天才ジウジアーロ

マゼラーティ ギブリ、 アルファ スッド、フォルクスワ−ゲン ゴルフ ロータス エスプリ、ランチア デルタなど多くの名車を生み出してきた彼は、まさに自動車デザインの第一人者といって過言でないだろう。

1938年北イタリアのガレッシオという町にうまれた彼は画家一家の家庭に育ち、幼いころから美術に感心を持って育った。12歳の時,彼の作品に目をとめた祖父の友人によって彼は見い出され、トリノへつれていかれることとなる。彼はこの地で、美術学校へ通い本格的な美術の勉強に取り組んだ。

ジウジアーロが生産ラインにまで口を出したと言う意欲作アルファスッド

ダンテジアコーザによりフィアットヘ

 術学校の卒業がちかづき、学生達の作品展が催された。彼のテーマは自動車の漫画であった。この作品がフィアット500を設計した、名エンジニア、ダンテ ジアコーザの目にとまり、彼はフィアットのスタイリングセンターへ就職する。17歳のときのことである。かれはここで自動車製造に関する基礎を学ぶこととなる。

ベルトーネ時代

1959年さらに美術の勉強を続けたいと考えた彼は、フィアットを退職する事を決意する、昼は学生生活を送るため、夜できる仕事が必要となった、知人を通じて知り合った、ヌッチオ ベルトーネに仕事を出してくれるよう頼んだ、ちょうどチーフデザイナーがやめたベルトーネにとっては、実に幸いなことであった。弱冠21歳の彼はベルトーネのデザイナーとしてすばらしい活躍をする。アルファロメオ ジュリアスプリントGTをはじめ、フィアット850スパイダー、日本車ではマツダルーチェなど数多くの傑作を世に送りだす。

ベルトーネと決別、そしてギア、イタルデザイン

ベルト−ネでの活躍で、彼の名前は業界内へ知れ渡る事となった、あちこちから引き抜きの誘いもあったものの彼自信はベルトーネを去るつもりは無く、ヌッチオにスタイリストとして、それなりに扱ってほしいと希望した。しかしヌッチオはこれを聞き入れず、あいかわらずすべて車をベルトーネとして世に送り続けていた。

かれはついに退社を決意する。名門ギア社でも、かれは多くの傑作を生み出すが、ほどなくギアは経営不振におちいり,独立して自らの会社を起こす事となる。1968年2月のことであった。

ジウジアーロと日本車

ジウジアーロは多くの日本車を手掛けている。特にもっとも長く関係がつづいたのは、いすゞ自動車であった。

いすゞは湘南の自動車会社として、(荒井(松任谷)由実の曲にまで登場する)日本メーカーの中でも、もっともオシャレな乗用車づくりをするメーカーであった。、いすゞは、ベルト−ネを退社したジウジアーロを擁するギア社と契約し,ギアいすゞ117スポルト(117クーペ)を1966年のジュネーブショーに出品する。

117

ショーでの評判に確信を得た同社は、1968年この車をいすゞ117クーペとして出品する。ベレット1600GTのそれと同じG161型 1600CCの排気量から120馬力を絞り出し、最高速度190キロを誇る、本格的GTであった。また、独自のビルトインフレームによるモノコックボディは、当時の水準をこえるボディ剛性を生み出していた。内装も豪華で、ウッドパネルが奢られた室内はイタリアンGTのそれであった。
 1973年までは、デザインに忠実なボディシェルを実現するため、ハンドメイドに近い形での生産が行われたが、その後量産が可能となると、多くの廉価版モデルの登場もあり、年間1万台以上の登録台数をほこるヒットモデルとなる。次代のピアッツアが発売されるまで、いすゞのフラッグシップとして、10数年以上君臨する事となった。

フローリアン 美しき妹をもった、悲劇の姉

1967年発売、1966年の東京モーターショーにいすゞ117として発表されたこの車は、文字どおり117クーペと車台を共有するいわば姉に当たる車である。

117ク−ペ同様ギア社が手掛けたというスタイルは、4ドア、6ライトの地味ながらも、端正な形のセダンで、フロントマスクが異型2灯を採用していた初期型モデルは、実に日本車離れしたデザインであった。高めの全高で乗員を起こして座らせ、ボディサイズが小さくても広い室内スペースを得るという考えは、ジウジアーロがゴルフ1をデザインした時にも通じる実に先進的なパッケージングである。

悲しいかな、このデザインは受け入れられず、オリジナルデザインを崩す整形手術(異型2灯→丸目4灯→角目4灯)などが行われたものの、117クーペ程の人気を得る事なく15年の長きに渡ったモデルイヤーを過ごした。角目4灯のディーゼルのタクシーが子供の頃走っていたのが思い起こされる。

