20世紀の考古学は所謂、陸の考古学と言える。日本の陸の考古学は大学主導から行政主導の発掘調査に移行し、経済や開発優先の調査であった。この変化には埋蔵文化財を急速に進む開発から記録保存をするという立場が含まれているが、決して学問的な問題意識の喪失ではなかった。
21世紀の水中考古学ではこの間題意識が大学、行政、民間の枠を越え、継続的な活動を伴って成果をあげる必要がある。その為には調査方法、費用、時間の効率化をはかり陸の考古学へ的確な水中考古学の情報を提供すれば、陸の調査の原則はおのずから水中考古学に適応されるのではないだろうか。
◇はじめに
海底から引揚げられた、あるいは海岸に打ち上げられた肥前陶磁には、当時の流通過程の途上で沈没、廃棄されたものが多く含まれる。こうした資料を生産遺跡と消費遺跡を結ぶ「流通遺跡」の資料としてとらえることにしている。すなわち、こうした資料を考古学的に検証すれば、当時の流通形態の復元を行うことが理論上は可能であると考えている。その一方で流通形態の復元には文献史学の業績に多くの部分を頼らざるをえないのが現状でもある。「流通遺跡」の資料は当時の流通形態を示す直接的な資料でありながら、現状ではその限界を認めざるをえない状況である。しかし、それは今後の可能性における限界を示しているのではない。
おそらく本稿に挙げた資料はほんの一部に過ぎないものであろう。実際には公開されていないだけで、より多くの資料が引揚げられ、打ち上げられていると思う。そして、さらにより多くの資料が海底に眠ったままであることも容易に推測される。資料の絶対的欠如が現状における限界でもある。
さらに考古学的手法によって調査された例が極めて乏しいこともその限界の要因である。陸上の遺跡においては遣物を遺構から切り離して考えることができないし、むしろその関連性そのものが重要である。それは海底における遺跡においても同様であろう。沈没船等における遺構の概念については必ずしも明確ではないが、少なくともその船の性格を理解できなければ、その積荷の性格の正確なところはわからない。
以上の2点が現状における限界の主な要因と思えるが、これは解決できない性質のものではない。今後、海底遺跡に対する認識が深まり、浸透していけば解決できるものである。そして、この限界は、言い換えれば、今後の可能性について大きな期待がもてるがゆえの限界とも言えるのである。
◇海揚がりの肥前陶磁
海底から引揚げられた、あるいは海岸に打ち上げられた肥前陶磁を一覧表にまとめてみた。この中で玄界灘沿岸の採集品については、全ての資料は実見しておらず、石井忠氏の著作を参考にした。以下、主な海揚がりの肥前陶磁について簡単に記していくことにする。また、海揚がりの資料ではないが、港湾遺跡における出土例についても数例触れておく。
【A】玄界灘海域
(鷹島海底遺跡)
長崎県鷹島南岸周辺海域から肥前陶磁が出土している(高野1992)。最も古いもので1600〜1630年代頃の砂目積み折縁皿であり、その他に17〜19世紀の陶器製品の出土が報告されている。磁器は19世紀の端反蓋付碗、蛇の目凹形高台の皿などが出土している。生活用品が廃棄された可能性もあるが、伊万里湾には多くの船が肥前陶磁を積んで往来していたことから、積荷の一部であった可能性も考えられる。肥前陶磁の積出し港としての伊万里津の形成時期と変遷を考える上で重要である。
(玄海町池尻海底遺跡)
佐賀県玄海町大字池尻地先の海底より総数36点の肥前磁器が発見されている(有光・東中川1996)。いずれも19世紀の蓋付端反碗である。玄界灘を航行する積荷の一部が投棄されたものと推測される。
(玄界鳥海底遺跡)
福岡市玄界島南西海岸の周辺海域で、唐津系陶器が多数出土している(塩屋1988・林田1995)。いわゆる砂目積み溝緑皿と称する灰柚皿が多く、肥前では1600〜1630年代に大量に生産された製品である。他に唐津系鉄絵砂目積み大皿、灰粕碗、鉄窄由瓶などが同時期のものと思われる。沈没船に伴う一括遺物と推定される。
(芦屋海岸沖)
新聞報道によると、100点以上の肥前陶磁が引揚げられている。18世紀後半〜19世紀前半のものであるという。
(芦屋海岸)
玄界灘沿岸では、大量の肥前陶磁が海岸より採集されている。芦屋海岸採集資料もその一つで、山田克樹氏の御好意で拝見させて頂いた資料の主体は18世紀後半〜19世紀の製品であり、雑器が多い。これは他の玄界灘沿岸採集品についても同様の傾向が見られる。玄界灘沿岸には芦屋商人など筑前商人の本拠地があり、これらの資料は筑前商人の盛行と関わりをもつものと思われるが、具体的に筑前商人が扱った陶磁器を特定することはできない。
【B】東シナ海海域
(鹿児島県吹上浜)
東シナ海に面した海岸より1660年代を中心とした肥前陶磁が大量に採集されている(大橋1985)。多くが東南アジアなどの南方向けの製品であり、おそらく長崎港より彼地に向けて出港したジャンク船等が何らかの事情で遭難し、投荷した結果である可能性が高いと思われる。
(茂木港外遺跡)
肥前陶磁が約100点引揚げられている。新聞報道や高野晋司氏や扇浦政義氏の御教示によれば、17世紀後半〜18世紀前半頃の肥前陶磁がまとまって出土しており、沈没船の荷である可能性が高いという。染磁器は付瓶が1点あるのみで、他は鋼緑粕碗・皿(内野山窯か)や刷毛目陶器などの唐津系陶器である。伊万里から積出されていない可能性が高く、肥前陶磁の局地的な流通を考える上で重要な遺跡と思われる。
【C】日本海海域
(石川県舳倉島沖)
宮田進一氏や八尾隆夫氏の御教示によれば、石川県船倉島沖の公海上の海底より肥前磁器が4点引揚げられている。1680〜1700年代の染付皿であり、いずれも口径21cm前後の上質なもので有田製であろう。日本海を航行中に何らかの海難に遭遇した船の積荷であった可能性が高いと思われる。
(上ノ国漁港遺跡)
16世紀末〜近代に至る大量の肥前陶磁が出土している(荒木・石原ほか1987)。その中で最も遡りうる資料は16世紀末〜17世紀初の胎土日積み段階の陶器皿であり、1600〜1630年代の砂目積み段階の陶器も見られる。比較的早い段階から日本海沿岸を経由する肥前陶磁の販路が形成されていたことを示している。そして、江戸時代を通して連綿と日本海沿岸を経由してもたらされていたこともわかる。また、磁器に関しては17世紀後半頃までは有田周辺の製品が多いが、17世紀末以降は波佐見など肥前の他産地の製品が多くなっている。この傾向は幕末期から瀬戸美濃系の陶磁器が加わって主流となるまで続いている。そして、肥前系から瀬戸美濃系への転換は「沿日本海長距離輸送路(佐々木1994)」の終焉を意味している。
【D】瀬戸内海海域
(山口県下荷内島沖)
3000数点もの焼物が引揚げられたというが、その多くは散逸しており、現在確認されているのは16点のみである。真鍋篤行氏の御教示によれば、その中には蛇の目高台を有する染付青磁(筒江窯製)・蛤唐草文などの染付皿・染付蓋物などが含まれており、いずれも18世紀中頃の肥前磁器である。船の沈没により積載された焼物が一挙に水没した可能性が高いという(真鍋1994)。
(広島県宇治島沖)
幕末の蒸気船「いろは丸」ではないかと推測されている沈船である。この調査の際に19世紀の染付端反碗が発見されている。「いろは丸」が沈没した1867年という年代と矛盾するものではない。
(広島県倉橋島沖)
唐津系陶器をはじめとした近世の陶器などが引揚げられている(新谷1991)。
【E】太平洋海域
(神津島沖海底遺跡)
硯・措鉢・石灯篭・石臼などとともに1820〜1860年代の肥前陶磁が6点出土している。大坂ないし西宮の船問屋で荷物を積み込み、江戸入帆を目的とした運賃積船である千石積船が遭難した結果、形成された遺跡と考えられている(小林・山本1993)。
【F】港湾遺跡における出土例
(旧佐賀藩大坂蔵屋敷船入遺構)
