土佐日記
紀 貫之
 
 
「土佐日記」について
 
 
わが国最初の和文による旅日記体の作品で、平安期の日記文学のさきがけとなった。
 国守の任期を終え、土佐国を出発して京に帰る道中のできごとを記述。紀貫之は、架空の女性を筆者として、その目を通して道中に出会ったさまざまな人物やできごとを観察させている。貫之自身もその対象となっており、時には笑われたり、からかわれたり、同情されたりしている。
 また、歌人・貫之の和歌に対する意見も随所にちりばめられ、歌論書めいたところもある。

 
 
紀貫之の略年譜
 
866または872年
このころ生まれる
 
905年
醍醐天皇の勅により「子古今和歌集」の選集に携わる
 
906年
越前権少
掾に任官
 
907年
内膳典膳に遷任
 
910年
少内記に遷任
 
913年
大内記に転任
 
917年
従五位下に叙位
 
923年
大監物に遷任
 
930年
土佐守に遷任
 
935年
土佐守の任を終え帰京
後にこのときの紀行を参考に「土佐日記」を書く
 
943年
従五位上に叙位
 
945年
死去
 
 
紀貫之について
 
 
平安時代の歌人、三十六歌仙のひとり。望行の子。紀氏は本来武人の家系だが、貫之のころには多くの歌人を輩出、藤原敏行、兼覧王などが知られている。御書所預,内膳典膳,少内記,大内記,美濃介,右京亮,玄蕃頭,木工権頭などを歴任。従五位上。
 寛平年間(889〜98年)の是貞親王家歌合や寛平御時后宮歌合に出詠して歌界にデビュー。延喜5年(905年)、醍醐天皇の命を受け、友則らと共に最初の勅撰集『古今和歌集』を編纂するにおよんで、一躍歌壇的地位を築いた。この編纂作業では,わが国初の本格的歌論書ともいうべき仮名序を自ら草するなど、終始リーダーシップを発揮。また、集中第1位の102首もの自作歌を選入して、理知的、分析的な古今歌風の形成に大きく関与した。
 このころから歌人としての声望はとみに高まり,以後、多くの権門貴紳から屏風歌制作の注文が相次いだ。屏風歌の数の多さは当時の一流歌人としての証であり、これらは晩年自ら編んだ『貫之集』の前半部に500首を超える一大屏風歌歌群となって残されている。
 延長8年(930年)、土佐守に任ぜられたが、赴任直前に醍醐天皇より命が下り、再び歌集を編むこととなった。『新撰和歌』4巻である。ただし、これは任地で編纂中に天皇が崩じたため、惜しくも勅撰集とはならなかった。ほかにも宇多天皇、藤原兼輔など貫之を主に支えていた人々が次々と他界し失意の内に任を終えた貫之は,承平4年(934年)帰京の途に就く。
 この折の船旅を一行のさる女性に仮託して綴ったのが『土佐日記』であり,仮名で記された日記文学の創始として,のちの女流文学隆盛を招来するきっかけとなった。 貫之の業績は韻文、散文両分野にわたり真に多大なものがあるが,ことに国風文化の台頭期にあって,たえず文学上の新しい方法を模索し、開拓していったその精神は,大いに讃えられてよい。

 
 
「土佐日記」の行程
 
 
 
 
12月21日
国司交替の事務を終え、午後8時、官舎を出発し大津へ向かう
12月22日
海上平穏を祈願
12月23〜24日
送別の宴が続く
12月25日
後任の国司の招待を受け国府に出向く
12月26日
守の官舎で宴を催す
宴が終わり、大津に向かう
12月27日
浦戸に向けて船を漕ぎ出す
土佐国で急逝した女児を恋い悲しむ
12月28日
大湊へ。
 
1月1日
以後8日まで風波が強く出航できない
1月9日
早朝、人々と別れを惜しみ、奈半の港に向かう
宇多の松原を通過
1月11日
室津に向かう
羽根という土地のことを尋ねた子どもにつけても、亡き女児を思い悲しむ
1月15日
風波やまず
1月17日
出航するが、雨が降り出し、引き返す
1月20日
月を見て、阿倍仲麻呂の歌をしのぶ
1月21日
午前6時ごろ船を出す
1月22日
海は荒れ模様
1月23日
海賊の心配があるので、神仏に祈る
1月26日
夜中ごろから船を漕ぎ出す
1月27〜28日
風波が強い
1月29日
都の行事をなつかしく思い出す
1月30日
海賊を避けて夜中ごろ船を出す。神仏を祈りつつ阿波の海峡を渡る
和泉の灘に到着
 
2月1日
海岸沿いに北上
2月4日
美しい貝や石を見て亡き女児を追慕
2月5日
住吉の松を見て女児を追慕
2月6日
難波に着き、河口に入る。人々は都が近いと喜ぶ
2月7日
河口を上るが水が少なく苦労する
2月9日
船上から渚の院を眺め、昔をしのぶ
2月11日
山崎に到る
2月14日
京に車を取りに人を出す
2月15日
船からある人の家に移る
2月16日
夜になるのを待って京に入る
 
