西部にみられる地域性のつよいもので、これら地域外での確認例は、この神ノ崎遺跡と佐世保市官の本遺跡、有川町浜郷遺跡、宇久町松原遺跡の4例のみである。なお、31号石棺の周辺からは5世紀中頃の「縄庸文土器」と呼ばれる伽耶系陶質土器の破片20点が出土しており、先ほどの20号石棺出土の伽耶地方産板状鉄斧と考え合わせると、朝鮮半島との間に盛んな交流があったことがうかがえるGH
 中国大陸の先進文化を摂取しようと派遣された遣唐便の船団は、大宝2年(702年)から、それまでの北路と呼ばれた朝鮮半島西部沿岸ルートから、五島列島・南島経由の南島路に変更される。ちょうど時を同じくして、慶雲元年(704年)には小値賀島前方郷近浦にあった地の神島神社から、相対する野崎島に奇魂を分詞して沖の神島神社が創建され、延暦15年(796年)には浄善寺が創建されている。これらは大陸までの安全航行を祈願するために重要であっただけでなく、飲料水や食糧の補給地としても重要であったに違いない。すなわち五島列島に遣唐使船が寄港した場所は、宇久島、相子浦、合蚕の田の浦、庇良島、美弓爾良久といわれており、現在それらの比定地は、相子浦が青方に、合蚕の田の浦が久賀島の田の浦と対岸の奥浦湾に、美禰良久が三井楽にそれぞれ推定されているが、宇久島は宇久町の神ノ浦港が考えられるという。これらの地域には7世紀末から8世紀末にかけて、6つの神社すなわち、福江島の地主大神宮(695年)白鳥神社(698年)大津妙見社(701年)、日ノ島の横須賀熊野社(701年)、小値賀島の地の神島神社と沖の神島神社、奈留島の奈留島神社(9世紀前半)と、2つの寺、福江島の大宝寺(701年)と小値賀島の浄善寺(796年)が創建されていることからも、航路上の要衝に位置する良港を鎮守する目的があったことが何えるI
 小値賀島中村地区には、11世紀後半から12世紀初頭にかけて築かれたと思われる膳所城跡がある。昭和61年の調査で、西部に大規模な空掘や、城内に大小の土塁、井戸跡、掘立柱の柱穴が確認され、11世紀後半から16世紀代の中国製陶磁器や、14世紀から15世紀代の朝鮮製陶磁器が確認された。なお、松浦氏が五島列島に勢力を伸ばす以前に、こうした城館を構えた勢力としては、宇野御厨荘(北松浦郡から南松浦郡にいたる大荘園)の内五島列島の荘官であった清原氏が想定される。清原氏は1152年、清原是包の高麗船への海賊行為により失脚し、その後、小値賀島は明治時代にいたるまで約700年にわたって松浦氏が支配することとなった。なお、小値賀島の唐見崎には山塊全体を要塞化した本城岳城跡があり、こちらは昭和60年の確認調査で、石墨の根石、空堀、帯郭、石敷、段築といった城郭遺構が確認されており、中世松浦党に関わる遺跡と推定されているJ
 日本海沿岸から玄海灘、沖縄諸島にかけて広い分布を示す中世船舶の停泊用具である碇石は、小値賀島周辺からこれまでに6本が引き揚げられており、いずれも中国沿岸部で確認されている角柱型に整形されたものである。平戸市松浦史料博物館所蔵の「平戸瀬戸筋図」(享保3年・1718年)に示された外国船来航航路によれば、唐船は小値賀島を通って五島灘に入り、平戸島の西を通って南下し、長崎に至るルートが、また、中国船以外の夷国船は、五島列島の南方海上を東進し、長崎に至るルートが示されている。こうした史料から、唐船の当該地来航は、比較的頻繁におこなわれていたことが推測され、碇石もこれら中国交易船を物語る資料として注目される。なお、平成4年には前方郷唐見崎の通称「山見」沖から、16世紀〜17世紀初頭のタイ国ノイ川窯系の陶器など6点が引き揚げられており、これら舶載陶器の存在も碇石の検出と合わせて、当該地における外来文化との接触を雄弁に物語るものといえよう。


2
@ 小値賀町郷土誌(16頁〜21頁) 小値賀町教育委員会 昭和53年
A 原始・古代の長崎県(通史編)(174頁)長崎県教育委員会 平成10年
B 小値賀島史の概要 (5頁〜6頁)塚原博 長崎ウェスレアン短期大学平成12年
C 原始・古代の長崎県(通史編)(266頁・275頁)長崎県教育委員会 平成10年
D 町内遺跡分布調査T 小値賀町文化財調査報告書第5集1985年
E 神ノ崎遺跡 小値賀町文化財報告書第4集1984年
F 原始・古代の長崎県(資料編T)(614頁〜627頁)長崎県教育委員会 平成10年
G 原始・古代の長崎県(資料編T)(628頁〜632頁)長崎県教育委員会 平成10年
H 小値賀島史の概要(19頁〜20頁)塚原博 長崎ウェスレアン短期大学 平成12年
I 小値賀島史の概要(22頁〜24頁)塚原博 長崎ウェスレアン短期大学 平成12年
J 小値賀島史の概要(27頁〜29頁)塚原博 長崎ウェスレアン短期大学 平成12年


