| ◆勝海舟 | ||||
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>勝海舟の生きた時代 1823年 勝海舟が生まれる 1825年 異国船打払令 1837年 大塩平八郎の乱 1839年 蛮社の獄 1841年 水野忠邦が天保の改革 株仲間の禁止 1843年 人返し令・上地令 水野忠邦が失脚 オランダが開国を勧告 1853年 ペリーが浦賀に来航 徳川家定が将軍に 日米和親条約 1856年 ハリスが下田に着任 1858年 井伊直弼が大老に就任 徳川家茂が将軍に 安政の大獄が始まる 1860年 咸臨丸で太平洋横断 桜田門外の変 1862年 生麦事件 1863年 薩英戦争 1864年 池田屋騒動 第1回長州征伐 1866年 薩長連合 徳川慶喜が将軍に 1867年 大政奉還 王政復古の大号令 1868年 鳥羽伏見の戦い 五箇条の誓文 1871年 廃藩置県 1874年 民選議院設立建白 1889年 大日本帝国憲法 1890年 第1回帝国議会 1894年 日清戦争 1899年 勝海舟死去 |
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| 【江戸城無血開城を実現】 勝海舟。幕臣として江戸無血開城の任を果たし、明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍した人です。後に福沢諭吉は、勝のことを「両親が病気で死のうとしているとき、もうダメだと思っても看護の限りを尽くすのが子というものであり、それが節義ではないか」と、幕府の人間でありながら幕府を見捨ててしまった勝を、強く批判しています。 しかし勝には、幕府だとか官軍だとかにこだわった視野の狭い考えはありませんでした。新しい時代の必要を感じ、「日本国」という立場に立って、倒幕のシナリオを描いたのです。 江戸城無血開城の直前、勝の念頭にあったのは、日本国民同士が血を流さないためにはどうしたらよいかということだけでした。その一存で西郷隆盛との会談に臨んだのです。 しかも、勝はただ漫然と会談に臨んだわけではありません。一方で、会談が決裂し、最悪の事態にいたった場合の準備も怠っていませんでした。それは、品川沖に配置させていた榎本軍ひきいる幕府軍艦と、新門辰五郎らを使ってのゲリラ作戦でした。万一の場合には江戸市中に火を放ち、ゲリラ戦を展開、その隙をねらって幕府艦隊と旗本軍が官軍に襲いかかる作戦だったのです。その一方で、房総の大小の舟すべてを隅田川の河口に集結させ、江戸市民を避難させる用意もしていました。また、いざというときは、将軍・慶喜をイギリス軍艦に乗せて外国へ亡命させることまで考えていたのです。したがって、もしこの会談が物別れに終わり、幕府軍と官軍が戦っていたら、日本の運命はどうなっていたか分かりません。 西郷としても、無益な戦は避けたいという考えは同じでした。ただ、官軍の主流派の勢いはとどまるところを知らず、何としても江戸を総攻撃して革命のノロシを上げたいと望んでいました。したがって、西郷も勝と同様に、非常に緊迫した状況下での会談だったのです。しかし、西郷も偉大でした。このときの様子が、勝の『氷川清話』に書かれています。 「当日のおれは、羽織袴で馬に乗り、従者一人をつれて、薩摩屋敷に出かけた。(中略)いよいよ談判になると、西郷は、俺の言うことをいちいち信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。『いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします』。西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが(西郷でなく)他人であったら、(中略)いろいろうるさく責め立てたに違いない。しかし西郷はそんな野暮なことは言わない。大局観を達観し、しかも果断に富んでいたのには、おれも感心したよ」 結局、西郷は勝が示した7つの条件を、若干の修正はあったもののすべて受け容れました。勝の視野の広さと誠心誠意の人柄に感服したのです。その結果、血を流さず江戸城は官軍に明け渡されました。勝と西郷という偉大な政治家が日本にいたからこそ、日本が分裂する事態を避けえたのです。 【大局を見つめて】 勝海舟は文政6年(1823年)に江戸で生まれました。