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●「土佐日記」の行程
 
  
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古典文学の理念

まこと
 日本の古典文学の根幹を流れる理念。『万葉集』『古事記』など上代の文学には、人間の心をありのままに写し出す素朴な美として表現されている。明・浄(清)・直をかねそなえたものが「まこと」とされ、この理念は時代の推移とともに、「もののあはれ」「幽玄」など多彩な美の概念を生み出していく。
 
ますらをぶり
 男性的でおおらかな歌風。賀茂真淵ら近世の国学にたずさわった歌人たちは、『万葉集』にこの風があるとして尊んだ。
 
たをやめぶり
 女性的な穏やかで優美な歌風。『万葉集』の「ますらをぶり」に対して、『古今和歌集』以降の勅撰和歌集で支配的となった歌風。
 
あはれ
 しみじみとした感動を表現する語として、「あはれなり」などと平安時代の作品にしばしば用いられている。悲哀・優美・調和などに対する感動を伝える語で、「もののあはれ」と呼ばれるこの時期の文芸理念を形作っていく。
 
をかし
 『枕草子』に多用されていて、明るく軽やかな感動をあらわす語。「あはれ」が主情的であるのに対して、「をかし」は客観的な色合いが強く、後に「滑稽(こっけい)」の意味で用いるようになる。
 
もののあはれ
 平安時代の代表的な文芸理念。本居宣長は、『源氏物語』の作中から、「もののあはれ」の用例12か所を抽出してこの物語の本質が「もののあはれ」にあることを論証するとともに、この精神こそが日本文学の本質であると説いた。その意味するところは、「あはれ」の感動が「もの」という他の存在を契機として高められた状態を指し、調和のとれた美感を尊ぶ文化にはぐくまれた感動・情趣が開花したものであるとする。
 
たけ高し
 壮大な美、格調高い美。
 
余情
 平安中期の和歌に始まり、のち連歌・謡曲などにも使われた理念の一つ。表現の外ににじみ出る、ある種の気分・情緒をいう。
 
幽玄
 中世の文芸の中核をなす理念で、奥深い余情や象徴的な情調を内容とする。本来この語は、中国の古典や仏教の経典に用いられ、奥深くしてきわめることのできないもの、本質的で不変なるものを意味する漢語だった。『古今和歌集』真名序などに用いられて日本固有の文芸理念として変質した。
 
有心
 「幽玄」の理念を受け継ぎつつさらにその余情の色合いを濃くしたもの。
 
無心
 中世以前は機知や言葉の洒落(しゃれ)を主とする通俗的なものであったが、室町期になると禅の影響などから絶対無の境地として評価されるようになった。
 
さび
 近世を代表する文芸理念の一つ。「さび」は「寂しさ」から来た語だが、寂しさにそのまま沈潜するのではなく、むしろそれを抑えたところに成立する美。
 
 
  
 

 
 

 
 

 
 
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・門 出
送別の宴
船 出

元 日
大湊の泊
宇多の松原
羽 根
暁月夜
安倍仲麿の歌
かしらの雪
海賊の恐れ
子の日の歌
阿波の水門
黒崎の松
忘れ貝
住 吉
淀 川
渚の院
帰 京
 
【門 出】


 男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。
 
 それの年の十二月
(しはす)の二十日あまり一日(ひとひ)の日の戌(いぬ)の時に、門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。
 
 ある人、県
(あがた)の四年(よとせ)五年(いつとせ)果てて、例のことどもみなし終へて、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ、別れ難く思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。
 
 二十二日に、和泉
(いずみ)の国までと、平らかに願(ぐわん)立つ。藤原のときざね、船路なれど、馬のはなむけす。上中下(かみなかしも)、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海(しほうみ)のほとりにて、あざれ合へり。
  
(現代語訳)

 
 男の人も漢文で書くと聞いている日記というものを、女の私も仮名文で書いてみようと思い、書き記す。
 ある年の十二月二十一日の午後八時ごろに出発することになった。そのときのようすをいささか書きつける。
 ある人が、国守としての任期四、五年が過ぎ、交替時の例となっている事務の引継ぎなどをすっかりすませ、離任証書などを受け取り、住んでいた館から出て、船に乗る場所に行く。あれやこれやの人々、そして知っている人も知らない人も、見送りをする。この数年間、とても親しくしていた人たちは、とくに別れ難い心境で、一日中、何やかんやと立ち回って、大きな声で言い騒いでいるうちに夜が更けてしまった。
 二十二日に、せめて和泉の国までは無事に着きますようにと願をかける。藤原のときざねが、船旅でありながら、馬のはなむけをして送別の宴をしてくれる。身分の上中下にかかわらずみな深酔いして、不思議にも、潮海だからあざる(魚が腐る)はずもないのに海辺であざれ(ふざけ)合っている。

 
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【送別の宴】
 
 二十五日(はつかあまりいつか)。守の館(たち)より、呼びに文(ふみ)持て来たなり。呼ばれて至りて、日一日(ひひとひ)、夜一夜(よひとよ)、とかく遊ぶやうにて明けにけり。
 
 二十六日
(はつかあまりむゆか)。なほ守の館にて、饗応(あるじ)しののしりて、郎等(らうどう)までに物かづけたり。漢詩(からうた)、声あげて言ひけり。和歌(やまとうた)、主も、客人(まらうど)も、他人(ことひと)も言ひあへり。漢詩は、これにえ書かず。和歌、主の守のよめりける、
 