2.山見沖海底遺跡

 小値賀島は北東部に東へ距離にして約1.8km突き出た小さな半島がある。この半島の付け根は南北両側から海岸が迫り、幅が約100mの狭い陸地橋を形成している。ここから東へ行くと徐々に標高を上げ、その頂は標高111.3mの本城岳となる。本城岳の北側は切り立った崖となり、陸地の先端は急激に海へ落ちる。南側は緩やかな傾斜から陸地は海岸へ至る。1km程東になると、半島の地形は南の前方湾へ折れ曲がり、その付け根に唐見崎の浅い入り江がある。この人り江は南側に溶岩が海へ流れ出した玄武岩の岩塊によって作り出されたものである。北および南東からの季節風を避けるに適した地形となっているため唐見崎港はこのように地理的環境下で港の整備が進んできた。唐見崎港には小規模の造船業もあるが、現在は造船より船の修理などが主な仕事となっている。

山見沖位置図 唐見崎から東へ直線にして約400mで半島の先端に至る。半島の先は溶岩が海へ流れ出し、玄武岩の岩塊が周辺の海岸線を形成している。玄武岩の岩塊はさらに海底へと断続的に延びてゆき、海底に砂地の場所と岩塊の場所を作り出している。山見沖海底遺跡の北側の海岸には陸地より海へ張り出した岩塊があり、昭和初期の小値賀島の海図にはその場所が「潮上セ」となっている。この潮上瀬は岩塊が海面上に姿を現し、満潮時には姿を消す。このような瀬は岸に近い場所にあるため、現代の船にとっては航行の妨げにはならないが、古代より近代まで船がその動力を風や擢に頼っていた時代では季節風や潮流によってはこの岩礁は厄介となったであろう。海図に載っていないとなればさらに危険度は増すことになる。また遺跡の南にも陸地から突き出た「膚見崎鼻」があり、付近の海には干潮時にも海面に現われない暗岩が多くある。このような海域は船の航行にもっとも危険な場所である。
 半島の先端から約1.6km海で隔てた東に野崎島がある。半島と野崎島の間の水路は九州本土と五島列島を結ぶ定期船の航路にもなっていて、船の航行が盛んである。この水路は最も深い場所で水深29mを超えない。海の底質は砂もあるが、殆ど岩である。そのためこの付近の海域の漁は底引き網の漁ではなく刺し網漁あるいは海士による潜水漁となる。
 山見神海底遺跡の海底は玄武岩の岩塊が砂地の海底に散在している水深の浅い場所に立地している。水深5mの等深線は海岸から約200m沖にあり、船舶の航行に危険な浅い海が沖合いまで続く。潮流は大潮時に1.5ノットと激しく、透明度はあるものの潜水は困難である。今剛毎底で確認した遺物はすべて岩塊の隙間や岩塊と砂地との境、あるいは岩塊が周りを囲んでできた狭い砂地の中で発見された。遺跡周辺の砂の堆積は薄いため、海底にあった遺物も海底下深く埋没することは考えられない。多くの遺物は海底面に露出した状態で現在に至っている。その間、彼の作用などで遺物の表面はかなり摩滅している。今回の調査では陶磁器類のみが回収されているが、これら以外の遺物がこの遺跡には存在するのか、遺跡の性格を決める上でも今後も山見神海底の調査が必要となるであろう。