佐賀藩の大坂蔵屋敷の船入道構が検出されている。入堀石垣の背後の土壌から18世紀前半〜中頃を中心とする肥前陶磁が出土している。これらの年代は佐賀藩の肥前陶磁に対する流通統制である御屋敷売制から御上仕入制までの年代(1739〜1749年)とおおよそ一致するものである。これらの陶磁器は流通統制の下で大坂蔵屋敷まで回送されてきた商品である可能性が高い(中村1991)。流通制度が考古資料に反映された実例として重要であろう。
(常磐橋西勢溜り跡)
正式な報告書は1998年度刊行予定であり、ここでは調査概報に記された内容と、調査を行った山口信義氏に御教示を得た内容を一部紹介することにする。現在は埋め立てられ陸地化しているが、江戸時代は「船発所」があった場所であり、当時は海底であった地点より大量の肥前陶磁が出土している。18世紀後半〜明治前期までの製品が見られるが、主に19世紀以降の製品が中心となっている。港湾施設における出土状況を知る上で重要な遺跡であると思われる。
◇まとめ
海揚がりの肥前磁器を海域によって分ければ、玄界灘(鷹島海底遺跡・玄海町池尻海底遺跡・玄界島海底遺跡・芦屋海岸沖、芦屋海岸等玄界灘沿岸など)、東シナ海(鹿児島県吹上浜・茂木港外遺跡)、日本海(石川県船倉島沖・上ノ国漁港遺跡)、瀬戸内海(山口県下荷内島沖・広島県宇治島沖・広島県倉橋島沖)、太平洋(神津島沖海底遺跡)というように日本列島と取り巻く各海域に分布している。肥前磁器が全国各地に流通したことを考えれば当然であろう。そして、玄界灘が最も多く、瀬戸内海がそれに続く点についてであるが、両海域を経由して肥前陶磁が盛んに流通した状況は理解できる。東シナ海を経由するものを除けば、大半の肥前陶磁は玄界灘を経由することは疑いないし、生産地である肥前と物資の集積地である大坂、あるいはそれから江戸へ運搬される場合においては瀬戸内海を航行することになるからである。しかし、資料の発見そのものが偶発的な要因によるものが多いことから、必ずしも資料件数ないし点数がその海域における肥前陶磁の流通量を反映しているわけではない。瀬戸内海のような内海と太平洋のような外海では発見される度合も異なることも考えられる。また、筆者が主に九州の北西部を調査研究フィールドとしてきたことから、情報の収集能力に地域差があることも当然考慮しなければならないであろう。
次に船籍については、吹上浜採集資料が中国等のジャンク船の積荷であると推定されることを除けば、全て国内の船であろう。そして、船の性格については、船体そのものの確認が行われている例が少なく、明らかではないものが多い。少なくとも肥前陶磁の流通に関わった船体の確認例は皆無である。陸上の遺跡に置き換えれば、遺構と遺物の相対的関係が明確なものが少ないのである。また、比較的共伴遺物がまとまって出土していれば、神津島沖海底遺跡出土資料のようにある程度船の性格を推測することも可能であるが、多くの場合は陶磁器のみの引揚げ、あるいは採集であったりするため、陶磁器だけ運んでいたのか、陶磁器と他の物資をどういった組み合わせで運んでいたのか、そうした疑問についても答えることができない。
最後に年代については、18世紀後半〜19世紀にかけての製品が大半を占める例が多い玄界灘沿岸を除けば、今のところ年代による大きな片寄りは見られない。今後の資料の増加に伴い、ある程度は生産地における生産量の増大に比例すると予耕されるが、流通形態の種類と変化がどのような寛響を与えるか考えていかなければならないであろう
今回の情報収集の際には多くの方のお世話になった。各資料に関する御教示については本文中に記したが、特に大橋康二氏には多くの情報を御教示頂いた。そして、瀬戸内海海域についての情報は灯海域で精力的な調査活動をされている真銅篤行氏より寄せて頂いた。
◇参考文献(著者五十音順)
荒木伸介・石原渉ほか1987『上ノ国漁港遺跡』 上ノ国町教育委員会・函館土木現業所
有光宏之・東中川忠実1996『池尻海底遺跡』 玄海町教育委員会
石井忠1992『海辺の民俗学』新潮選書
大橋康二1985「鹿児島県吹上浜採集の陶磁片」『三上次男博士喜寿記念論文集』平凡社
小林達雄・山本典幸1993『神津島村神津島沖海底遺跡』 東京都教育委員会
佐々木達1994「海の道」『日本海域【水の科学と文化』 金沢大学大学教育開放センター
塩屋勝利1988「玄界島の海底陶器」『福岡市歴史資料館研究報告第12集』 福岡市歴史資料館
新谷武夫1991「倉橋の埋蔵文化財」 『倉橋町史・資料編TT』 倉橋町
高野晋司1992『鷹島海底遺跡』 鷹島町教育委員会
中村博司1991『旧佐賀藩大坂蔵屋敷船入遺構調査報告』 財団法人・大坂市文化財協会
林田憲三1995「志賀島・玄界島の海底調査」 『志賀島・玄界島』 福岡市教育委員会
真鍋篤行1994「瀬戸内海における沈船遺跡について」 『貝塚』48 物質文化研究会
峯崎幸清ほか1993『幕末期の志田焼』 塩田町歴史民俗資料館
4.調査区域の設定方法
潜水調査対象地点の調査区設定にあたっては、長崎県北松浦郡鷹島町神崎地区の東端「南ヶ崎」の岬より西側へ170mの地点の汀線を東端とし、更に西側へ100mの地点の汀線を西端とする南北100m、東西100mの範囲に広がる海底に設定し、その調査対象面積は10,000uとなり、潜水調査の基準となる法線の設営にあたっては以下の手順で実施した。
@ 調査区の設定は陸上の定点からトランシットにより方向を定め、海上に向かって100m×100mの調査区を設定する。手順は、まず海岸部の汀線部分の比較的平坦な場所に基準点Aを設定し、更にこの基準点から100m西側の地点へ直線を引き、その地点を基準点Bとしてベースライン(0度)としAB間にはロープを敷設した。(PL.1)次に基準点Aより海上に向かってベースラインの左に900を設定し、この地点から沖合100mの地点を基準点D(100,100)とし、海底に基準点Dとして杭を設置し、浮標マーカーブイを取り付け海面の指標とした。この作業には携帯無線機を使用し、陸上班からの指示誘導により進められた。(Pl.2)また陸上のA点と海底のD点の間は出来るだけ直線となるよう正確に海底に設置され、100mのロープには10m毎に距離を示したテープをつけ、ロープの0mは基準点Dとした。
A 基準点Aを設定した地点から汀線に沿って移動し、基準点Bを定め、ベースラインから左90Dを設定し、基準点Bより直線に100mロープを延ばし、海底に基準点Cを設定(100.0)して海底に杭を設置し、これにも浮標マーカーブイを取り付け海面の指標とした。海底にひかれたロープBCにも10m毎に距離を示すテープを取り付けた。(PL.3)
B 基準点CD間の直線に100mロープを設定し、このロープにはD点からC点に向かって25m毎に補助基準点を設けながら、直線に100mロープを延ばし、陸上部分のAB間でも同様に25m毎に補助基準点を設定し、それぞれを100mのロープで結んで陸側補助基準点と海底側補助基準点とが連結され、潜水調査時の法線とされた。なお海底に敷設されたCD問の補助基準点には浮標マーカーブイをそれぞれに結び、合計5個の浮標が海面指標として上げられた。
C なおAB間とCD間には、沖側より陸側に法線A、法線B、法線C、法線D、法線Eが設定され、潜水調査時の基準として、また遺物発見時の測量基準とすることができた。
D これらの浮標マーカーブイは調査終了後に回収され、調査海域より撤去した。また海底のロープと陸上部のロープも同様に調査終了後に撤去した。
E この海底の調査区域およびグリッドの設置、さらに潜水調査には「日乃出丸」を使用した。
5.潜水調査の方法
