昔の事件 「ひかりごけ事件」
注意:けっこう気を付けているんですが、文章の中に一部グロテスクな表現が
含まれているかも知れないので。18歳未満の方は一応戻ってね。
18歳未満なので戻る!!
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話は1944年(昭和19年)2月3日午後4時ごろの「北浜(ルシャ)」で、 漁業を営む「野坂初蔵」宅に、上着の上にムシロを巻きつけた異様な格好の 男が倒れ込んできました。太平洋戦争の真っ只中です。
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その男の話によると、1943年12月4日暁部隊の廻航命令により、 船5隻で根室港を出港し、オホーツク海廻りで 小樽へ向かっている途中で猛吹雪に遭遇。船は故障し、 通信も途絶え漂流中に暗礁に乗り上げた。(知床岬付近で座礁)
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乗組員はかろうじて上陸したが、飢餓と凍死のため 5名は死亡し、昭和18年11月19日まで船員と共に 「ペキンノ鼻」の「片山梅太郎所有の昆布小屋」で、 番屋の神棚に置き忘れてあった小型のマッチ箱があり |
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番屋の床を剥がして薪にし、漂着した海藻やウニの殻やトッカリ(アザラシ) などにより命をつないでいた。 1月19日、船員が海藻を拾いに行って崖から転落したので、一人では 心細くなり、凍結した海の上を渡り、ここへたどり着いたと言う話でした。
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真冬の知床岬の厳しさを知っている「野坂夫婦」は驚きました。 真冬の知床は、突風と猛吹雪が半島を吹きさらす死の領域です。 漁師が漁に出られるのは5月中旬から8月中旬までの3ヶ月間ほどで、 12月から2月と言う一番天候が厳しい中で生還するのは、奇跡なのです。
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船長は、痩せ衰弱していたので、漁師の野坂初蔵は手厚い看護 をし、同時に「知円別(チエンベツ)」の部落会長に連絡をとりました。 4日後、部落会長は船長の事を連絡するため、16km離れた羅臼村の 標津(シベツ)警察署羅臼派出所の「山口巡査部長」に知らせに行きました。 羅臼の村長が急いで救援隊をだし、船で「北浜(ルシャ)」から「羅臼村」 まで船長を運びました。この船長のウワサは羅臼村の村民に 広がり、船長は「不死身の神兵」と言われヒーローになりました。
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羅臼町民の間では「不死身の神兵」と言われていましたが「山口巡査部長」 は船長の生還した話に矛盾点を感じていました。 1月の海は流氷などで凍結しやすく、海草類は漂流しない。 ほとんど採取出来ないので、海草で食いつなぐ事は出来ない。 トッカリ(アザラシ)は12月から1月には現れないので捕獲して食べたと言う 話にも矛盾が生じる。他にも現実にはありえない話や疑わしい話や船長の 不可解な行動があった為、「もしかすると、仲間を殺し人肉を食べて 生き長らえていたのではないか?」と疑いました。 戦時中の食人は、よくあった話で、この船長も人の肉を食べて生き 長らえていたと直感したのです。
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山口巡査部長は署長にその旨を報告し、2月16日午前5時、 地元消防団員3名の応援を受け、現地検分することをにしました。
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2月中旬は流氷が知床半島と国後島間の根室海峡を埋め尽くし、その表面を 横殴りに吹き付ける地吹雪は想像を絶する厳しさでしたが、船長の 現地検分のため決死行をいどみました。 「ペキンノ鼻」の「昆布小屋」までは流氷が行く手を阻み船が使えないので、 流氷の上や海岸沿いを徒歩で行く事にしました。 厳寒の中、野宿をしながら3日かけてやっと「昆布小屋」に到着しました。 屋内を調べた所、ムシロに多数の血痕が付着しているのを確認し、 昆布小屋の北の方で「船員の一人 藤巻久」の遺体を発見しただけで、 事件の裏付けにはなる物は発見できませんでした。 しかたないので、近くの小屋を壊して船員の藤巻久の墓をつくり、 山口巡査部長達はこの場を立ち去りました。
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この頃、船長は北海道日高浦河(ウラカワ)町から迎えにきた暁部隊 第3船舶団司令部傘下の6183部隊に引き渡され、小樽市の暁部隊 第5船舶輸送司令部で遭難報告をしたのち、故郷の北海道岩内町に 帰還したそうです。
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それから3ヶ月、知床の雪は消え流氷も去り漁の季節になりました。 5月14日、ウニ漁のため「片山梅太郎」が羅臼港に立ち寄り、食料、水など を補給していました。片山梅太郎は、あの「ペキンノ鼻」の「昆布小屋」の 所有者なので、山口巡査部長は、船長の遭難の話を説明しました。 「船長が片山さんの番屋で船員を殺して食っていたと思う。 もし番屋付近に異常があったら至急知らせて欲しい」と依頼しました。