第V章 確認調査の記録

1.確認調査の方法

 小値賀町教育委員会には小値賀島の北東に位置する唐見崎の野崎島に面した地点、小値賀町前方郷唐見崎小字松之下・吉野浦地先公有水面海底通称ツボアテ、あるいは通称「山見」の海底で1992年に地元の海士により引き揚げられたタイ陶器壺や陶製臼など6点が届けられていた。
 確認調査の目的はタイ陶器が採集された山見神海底遺跡の遺物の分布範囲を調べ、遺跡から出土する遺物の組成、産地、年代を知ることであった。確認調査の性格上、サンプルとして遺物の回収は限られた破片数となり、その数は87点(個体数85)となった。また陶磁器以外の遺物資料、例えば船体の一部、碇、バラストとなる川原石群、あるいは大砲といった船に装備されていたと想定可能なもの、軍船あるいは商船か、国内を含めて中国船かあるいは西欧の船舶なのかといったこれらの疑問に対しては今回の調査では十分な資料が得られなかった。しかし野上は「回収遺物に関する考察」のなかで陶磁器の年代、大量出土の同一器種、限定された遺物の分布範囲から沈没船の積荷の可能性を述べるとともに、その積荷から船が小値賀島に来る以前の商業活動や船籍まで言及している。
 今回の調査では1992年に遺物が引き揚げられた地点を広く含む区域100×100mの範囲が山見沖海底遺跡として小値賀町教育委員会により1/2,500の地図に印されており、確認調査区域を比較的狭い範囲に絞り込むことができた。調査区の設定には、予め遺物の発見が予想される場所を前回引き揚げた遣物の位置付近として、調査区域のほぼ中央に南北方向のベースラインを海底にロープを用いて設置し、このベースラインの両側の海底(陸地及び沖側)で遺物確認を行うことにした。調査区は先ず南北基本ラインである距離100mのベースラインを海岸線とほぼ平行に岸から約100m沖合の海底に設置し、それぞれの端に径20mmのオレンジ色のブイを印につけ、潮位に影響を受けず、海面に常時現れるようにブイロープの長さを調整して海面に設置した。調査区域は南端より警戒船をゆっくり北東に進め、前回の遺物採集地点と考えられる地点を含む区域を確認調査対象区城にして、ブイを投入した。調査区を示すベースラインのロープの北端と南端となるブイの位置は警戒船のDGPS(全地球測位システム、補正機能付)使って、その位置を測った。DGPSによる北端のブイの位置は33゚12.220′、129゚06.013′、南端のブイは33゚12.192′、129゚05.965′を測った。また南北2点間ブイの距離は102.915mとなった。しかし海底で設置したロープは補正して距離100mにした。海底のベースラインは真北より約36.5゚東へ偏している。海底に設置したベースラインとしての距離100mロープの北端は今回の確認調査区域の基準点とした。この基準点は鉄釘を岩に打ち込んで、これを基準杭とした。この100mのベースラインには10m間隔に距離を印して、ロープに付けた。基準点(0,0)の北側にベースラインをさらに20m延長して、調査区の北側に広がりをみせる遺物の範囲を記録した。さらに基準点より東西方向にもそれぞれ30mの距離を延ばし、東西方向の遺物範囲の広がりに備えることにした。調査で遣物を確認した場合には、その位置が海面に待機している警戒船の乗員にも分かるように、小さな赤色のブイを掲げることにした。調査区域は南から北へと潮の流れが激しく、調査期間中は殆どこの激しい流れは収まらなかった。そのため調査は南端を印したブイ地点(0,100)から潜水を開始して、海底を目視しながら調査区の北側へと移動した。
 遺物の分布状況は海底で確認した遺物をサンプルとして意識的に回収したため「Fig.4 遺物回収地点位置図」はこの海底遺跡の遺物の分布状況を正確に反映していないが、分布していない地点を含めて以下のことが言える。ベースラインに沿って60mから100mの間では遺物は殆ど確認されなかった。60mから80m付近では岩の底質で、80mから100m付近は砂の海底に岩が点在する。60m付近より北側では、底質も砂から岩に変わり、40m付近からは岩が密集する状況になる。60m付近から沖側10m、陸地側20mの範囲に遺物も薄く分布し始める。ベースライン北端の基準点(0,0)を中心に半径10m以内の海底は岩礁が密集して、遺物も集中していることが確認できた。匝川又した全遺物87点のうち、84点はこの集中した範囲からのものである。基準点より北側20m付近までが遺物が確認できる範囲である。それより北側の海底は砂地となり、海底面では殆ど遺物は確認できない。今回の遣物ではタイ陶器・土器が74点で、そのうち、2点は他の長頸壺や四耳壺と同一固体であるため、計72点がタイ産となる。中国産陶磁器は8点、その他土器類が3点ある。しかし3点のうち、2点はベトナム産の可能性のある遺物である。また他の遣物と年代の異なる肥前磁器2点が回収されている。しかし今回行った調査区では所謂西欧関係の遺物は確認されなかった。限られた回収遺物ではあるが、西欧諸国の船舶はこの海底遺跡とは結びつかないであろう。中国あるいは日本の船舶の可能性が大きいと思われる遺跡である。

PL.1 調査地点北側風景
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PL.2 調査地点南側風景
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PL.3 海底の岩に基準点(0,0)釘の設置風景
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PL.4遺物の目視調査風景
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PL.5 回収遺物の計測風景
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PL.6 鵜の鳥瀬と潜水調査地点を示すブイ
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2.回収遺物

 陶器、土器、磁器が確認され、計87点回収されている。目視調査の後、簡易的な測量を行いながら回収したものであり、その回収量の比率は製品の比率をそのまま示すものではない。遺物の種類を把握するためのサンプルとして回収を行ったものであり、年代を特定しやすい中国青花製品などを重点的に回収しているからである。目視調査の範囲では、壺類が大半を占めていることが確認された。その中でもタイ産と推定される四耳壺が最も量が多いと思われる。

PL.7 基準点と遺物の表採地点を示すブイ
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PL.8 中国青花磁器長頚瓶のP1地点出土状況
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PL.9 肥前磁器蓋のP2地点出土状況
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タイ陶器壺のP3地点出土状況
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PL.11 中国青花磁器皿のP4地点出土状況
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PL.タイ四耳壺のP5地点出土状況
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タイ陶器壺と中国青花磁器壺のP6地点出土状況
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PL.14肥前磁器瓶のP7地点出土状況
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PL.12 タイ陶器足付臼のP8地点出土状況
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PL.16 ハンネラ土器蓋のP9地点出土状況
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PL.17 陶器蓋のP10地点出土状況
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PL.18 中国青花磁器碗のP11地点出土状況
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PL.19 タイ陶器足付臼のP12地点出土状況
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PL.20 中国陶器四耳壺のP13地点出土状況
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PL.21 タイ陶器足付臼と陶器壺破片群のP14地点出土状況
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PL.22 タイ陶器鉢のP15地点出土状況
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PL.23 タイ陶器壺のP16地点出土状況
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PL.24 タイ四耳壺と陶器壺破片群のP16地点出土状況
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 以下、遺物の種類ごとに説明していきたい。