法線Aから法線Eは、協会会員と潜水士の5組10人で潜水調査を実施した。今回の調査時は天候が悪く、波高も安全基準1.5mぎりぎりであり、風も風速12m近くあって、時折小雨が降る気象条件であったため、潜水調査には経験未熟な者は危険と判断し除外した。なお、水中の状況は透明度も不良で、ようやく5m前後であり、海面近くは浪の影響を強くうける状況であった。さらに海底は軟弱なシルト層が厚く堆積して海底を覆っており、遺物の目視確認は極めて難しい状況であった。調査は2人1組のチームが沖合に設置された、各基準点・補助基準点を示す浮標マーカーブイより潜水を開始し、海底面に敷設された法線を目印として陸上の基準点を目指してゆっくり泳ぎながら、法線の左右をも蛇行しつつ目視確認を行う探査方(ベースライン法)を実施した。また海底で遺物を発見した場合は、海底から陸に向かって法線100mのラインに10m毎に犀巨離を示す指標がついているので、その指標を基準として位置を測定するよう調査担当者に指示した。なお遺物発見にあたっては、位置の測定、写真撮影をした後、目印の浮標を取り付けておき、一旦浮上して調査責任者の指示を仰ぐように意志統一をはかり、むやみに遺物引き揚げを行わないよう指示した。
6.調査作業の安全対策
● 調査中の安全対策として調査対象海域には調査警戒船を常時待機させ、調査海域に接近する他船舶に充分なる注意警戒をおこなった。
● 警戒船はその船上に、国際信号旗A旗と形象物を掲げ、警戒要員を配置した。
● 海上の気象情報は天気図等の最新情報で事前に確認した。
● 緊急事故発生時の緊急連絡網をつくり、関係機関に事前に通達した。なお調査については唐津海上保安本部へ許可申請し、受理された。
7.調査作業の安全基準
● 風速12m/秒以上の時、波高1.5m以上の時、視程2,000m以下の時は調査を中止する。
● 大時化の時には、警戒船は鷹島町殿浦港を避難港として回避し、時化が治まるまで待機する。
8.調査の成果
鷹島町南岸の神崎地区公水面に設定した調査グリッドを、潜水による目視調査で確認した範囲は10,000uである。今回の調査は例年の調査同様、多くの協会会員の参加があり、組織的な調査を行えたが、天候悪化のため潜水調査は潜水熟練者のみでおこなわざるを得なかった。さて、調査区域の元寇関係遣物の散布状況は決して密度の高いものではなかったが、潜水調査時に人工的な加工跡らしきものを示す石製品を確認する事ができた。これについては別項にゆずるが、発見場所はBラインの76.5mで法線より西に2.9mの地点で、水深1.9m。岩礁の間に狭まるような格好で確認された。(PL.4)この石製品を海底で確認した会員からは「磚ではないか」との報告があったが、35mm水中カメラで撮影し、遺物として詳細に検討を擁するとの判断から引き揚げたところ、石製品であることが判明した。
なお、海底は厚いシルト層に覆われ、ほかに遺物らしきものは確認できなかったが、当該地区の汀線部分では予備調査時(平成8年6月1日)に、干潮時に大量の舶載陶磁器の破片が打ち寄せられているのが確認されており、当然のことながら海底下にも埋没している可能性が高いと判断された。しかし埋没した遺物の確認には発掘調査を伴わなければ無理であり、目視調査の限界を痛切に感じた。また汀線部分の岩礁地区にもAライン上で碇石らしき大型の石製品を見たという報告もあったが、天候悪化のため再視認にまで至らなかったのは残念であった。今後の組織的な調査と、小規模でも海底面の発掘調査が可能となれば、さらに飛躍的な成果が期待出来ると思われる。
|
|
9.採取遺物
鷹島海底より採取された遺物は石製品である。用途、年代は不明。最大長27cm、最大幅11.2cm、ほぼ長方形を示す。表面には鑿跡らしき削跡が右斜めより多数つけられている。裏面も同様でやはり鑿による削跡らしきものが数条つけられている。表裏とも角は面取りされ滑らかである。断面はやはり横広の長方形であり、幅、高さともほぼ均一といってよい。次に側面であるが、やはり多数の鑿の削跡がつけられており、やや中央に凹面のえぐりが見られる。また先端部は高さ5cmと先細りの傾向にあるが、これが人為的なものかどうかは分らない。(Fig.4)さてこの遺物は確かに人為的な造作であるように思われるが、その用途や製作目的などについては不明な点が多い。墓跡については母岩より剥離する際のものとも考えられるし、あるいは整形のための墓跡とも考えられる。側面の鑿跡は明らかに凹面を作るための細やかな調整跡ともとれる。この遺物は汀線部分に近い岩礁部の岩棚に紛れて発見されたが、その周囲にはこの遺物に関連するようなものは確認されなかった。(PL.5〜Pl.6)発見者は当初、これが磚だと報告してきたが、海底から引き揚げてみると石製品であることがすぐに確認できた。これまで鷹島海底から採取された石製品はかなり特徴的なものが多い。代表的なものとしては碇石や石臼、石製片口、石弾などがあるが、今回採取されたような石製品は初めてである。しいて類似するものを上げれば、1994年に同じ神崎地区の海底から出土した木製の碇身と共に発見された、左右一対に分割された装着式の碇石だが、それにしてはやや小さすぎ、実用的とは言いがたい。そこで以下に碇石と碇身(木材部分)の法量を示し、木碇としての構造を考察してみたい。鷹島町神崎地区の公有水面から出土した木碇は8本出土しているものの、完形にちかいもの、もしくは復元可能なものはそのうち1号碇〜4号碇(Fig.5)である。これらから木碇の構造の上で碇歯と碇石との関係を知るため下記の表を用意した。また碇の各部名称は(注@
Fig.3)の記載に従う。
これによれば、碇歯の長さと碇石の大きさには、一定の法則が読み取れる。すなわち2号碇と4号碇のようにほぼ同一規格のものでは、碇歯の長さ/碇石の長さという式では比率が約3.3、3号碇の場合はその比率が2.4、また1号碇では1.8という比率となっている。すなわち木碇の最も重要な部分は碇歯であり、この部分が海底に着実に噛み込んでこそ船の係留の役割を果たすわけで、そのためには碇歯の先端が着実に海底に刺さるように、碇石とそれを包む碇櫓の組み合わさった、いわゆるストック部分の重要性が指摘出来る。2本の碇櫓も碇先端より上端が1.6〜1.8m以内、下端が2〜2.1m以内程度におさまっている。さて碇歯と碇石との関係は1号碇〜4号碇の比率平均値で2.67である。そこで今回、検出された石製品を仮に碇石だと仮定すると、その碇歯の長さは27cm×2.67=72.09cmとなり、かなり小さな木碇となってしまう。またこうした左右対称の碇石の特色として、先端に向かって幅がやや先細る傾向が見られるが、この石製品に関しては、ほぼ同じ幅である。以上のような観点から考察すると、やはり碇石と判断するにはいささか疑問が残るようである。しかし元寇来襲時の南宋や元代の中国船は主碇1門(長さ6.6m)の他に、副碇1門(長さ4.5m)、三碇2門(長さ3.6m)を最低装備していたようであるから、あるいはそれより小さな碇を装備していてもおかしくはない。A したがって今後の調査によっては、今回の石製品が碇石として構造上なんの問題もない木碇が出現する可能性も否定出来ない。
| 碇 | 碇歯長 | 碇石の長 | 碇歯/碇石 | 備 考 |
| 1号碇 | 125 | 70.5 | 1.77 | 碇歯一部欠損 |
| 2号碇 | 170 | 52.5 | 3.24 | 碇歯完形 |
| 3号碇 | 315 | 132.0 | 2.39 | 碇歯完形 |
| 4号碇 | 171 | 52.0 | 3.29 | 碇歯完形 |
参考文献
@『鷹島海底遺跡U』1993 長崎県鷹島町教育委員会
A 池田哲士「最近発掘された宋代の外洋船」『海事史研究』28号 1977−4月
現在わが国に分布する遺跡総数は約37万ヶ所と言われ、1968年の『全国遺跡地図』刊行時の数倍に達している。遺跡はその範囲の捉え方によって数が変移するが、本来その数は有限と言える。毎年約一万ヶ所の発掘が続き、このままでは約200年で遺跡が消滅すると言われる。この場合遺跡とは殆ど陸上の遺跡を指し、海・湖沼・河川等の水中遺跡での調査は殆ど知られない。これには水中という環境の制約も大きいが、過去の生産活動の総体を計る上では欠かせない範疇であり、大干拓や港湾設備等農業振興や都市整備事業などに十分対処できる水中遺跡分布地図の整備が早急に望まれるところである。