  
都出でて君に会はむと来(こ)しものを来しかひもなく別れぬるかな
 
となむありければ、帰る前
(さき)の守のよめりける、
 
  
しろたへの波路(なみぢ)を遠く行き交ひて我に似べきはたれならなくに
 
 異
(こと)人々のもありけれど、さかしきもなかるべし。とかく言ひて、前の守、今のも、もろともにおりて、今の主も、前のも、手取り交はして、酔い言(ごと)に心よげなる言(こと)して、出で入りにけり。
 
(現代語訳)

 二十五日。土佐の守の館から、招待の書を使いが持ってきた。招かれていき、一日中、一晩中、何やかんやと楽しく過ごすうちに夜が明けてしまった。
 二十六日。なお土佐の守の館でご馳走してくれて大騒ぎし、従者にいたるまで祝儀をくれた。漢詩を声高らかに朗詠した。和歌を、主も客人も、他の人たちも詠みあった。漢詩はここには書けない。和歌は、主の土佐の守が詠んだのが、
 <都を出発してあなたに会おうとせっかくやって来たのに、来た甲斐もなく、もうお別れしなくてはいけない。>
とあったので、帰京する前の土佐の守(貫之のこと)が詠んだのが、
 <白波が立つ海路をはるか遠く、都に帰る私と入れ替わりにこの地にやって来て、私と同じに無事任期を終えて帰京するのは、誰でもないあなたですよ。>
 他の人たちのもあったが、気の利いた歌などなかろう。あれこれ語り合い、前の土佐の守も今の土佐の守も一緒に庭先に下りて、お互いに手を取り合い、酔っ払った口調で心地よい祝福のことばを述べて、前の土佐の守は館を辞し、今の土佐の守は館の中に入っていった。
 
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【船 出】
 
 二十七日(はつかあまりなぬか)。大津より浦戸をさして漕ぎ出(い)ず。かくあるうちに。京にて生まれたりし女児(をんなご)、国にてにはかに失せにしかば、このごろのいで立ちいそぎを見れど、何ごとも言はず、京へ帰るに女児のなきのみぞ、悲しび恋ふる。ある人もえ堪へず。この間に、ある人の書きていだせる歌、
 
  
都へと思ふものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
 
 また、あるときには、
 
  
あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける
 

と言ひける間に、鹿児崎
(かこのさき)といふ所に、守の兄弟(はらから)、また他人(ことひと)、これかれ酒なにと持て追ひ来て、磯に降りゐて、別れがたきことを言ふ。守の館(たち)の人々の中に、この来たる人々ぞ、心あるやうに言はれほのめく。かく別れがたく言ひて、かの人々の口網(くちあみ)ももろ持ちにて、この海べにて、になひ出だせる歌、
 
  
をしと思ふ人やとまるとあしがものうち群れてこそわれは来にけれ
 
と言ひてありければ、いといたくめでて行く人のよめりける、
 
  
(さを)させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな
 
と言ふ間に、楫
(かぢ)取りもののあはれも知らで、おのれし酒を食らひつれば、早く往(い)なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、船に乗りなむとす。このをりに、ある人々、をりふしにつけて、漢詩(からうた)ども、時に似つかはしき言ふ。また、ある人、西国(にしぐに)なれど、甲斐歌(かひうた)など言ふ。かく歌ふに、「船屋形(ふなやかた)の塵(ちり)も散り、空行く雲も漂ひぬ」とぞ言ふなる。今宵(こよひ)浦戸に泊まる。藤原ときざね、橘すゑひら、こと人々追ひ来たり。
 
(現代語訳)

 二十七日。大津から浦戸をめざして漕ぎ出す。このようにあわただしくしているうちにも、京で生まれた娘がこの国で急に死んでしまい、出発の準備を見ているうちに、言葉にいえないほど帰京に際して娘がいないのが、ただひたすらに悲しく恋しく思う。その場にいる人たちも悲しみに堪えられない。この間に、ある人が書いてくれた歌、
  <京へ帰ろうと思うものの、何とも悲しいのは、亡くなってしまい、いっしょに帰ることができない人がいるからだ。>
また、あるときには、
  <まだ生きているものと思い、死んでしまったのを忘れて、どこにいるのかと尋ねる。はっと気がつき、なお悲しみがつのる。>
と言っているうちに、鹿児崎という所に、新しい国守の兄弟や、また他の人たち、だれかれが酒などを持って追ってきて、磯に下りて座り込み、別れがたいことを言う。国守の館の人々の中でも、このやって来た人たちはとくに人情に厚いといわれ、時おり姿を見せる。このように別れを惜しみ、まるで漁師が総出で網を担ぎ出すように、みんなで口をそろえて、この海辺で歌いだした歌は、
 <名残惜しく思っている人が、もしやとどまってくれるのではと、葦鴨(あしがも)のように大勢連れ立ってやって来ましたよ。>
と詠じたので、とても感激して帰っていく人が詠んだ歌、 
 <棹をさしても、奥底も分からない海のように、あなた方の深いお気持ちを感じます。>
と言っているうちに、船頭は情緒も解さず、自分はすっかり酒を飲んでしまったので、早く出発しようとばかりに、「潮が満ちた。風も吹いてくるに違いない」と騒ぐので、みな船に乗ろうとする。この時、そこに居合わせた人たちが、その場に合わせて別れにふさわしい漢詩などを朗吟する。また、ある人は、西国の地ではありながら東国の甲斐の国の歌などを歌う。このように歌うのに対し、「船の屋形の塵も散り、空を飛ぶ雲も行くのをやめて漂っている」と言っているようだ。今夜は浦戸に泊まる。藤原ときざね、橘すえひら、他の人々が追いかけてやって来た。
 