1)陶  器
 @ タイ陶器

 壺(1〜17)、鉢(18〜31)、足付臼(32〜33)、蓋(34)が確認される。壺は回収遺物の中で最も多い器種であり、鉢はそれに次ぐ。
 1〜17は焼締陶器壺である。多くは四耳壺と思われる。1〜5は口綾部を含む破片、6〜10は肩部あるいは胴部の破片、11〜17は底部を含む破片である。残念ながら全体形が復元できるものはないが、口線形態などは頼伸一郎氏の分類によるV型式あるいはW型式に類似する。氏はV型式の年代を16世紀第4四半期と推定し、W型式は堺環濠都市遺跡の慶長20年(1615)の焼土層から多く出土するとする(續1989、p129)。そして、生産地としてはタイのノイ川流域の窯跡群が知られる。その中のプラ・プラーン窯跡が発掘調査されており、森村健一氏は堺環濠都市遺跡などで出土するタイ四耳壺などはプラ・プラーン窯跡の出土品と酷似するとしている(森村1989、p146)。また、当海域で回収されたタイ産四耳壺と類似した製品が出土している沈没船資料としては、セントヘレナ島沖で1613年に沈没したヴイテ・レウ号、フィリピン沖で1600年に沈没したサンディェゴ号、タイ湾で16世紀末〜17世紀初に沈没したと推定されるコー・シーチャン1号沈船など少なくない。

  1(PLs.25・26)は他の壺と比べて小振りであり、肩部の張りもない。口緑部はやや外反した玉線状を呈する。頚部と肩部の間に凸線がめぐる。把手が2箇所残っており、斜め上方に向かって張り付けられている。外面と内面の口部付近は茶褐色を呈し、胎土は灰色で中央部は薄赤紫色を呈する。


PL.25

PL.26

 2(PLs.27・28)はV型式に類似するが、口綾部がやや外反しており、U型式にみられる断面「コ」宇状の口緑部の形状を残している。頚部と肩部の間に明確な凸線がめぐり、肩部には3条の沈線がめぐっている。把手が一つ残るのみであるが、直立するように貼り付けられている。外面は赤みがかった灰色を呈し、内面には黒い小斑点が浮かぶ。胎土は目が粗く、赤褐色を呈する。


PL.27

PL.28

 3(PLs.29・30)はV型式に類似する。口緑部はほとんど外反せず、玉緑状の口縁への過渡期の製品とされる。頚部と肩部の境に凸線がめぐり、肩部には3条と5条の沈線が2段にわたってめぐる。外面は灰白色、内面は赤みをおびた灰褐色を呈する。外面には黄白色のものがかかる。胎土は薄赤紫色であり、外面に近い部分は灰色を呈している。


PL.29

PL.30

 4(PLs.31・32)は玉線状の口綾部を有するW型式に類似する。頚部と肩部の間に凸線がめぐり、肩部には4条の沈線がめぐっている。把手は付け根の一部が残る。内外面に黒い小斑点が浮かぶ。胎土は薄赤紫色であり、外面に近い部分は灰色を呈している。


PL.31

PL.32

 5は玉線状の口緑部を有するW型式に類似する。把手は付け根の一部が残る。頚部と肩部の境に凸線がめぐり、その凸線に接するように3条の沈線がめぐる。外面及び内面口部付近に黒褐色釉がかかり、内面には黒い小斑点が浮かぶ。胎土は目が粗く、赤みをおびた灰色を呈する。

 6(PLs.33・34)は胴部上半部から頚部にかけて残っている。把手は付け根の一部が残っている。頚部と肩部の境に凸線がめぐり、肩部には3条の沈線がめぐる。外面は黒褐色釉がかかるが、釉が熔けだれている。


PL.33

PL.34

 7は頚部下部から肩部にかけて残っている。頚部と肩部の境の凸部は明瞭でなく、肩部には沈線が7〜8条めぐっている。把手は直立するように貼り付けられている。外面は黒灰色を呈し、黄白色に表面が塗られている。胎土は外面に近い部分は黒灰色、中央部は赤紫色を呈する。

 8(PLs.35・36)は胴部中央部から肩部にかけて残っている。頚部と肩部の境の凸線、肩部の沈線ともに不明瞭である。把手はほぼ直立するように貼り付けられている。外面は灰色、内面は赤みをおびた灰色を呈し、把手部は黄白色に塗られている。胎土は精微で赤みをおびたベージュ色、外表面に近い部分は灰色を呈する。


PL.35

PL.36

 9は胴部上半部から肩部にかけて残っている。肩部には4条の沈線がめぐる。外面は暗灰色で黄白色に塗られている。内面は赤みをおびた灰色で黒い小斑点が浮かぶ。胎土は黄赤褐色を呈し、目が粗い。