1.はじめに
鷹島は、1980〜1982年(昭和55〜57)にかけて行われた学術調査「水中考古学に関する基礎的研究」(報告書未刊)の実験調査場所に選定され、その結果陶器片や碇石等、元寇関連と思われる多数の遺物が海底から引き揚げられたことから、1981年(昭和56)7月に干上鼻より雷岬までの延長約7.5km、汀線より沖200m迄の約150万uに及ぶ南岸一帯の海域が「周知の遺跡」として定められた@。
以降、1989〜1991年(平成元〜3)に行われた学術調査「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」Aをはじめ11回の緊急調査が鷹島沿岸の海域で行われており、そのうち海底発掘調査は6度を数える。これらの調査によって出土した遺物は数知れず、中国製陶磁器を始めとして高麗製陶磁器、石弾、石臼、片口鉢、碇石、磚、鉄刀、湖州鏡等多くの元寇関連遺物が見られる。また、1992年(平成4)に行われた「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」Bにおいては縄文時代早期の土器が標高−25m〜−26mの海底下から出土し、縄文時代早期の遣物包含層が確認され、さらに1994〜1995年(平成6〜7)に行われた「神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査」Cにおいては、碇石を伴った木製掟が4門出土し、二石を使用した木製掟の構造が明らかにされるとともに、これらの木製碇が現位置で確認されたことにより、鷹島における海底遺跡の様相の把握に大きな指針を示すものとなった。
九州・沖縄水中考古学協会は1989年(平成元)の「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」Dより「鷹島海底遺跡」の調査に参加、協力し、また鷹島町との委託契約により1992年(神崎地区)E、1993年(神崎地区)F、1994年(神崎地区)G、1995年(神崎地区H・船唐津漁港地区I)、1996年(神崎地区)Jと6次にわたって「鷹島海底遺跡」の元寇関連遺物を主とした分布調査を行ってきており、今年度は7第回目となるK。(Fig.1)
本調査報告は九州・沖縄水中考古学協会の活動として、鷹島町との間で結ばれた委託契約に基づき、鷹島町及び鷹島町教育委員会の協力を得て、1997(平成9)10月24日〜10月26日にかけて、鷹島町神崎地区において行われた九州・沖縄水中考古学協会による「鷹島海底遺跡」の第7次海底目視調査(海底分布調査)の結果をまとめたものである。
2.調査の目的
鷹島は、弘安4年(1281)閏7月1日、東路軍・江南軍の総勢14万人の兵士と4,400腹の船が、前夜半から吹き始めた暴風雨により壊滅的な打撃を受けた地と伝えられており、小弐影資本陣跡、兵衛次郎の墓、対馬小太郎の墓を始めとして元寇関連の史跡や地名を数多く残している。また、以前より地元漁師によって陶磁器や石臼、碇石等が引き揚げられており、1981年(昭和56)に南岸一帯が海底遺跡として周知化されて以降も、数次にわたる緊急発掘調査において出土した遣物が物語るものは、史上希にみる海難事故である元軍の壊滅を彷彿されるものであり、神崎の海岸で採取されたパスパ文字による「管軍総把印」青銅印は、元軍指揮官の存在を示すものである。さらに、1994年(平成6)と1995年(平成7)に行われた「神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査」において、浚渫工事の立ち会いと海底発掘調査において出土した9門の木製掟は、元軍船と思われる船が神崎沖に投錨したことを示すものであり、鷹島南岸一帯で数多く確認されている碇石と出土した木製遺物の存在は、鷹島南岸の海域においても条件によっては船体構造の一部を遺存させうる環境にあることを示唆していると言えよう。
また、先述の調査で出土した木製掟はその錨としての性質上、原位置を保っていることは確実であり、このことから海底下1m前後に約700年前の海底面が確認されたことになる。もちろん海底での堆積状況は、その流入河川の有無や、海底地形、潮流、波の作用等の水中環境に大きく影響を受けるため、鷹島南岸のすべての地点において同様の堆積状況を呈しているということではないが、海底遺跡の様相の一つを示すものであると考えることが出来よう。
これに対して、鷹島南岸においては海岸線の潮間帯や海底面において、表面採集される遺物も多い。それは遺物そのものの性格によるところが大きいと思われるが、一方、数次にわたって行われた「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」においては砂層あるいはシルト層中に元寇関連の遺物が含まれており、堆積層中に含まれなかった遺物も海底遺跡の形成過程を考える上で、何らかの事由を持つものとして、海底の発掘調査による遣物と変わり無い存在意義を与えることが出来得る。
さらに、元軍はモンゴル兵と南宋の降兵からなる江南軍と、モンゴル兵と高麗の降兵からなる東路軍により構成されていたとされるが、遺物とその確認地点の分析を進めることにより、それぞれの海域ごとの船団の性格を読みとることも可能であり、場合によってはどちらかの一方に限定されることも考えられるL。
しかし、現在鷹島南岸の遺物の分布状況を示すものは1992年刊行の『鷹島海底遺跡−長崎県北松浦郡鷹島町床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査報告書−』に収められた「鷹島南岸遺物出土図」が唯一であり、鷹島海底遺跡の全体像を捉えるにはさらなる詳細データの蓄積が必要であり、鷹島海底遺跡を総合的に把握する手段の一つとしても、「元寇ロマンのしま」鷹島の実像に迫るためにも、継続的に分布調査を行うことは非常に有効である。
また1988年(昭和63)、1989(平成元)に行われた「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」Mにおいては、国産の近世陶磁器の出土があり、1992年(平成4)に行われた「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」Nにおいては、縄文時代早期の包含層が確認されており、元寇関連遺物のみならず様々な人類活動の痕跡を包蔵した「鷹島海底遺跡」の他面性を表したものと言えよう。
今回の潜水調査は目視による海底調査であり、上述した「鷹島海底遺跡」の総合的評価を行う基礎的データの収集のため、元寇関連遣物を中心に遺構・遣物の有無とその位置を記録するために行う学術的な確認調査である。
調査の組織は鷹島町の協力を得、九州・沖縄水中考古学協会の会員と潜水士からなる11名で構成された。
○調査参加者
林田憲三、高野晋司、常松幹雄、野上建紀、小川光彦、横田浩、関野泰一、倉沢敏一、中野雄二、小野田康久、三浦清文
○調査協力
鷹島町、鷹島町教育委員会、高崎壽、松尾昭子
○調査取材
朝日新聞西部本社(堀英治、河原崎茂)
KBC九州朝日放送(御田幸司、安倍靖)
3.調査区域(Fig.2)
神崎港周辺の地形 神崎港周辺の地形は、二つの丘陵端部が神崎港を挟む形でそれぞれ海底へと続き、間には埋没谷が形成されている。この埋没谷の東側の一部と、その上に形成されている波食台・海食台にあたる場所が今回の潜水調査区域である。鷹島町教育委員会より提供を受け、今回の潜水調査に使用した長崎県田平土木事務所作成の『神崎港改修工事平面図(S=1:500)』と第一復建株式会社作成の『「平成5年度施工 田港改第11−2号 神崎港改修工事(地質調査委託)」調査報告』を参考にすると、ほぼ東側半分は標高0mから−9mにかけて岩礁、礫及び礫混じり粘土からなる比較的急な斜面にあたり、西側半分は-6mから-14mにかけて少量の礫及び貝殻片を含む砂質の海底がなだらかに南西沖へと傾斜している。
