| ◆昭和天皇 | ||||||||
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| 1989(昭和64)年1月7日、厳冬の暁の夢の頃、昭和天皇が87歳で崩御されました。知らせを聞いて、大勢の国民が皇居前に集まりました。さらに全国各地では、若者、老人、主婦、サラリーマンなどさまざまな人々が、昭和天皇の時代の持つ意味に深く思いをめぐらせたのでした。戦争と平和、苦難と繁栄の歴史を刻んだ激動の昭和時代が、静かに幕を閉じた日でした。 晩年は、多くの国民にとって最高のエンタテイナーでもあられた昭和天皇。「あ、そう」というお決まりの文句や、ミッキーマウスの腕時計をなさって無邪気に喜ばれたり・・・。衆目を惹きつけて止まない、そんな敬愛すべきお姿は、今でも私の脳裏にはっきり焼きついています。ここで昭和天皇についてあれこれ語るのはまことに僭越でありますので、私の大好きなエピソードを2つばかりご紹介することにいたします。 【アッツ島で玉砕した守備隊に宛てた電報】 一つ目は、太平洋戦争まっただ中のころのお話です。昭和18年、アッツ島の守備に就いていた山崎保代部隊長から、本土の大本営宛てに、激しい戦闘で玉砕を目前にした悲壮な電報が届きました。電文の内容は次のようなものでした。 「自分は、アッツ島守備の大命を拝し守備にあたってまいりましたが、米国海兵隊三個師団が上陸し任務をまっとうできなくなってしまいました。まことに申し訳ありません。明朝を期して全軍で突入しますが、同時に一切の通信機を破壊し、暗号書は焼却します。皇国の無窮をお祈りしております」 天皇陛下は、この報告を静かに聞かれ、そしていくつかの質問をされた後、最後に、「アッツ島の山崎部隊長に電報を打て」と命ぜられました。「アッツ島部隊は最後まで非常によくやった。そう私が言っていた、と打て」と。 しかし、その時点ではすでに山崎部隊は玉砕した後で、もうこの世にはいないのです。また、たとえ電報を打ったとしても、通信機も壊されていますから絶対に届くはずがありません。陛下のお言葉をいぶかった報告者は、おそれながらもそのように申し上げました。すると、陛下は、こうおっしゃったのです。 「届かなくてもいいから、電報を打ってやれ」。 陛下の仁慈の御心に触れた報告者は、はっとしたその瞬間に、涙があふれ出て止まらず、陛下のお言葉を手帳に書き写すこともできなくなったといいます。(『月刊Voice』 14年9月号より) 【島を照らし出したサーチライト】 二つ目は、昭和天皇が27歳で即位された後の1931(昭和6)年11月、九州の鹿児島から軍艦に乗って帰京されるときのお話です。陛下が夜になって暗くなった海に向かって、一人挙手の礼をされているのを、お付きの者が見つけました。 不思議に思い、海のほうを見ると、遠く暗い薩摩半島の海岸に、天皇の軍艦をお見送りするために住民たちが焚いたとみられるかがり火の列が見えました。何と、陛下はそれに向けて答礼をされていたのでした。お付きの者は、陛下のそのお姿に深く感銘し、さっそく、軍艦からサーチライトが点灯され、海岸を照らし出しました。(『新しい歴史教科書』より) いかがでしょうか。昭和天皇のあたたかい御心とお人柄が深く偲ばれるお話ではないでしょうか。それではここで、陛下の御製を一つ。 「ふりつもるみ雪にたへて色かへぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ」 これは、昭和天皇が敗戦後まもなく詠まれた歌です。国民に対して、「このたびの負け戦に打ちのめされることなく、日本復興のために雄々しく立ち上がってもらいたい」とおっしゃりたかったものでしょう。また、「我々の国の立派な伝統は、雄々しく立派に守り抜こう」という気概も込められているようにも感じられますね。 ![]() |
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