10は底部に近い部分の胴部下半部が残っている。外面は灰色で黒い小斑点が浮かび、上部は黒褐釉がかかる。内面はベージュ色に黒い小斑点が浮かぶ。胎土は日の粗い灰色である。

11〜17は底部が残る破片である。11(PLs.37・38)は平底で底部外面に焼成時の熔着痕が見られ、内底面には黒褐釉が塗られている。内外面ともに黄灰色を呈する。胎土は自っぽい灰色を呈している。


PL.37

PL.38

12は平底で内面に削り調整痕を残す。内底面には黄色を呈するものが塗られている。内外面ともに表面は灰色を呈し、黒い小斑点が浮かぶ。胎土は赤みをおびたベージュ色で目が粗い。

13は平底で内面に丁寧なナデ成形痕が見られる。外面は赤みをおびた灰色、内面は赤紫がかったベージュ色を呈している。胎土は白色土を含む赤いベージュ色を呈している。

14(PLs.39・40)は平底で内面に削り調整痕を残す。内底面には黄色を呈するものが塗られている。内外面ともに赤みをおびた灰色を呈しており、胎土は赤みをおびたベージュ色で、白色土が含まれる。


PL.39

PL.40

15は平底で内面にナデ調整痕を残す。内外面ともに赤茶色を呈する。胎土は中央部が赤みをおびたベージュ色を呈しており、白色土を含む。外面に近い部分の胎土は灰色を呈する。

16(PLs.41・42)は平底で内面に削り調整痕を残す。内底面に黄色及び暗褐色を呈するものが塗られている。焼きが甘く、外面は灰色、内面はベージュ色を呈し、内外面ともに黒い小斑点が浮かぶ。胎土は黒色粒を含み、白っぽい肌色を呈している。


PL.41

PL.42

17は平底で外底面には熔着痕が残る。内面にはナデ調整痕を残す、内底面には黒褐色釉が塗られている。内外側面ともに赤みをおびた灰色を呈しているが、外底面は赤茶色である。胎土は内面側が灰色、外面側が赤みをおびたベージュ色で白色土を含む。

18〜31は焼締陶器鉢である。全体形を復元できるものはほとんどない。体部から口緑にかけて断面S字状の形を呈しており、底面は平底である。口縁形態は大きく3種類に分けられる。一つは口部上面の内側を削り、口部上面に浅い段を有するもの(18・19)、一つは口部上面に稜をもつもの(20)、もう一つはロ部上面に明確な稜をもたないもの(21〜25)である。

18(PLs.43・44)は口部上面の内側を削り、口部上面に浅い段を有する。断面S字状に張り出した胴部の部分には明瞭な2条の沈線がめぐる。内外面は灰色がかった赤茶色を呈している。胎土は灰色を呈する。


PL.43

PL.44

19も18と同様にロ部上面の内側を削り、口部上面に浅い段を有する。断面S字状に張り出した胴部の部分には2条の沈線がめぐる。内外面は灰色であり、胎土も大部分は灰色であるが、一部赤茶色を 呈する。

 20(PLs.45・46)は口部上面に稜を有する。断面S字状に張り出した胴部の部分には1条の沈線がめぐる。内外面ともに灰色がかった赤茶色を呈しており、胎土は灰色〜赤茶色を呈する。


PL.45

PL.46

 21(PLs.47・48)は口部上面に明確な稜を有しない。断面S字状に張り出した胴部の部分には2条の沈線がめぐる。内外面ともに灰色がかった赤茶色を呈しており、胎土は灰色〜赤茶色を呈する。


PL47

PL.48

 22は口部上面に明確な稜を有しない。断面S字状に張り出した胴部の部分には1条の沈線がめぐる。外面は黒灰色、内面は赤茶色を呈する、胎士は赤茶色を呈する。

 23は口部上面に明確な稜を有しない。断面S字状に張り出した胴部の部分には2条の沈線がめぐるが、あまり明瞭でない。外面は黒灰色、内面は赤茶色を呈する。胎土は赤茶色を呈する。

 24は口部上面に明確な稜を有しない、断面S字状に張り出した胴部の部分には2条の沈線がめぐる。外面は黒灰色、内面は赤茶色を呈する。胎土は赤茶色を呈する。

 25は今回の回収遺物の中で唯一、口緑部から底部まで残っていた焼締陶器鉢であるが、摩耗が激しい。内外面は赤みをおびた灰色であり、胎土は灰色を呈し、黒色粒を含んでいる。

 26は内面に轆轤削り痕を明瞭に残したままであり、鉢の底部片ではなく、壺の底部である可能性もある。内外側面ともに黒灰色であり、黒い小斑点が浮かぶ。外底面は黄茶褐色を呈する。焼成は良好で固く焼き締まっている。

 27〜31は底部片である。27と31と回収後、接合した。内外面ともに赤みがかった灰色を呈しており、黒い小斑点が浮かぶ。胎土は灰色を呈しており、焼成は比較的良好である。