これまで海底表面の遺物分布調査においては、砂・シルトからなる平坦な海底において遺物が確認されたことはなくP、比較的岸側の起伏のある海底において遺物の確認がなされることが多く、今回の潜水調査においては、調査区域の東側半分の範囲に遺物の分布が予想された。
尚、この区域の西側は先述の離岸防波堤建設の床掘として、浚渫工事の対象区域となっており、事前の情報では1994(平成6)年度の浚渫工事の後は手つかずの状態であるとのことであったが、潜水調査区域の設定のため神崎港に赴いたところ、浚渫に使用する見透し用の旗が設置されており、現地においてたまたま測量調査を行っていた建設会社の方に尋ねたところ、「今年の6月に残りの範囲の浚渫を終了し置換砂を入れた」とのことであった。離岸防波堤に関しては、すでに緊急発掘調査の予算を消化し報告書もすでに刊行済であり、法的には事前の連絡や浚渫工事の立ち会いの義務は無いが、先述の緊急調査は調査費用と日数の制限により、その多くが未調査であり、誰の眼にも触れないまま浚渫工事が終了してしまったというのは、なんともやるせないと言うほかは無く、緊急調査の実態を再認識した次第である。
4.調査の方法
○調査区設定(Fig.3)
当該潜水調査区域は前項でも述べたように、1994年(平成6)・1995年(平成7)に行われた「神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査」Q区域に隣接しており、神崎港周辺の海底遺跡のあり方を総合的に判断するために、また今後予想される緊急発掘調査にも対応可能なように、便宜上、先の緊急発掘調査において用いられたグリッド設定を踏襲した。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
調査区域の東半部分(E5ライン〜W20ライン)は岩礁域と大小の礫で覆われた比較的急な斜面であり、水深が浅い付近の透視度は4m前後である。西半部分(W20ライン〜W45ライン)は緩やかで平坦な斜面が続き底質は砂質。透視度は3m以下で、シルトを含むため潜水中のフィンによる巻き上げによっては、透視度は極めて悪くなる。鷹島南岸におけるこれまでの潜水経験では、透視度はおおよそ3m程度であり、岩礁及び砂礫からなる浅い海域においても4〜5m見えれば良いほうである。また、夏期・秋期の透視度の変化はほとんど無く、水深20mの海底において5mの透視度が確保されるようになるには、12月以降の時期まで待たねばならないが、これも海底での作業を行う前の状態に限られている。調査環境を透視度のみに限定すれば、冬季が若干良いと言えよう。
遺物は礫の斜面から砂質の平坦面に移行するW10〜W20ライン付近を中心に6点が確認された。調査面積で比較すると、協会がこれまでに行ってきた海底目視確認調査の中で、最も密度が濃い遣物の分布であった。確認された遺物は以下の通りである。
(1)碇石(N21.8m−W19.7)標高-8.75m(Pl.4)
(2)褐粕壷(N30-W23)標高-8m
(3)磚@(N37.3−W18.45)標高-5.4m(Pl.5)
(4)磚A(N30−W15)付近、標高-4m(Pl.6)
(5)磚B(N27−W13)付近、標高-4m(Pl.7)
(6)青磁片(N30−W10)付近、標高-3m(Pl.8)
以上の6点の遺物の内(3)磚@、(4)磚A、(5)磚B、(6)青磁片の4点に関しては、調査区域設定ロープの撤去中に確認されたため、検出状況の撮影までにとどめ、回収は行わなかった。また、(4)磚A、(5)磚B、(6)青磁片(碗底部)の3点の確認地点は同様の理由によりメジャーによる計測が行えず目測によるものである。すべての遺物の確認地点をより正確に計測出来なかったことは残念であるが、予想以上の遣物分布密度であり、より時間をかけた調査を行えば、さらに確認される遺物の数は増すものと思われる。
今回の潜水調査においても、シルトを含む砂質の海底からは遺物の確認はされなかった。しかし、これは海底面において遺物が確認されない海域には遺物が無いということを示すものではない。床浪地区での発掘調査事例に見るように、海底遺跡の形成過程において砂層あるいはシルト層の堆積とともに埋没していった遺物が、当該調査区域においても少なからず存在することは十分に予想されよう。今後引き続き行われるであろう神崎港の改修工事に際しては、遣物分布密度の濃さと、「管軍総把印」青銅印と木製碇の出土地としての神崎地区の重要性を十二分に考慮して取り組むべきである。
尚、W40ラインの西側付近は平成9(1997)年度の床掘浚渫工事の緑に当たり、すでに自然堆積の海底面は失われている状況が確認された。後日、浚渫工事の資料と照会したところ、浚渫予定区域の範囲を超えて海底土砂が掘削されていた。これは、平成6(1994)年度の浚渫工事においても見られたことであり、その作業の性格上やむを得ない結果であるが、浚渫工事が必ずしも計画図面の通りにはなされないこと、また一旦大規模に浚渫された海底付近は、自然堆積の安定した堆積状況を維持できずに、安定する状況まで崩壊すること、撹乱を受けた海底堆積層からは、海底遺跡の様相を捉え得る精度の高い情報は得られないこと。これらのことは水中考古学に携わるものとして非常に危倶する点であり、今後、海底遺跡との発展的取り組み方について、さらに検討を必要とするものと思われる。

7.遣物について
調査で確認した遣物6点の内、回収したものは碇石と褐柚壷の2点である。
(1)碇石(N21.8−W19.7)、標高−8.75m(遺物 上面)。
(Fig.5、Pl.9・10)
砂礫層の斜面から砂層の平坦面に移行する地点にて、遺物上面のみを露出させ、以下は砂層に埋没した状態で確認された。検出時に露出していた部分にはフジツボ・貝類が多く付着しており、一定期間はこの状態で海底にあったものと思われる。確認当初は鷹島海域で多く見られる二石を用いた碇石の片側一個体であると認識し周辺において対になる碇石を捜索したが、残念ながら発見されなかった。
海底から回収後、貝類の付着の少ない検出時の裏面を観察した常松幹雄氏より、掟身に近い側に幅7cmの帯状に薄く削って加工した痕跡が認められるとの指摘があり、あるいは博多湾で多く見られるタイプから鷹島の碇石のタイプへの過渡的な碇石で、掟身にほぞ穴を開け碇石を差し込むという装着方も考えられたが、何れにせよこれまでの鷹島における碇石の検出事例よりこの碇石に関しても二石使用の碇石の一形態であると考えた。
その後碇石の実測のため再度鷹島を訪れたところ、町教委の松尾昭子学芸員によって、遺物表面を被っていた貝類の多くは取り除かれており、回収時には見られなかったもう一方の面も観察する事が可能となった。検出時の裏面に見られた薄く帯状に平坦面を造り出した加工痕は表面にも同様に見られ、またこれらの面と直交する両サイドの角には深さ6mmの溝が確認された。(Pl.11)
この4箇所2種類の加工痕は粉れもなく定型化した一本造りの碇石に見られる軸(碇身)着装部と固定溝であり、柳田
純孝氏R、林文理氏Sの言われる博多湾型碇石の半折欠損状態のものであることが明確となった。また仮にこの碇石を実測図の状態で置いた場合、軸着装部の平坦面と上方側面の成す角度は直角を呈しており、半折部を復元すれば上方側面のラインが直線を呈し、下方側面のラインは中央部の固定清から据先側に向かって斜めに先細りするものと思われる。半折部が未確認のため断定は出来ないものの、松岡史氏の分類による角柱非対稱型碇石(1B類)に相当するものと思われる(21)。

現存長90.5cm(推定全長181cm)。軸着装部幅推定14cm×深さ0.5cm。固定満幅推定3cm×深さ0.6cm。中央部幅24.0cm×厚さ11.0cm。捨先側幅17.0cm×厚さ7.5(推定10)cm。現存重量56.5kg(推定重量113kg)。