勝家は、もともと三代前の祖父が江戸に出てきて高利貸しなどで儲けた金で、「男谷(おたに)家」「勝家」という旗本・御家人の株を買って幕臣になった家柄です。海舟というのは号であり、幼名は麟太郎、のち義邦、そして安芳と名を変えています。 少年のころの勝は、父・子吉の血を受け継ぎ、剣術が得意だったようです。直心影流の名手だった叔父・男谷清一郎の門弟に島田虎之助という天才剣士がいて、勝はこの島田の内弟子となって免許皆伝の腕前となっています。 勝が剣豪だったというイメージはあまりないようですが、後に攘夷派から命を狙われ、北辰一刀流の使い手の坂本龍馬が、勝を暗殺しにきたものの刀を抜けなかったといいますから、その強さは想像できます。 学問についても、筑前藩の永井青崖に蘭学を学び、ついで当代一流といわれた佐久間象山(松代藩士)に師事し西洋兵学を修得しました。象山が江戸で洋学塾を開いたときは、全国から錚々たる生徒が集まっています。その中には吉田松陰をはじめ、西郷隆盛、桂小五郎、橋本佐内、河合継之介らの顔もありました。彼らと勝は、外国からの侵略、日本の運命などについてさかんに議論していたようです。また勝は、禅の修行をも積み、いかなる状況でも冷静さを失わない強靭な精神力を会得しました。ペリー来航に際して幕府に意見書を提出したりして、貧乏旗本の息子でありながら、若い頃から目立つ存在だったようです。 ペリー来航から7年後の安政7年 (1860年)には、咸臨丸の艦長としてアメリカを往復しました。この咸臨丸は、日米修好通商条約の批准書を交換するための使節団が、アメリカ軍艦で渡航する際に随行した軍艦です。この渡航で、勝は日本とは全く異なる世界を目の当たりにし、幕藩体制による封建政治下では世界の荒波を生き抜くことはできない、と幕閣のなかでも際立って進歩的な考えを持つようになりました。 勝が帰国した際に、老中たちから質問を受けたときの話が残っています。「わが国と彼の国とは、どのあたりが違うか」との問いに対し、勝は「我が国とは違い、彼の国では重い役職にある人は、その分だけ賢うございます」と答えて、一同をシラケさせたといいます。勝はこの非常時になお門閥の上にあぐらをかき、権威をひけらかしているだけの幕閣要人たちを痛烈に皮肉ったのです。 勝が生まれたころは、鎖国下でありながら多数の外国船が日本近海に出没していた時代です。幕府はその度に異国船を追い払い、諸藩に海防を厳重にするよう命じていました。しかし勝は、徳川封建社会の欠陥をすでに見抜いており、アメリカのように、能力ある人材を積極的に登用していかなければ、将来の日本の発展はないと考えていました。常に大局を見つめ、どうすれば日本の政治がよくなるか、外国に追いつくには何をすればよいか、という視点で、彼はものを考え続けていたのです。 この使節の成功によって、彼は一転して幕府内でも強い発言力を持つようになり、軍艦奉行に任命されました。神戸に海軍操練所をひらいて幕臣や坂本龍馬を教育しています。幕府が第二次長州征伐に失敗すると、その和睦のための全権使者に任じられ、みごとに和睦を成功させます。そして大政奉還、官軍の東海道東進の事態になると、旧知の仲だった官軍の幹部・西郷隆盛と連絡を取り、3日間の会談の末、江戸無血開城をなしとげ、江戸が火の海になるのを回避したのです。 明治期には新政府の相談役、徳川家の後見人的存在として重要な地位に就き、明治20年(1887年)には伯爵となりました。その間、朝廷・明治政府と徳川家との間を取り持ち、その努力が実り明治31年(1898年)、慶喜は天皇への拝謁を許されます。そして翌年、勝は亡くなりました。 【坂本龍馬と勝海舟】 なお、明治維新について語るときに、忘れてならないのが、坂本龍馬の存在でしょう。よく、維新の立役者は、あたかも龍馬であったかのように言われますが、実際は龍馬は勝の愛弟子であり、いわば行動部隊長でした。龍馬の思想はすべて海舟の受け売りと言ってもよく、開国主義も薩長土同盟も海運国の降盛も、すべて海舟の指導によるものでした。もとより薩長同盟が成功したのも、勝が龍馬に西郷を紹介したのが始まりです。 龍馬は、海舟に仕えていたのがとてもうれしかったらしく、故郷の姉にあてて、「おれは今、勝海舟と言う日本第一の人物の弟子となって働いている」との手紙を再三にわたって送っています。勝は幕臣として縛られた身分を、自由な行動力をもつ龍馬に託していたのでしょう。 |
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