 28は外面が紫がかった黒灰色を呈し、内面は薄い赤茶色を呈している。胎土は赤紫色を呈し、白色土を含んでいる。

 29は外面が黒灰色を呈しており、内面は赤みがかったベージュ色を呈している。胎土は赤みがかったベージュ色を呈しており、白色土を含んでいる。

 30は外面が赤みがかった灰色を呈し、内面は赤みがかったベージュ色を呈している。胎土は赤みがかったベージュ色を呈しており、白色土を含んでいる。

 31はすでに記したように27と接合したので重ねての説明は避ける。

 32・33は足付臼である。いずれも平底で口部はやや内側に窄まっている。香辛料などをすりつぶすための道具とされており、タイなどでは現在でも使用が見られ、「クロッ」と称されているという。足付臼はタイ国内ではロツプリ遺跡、アユタヤ遺跡などでも出土している。一方、日本国内では出土例は確認されていない。

 32は摩耗が激しいが、ロ部外側に2条の沈線が確認される。内外面ともに灰色〜黄色を呈する。胎土は灰色を呈している。

 33(PLs.49・50)はほぼ完全な形で残っている。口部外側には2条の沈線がめぐり、外側面には十字形の窯印が刻まれている。内外面ともに赤みをおびた灰色を呈する。


PL.49

PL.50

 34(PLs.51・52)は陶器蓋である。上面中央部の摘みは欠損しているが、付け根の一部が残っている。上面の端部に3条の沈線がめぐり、上面中央部には同心円状の5条の沈線が刻まれている。外面の上面は緑がかった黄土色を呈し、外側面は黒褐色を呈する。胎土は赤紫色で白色土を含んでいる。身の種類は不明である。


PL.51

PL.52

A 中国陶器

 35(PLs.53・54)は中国南部産と推定される四耳付壺である。肩部が部分的に焼きゆがんでいる。内外面に黒褐釉が掛けられている。胎士は緻密でやや灰色がかった白色を呈している。その他、中国南部産の壺の胴部破片と推定されるものが3〜4点確認されている。(PLs.55・56)それらは濃い緑がかった褐釉が掛けられたもの、外面無釉のものなどが含まれるが、外面無釉のものについては摩耗したことで釉が剥がれ落ちてしまった可能性もある。


PL.53

PL.54

PL.55

PL.56

B その他

 PLs.57・58は壺の胴部の破片である。比較的焼成も良好で固く焼き締まっている。内面にはナデ調整痕が残る。外面は褐色を呈し、黄色を呈するものが塗られている。内面はやや紫がかった褐色を呈している。胎土は綴密で外面に近い部分は暗灰色、内面側はやや紫がかった褐色を呈している。續伸一郎氏の御教示によると、ベトナム産の陶器壺の胴部の可能性があるという。

PL.57

PL.58

2)土器・その他
 @ 半練(ハンネラ)

 いわゆるハンネラの土器壺の蓋と身が回収されている。

 36(PL.59)は蓋である。土師質で黄褐色を呈する。まだらに黒い小斑点が浮かぶ。

 37(PL.60)は身の頚部から上部のみ残っている。口部上面に1条の沈線を有する。土師質で黄褐色を呈する。まだらに黒い小斑点が浮かぶ。


PL.59

PL.60

 A その他

 38(PLs.61・62)は身の頚部から上部のみ残っている。形状は37と同様であるが、焼成は良好であり、土器というより陶器に近い。口部上面に1条の沈線を有する。内面にはナデ成形痕が残る。外面は灰色がかったベージュ色を呈しており、内面は赤みがかったベージュ色を呈している。胎土は赤みがかったベージュ色であり、内外面ともに黒い小斑点が浮かぶ。


PL.61

PL.62

 39は移動式竃の一部と推定される。他に移動式竃の一部と推定される遺物が2点確認されている。あるいは同一個体の可能性をもつ。PL.63は煮炊き用の容器の底を支える突起が見られる。PL.64は底部片と思われる。いずれも内外面、胎土ともに黄褐色を呈し、胎土は目が粗く、砂を多く含んでいる。移動式竃は国内では堺環濠都市遺跡(SKT4地点SXOO3)、大坂城大手門地区などで出土が確認されるが、コー・シーチャン3号沈船遺跡などタイ湾の沈没船資料でも確認されている。これに類似した形態の竃は、現在でも東南アジアでは広く見られるものである。カンボジアにおいてはコンポンチャムで生産されており、そこでは野焼きによって生産されている。


PL.63

PL.64

 40は壺の底部と思われる。土師質であるが、あるいは焼成不良の陶器である可能性もある。摩耗が激しいが、内面に轆轤削り痕が確認される。内外面、胎土ともに赤みをおびたベージュ色を呈しており、黒い小斑点が浮かぶ。

 41(PLs.65・66)は器種不明の土師質の土器である。全体形は不明であるが、残存部は半球状を呈しており、摩耗が激しいが、内面には轆轤削り痕が見られる、内外面、胎土ともに赤みがかった黄褐色を呈している。續伸一郎氏の御教示によれば、外面に欠損している部分があり、この箇所に摘みがあったのであれば、ベトナム中部の焼締陶器蓋である可能性も考えられるという。


PL.65

PL.66

3)磁  器

 @ 中国磁器

16世紀代の中国青花磁器が4点確認されている。器種は碗、皿、瓶などである。

 42(PLs.67・68)はいわゆる饅頭心形の碗で、見込み部分が盛り上がっている。見込みに唐人を描き、高台内には「大明年造」銘が入る。胎土は緻密で白色を呈している。景徳鎮系の製品で年代は16世紀後半と推定される。