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それから3ヶ月、知床の雪は消え流氷も去り漁の季節になりました。 5月14日、ウニ漁のため「片山梅太郎」が羅臼港に立ち寄り、食料、水など を補給していました。片山梅太郎は、あの「ペキンノ鼻」の「昆布小屋」の 所有者なので、山口巡査部長は、船長の遭難の話を説明しました。 「船長が片山さんの番屋で船員を殺して食っていたと思う。 もし番屋付近に異常があったら至急知らせて欲しい」と依頼しました。
片山梅太郎は、その日のうちに、慌てて引き返し、巡査長の元へ走りました。 「リンゴの木箱の中に人の骨を入れたものがある」という片山の 通報により、山口巡査部長は、直ちに署長に報告し単独で検証を行うことにしました。 現場は雪も消え検証がしやすくなっていました。
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検証内容は、昆布小屋内では床板・壁板・むしろなどの各所に血痕があり、 その血しぶきが付着していた。その中から血の固まりを採取。 また昆布小屋から27mほど離れた海岸にロ−プで結ばれた古いリンゴの 木箱が漂着していて、その中には頭部・頸部・脊髄骨・肋骨・手足などの 骨や、はぎ取られた人間の皮が詰め込まれている。頭蓋骨は鈍器のような ものでうち砕かれ、割れていて、脳膜は取られて 脳は入っていなかった。手足の表皮は手足首まで剥がされ、 手のひら・指・足の裏はそのまま付着しているが、皮をむかれた部分の肉は 無くなっていてナイフのようなもので、切り取った跡があり、骨が露出して いた。手の骨は焼け跡が残っていて、その他の骨も肉を削り取った跡があった。 各部の骨は衣服の布で丁寧に包んで箱の中に納めてあった。
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遺体の骨、及び頭髪の状況から若い男性の物、船長と一緒にいた「船員」と 判断されました。これにより警察では「船長が船員を殺害し、 その肉を食べていたが、食い尽くしてしまったので、骨を箱に詰めて 海に隠し証拠隠滅を図った。」と推察されました。
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船長は岩内町の自宅で「殺人、死体損壊、死体遺棄」の疑いで逮捕されました。 「不死身の神兵」は、一転して「人肉を食って生き延びた恐るべき軍属」と 批判を浴びました。
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逮捕された船長は取り調べに対して、栄養失調で死亡した船員の肉を 食べた事はあっさり認めましたが、殺人は断固否定しました。
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船長の供述によると、難破船から上陸できたのは船長の船長と船員の2人だけ。 他の5人の乗組員は上陸する際に、高波にのまれ、上陸できませんでした。 2人は、雪に埋もれていた無人の番屋を発見し、屋内にあったマッチと ストーブがあったので、床板を剥がし暖をとりました。 翌日、2人はそこから40〜50メートル離れた隣りの番屋へ移動し、そこで 寝泊りしながら、コンブやワカメを拾って味噌汁にして食べていました。 しかし、それだけでは体は衰弱していく一方でした。 船員が餓死したのは、上陸してから45日目の1944年(昭和19年) 1月18日ごろ。その2、3日後に船長は船員の肉を削いで、煮たり焼いたり して食べ始めました。 10日ほど食べていましたが、天気が良くなってきたので番屋を脱出しました。 2月3日に番屋から16キロメートル離れた「北浜(ルシャ)」で、漁業を 営む「野坂初蔵」宅へ助けを求めたのでした。
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その後、行方不明になった5人の乗組員のうち、3人の船員が座礁地点の 陸地で遺体の姿で発見され、他の2人は行方不明のままでした。
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7月中旬、釧路地裁で第1回公判が開かれましたが、裁判は非公開のまま 審理を行いました。食人事件というショッキングな事件だったので、人目を 避けたと言うのが真相です。
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続いて、8月28日、第2回公判が開かれました。 検事は、死体損壊の罪で、懲役2年を求刑しました。それに対して弁護人は 「無罪」を主張しました。船長の行動は「緊急避難」にあたり、その 状況での「心神耗弱状態」を主張しました。 判決では「緊急避難」は認められませんでしたが、「心神耗弱状態」が 認められ懲役1年の実刑判決を言い渡されました。
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その後、船長は「網走刑務所」で服役しました。 出所予定日は1945年(昭和20年)7月18日でしたが、模範囚で あったため、それよりも20日短い6月28日に仮出所したそうです。