 
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【元 日】

 元日。なほ、同じ泊りなり。白散(びやくさん)をある者、「夜の間」とて、船屋形にさしはさめりければ、風に吹き慣らさせて、海に入れて、え飲まずなりぬ。芋茎(いもじ)・荒布(あらめ)も、歯固めもなし。かうやうの物なき国なり。求めしもおかず。ただ押鮎(おしあゆ)の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎もし思ふやうあらむや。「今日は都をのみぞ思ひやらるる。小家(こへ)の門(かど)のしりくべ縄(なは)のなよしの頭(かしら)、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ」とぞ言ひあへなる。
 
(現代語訳)

 元日。やはり同じ港である。白散(びゃくさん)をある者が、「一晩の間だから」と言って、船屋形に差し挟んでおいたのが、風に吹かれて海に落ちてしまい、飲むことができなくなってしまった。芋茎(ずいき)・荒布も、歯固めの品もない。これほどに物のない国(船のこと)なのだ。特に買い求めもしていない。ただ、押鮎の口ばかりを吸う。これらの吸う人々の口を、押鮎は何と思うであろうか。「今日は、都ばかり思われて仕方がない。小さな家の門にしめ縄として飾るぼらの頭や、ひいらぎなどは、今ごろどんなふうだろうか」と、みんな言い合っているようだ。
 
(注)白散 ・・・ 正月に飲む屠蘇(とそ)の類。長寿・厄除けの漢方薬で、温酒とともに服用する。
(注)芋茎 ・・・ サトイモの茎を乾燥させたもの。
(注)荒布 ・・・ 海藻の一種。
(注)歯固め ・・・ 正月三が日に、長寿を祈って大根、瓜、押鮎などを食べる行事。
 
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【大湊の泊】

(一)
 七日になりぬ。同じ湊
(みなと)にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、かひなし。ただ波の白きのみぞ見ゆる。かかる間に、人の家の、池と名ある所より、鯉(こひ)はなくて鮒(ふな)よりはじめて、川のも海のも、他物(こともの)ども、長櫃(ながびつ)にになひ続けておこせたり。若菜ぞけふをば知らせたる。歌あり。その歌、
 
  
浅芽生(あさぢふ)の野べにしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり
 
 いとをかしかし。この池といふは、所の名なり。よき人の男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃のものは、皆人、童
(わらは)までにくれたれば、飽き満ちて、船子どもは腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海をさへ驚かして、波立てつべし。
 
(現代語訳)

 七日になった。まだ同じ港にいる。今日は都の白馬(あおうま)の節会(せちえ)のことを思うものの、どうすることもできない。ただ波の白さばかりが見える。こうしている間に、ある人の家で、池という名の所から、鯉はないものの、鮒をはじめ、川の魚、海の魚ほかを、長櫃に入れて次々に担いで送ってきた。その中にあった若菜が、七種(ななくさ)の節句である今日という日を思い起こさせてくれる。歌が添えてある。その歌は、
 <私どもの家は、短い茅萱(ちがや)が一面に生えた野にあり、地名は池ながら、水もない池で摘んだ若菜です。>
 とても趣がある。この池というのは、地名だ。身分のある女性が夫に従って下向し、ここに住んだという。この長櫃の中のものは、全員、子どもにまでくれてやったので、飽きるほど食べ、船乗りたちは腹鼓を打ち、海をも驚かし、波を立ててしまいそうだ。
 
 
(二)
 かくて、この間にこと多かり。けふ、破籠
(わりご)持たせて来たる人、その名などぞや、今思ひいでむ。この人、歌よまむと思ふ心ありてなりけり。とかく言ひ言ひて、「波の立つなること」とうるへ言ひて、よめる歌、
 
  
行く先に立つ白波の声よりも遅れて泣かむわれやまさらむ
 

とぞよめる。いと大声なるべし。持て来たるものよりは、歌はいかがあらむ。この歌をこれかれあはれがれども、ひとりも返しせず。しつべき人もまじれれど、これをのみいたがり、ものをのみ食ひて、夜ふけぬ。この歌主
(うたぬし)、「まだまからず」と言ひてたちぬ。ある人の子の童(わらは)なる、ひそかに言ふ、「まろ、この歌の返しせむ」と言ふ。驚きて、「いとをかしきことかな。よみてむやは。よみつべくは、はや言へかし」と言ふ。「『まからず』とてたちぬる人を待ちてよまむ」とて求めけるを、夜ふけぬとにやありけむ、やがて往(い)にけり。「そもそもいかがよんだる」と、いぶかしがりて問ふ。この童、さすがに恥ぢて言はず。しひて問へば、言へる歌、
 