PL.67

PL.68

 43(PLs.67・68)は焼成不良のため文様は確認しづらいが、見込みには花唐草文と思われる文様が入る。高台内には2本の染付圏線が入り、銘の一部が確認できるが読み取れない。見込み中央部はわずかに凹んでいる。景徳鎮系の製品で年代は16世紀後半と推定される。

 44(PLs.69・70)は青花皿である。折線状に成形されており、口緑の端部は輪花形に削られている。内側面は縞が入る。そして、見込みには丸に十字を中央に配し、唐草文がその周囲に措かれている。胎土はくすんだ灰色を呈している。景徳鎮系の製品で年代は16世紀前半〜中頃と推定される。当海域で回収された中国磁器の中で最も生産年代がさかのぼる可能性をもつ製品である。

 45(PL.71)は青花瓶である。頚部から口部にかけて残存する。内外面ともに施釉され、頚部の付け根部分で接いで成形した痕跡が見られる。頚部から胴部にかけては縦の凸線で8つの区画に分けられており、それぞれの区画に花弁文などを措いている。頚部は上から3段に分けて蕉葉文、松文、花唐草文などを描いている。胎土は白色を呈する。景徳鎮系の製品で年代は16世紀後半と推定される。


PL.69

PL.70

PL.71

 A 肥前磁器

 肥前磁器が2点確認されている。生産年代は19世紀あるいは19世紀以降であり、これまで述べてきた遺物の年代とは大きな隔たりがある。器種は瓶、蓋付碗の蓋などである。

 46(PL.72)は波佐見産(長崎県波佐見町)と推定される丸胴形の染付瓶である。内面には削り調整痕が残る。外面胴部に竹笹文が描かれている。胎土は灰色がかった白色である。19世紀と推定される。

 47(PL.72)は肥前産の染付蓋である。蓋の摘みの上端部のみ釉剥ぎされている。外面に松文の一部と思われる文様が描かれており、内面に焼成時の熔着痕が見られる。胎土は白色である。19世紀以降の製品と推定される。


PL.72

4)回収遺物に関する考察

 回収された遺物は、水面下5m程度の海底の岩礁地帯に分布していた。潮の流れの速い水域でもあり、海底において遣物がかなり移動している可能性が高く、原位置を保っているものは少ないと推定される。実際に比較的距離が離れたP3とP16で回収されたそれぞれの陶器鉢が同一個体のものであることが回収後、確認された。
 回収遺物の推定産地は、タイ、ベトナム、中国、肥前などである。これらは16世紀〜17世紀初のなかに収まるタイ、ベトナム、中国の製品と、19世紀以降の肥前産の製品に分けられる。肥前産の磁器は他の製品の年代と大きくかけ離れていることから、後世に水没したものと推定される。また、その量から考えて、沈没船に伴うというよりは船上からの投棄品の可能性が考えられる。あるいは陸地に極めて近い箇所に遺跡が位置しているため、陸上の生活品が流出したものである可能性もある。その他については一括して水没した可能性をもつが、個々の遺物の全てがそうであるかについては確認できない。比較的年代推定が可能な中国青花やタイ産四耳壺の年代をみてみる。中国青花は16世紀前半〜中頃の青花血を除けば、16世紀後半を中心としたもの、とりわけ万暦年間頃の製品である可能性が高い。タイ産の四耳付陶器壺については、堺市環濠都市遺跡の出土例と比較すると、16世紀第4四半期〜17世紀初のものである可能性が高い。推定年代はいずれも近似しており、極めて限られた範囲に同一形態の製品が大量に確認されることを考えると、沈没船の積荷である可能性が高い。
 それでは、どういった沈没船であったのであろうか。まず、積荷の中でも商品と推定されるものからみていく。回収遺物及び海底で確認された遺物の主体となっているのは、タイ四耳付陶器壺である。積荷の商品の主体もその内春物を含めてタイ産の物資である可能性が高い。同じくタイ産と推定される焼締陶器鉢もそれに伴うものであろう。問題となるのは、量的には少ないが、ベトナム産、中国産と推定される製品群である。
 すなわち、タイからの物資をその積荷の一部としたことは確かであり、タイから積み出されたものと推測されるが、タイ〜ベトナム〜中国と寄港しながら、日本に向かったものであるのか、あるいは中国からベトナムやタイなどの東南アジアヘ行って荷積みし、日本に向かったものであるのか、あるいは日本から中国〜ベトナム〜タイヘと渡り、その帰途沈没したものであるのか、現時点では確証がない。
 次に商品ではなく、船上の使用品と推定される製品について考えてみる。一つは足付臼である。これまで国内の消費遺跡で出土した例を知らないため、船上での使用品である可能性を考えることができる。ただし、オランダ商館のあった出島の図には、「クロッ」を使用している調理風景が措かれており(註1)、平戸のオランダ商館などに持ち込まれる商品であった可能性が全くないわけではない。これらの「クロッ」が商品であるのか、使用品であるのか、判断するためには今後はその量が問題となろう。今回の回収遺物を含めて、これまでに当海域では4点引揚げられている。
 移動式竃も商品と考えるよりは、船上での使用品と考える方が妥当であろう。船上で煮炊きし、調理するのに適しており、タイ湾などの沈船資料の中にも見られる。前述したように国内の出土例もわずかながらあるものの、商品として積極的に持ち込まれるようなものではないと考える。
 よって、現在のところ、船上の使用品と推定される製品はタイ産のものである可能性が高く、乗組員の中にタイ人が含まれていたことを推測させる。今後、この沈没船の船籍を考える上でも重要な資料となろう。