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船長は平成元年に亡くなったそうですが、それ以前に、この話は 小説や映画にもなっています。船長はどんな気持ちだったんでしょうね。
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ひかりごけ事件の話は、これでおわり
この事件が「ひかりごけ事件」と言われるようになったのは、この事件をもとにした小説が
「ひかりごけ」という題名だったからです。小説の至る箇所に、羅臼町のマッカウス洞窟に群生する
「ひかりごけ」の怪しい光を捩って描かれているんです。
それから、この事件の事を「ひかりごけ事件」と呼ばれるようになったそうです。
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「スキッピーの独り言」 |
スキッピーは昔、お金が底をついた事があって3日間何も食べず、その後10日間
ダシ昆布を塩ゆでして食べて、ケースに残っていたわずかな砂糖を
水で薄めて飲んだりしました。それ以外は水のみで生活した事があります。
それ以前から一日1食という空腹状態での絶食への突入だったのです。
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真冬だったので、灯油を買うか、食料を買うか究極の選択でしたが、その年の 冬は大変寒く、迷わず灯油を買いました。 たったの13日間の断食状態だったのですが、体の動きはわるくなり通常生活 では気力が落ちてきます。視力や思考も落ちてきます。常に食べ物の事を 考えるようになり、噛むと言う動作と満腹感と言う事のみに執着して、多分、 幻聴や幻覚も見たかもしれません。細かい記憶は無いんです。 水分しか摂取していないので後半は下痢がひどくなりました。 灯油を節約する為、風呂で暖をとっていたのですが。 最後の2日間は灯油も切れ、生命の危機を感じました。いろいろ工夫すれば、 食べ物を入手する方法はあったはずなのですが、そうゆう状態では、思考能力 が著しく落ちるので、適正な判断も難しいんです。 空腹を満たす為に外へ出ると、泥棒でもしてしまいそうな自分が恐ろしく、 夜は外へ出かける事が出来ませんでした。 その後、お客さんから銀行への入金があり食事にありつけたって訳ですが、 あんな状態が2ヶ月以上も続いたらどうなるのか・・・。恐ろしいです。
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船長さんの場合は、もっと極地での事なので精神的にも計り知れない
ストレスがかかっただろうと思います。スキッピーの場合は2週間で助かる
目標がありましたが、船長さんの場合は2ヶ月以上も死に直面していた
んですから精神的にも肉体的にもくらべられないですね・・・。
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船長さんの証言に「死んで横になっている船員を見ているうちに どうしても我慢できなくなり、股のあたりを包丁で削いで味噌で煮て食べた」 とありますが、人というよりも肉としか映らなかったんでしょうね。 何でも食べ物に見えたって気持ちは理解できない話ではありません・・・。
また船長さんは「自分は裁かれるべき罪を犯したが、裁かれるなら 人を食った人、または食われた人に裁かれたい」と言ったそうです。 人を食べたくなるって事がどのくらいの精神状態なのかは誰にもわからない ってことなのかな?そこには正しいとか間違っているとかの判断以上の 人間全員が持つ食欲って問題が、あるんだと思います。
この太平洋戦争の頃、南方戦線では極端な食糧危機に陥り、飢餓にさらされた そうです。日本兵が敵兵の死体や同僚の死体を食べて生きながらえた話は、 頻発していたそうです。 司令官はやむを得ず「刑法に規定されていないが人肉と知りながら食べた者は、 最も人道に反した行為として死刑。但し、敵の人肉は除外」という 「緊急処断令」を出した程です。 敵国の人は食べても良くて、日本人はダメ。という話も変な話ですが、 人は絶対食べちゃダメ!!とは言えない環境だったんだと思います。 でも、そう言う法律を作らないと、食べる為に仲間を殺害するという事も あったんでしょうね・・・。恐いです。 このように、食人は、この話の船長さんに限った事ではないのに この事件に関する事件が話題になったのは「ウワサのヒーローが実は 人の肉を食っていた餓鬼だった」 また、そんな恐ろしい話に似つかわしくない田舎の漁師町で起こったので、 この「ひかりごけ事件」が話題に上ったんでしょうね。
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現代では食った後に痩せる為のヘンテコな薬とかをまた食う。
痩せようとしているのにどんどん食う・・・。
生きる為ならもっともっと食欲が湧く・・・・。
人道などを重んじる昔の人でさえ食ってしまったんだから、
現代人の食欲なら迷わず食うと思うな・・・。恐いけど。
感想など書いてくれると嬉しいです。
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