ピアッツア

この長寿の2つのモデルのあと、いすゞは、またジウジアーロとのコンビによる美しいクーペを発表する。ついにイタルデザインという自らの会社を起こしたジウジアーロは、ジェミニ(つまりオペルカデット)の車台に<美しいフラッシュサーフェスのボディをかぶせ、117のエレガントなデザインとは違う、非常にモダンなクーペを作り上げた。
これは、アウディ、BMW、と続いてきた三部作、アッソシリ−ズの最後(アッソとはトランプのエースの意味)を飾るもので、アッソ ディ フィオーリ(クラブのエース)と名付けられた。

アッソ ディ フィオーリ

異彩を放ったミニカー達

ジウジアーロは実用車でも、数々の新しい提案をした、彼は関係の深かったスズキにも、作品をの残している。このフロンテはもとは、シティコミューターとして、現在のミニバンのようなデザインだったが、スズキはノーズを少しのばして、ミニスポーツカーを仕立てた。これがフロンテクーペである。後輪駆動のフロントの軽さをいかした、クイックなハンドリングが魅力的だったが、その分、スタビリティという言葉と

じつにレーシーなフロンテ(エキゾーストはなかなかの迫力)は無縁だったようである。550になってボディが拡大されセルボとして生き残った。

商用車でも斬新な提案をしている。このキャリーは、前後がボディを中心に前後対象になっている。フロントの個性的な表情といい、リヤのなだらかなラインといい、今見ても決して古くない。
こんな個性的な軽バン、他にあるだろうか。

アルシオーネ、そしてSVX

富士重工は、レオーネをベースに、非常に空力的に優れたボディを備えるアルシオーネを発表し、同社初のスペシャリティとして、アメリカではそこそこのヒットをとばす。

しかしながら国内ではその評価は芳しく無く、非常に直線的でスマートなボディーに対して、地上高が高いシルエットを持つ4WDモデルなどややチグハグな面も災いしたのかも知れない。機構的には、ハイトコントロール、エアサスなど、個性の固まりともいうべきスバルらしさには溢れていたように思う。(このハイトコントロールは今でも欲しい機構の一つ)

80年代後半バブル経済まっただ中、各社とも今までの日本車の歴史に無いような、大排気量、高性能車が信じられないような売れ行きを示していた。スバルも、アルシオーネに2700水平対向6気筒モデルを投入するなど、この高級路線に踏み込んだが、ベースがレオーネ、いささか無理があった。 ついに、アルシオーネの後継としてSVXが登場する。そのデザインはジウジアーロが長年あたためていた、「クーポラ」(丸屋根、ドーム)のようなグリーンハウスをテーマとしてデザインされている。これは、彼のショーモデルにもよく登場したデザインでもあり、古くはシボレーコルベアベルエアー。そしてアルファ スッド カイマ−ノ等でとられた手法である。
 しかしながら、この古くて新しいテーマは、市販化するには大変な困難が伴った、高い曲率が求められるサイドガラスは保安基準の改正により、その曲率を落とさざるを

特徴的なグリーンハウスを持つアルファスッド カイマーノ

得なかったし、そもそもその曲率の高いガラスは、歪みの無い視界を得る事が困難であった。

様々な困難をへて、完成されたSVXは結果的には、オリジナルとは若干異なるものとなったが、ジウジアーロの描いたレンダリングに忠実であろうとした努力が随所に見られる。

エンスージアストによる商品開発

 私は自分で購入するまでSVXがどのような背景のもとに、開発されたのかよく理解できないでいた。富士重工が考えるトヨタソアラのような物なのか、と思ったこともあった。確かに販売側としてそのような側面はあったのかも知れない。あるいはバブル期によく見られた、利益度外視の会社のイメージリーダーとしての存在。

しかし結果としてみれば国内でわずか7000台程度の販売となってしまったこの車は、富士重工の経営者にとってはお荷物であり、上記のいずれにもあてはまらないものとなってしまったように思う。

 ヨーロッパの自動車メーカーはどこかしらエンスージアストがあつまり自動車を作りたいから作るというところからスタートしたという歴史がある。私は富士重工のSVXに関わった人たちもジウジアーロと一緒にそのような気持ちでこの車を作ったのだと思う。斬新で、本格的なGT。そしてそれは道を選ばず走る事ができる性能をもつ。そこには小メーカの悲しさ、完成度が低い部分が無いとは言えないが、非常に個性的で、すばらしい車である。

富士重工の販売力が大メーカに及ばないものであったとしても、このような車をマイナーなままに終わらせた日本のマーケットにもいささか問題があるとは言えないだろうか。