  
行く人もとまるも袖(そで)の涙川みぎはのみこそ濡れまさりけれ
 
となむよめる。かくは言ふものか。うつくしければにやあらむ、いと思はずなり。「童言
(わらはごと)にてはなにかはせむ。嫗(おんな)・翁(おきな)、ておしつべし。あしくもあれ、いかにもあれ、たよりあらばやらむ」とて、置かれぬめり。
 
(現代語訳)

 このように、この間、いろいろなことがあった。今日、破籠を従者に持たせてやって来た人、名前はちょっと思い出せない。この人は、歌を詠もうという下心があって来たのだ。あれこれ言いつつ、「波が立っているようですね」としめっぽく言って詠んだ歌は、
 <あなたが行く先に立つ白波の音より、あとに残されて泣く私の声のほうが大きいことでしょう。>
というもの。波の音に負けないとは、ずいぶん大きな声に違いない。持ってきたご馳走にくらべて、歌のできばえはいかがなものか。この歌を幾人かが感心してみせるが、一人も返歌をしようとしない。返歌できる人もいるのだが、この歌に感服するのみで、ご馳走を食べてばかりいて、そのうち夜が更けてしまった。この歌を詠んだ人は、「まだお暇はしません」と言いながら座を立った。そこに居合わせた小さな子どもが、こっそりと、「私が、この歌の返歌をします」と言った。驚いて、「それはとても面白い。本当に詠めるの? 詠めるのなら早く言ってごらん」と言う。「『お暇はしません』と言って座を立った方を待って詠みます」と言って、その人を捜したが、夜が更けたためか、そのまま帰ってしまっていた。「いったい、どんなふうに詠んだのか」と、知りたく思って聞く。その子は、さすがに恥ずかしがって言わない。無理に聞き出したところ、言った歌は、
 <旅立つ人もとどまる人も、その袖を濡らす涙が川のように流れ落ちる。それが水際まであふれてどんどん濡れていくことだ。>
と詠んだもの。これほど見事に詠めるものだろうか。この子がかわいいからか、思ってもみなかったことだ。「いくらなんでも返歌が子どもの作では失礼だろう。お婆さんかお爺さんが署名したらよかろう。実際は子どもの作なのが悪かろうが何だろうが、つてがあれば送ってやろう」と言って、手元に取って置かれたようだ。
 
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【宇多の松原】
 
(一)
 九日のつとめて、大湊
(おほみなと)より奈半(なは)の泊(とまり)を追はむとて、こぎいでけり。これかれ互ひに、国の境の内はとて見送りに来る人あまたが中に、藤原ときざね、橘すゑひら、長谷部ゆきまさらなむ、御館(みたち)より出でたうびし日より、ここかしこに追ひ来る。この人々ぞ志ある人なりける。この人々の深き志は、この海にも劣らざるべし。これより今はこぎ離れて行く。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来(き)ける。かくてこぎ行くまにまに、海のほとりに留(と)まれる人も遠くなりぬ。船の人も見えずなりぬ。岸にも言ふことあるべし。船にも思ふことあれど、かひなし。かかれど、この歌をひとりごとにしてやみぬ。
 
  
思ひやる心は海を渡れどもふみしなければ知らずやあるらむ
 
 かくて、宇多の松原を行き過ぐ。その松の数 幾
(いく)そばく、幾千年(いくちとせ)経たりと知らず。もとごとに波うち寄せ、枝ごとに鶴ぞ飛び通ふ。おもしろしと見るに耐へずして、船人のよめる歌、
 
  
見渡せば松の末(うれ)ごとに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる
 
とや。この歌は、所を見るに、えまさらず。

 
(現代語訳)

 九日の早朝、大湊より奈半の港をめざそうと漕ぎ出した。誰も彼もが土佐の国境までは見送ろうと来る人の大勢の中で、とりわけ藤原ときざね・橘すえひら・長谷部ゆきまさたちは、官舎を出られた日からずっと、ここかしこの宿所に追ってくる。この人々こそは、志の深い人たちであった。この人々の深い志は、この海の深さにも劣らないに違いない。これよりいよいよ漕ぎ離れていく。これを見送ろうとして、この人々はここまで追ってやってきたのだった。こうして漕いでいくにつれて、海辺にとどまっている人も遠くなってしまった。船上の人も、向こうからは見えなくなった。彼らもまだ話したいことがあったに違いない。船上の我々もそう思うことがあるが、どうしようもない。だけども、この歌を独り言にして終わった。
 <思いやる心は海を渡って思うものの、手紙もないし海を渡っていくわけにもいかないが、あちらの人は私の心を知らないでいるのだろうか。>
 こうして、宇多の松原を通り過ぎる。その松の数はどれくらい多いのだろう。何千年経っているのか分からない。それぞれの根元に波が打ち寄せ、それぞれの枝ごとに鶴が飛び通っている。すばらしいとただ見ているだけでは耐え切れなくなって、船上の人が詠んだ歌、
 <見渡すと、松のこずえごとに住む鶴は、それらの松を千年の友と思っているようだ。>
とか。この歌は、実際の景色を見たらとても及ぶものではない。
 