 なお、これらの回収遺物については、佐々木達夫(金沢大学文学部)、大橋廉二(佐賀県立九州陶磁文化館)、續伸一郎(堺市立埋蔵文化財センター)、森村健一(堺市立埋蔵文化財センター)の各氏から多くの御教示を得た。


註3

川原慶賀19世紀前半唐蘭館総巻・蘭館調理室図

参考文献

續伸一郎1989「堺環濠都市遺跡出土のタイ製四耳壺」『貿易陶磁研究』No.9 日本貿易陶磁研究会 pp.123−133
森村健一1989「16世紀〜17世紀初頭の堺環濠都市遺跡出土のタイ四耳壺一夕イでの窯跡・沈没船の出土例−」『貿易陶磁研究』No.9 日本貿易陶磁研究会 pp.134−151
森村健一1991「畿内とその周辺出土の束南アジア陶磁器一新政権成立を契機とする新輸入陶磁器の採用−」『貿易陶磁研究』No.11日本貿易陶磁研究会 pp.131−169


第W章 ま と め

 確認調査は小値賀島唐見崎の東海岸に面した沖合約100m、水深約5mの地点でおこなわれた。この海底では1992年にタイ陶器壺や陶製臼など6点が海士により引き揚げられ、教育委員会へ届けられていた。発見された場所は小値賀町前方郷唐見崎小字松之下・吉野浦地先公有水面海底、通称ツボアテ、あるいは通称「山見」とされる地点である。小値賀町教育委員会は遺物が引き揚げられた地点を近世初頭の沈没船遺構と想定し、「山見沖海底遺跡」として登録した。今回の確認調査の目的は山見沖海底遺跡の範囲と性格を明らかにすることであった。
 海底遺跡は野崎島に面している潮流の激しい幅約1.5kmの水路にあり、砂地が点在するが、殆ど岩礁性の海底である。遺跡は海岸にほぼ平行して、北東へ長さ約80m、東西幅約30mに遣物が分布している。遺物の多くが岩礁の間に挟まった状態で確認された。また砂地では遺物を殆ど確認できなかったのは激しい潮流のある海底環境では遺物が元位置を保つことが難しかったからと考えられる。
 確認調査で回収された陶磁器から得られた山見神海底遺跡の特徴や幾つかの問題点も浮かび上がった。そこで、どのようなものがあるのか少し整理してみることにする。まず遺物が集中している範囲が半径10m程と非常に限られていることである。限定された地点の狭い範囲内にタイ陶器・土器を主体に中国陶器や青花磁器、その他の陶器・土器にはベトナム産の可能性も否定できない遺物が集中していることである。この狭い範囲内の遺物の分布状況が海底に散乱した積荷の状況を表しているとして、この地点が船の沈没位置だと仮定するならば、陶磁器以外の遺物が存在しないのは何故であろうか。さらにもし沈没船が浸水しながらもこの地点で終焉を迎えたとするならば、遺物はかなり広い範囲で確認されてもよいはずである。しかし遺物の分布範囲は狭い区域に限定されているのはなぜであろうか。タイ四耳陶器壺が比較的大形の容器としてその内容物を運ぶ役割を果たし、さらに内容物の重量を抱えた壺を船底に並べて運ぶことで、バラストの代用としたならば、海底で確認した陶器壺の量は決して多いとはいえない。積荷の陶磁器がバラストの役割も果たしたと思える沈没船遺構の例は東南アジアや東アジアの海で発見されている。また韓国の新安出土の沈没船では大量の銅銭がバラストとして使われている。この遺跡では船のバラストが何であるかも問題となるであろう。その他、注目すべき遺物としては陶製臼や移動式竃などの料理器具があげられる。これらは交易品であるより中国青花磁器皿、碗、壺などと共に船上で使用された生活用品であろう。
 今回の確認調査では山見神海底遺跡の全容解明には至っていない。今後、広い範囲での本格的な調査が必要となるであろう。しかし、今回の確認調査の成果は小値賀島が近世初頭東アジアにおける海上経済活動の一端を担っていた地理的環境下にあったことがこの調査からも伺えることができたことである。小値賀島は古代から中世、さらに近世へと歴史的、地理的な背景のもとで海上に浮かぶ対外交流の重要基点であったことは海底遺跡を含め、島内の遺跡や多くの出土遺物が物語っている。
 小値賀島周辺の海底には碇石などの歴史の解明に貢献できる資料がなお豊富に存在している。その貴重な資料の一つが今回確認調査を行った山見沖海底遺跡であった。

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