保科正之
 
1611〜1672 江戸前期の大名・会津藩主>
 2代将軍徳川秀忠の側室の子で、3代将軍家光の異母弟。秀忠が正室の目をはばかり、1617年、信濃国高遠の保科家に養子に出された。その後、家光から血縁として厚遇され、出羽国山形を経て会津23万石を与えられた。


>>保科正之の生きた時代
 
1611年
 保科正之が生まれる
1614年
 大阪冬の陣
1615年
 大阪夏の陣
1616年
 徳川家康が死去
1623年
 徳川家光が将軍になる
1637年
 島原天草一揆
1639年
 鎖国の完成
1649年
 慶安の御触書
1651年
 徳川家光が死去
 慶安の変
 徳川家綱が将軍に
1654年
 玉川上水が完成
1657年
 明暦の大火
1663年
 殉死を禁止
1672年
 保科正之が死去

 
 

名君の碑―保科正之の生涯 (文春文庫)
 
 
 
保科正之は、3代将軍・徳川家光の弟です。2代将軍秀忠が側室に生ませた子で、正室お江与の方の嫉妬が凄まじいものだから、こっそり保科家へ養子に出されてしまったのです。だから、家光も将軍になるまで、その弟の存在を知りませんでした。弟は弟で、自分は高貴の身にあることを知らされながらも、決してそれを表に出すことなく成長していきます。
 
 弟の存在を知らされた家光は驚きますが、それでも正之をすぐ側に近づけることをしません。保科家の当主として江戸城に登城する姿を、陰からじっと観察します。将軍の弟に相応しい器の男かどうか見極めるためです。
 
 正之は、大名たちの控えの部屋でも、廊下に近い下座にいつも座っています。途中から将軍の弟君らしいということが分かって、他の大名たちが上座に勧めても、「自分は若いから」と言って動こうとはしません。困った大名たちは、やむを得ず正之の後ろに列をなして座ります。そうすると、部屋の中は空っぽで、部屋の入り口から廊下に、ずらずらと大名たちが並んで座るという奇妙な光景になってしまったそうです。そんな正之が、家光によって引き上げられたのは言うまでもありません。
 
 正之は、家光のため、そして家光亡きあとは、家光の子・家綱のために終生尽くします。武断政治から文治政治への転換、善政をしいたとされる家綱の治世は、実は正之の采配によるところが極めて大でした。
 
 慶安事件の遠因とされる大名廃絶による浪人の増加を防ぐために執った「末期養子の禁」の緩和、それから大名人質制度の廃止、殉死の禁止は、家綱政権の「三大美事」とされます。また、玉川上水の建設、明暦の大火による被害者の救済と江戸復興計画の立案など、迅速な決断と実行力はまことに驚嘆すべきものです。
 
 かといって、焼失した江戸城天守閣の再建については、幕閣たちが強く望むなか、「無用の長物」として国費を費やすことに強く反対し、結局、幕末まで再建されることはありませんでした。
 
 江戸にいることが多かった正之ですが、自らの藩政においても、社倉制度を創設し飢饉の年にも餓死者を一人も出さず、間引きの禁止、年金制度や救急医療制度の創設など、仁と徳の政治を徹底しました。
 
 晩年になって、家綱から「松平姓を名乗り、葵(あおい)の紋を家紋として用いよ」と命ぜられますが、臣下としての分を守るため、辞退します。そして正之が残した家訓の第一条には、「将軍家には一心に忠義に励め」そして「もし将軍家に逆意を抱くような藩主が現れたら、それはわが子孫ではないから従ってはならない」と定めています。
 
 将軍家光の異母弟という身分にありながら、決して名利を求めず、驕ることなく忠勤と仁政を貫き通した清々しい生涯。後に、寛政の改革を取り仕切った松平定信の口癖は、「私がつねに心掛けているのは、かの保科肥後守さまのひそみに倣いたいということ」だったそうです。

 

 
 
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