(二)
 かくあるを見つつこぎ行くまにまに、山も海も皆暮れ、夜ふけて、西東
(にしひむがし)も見えずして、天気(てけ)のこと、楫(かぢ)取りの心に任せつ。をのこも慣らはぬは、いとも心細し。まして、女は船底に頭(かしら)をつきあてて、音(ね)をのみぞ泣く。かく思へば、船子(ふなこ)・楫取りは、舟唄歌ひて、なにとも思へらず。その歌ふ唄は、
 
  春の野にてぞ音
(ね)をば泣く。わがすすきに手切る切る摘んだる菜を、
  親やまぼるらむ、姑
(しうとめ)や食ふらむ。帰らや。
  よむべのうなゐもがな、銭こはむ。そらごとをして、おぎのりわざして、
  銭も持て来ず、おのれだに来ず。
 
 これならず多かれども、書かず。これらを人の笑ふを聞きて、海は荒るれども、心は少しなぎぬ。かく行き暮らして、泊
(とまり)に至りて、翁人(おきなびと)ひとり、たうめひとり、あるが中にここち悪(あ)しみして、物もものしたばで、ひそまりぬ。
 
(現代語訳)

 このような景色を見ながら漕いで行くうちに、山も海もすっかり暮れ、夜も更けて、西も東も分からなくなり、天候のことは船頭任せにした。男でも、夜の船旅に慣れない者は、とても心細い。まして、女は船底に頭を押し当てて、声をあげて泣くばかりだ。このように思っているのに、船乗りや船頭は舟唄を歌い、何とも思っていない。その歌う舟唄は、
 <春の野原で声をあげて泣くよ。私がすすきで手を切りながら摘んだ菜っ葉を、舅や姑が今ごろむさぼり食べているのだろう。もう帰ろう。夕べの娘を見つけたい。銭を取ってやる。うそをついて掛買いをして、銭も持って来ず、姿も見せない。>
 これだけでなく他にも多かったが、書かない。これらの唄を人々が笑うのを聞き、海は荒れているものの、心は少し和らいだ。こうして一日中船を漕ぎ進めて港に着いたが、老翁ひとりと老女ひとりが、みんなの中で気持ちが悪くなって、食事もなさらず寝込んでしまった。
 
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【羽 根】

 十日。今日は、この奈半(なは)の泊(とまり)にとまりぬ。
 
 十一日。暁に船を出だして、室津
(むろつ)を追ふ。人皆まだ寝たれば、海のありやうも見えず。ただ月を見てぞ、西東(にしひむがし)をば知りける。かかる間に、皆夜明けて、手洗ひ、例のことどもして、昼になりぬ。今し、羽根といふ所に来ぬ。若き童(わらは)、この所の名を聞きて、「羽根といふ所は、鳥の羽根のやうにやある」と言ふ。まだ幼き童の言(こと)なれば、人々笑ふ時に、ありける女童(をんなわらは)なむ、この歌をよめる、
 
  
まことにて名に聞く所羽根ならば飛ぶがことくに都へもがな
 
とぞ言へる。男も女も、いかで、とく京へもがなと思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねど、げにと思ひて、人々忘れず。この羽根といふところ問ふ童のついでにぞ、また昔へ人を思ひいでて、いづれの時にか忘るる。今日はまして母の悲しがらるることは、下りし時の人の数足らねば、古歌
(ふるうた)に、「数は足らでぞ帰るべらなる」といふことを思ひいでて、人のよめる、
 
  
世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな
 
と言ひつつなむ。

 
(現代語訳)

 十日。今日は、この奈半の泊に泊まる。
 十一日。夜明け前に船を出して、室津を目指す。人々は皆まだ寝ているので、ひとり起き出すわけにもいかず、海のようすも見えない。ただ月を見て、西東を知るばかりだ。こうしている間に、すっかり夜が明けて、手を洗い、いつものことなどをしているうちに昼になった。ちょうどそのころ、羽根という所にやって来た。幼い子どもが、この所の名を聞いて、「羽根という所は、鳥の羽根のようなかたちなの」と言う。まだ幼い子どもの言葉なので、人々が笑っていると、例のあの女の子が、この歌を詠んで、
 <この子の言うとおり、この土地がほんものの羽根だったら、その羽根で飛ぶように都に帰りたいな。>
と言った。男も女も、なんとか早く京へ着きたいという思いがあるので、この歌がよいというわけではないけれども、ほんとうにそうだと思い、この歌を忘れられない。この羽根という所のことを聞いた子どもにつけても、また亡くした子が思い出され、いつになったら忘れられるのだろうか。今日はふだんにも増して、母親の悲しみもひとしおであろう、土佐に下った時の人数に足らないのが、古歌にある「数は足りないで帰っていくようだ」という文句を思い出して、ある人が詠んだ、
 <この世の中をいろいろ考えてみても、亡き子を恋い慕う親の思いにまさる思いはないのだ。>
と言いつつ。
 
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【暁月夜】

 十七日(とをかあまりなぬか)。くもれる雲なくなりて、暁月夜(あかつきづくよ)いともおもしろければ、船を出(い)だしてこぎゆく。この間に、雲の上も海の底も、同じごとくになむありける。むべも昔の男は、「棹(あを)はうがつ、波の上の月を。船は圧(おそ)ふ海のうちの天を」とは言ひけむ。聞きされに聞けるなり。また、ある人のよめる歌、
 