(2)褐粕壷(N30−W23)標高−8m。
斜面から平坦面へ移行する付近から程近い、砂層の上面で確認された。砂層の堆積が見られる堆積台は、台風時などの強風により、強い波浪が発生した際に波の作用により影響を受けやすい範囲であり、そうした過程で遺物も移動を繰り返し、今回の調査で確認されるに至ったものと思われる。
口径10.1cm、残存高12.5cm。口緑部から胴部の一部にかけてを残す。比較的平坦な葦傘状口緑を持ち、明瞭な頸部は無く肩部は丸みを帯びて胴部に至るが、以下は欠損しており不明である。肩部には一部に耳を貼り付けた痕跡を僅かに残すが、その数、貼り付け方向とも現状では確認できない。
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
|
![]() |
〈註〉
5月5日から5泊6日の日程で、九州・沖縄水中考古学協会主催の中国泉州・福州研修旅行に参加し、泉州湾発見の碇石を実見する事が出来た。

まず、我々が訪れたのは泉州海外交通史博物館(Pl.1)で、ここには潯美村発見の碇石が2点展示されており、博物館館長王連茂氏の御好意により碇石を実測することが出来た。
Fig.1(Pl.5前方)は泉州市城東郷潯美村においてベンチとして使われていたものが、華僑大学の叶道叉氏(Pl.2左から2番目)の眼にとまり確認された碇石である。全長290.0、碇身着装部幅24.0×深さ1.0、固定満幅6.0×深さ1.5、中央部幅36.0×厚さ20.0、先端部幅21.0×厚さ13.0、22.0×12.5(単位は「cm」)。重量385kg。石質は白花尚岩で完形品である。幅、厚みとも中央部が最も大きく、据先側に行くにしたがって先細りする角柱状を呈するが、幅狭の面の一方は比較的直線に近く、もう一方はより強い角度で先細りし、この斜行の強い側の稜は面取りされている。そのため中央部以外の短軸方向の断面形状は六角形となる。松岡史氏の分類による角柱非対稱型(1B類)に近いが、一方の側面は直線を呈していないため、厳密には角柱非対稱型の亜種と言えよう。
Fig.2(Pl.5後方)は続いて発見された碇石である。時間的な制約により実測は出来なかったため、石原渉氏と計測した数値に若干の補測を行い、模式図として作図した。全長226.0、梶身着装部幅21.0×深さ1.0、固定満幅5.5×深さ1.5、中央部幅33.5×厚さ20.0、先端部幅17.0×厚さ10.0、18.0×10.0。重量は250kg。石質は白花崗岩。完形品であるが捨先部の一部が欠損している。Fig.1の碇石同様に幅狭面の一方の稜は面取りされており、断面形状は六角形を呈するが、側面は両面とも中央部から培先側に斜行しており、松岡氏の分類による角柱対稱型(1A類)に近い。但し、幅広面の両端部それぞれの中間を結んで中軸線を求めると、中央部においては面取りされている側が二部強広く作られており、角柱対稱型に近い亜種と言えよう。中央部幅・掟身着装部幅はFig.1のものより狭いが、全体的な形状はFig.1の碇石に比べて寸胴である。
次に我々は泉州湾出土の宋代沈船とその遣物を展示している泉州湾古船陳列館を訪れた(Pl.3)。ここでは東海郷法石村出土の碇石が「木爪石碇」として復元展示されている。全長232、掟身着装部幅16×深さ1.0、固定満幅6.0×深さ1.0、中央部幅29.0×厚さ17.0、先端部幅22.0×厚さ9.5。重量は237.5kg。石質は白花崗岩。一見したところ角柱対稱型(1A類)の碇石である。これも一方の側面の稜には面取りが施されており、碇を吊り下げた時には面取りを施された側が、下方にくる状態で復元されている。
以上泉州湾発見の碇石は3点とも白花崗岩製ではあるが、法量はそれぞれに異なり、それに付随して掟身着装部の幅もFig.1(潯美)は24cm、Fig.2(潯美)は21cm、法石村のものでは16cmと違いが見られる。これは碇石の大きさと掟身の太さの関係を表しているが、木製掟そのものの大きさとの関係を表しているとも言えよう。
また3点とも一方の側面の稜に面取りがなされている。ただし、先端部に向かって斜行する角度がそれぞれ異なり、Fig.1(潯美)のものは上方の側面がより直線に近く、松岡氏の定義された角柱非対稱型(1B類)に近い形状であり、法石村のものはおそらく角柱対稱型(1A類)と思われ、Fig.2(潯美)のものはその中間に位置付けられる。
前稿の1997年度(第7次)潜水調査において神崎港沖で採取された碇石や、国内における角柱非対稱型(1B類)碇石の例として取り上げた3点の碇石も、あるいはこうした中間的なものであるかもしれない。碇石の形態とその分布をより正確に把握するためには、国内の碇石も再確認する必要があろう。
参考文献
先頃、出雲大社の祭礼『古伝神嘗祭』を見学する機会があった。この祭は11月23日の夜、新穀を神前に供え、繁栄と五穀豊穣を祈念するもので、ほのかな明かりにうかぶ神官の所作は、まさに弥生土器に描かれたシャーマンを彷彿とさせた。
ところで出雲大社には江戸時代に掘り出された武器形の祭器、どうか飼犬が伝えられている。この青銅器は二千年ほど前の北部九州で作られたものである。近くの荒神谷遺跡から九州産の銅矛が出土したのが約3世紀後の1985年。最近では出雲市内の遺跡で北部九州の弥生土器が相次いで見つかっている。誰が運んだかは別として、海を介した交流の様子は確実に解明されてきている。
はじめに 愈偉超
1.調査に至るまで 張威
2.定海の自然環境、歴史的環境と過去の調査状況 張威
3.白礁遺跡の発掘前の測量、遣物の採集と試掘 劉本安
4.白礁遺跡出土遺物 劉本安
5.遺物の保存処理 田豊
6.最後に 張威
定海発見のこれらの水中遺物は磁器が主体であり、小量の銅、鉄、錫、木器があり、またいくらかの炭化した椰子、なつめなどの果実がある。磁器の器種でおもなものは碗、罐、壺、盞(小型の碗または杯)などがあり、釉色のおもなものは白磁、影青(青白)磁、黒釉磁、青磁、醤釉磁などである。時代の多くは宋元代で、少量は唐あるいは五代及び明清のものである。1988年9月、国家文物局と中国歴史博物館水下考古学研究室の二名の専門家が定海を訪れ、水中考古工作を展開する為の現場条件を事前調査し、定海での調査を準備作業を開始した。1989年11月再び、オーストラリアの水中考古学専門家のポール・クラークと中国歴史博物館水下考古学研究室の専門員が一緒に定海を訪れ、現地の状況を把握し、養成班の為に実習地点を選定した。自礁付近で水中遺跡を探索し、2個体の黒釉盞(天目茶碗)を引き上げ、ついに定海で実習を進めることを決定した。90年3月から5月まで実習は計画にもとづいて行われた。
密な実地調査と陸上の全面的な分析を経て、最後に浮標の巨大な凝結物の南西側の一点を白礁1号遺跡の基準点(0,0)点とし選定した。基準点から方位角2450の方向に沿って南西方向に長さ20mの基準線を設定した。基準線と暗礁の方向は基本的に平行している。基準線の設定後、基準線と暗礁間の基準線から4mの所に、簡単で確実な三平方の定理を利用して平行する第二の基準線を設置する。この4×20mの範囲内に、我々は2×2mのグリッドを設定する。実際の作業ではただその中の12箇所のグリッド90DBTl−T12について表面採集と測量を実施した。 このグリッドを設定した場所は、ちょうど海底の一つの不規則な長い丘であり、丘の上には大小の石塊で満たされており、これらの石塊の角がはっきりしており、大多数は方形を呈し、海水の運搬作用で形成された自然堆積のようではなく、石塊の隙間には大量の文化遣物が散布している。調査グリッドは基本的にはこの地区に設けられた。