  
水底(みなそこ)の月の上よりこぐ船の棹にさはるは桂(かつら)なるらし
 

これを聞きて、ある人のまたよめる、
 
  
影見れば波の底なる久方(ひさかた)の空こぎ渡るわれぞわびしき
 
かく言ふ間に、夜やうやく明けゆくに、楫
(かぢ)取りら、「黒き雲にはかに出で来ぬ。風吹きぬべし。御船返してむ」と言ひて、船帰る。この間に雨降りぬ。いとわびし。
 
(現代語訳)

 十七日。くもっていた雲がなくなり、暁月夜がとても美しいので、船を出してこいで行く。この時には、雲の上にも海の底にも、同じように月が輝いていた。なるほど、それで昔の人は、「棹は差す、波の上に映る月を。船は通る、海の中に広がる空の上を」と歌ったのだろう。人が言っているのを聞きかじったのである。また、ある人が詠んだ歌は、
 <水底に映った月の上をこいで行く船の棹にからむのは、(月に生えているという)桂であるようだ。>
この歌を聞いて、ある人がまた詠んだ歌、
 <海に映っている月の姿を見ると、波の底にある空をこぎ渡る私こそ寂しく心細いものだ。>
このように歌を詠んでいるうちに、夜が次第に明けていき、その時に、船頭たちは、「黒い雲が急に出てきた。風が吹くに違いない。御船を戻そう」と言って、もとの港に引き返した。そのうちに雨が降りだした。ほんとうに辛い。
 
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【安倍仲麿の歌】

 十九日(とをかあまりここぬか)。日悪しければ、船いださず。
 
 二十日。きのふのやうなれば、船いださず。皆人々憂へ嘆く。苦しく心もとなければ、ただ日の経ぬる数を、けふ幾日
(いくか)、二十日、三十日(みそか)と数ふれば、指(および)もそこなはれぬべし。いとわびし。夜は寝(い)も寝ず。二十日の、夜の月いでにけり。山の端(は)もなくて、海の中よりぞ出で来る。かうやうなるを見てや、昔、安倍仲麿(あべのなかまろ)といひける人は、唐(もろこし)に渡りて、帰り来ける時に、船に乗るべき所にて、かの国人(くにびと)、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの詩(からうた)作りなどしける。飽かずやありけむ。二十日の、夜の月いづるまでぞありける。その月は海よりぞいでける。これを見てぞ、仲麿の主(ぬし)、「わが国にかかる歌をなむ、神代(かみよ)より神もよんたび、今は上(かみ)・中・下の人も、かうやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむ」とてよめりける歌、
 
  
青海原(あをうなばら)ふりさけ見れば春日(かすが)なる三笠の山に出でし月かも
 

とぞよめりける。かの国人、聞き知るまじく思ほえたれども、言
(こと)の心を、男文字に、さまを書きいだして、ここのことば伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひのほかになむ愛(め)でける。唐とこの国とは、言(こと)異なるものなれど、月の影は同じことにやあらむ。さて今、そのかみを思ひやりて、ある人のよめる歌、
 
  
都にて山の端(は)に見し月なれど波よりいでて波にこそ入れ
 
(現代語訳)

 十九日。天候が悪いので、船は出さない。
 二十日。昨日と同じようなので、またも船を出さない。人々はみな憂い嘆く。辛くて気がせいてならず、ただ日数が過ぎたのを、今日で何日、二十日、三十日と数えるので、指も痛めてしまいそうだ。とても辛い。夜は寝もしない。二十日の夜の月が出た。山の端もないので、何と海の中から出てくる。このような月を眺めて、昔、安倍仲麿という人は、唐に渡って帰ってくるときに、船乗り場であちらの国の人が餞別の宴を開いてくれ、別れを惜しみつつあちらの詩を作ったりしたという。物足りなかったのか、二十日の夜の月が出るまでその場にいたそうだ。その月はやはり海から出たという。これを見て、仲麿は、「わが国ではこのような歌を、神代から神もお詠みになり、今では上・中・下の身分の人も、このように別れを惜しんだり、喜びや、悲しいことがあったりしたときに歌を詠むのです」と言って、詠んだ歌、
 <青々と広がった海をはるかに見渡すと、月が上ってきた。この月は、わが故郷、奈良の春日にある三笠の山に出ていたあの月と同じなのだなあ。>
と詠んだそうだ。あちらの国の人は、聞いても分からないだろうと思われたが、歌の意味を漢字に書き表して、日本語を習い伝えている人に説明させたところ、歌の心を理解できたのだろうか、意外なほど感心したという。唐とこの国とは言葉は違っているが、月の光は同じはずだから、人の心も同じなのだろうか。そこで今、その昔に思いをはせて、ある人が詠んだ歌、
 <都では山の端に見た月だけれど、ここでは波から月が出て、また波に入っていく。>
 
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【かしらの雪】

 二十一日(はつかあまりひとひ)。卯(う)の時ばかりに船出(い)だす。みな人々の船出づ。これを見れば、春の海に秋の木の葉しも散れるやうにぞありける。おぼろけの願によりてにやあらむ、風も吹かず、よき日出で来て、漕ぎ行く。この間に、使はれむとて、付きて来る童(わらは)あり。それが歌ふ船唄、
 
  なほこそ国の方は見やらるれ、わが父母
(ちちはは)ありとし思へば。帰らや。
 
と歌ふぞあはれなる。
 
 かく歌ふを聞きつつ漕ぎ来るに、黒鳥
(くろとり)といふ鳥、岩の上に集まり居り。その岩のもとに、波白く打ち寄す。楫(かじ)取りの言ふやう、「黒鳥のもとに、白き波を寄す」とぞ言ふ。この言葉、何とにはなけれども、物言ふやうにぞ聞こえたる。人のほどに合はねば、とがむるなり。
 
 かく言ひつつ行くに、船君なる人、波を見て、「国より始めて、海賊報いせむと言ふなることを思ふ上に、海のまた恐ろしければ、頭
(かしら)もみな白けぬ。七十(ななそ)ぢ、八十(やそ)ぢは、海にあるものなりけり。
 
 わが髪の雪と磯辺の白波といづれまされり沖つ島守楫取り、言へ」

  
(現代語訳)
 
 (正月)二十一日。午前六時ごろに船を出す。人々が乗っている船はみな出る。このようすを見ると、春の海に秋のこの葉が散っているようだった。並々でない願をかけたおかげだろうか、風も吹かず、よい天気になって、船を漕いでいく。 このようなときに使ってもらおうとして、ついてきた子どもがいる。その子どもが船歌を歌った。
 今となってもやはり故郷のほうへ目が向いてしまう。自分の父母がいらっしゃると思うと、帰ろうよ。
と歌うのがしみじみと心にしみる。
 このように歌うのを聞きながら船を漕いでくると、黒鳥という鳥が、岩の上に集まっている。そしてその岩の下に、波が白く打ち寄せている。楫取りが、「黒鳥のもとに白い波が打ち寄せている」と言う。この言葉は、別にどうということはないが、しゃれた言葉にも聞こえた。楫取りという身分に似合わないので、心にとまったのだ。
 このように言いながら行くと、船の主人が波を見て、「(土佐の)国を出て以来、海賊が仕返しをするといううわさを心配する上に、海がまた恐ろしく、頭もすっかり白くなってしまった。七十歳、八十歳のようになる原因は海にあるものなのだ。
 私の髪の雪のような白さと磯辺の白波とでは、どちらが白いか、沖の島の番人よ。
 船頭よ、答えておくれ」。
 
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【海賊の恐れ】

 二十三日(はつかあまりみか)。日照りて曇りぬ。「このわたり、海賊のおそりあり」と言へば、神仏を祈る。
 
 二十四日。きのふと同じ所なり。
 
 二十五日。楫
(かぢ)取りらの、「北風悪し」と言へば、船いださず。海賊追ひ来(く)といふこと、絶えず聞こゆ。
 
 二十六日。まことにやあらむ。「海賊追ふ」と言へば、夜中ばかりより船をいだしてこぎ来るみちに、手向けする所あり。楫取りして幣
(ぬさ)たいまつらするに、幣の東(ひむがし)へ散れば、楫取りの申して奉(たてまつ)ることは、「この幣の散る方に、御(み)船すみやかにこがしめたまへ」と申して奉る。これを聞きて、ある女(め)の童(わらは)のよめる、
 
  
わたつみのちふりの神に手向けする幣の追風やまず吹かなむ
 
とぞよめる。この間に、風のよければ、楫取りいたく誇りて、船に帆上げなど喜ぶ。その音を聞きて童も嫗
(おむな)も、いつしかとし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。この中に、淡路の専女(たうめ)といふ人のよめる歌、
 
  
追風の吹きぬる時はゆく船の帆て打ちてこそうれしかりけれ
 
とぞ。天気
(ていけ)のことにつけて祈る。
 
(現代語訳)

 二十三日。日が照って後、曇った。「このあたりは、海賊の心配がある」というので、神や仏に祈った。
 二十四日。きのうと同じ所だ。
 二十五日。船頭らが、「北風がよくない」と言うので、船を出さない。海賊が追いかけてくるといううわさが、絶えず聞こえてくる。
 二十六日。ほんとうなのだろうか。「海賊が追ってくる」というので、夜中から船を出して漕いでくる途中に、安全祈願をする場所がある。船頭に命じて幣を差し上げさせる際、幣が東に散ってしまうというので、船頭が「この幣の散る方角に、御船を漕がしめたまえ」と申し上げて奉納する。これを聞いて、ある女の子が詠んだ、
 <海路をお守りくださる「ちふりの神」にお供えする幣に吹く風よ、止まないで吹いておくれ。>
この間、風がよい具合となったので、船頭は大いに得意がって、船に帆上げなどして喜んだ。その音を聞いて子どもも老女も、早く帰りたいと思うからだろうか、とても喜んだ。この中にいた淡路の専女という人が詠んだ歌、
 <追い風が吹き出すと、帆布をはたはたと打ち鳴らす。その音を聞けば、私たちも手を打つほどにうれしい。>
と。天気のことにかこつけて神に祈った。
 
(注)幣 ・・・ 神に祈りのしるしとして供えるもの。
 
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
 
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