から見て、遺物は主にTlとT2の両グリッドに集中していたが、両グリッドの遺物は単純であった(図2)。(4)発掘前の測量 水中では、海底の透度の差は大変大きく、海底地形全体の状況を把捉することは大変難しい。このことから、遺跡の地形の特徴の理解と堆積状況の把握を一歩進める為に、我々は自礁1号遺跡に対して地表の特性と地形の状況を含めた現況の測量を実施した。 前文で述べたグリッド内の大量の石塊の取り上げについては、我々は平面実測を実施した。このようにすることはこの石塊が沈船と関係があり、またこれを利用して水中で平面実測技術の訓練とする為であった(図3)。平面実測が完成した後、すぐに遺跡表面についての三次元測量(レベリング)を実施した。 この三次元測量で採用したのは平面垂直測量法(高低差測量)である。その原理は起点(0,0)に一本の長さが2mの鉄製の基準杭を打ち、基準杭の頭に一点の測量基準点を置き、基準点から遺跡表面の基準点(0,0)までの高度hを記入する。基準点を水平面とする事で、測量時の基準面とする。基準面上に縦方向に1m毎、横方向に20cm毎に縦横の交差点を選び、下方向に遺跡表面の高度Hを測り、各測点Hの数値を基に遺跡表面の縦・横断面図を描く。実際の測量では、地表の起伏がかなり大きく、一基準面での平面測量では難度がかなり大きく、データー精度としてもかなり差がある。このことから、具体的に各部分ごとの測量の時に、実際の状況を基にして、別に1m毎の基準点上に実測点として1点を選び、そして実測面から各測点の距離dを測る。作図では実測したデーターdと実測面から基準面までの正負足巨離hを加えて、基準面から各測点の距離とする。即ちH=d+hである。 この種の方法を用いて、遺跡表面の143箇所のデーターを測量し、遺跡の13箇所の横断面図を描き、更にこの断面図を基に遺跡の等高線を描く・(図4)。(5)試掘調査の概要 追跡の地形について、遺跡表面の分布状況の分析を受けて、最後にグリッドTlとT2を選んで試掘を行った。試掘調査は5月7日から開始し、5月25日に終了した。試掘面積は4×2mであるが、気象の変化と時間の制約から、実際にはTlについて試掘を行っただけである。 水中発掘工作はまず一つの水平枠組みを作り、(0,0)、(0,2)、(0,4)、(2,0)、(2,2)と(2,4)の6箇所に垂直に6本の亜鉛メッキ鋼管を打ちつけ区割杭とする。その後、遺跡表面(0,0)点から1mの高さにL型鋼を用いて2×4mの水平の型枠を作り、水平の測量面とする。水平の枠組みに一本の長さが2mの三角鉄鋼を(0,0)から(0,4)と(2,0)から(2,4)に至までの二本横方向の枠組みに打ちつけ、一つの水平で横方向に移動が可能な横軸を構成する。横軸の移動を]軸、(0,0)【(0,4)方面の一辺をY軸とし、更に一つの鉛直方向に吊した巻尺で測量した水平測量面から遺跡中の被測定遺物の深度をT軸とする。]軸とY軸上にもまた巻尺を固定する。このように一つの遣物の発掘するたびに、この簡単で迅速な方法を用いて、それの]、Y、Zの三次元の座標を測定し、陸上での整理作業で測定のデーターをもとにして、各遺物の遺跡での位置を描く。 発掘に用いた主要な機材は消防用高圧ポンプを改良した抽泥機(水中ドレツジ)である。抽泥機の作業原理はポンプのホースを延長して水中に通し、「ト」状の先端部のノズル管に繋ぐ、ノズル管のほかのニロは抽泥管と出泥管にそれぞれ繋ぐ。ポンプは高圧水を抽泥管の反対方向に向けて水を吹き出し、抽泥管内を低圧の状態にし、抽泥管外の泥砂を吸い込むことが出来る。このような抽泥機の改良によって、抽泥口と出泥口が直結し、問には何も隔てるものが無く、泥砂で詰まることも無い。泥は比較的おだやかに汲み上げられ、遺跡の発掘に対して容易に制御出来る。 またこれと併せて、我々は発掘途中でジェット噴水器を用いた手煽法を採用した。即ち水で泥砂を遺跡の表面から煽り出し、煽りたてて散らしてしまうかあるいは抽泥機から汲み上げる。発掘時には、一つの遺物毎にラベルを付けて番号を与え、その位置と高さを測り、更に遺物を取り上げ袋に入れ、水面に運び出す。 試掘によって90DBTlの表層が貝殻灰と海底泥砂の混合堆積であり、表面には大量の石塊が散布していたことが判明した。表層出土の遣物と表面の遺物は基本的に叫致し、また黒粕蓋(いわゆる天目碗)と青白磁浅腹碗が中心であり、少量の明清から近代に至るまでの遣物、例えば碍や綱の重り、青花磁器片等をも含み、この堆積層が撹乱層であることが明らかになった。
基準点周辺で、撹乱層を除去したあと、暗灰色の海泥堆積が露出した。その土質はかなり細かく締まっており、噴水器法(手煽法)を用いても通用せず、たがねに近い工具で泥を掘り起こし、更に抽泥機で選別した。灰色の海泥中の遺物は単一で、黒軸天目茶碗と青白磁浅腹碗で器形は完全で、ほかの遺物は混じっていない。発掘の最後の数日、海泥下33cmで一つの木塊が出土した。木塊の断面は突巨形で、加工されている。木塊の一端は露出しているが、別の一端はトレンチ外に延び、浮標の巨大な凝結句勿の下にある(図5)。凝結物の表面の精査によって、凝結物上に貝殻・天目茶碗があるのを発見した。器形は完全であったが、凝結は固く、とり外す方法がなかった。 時間が押し迫ってきた事から、木塊と凝結物は取り外しが行えず、写真撮影だけを行ったが、透明度の問題もあって、あまり良く撮れなかった。したがってこの木塊が船のどの部分であるかは、なお今後の調査を行う必要がある。(6)水中撮影 今回の水中考古学作業では、二人のカメラマンとオーストラリア方の教員との水中考古隊員全体の緊密な協力によって、水上と水中の作業状況と遺跡の状況の写真撮影を成功のうちに撮影することが出来た。そして福建省博物館の協力のもとに、一本今回の水中考古作業を記録するビデオを撮影した。これは中国での水中考古調査を撮影したフイルムとしては、やはり初めてのものである。 水底遺跡の資料を可能なかぎり得るために、また試行的に水中でつなぎ写真を撮影してみた。水中での連続写真は特別な方法を用いて、水中遺跡全体の一部分ずつを撮影した後、陸上に持って上がり、一定の比率に写真を現像して接続したものである。接続された写真は遺跡の現状を実際のように反映出来る。連続写真をもとに、数学的手法を借りて、特に、コンピューターを利用して正確に遺跡の平面図を描くことも可能である。この方法(写真測量)は正確で、かつ早く、経済的であり、また一枚の写真から大量の情報を得ることが出来る。国外の水中考古発掘において、特に堆積状況が複雑なもの、自然条件があまり良くない遺跡の発掘で普通に採用されている。 今回は主に四角架(グリッド垂直撮影)の方法を用いて接続写真撮影を試してみた。グリッド本体の枠組みは1本鉄筋を用いて作られた底辺と高さが全て1mの正四角台錐を呈するものである。その頂上は大変小さく、ちょうど水中カメラを架けるのに都合がよく、レンズを下に伸ばすことが出来る。その効果は陸上での三脚で撮影するのに相当し、ゆえに四角架と言う。しかし、四角架の作用はカメラを固定するだけではなく、その高さをコントロールし、かつ被写体からレンズの足巨離を1mと保証する。四角架の4辺はカメラの中に入るので、写真を接続する時の目安となり、また一つの比例基準となる。 使用カメラは二コノスX型の水中専門カメラである。接続写真に使うレンズは15mmで、15mmのレンズは水中での光度は陸上での35mmのレンズに相当する。定海での発掘中、撮影時は常に露光時間の調整を行い、極力一枚の遺跡連続図を作成しようと努めた。しかし、この作業の季節は福州地方ではちょうど雨期の時期であり、山での洪水が多量に海に入り、海水を濁らせた。同時に淡水と海水の混じりによって、水中に多量のプランクトンが発生し、水中に光がほとんど差し込まず、そのうえ大量の糸状の微生物が浮遊して、水中の透明度に著しく影響を与えた。このような情況のもとでは、フラッシュ或いはその他の補助光源を使用しても効果がなく、連続写真を撮影する手立てはなかった。しかしどうであろうとも、我々が今回水中考古撮影を行ったのは初めてであり、その成功と失敗は、すべて今後の為の経験として蓄積した。 ※ この論文は中国歴史博物館館報 第18−19期、242−258頁、1992に載せられた定海遺跡に関する調査報告である。中国側の好意により許可を得て、山崎龍雄氏の翻訳により会報誌に載せることができました。この論文は本誌で二回に分けて載せることとなり、そのため便宜的に題目の最後に(上)を付ることにしました。
発見当時の状況
昭和53年12月小学生が発見した両手一杯の古銭から話は始まる。12月の響灘の荒波は大量の古銭を渚に洗い出した。噂は町内の小・中学生の間に“古銭収集ブームを起したほどであった。漂着はその後3年間続き56年3月で途絶える。拾われた内で資料館に収集されたものだけでも、古銭約8000枚を数えた。他に銅鏡5面、龍泉窯系青磁数十点、肥前系陶磁器コンテナ23箱などがあった。
古銭の種類
古いものでは前漢(BC175)の半両銭から新しくは江戸時代の文久永寳まで51種に分類できる。解読できるもの約4500枚のうち95%が宋銭であった。波・砂による磨耗が激しいものも多く波に洗われた期間が長いことが判る。
| 銭名 | 時代 | 初鋳年 | 枚数 | 銭名 | 時代 | 初鋳年 | 枚数 | ||
| 1 | 開元通寳 | 唐 | 621 | 1010 | 27 | 紹聖通寳 | 北宋 | 1094 | 1 |
| 2 | カン徳元寳 | 前蜀 | 919 | 2 | 28 | 元符通寳 | 北宋 | 1098 | 31 |
| 3 | 周通元寳 | 後周 | 955 | 1 | 29 | 聖宋元寳 | 北宋 | 1101 | 27 |
| 4 | 宋通元寳 | 北宋 | 960 | 3 | 30 | 崇寧通寳 | 北宋 | 1102 | 2 |
| 5 | 太平通寳 | 北宋 | 976 | 17 | 31 | 崇寧重寳 | 北宋 | 1103 | 2 |
| 6 | 淳化元寳 | 北宋 | 990 | 21 | 32 | 大観通寳 | 北宋 | 1107 | 8 |
| 7 | 至道元寳 | 北宋 | 995 | 47 | 33 | 政和通寳 | 北宋 | 1111 | 69 |
| 8 | 咸平元寳 | 北宋 | 998 | 14 | 34 | 宣和通寳 | 北宋 | 1119 | 7 |
| 9 | 景徳元寳 | 北宋 | 1004 | 24 | 35 | 正隆元寳 | 金 | 1157 | 3 |
| 10 | 祥符元寳 | 北宋 | 1009 | 2 | 36 | 淳熈元寳 | 南宋 | 1174 | 9 |
| 11 | 祥符通寳 | 北宋 | 1009 | 27 | 37 | 紹熈元寳 | 南宋 | 1190 | 4 |
| 12 | 天禧通寳 | 北宋 | 1017 | 11 | 38 | 慶元通寳 | 南宋 | 1195 | 2 |
| 13 | 天聖元寳 | 北宋 | 1023 | 25 | 39 | 皇宋元寳 | 南宋 | 1253 | 1 |
| 14 | 明道元寳 | 北宋 | 1032 | 6 | 40 | 成淳元寳 | 南宋 | 1260 | 3 |
| 15 | 景祐元寳 | 北宋 | 1034 | 37 | 41 | 景定元寳 | 南宋 | 1260 | 2 |
| 16 | 皇宋通寳 | 北宋 | 1038 | 72 | 42 | 洪武通寳 | 明 | 1368 | 51 |
| 17 | 至和元寳 | 北宋 | 1054 | 4 | 43 | 永楽通寳 | 明 | 1408 | 57 |
| 18 | 至和通寳 | 北宋 | 1054 | 20 | 44 | 朝鮮通寳 | 朝鮮 | 1423 | 2 |
| 19 | 喜祐元寳 | 北宋 | 1056 | 8 | 45 | 宣徳通寳 | 明 | 1433 | 4 |
| 20 | 嘉祐通寳 | 北宋 | 1056 | 4 | 46 | 寛永通寳 | 江戸 | 1636 | 2706 |
| 21 | 治平元寳 | 北宋 | 1064 | 18 | 47 | 常平通寳 | 朝鮮 | 1678 | 4 |
| 22 | 熈寧元寳 | 北宋 | 1068 | 66 | 48 | 乾隆通寳 | 清 | 1736 | 4 |
| 23 | 熈寧通寳 | 北宋 | 1071 | 1 | 49 | 嘉慶通寳 | 清 | 1796 | 4 |
| 24 | 元豊通寳 | 北宋 | 1078 | 55 | 50 | 道光通寳 | 清 | 1821 | 2 |
| 25 | 元祐通寳 | 北宋 | 1086 | 29 | 51 | 文久永寳 | 江戸 | 1863 | 2 |
| 26 | 紹聖元寳 | 北宋 | 1094 | 28 | 計 | 4559 |
資料数が多い古銭は開元通寳1010枚、煕寧元寳66枚、政和通寳69枚などである。この他に江戸時代の寛永通寳が2706枚漂着している。これは、芦屋が中世の国際交易港から近世には国内交易港としての役割へとシフトしていった事を物語っていると思われる。(但し当資料には模鋳銭が混在していることはほぼ確実である。残存状態の悪い資料からいかに「本来銭」と「模鋳銭」を別けるかが今後の課題であろう。)また今回の漂着銭にどの程度関係しているかは不明だが江戸時代の漁師の間では出漁前に豊漁と安全を祈願してお金を海へ投げ入れる風習があったとの報告もある。さらに明治時代に遠賀川河口の大規模な渡深工事が行われており、その時の廃土に含まれていたと言う説もある。いずれにせよ芦屋の海には、中世・近世の貿易船が相当数沈んでいると思われる。もっとも芦屋沖の海底は砂丘状になっている部分が多く沈没船の発見は難しいと言われている。
なぜ芦屋沖では遭難が多かったか。芦屋沖は北東風と南風がぶつかる波浪の荒い所として運行する船を悩ませてきた海の難所であった。(芦屋町誌1972)。「目方(北東)吹くらし水茎の岡の湊(芦屋の古称)に波立ちわたる」『万葉集』、「心よせ浮寝のよはに見し夢や芦屋の灘の荒き潮風」『草根集』、「此所西北に海有て、其末は辺際なく、はるかに異国の海に通ずれば、つねに風浪あらくして、船客の魂を驚かす。されば芦屋洋(あしやなだ)とて、船客の甚あそるる所や」『筑前統風土記』、などと記されている事がそれを裏づけている。また宗像大社資料に「芦屋から新宮一帯の漂着物については宗像大社の修繕費にあてる」とあり、このことは遭難が珍しく無かった事を示す資料である。
なぜ芦屋で見つかるのか?
平安末期に日宋貿易を推し進めた平家の被官に山鹿兵藤次秀遠がいた。秀遠は芦屋を海運基地として支配していた。壇ノ浦の合戦時には平家方の主力を勤める武将として歴史に名を残している。鎌倉時代初期の禅僧、無本覚心は禅の公案集として知られる『無門関』を日本へ伝えた高僧である。覚心は宋からの帰国にさいし、船を芦屋で乗り換えている。芦屋津を支配していたのは、秀遠の遺領を受け継いだ宇都宮氏系の山鹿氏だった。山鹿氏は北条氏の被官となっている。北条氏が交通の要衝を次々と手に入れていったのは有名である。中央の勢力も交通・交易の要として芦屋を注目していた事がわかる。
室町時代の芦屋は、日明貿易を独占していた大内氏の家臣、麻生氏が支配していた。麻生氏も朝鮮との交易を試みていることが文書に残っている。最近町内からもこの時期の遺跡が続々と発見されている。江戸時代最盛期には伊万里港から出荷される肥前磁器の約2/3を筑前芦屋の商人が商っていたという記録がある。肥前陶磁器の国内交易が盛んになったのは鎖国令によって海外交易が禁じられてからのことである。芦屋商人の旅行は元禄(1688)頃から始まっているようである。寛永通貨が多く漂着銭に含まれるのは、この旅行商人に関係するものではないかと思われる。
以上、推測の域を出ない詰も含まれるが、今から20年ほど前の漂着古銭の紹介をさせてもらった。芦屋海岸の汀線は現在も変化し続けており、浸食される部分と、浜が広がる部分との差がいちじるしい。又海と砂の中から過去の記録が発見されるかもしれない。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |