| 鎌倉幕府は1333年に新田義貞により攻め滅ぼされました。もうちょっと具体的にいってみましょう。幕府に不満をもつ後醍醐天皇は、幕府を相手取り挙兵。これに河内国の悪党楠木正成が呼応(正中の変)。幕府は御家人たちを率いてこれを攻撃。楠木正成の籠る赤坂城は落城し、後醍醐天皇は隠岐に島流しとなってしまいます。しかし、幕府に不満を持つ御家人たちや後醍醐天皇派の人々は密かに活動を再開。楠木正成が千早城で再挙し、隠岐島の後醍醐天皇は伯耆国の名和長年により救出される(元弘の変)。幕府はこれの鎮圧を開始するが、京都で足利尊氏が、関東で新田義貞がそれぞれ幕府に反乱。六波羅探題(京都)と鎌倉がそれぞれ滅ぼされ、鎌倉幕府は事実上滅亡する。
以上が歴史的事実である。しかし、幕府滅亡のような大きな出来事がその時その時の個人の偶然的思い付きで起こったのではなく、他にも時代的な原因があることが多い。今回もその例に漏れずだが、実はこのことは高校レベルの教科書に載っている。載ってはいるのだが、まず、そのことが鎌倉幕府滅亡につながったということが明確に記されていない。そして、重要語句に使用されるゴシック体が、そのページに一つしかないため、皆さんの記憶に残りにくいんだと思います。ちなみに唯一のゴシック体は「永仁の徳政令」。「永仁」というのは鎌倉後期の年号。つまり、その頃に出された「徳政令」という法令のことをさしています。さて、教科書に載っている政治的歴史事実のウラであった鎌倉幕府滅亡のもう一つの原因とは何なんでしょうか。順を追ってお話していきましょうか。 鎌倉時代の大きな出来事としては二度にわたる元軍の襲来が挙げられます。この戦いは鎌倉幕府にとって初めての外国との合戦であり、幕府は御家人たちを率いて遮二無二戦って、国土を防衛したわけである。元軍による三度目の襲来はなかったが、彼らが残していったのは博多の被害と戦死者だけではなかった。元冦といえば肥後の御家人竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』が有名ですが、これは幕府に自らの恩賞を証明して領地を頂くために作製されたといわれています。そう、幕府は深刻な領地不足に見舞われていました。当時、御家人たちは親から子供への領地(=財産)相続形態として、「分割相続」という形態をとっていました。簡単に言えば現在の遺産相続と同様なのですが、親の遺領を子供達で分割するというものでした。例えば、Aさんの領地が全部で100あったとします。Aさんには息子が四人いました。順に太郎・次郎・三郎・四郎。Aさん死後(隠居後)、その領地は息子達四人に均等に割られました。即ち、太郎25・次郎25・三郎25・四郎25となります。しかし、ここにAさんの隠し子なんかがいたとすると、さぁ大変。隠し子に脇腹なのでと10与えると、残り90を四人で分割することとなります。まぁ、隠し子はいなかったとしても、仮に太郎に子供が二人(小太郎・小次郎)がいたとすると、その領地相続量は一人12.5ずつとなります。こうやって何代も続いていくと、結局御家人各々の領地は小さく細分化されていくことになります。そうなると何が起きるかというと、後の世でいうところの家臣たちを養うことができなくなります。ですから、少しでも領地を増やしたいと思うのが普通。しかし、小さな争乱はあっても、平家滅亡・奥州征伐以降、大きな戦いはそんなになくなってしまったため、手柄は挙げられません。となると、隣の小さな御家人を襲ったり、朝廷や寺院の領地を襲って、自らの領地として「横領」してしまうことが横行し始めます。実は先の竹崎季長はこういった横領行為によって土地を失った御家人の代表例なのです。ですから、是が非でも領地がほしかったのです。彼らにだって生活がありますから。 さて、分割相続も何代かにわたり、土地の奪合いのような小さないさかいが続く中、元冦が起こるのです。金もない。土地もないけど、久々の戦です。恩賞によって少しでも家計を潤そうと考える彼らは借金をし、躍起になって元軍と戦います。北条家などの上層部の思惑はさておき、そういう状況で防衛に成功するわけですが、幕府には御家人たちに与える土地がありません。それもそのはず、平家や奥州藤原氏が相手なら、その領地を奪えますが、襲って来た元軍は、追い払っただけなので、土地を新たに得ることはできません。そうなると、たとえ恩賞を貰えたとしても、御家人たちは元冦のためにした借金を返すあてがなくなってしまいます。そこで出されたのが、先の「永仁の徳政令」なのです。「徳政」というのは本来、「善政・仁政」といった意味ですが、「徳政令」となると御家人による、土地を質に入れて借金をすることを禁止し、かつ、一定内の借金を帳消しにするというものになります。普通に見れば、借金だらけの御家人から借金がなくなるという良い法令のように見えます。が、しかし。この徳政令は少しして、その御家人たちの反対によって撤回されてしまいます。何故でしょう? 確かに、御家人たちにとって借金帳消しは魅力です。しかし、その場の借金がなくなるだけで、彼らの生活が改善されるわけではありません。彼らは再び借金をしたいわけですが、担保になる土地を担保にしてはいけないという法令が出てます。更に言うと、貸す方も「たびたび徳政令を出されてはこっちもやっていけない」として、貸し渋るようになると、御家人たちは金を借りることも出来なくなってしまうのです。こうなれば、御家人を助けるために出された永仁の徳政令は、逆に御家人を苦しめていることになってしまったのです。 これに拍車をかけたのが、通貨の流通でした。当時は日本で独自のお金は造っていませんで、中国より銭を輸入していました(宋銭)。それが民間に流通し、物々交換から貨幣による商売が、この頃さかんになってきました。何を買うにもまずは銭なのです。こういった社会の流れについていけなかったのが鎌倉幕府だった訳で、貨幣経済に対応して行けなかっただけでなく、御家人の生活苦に対する抜本的打開策もないままの幕府には、既に御家人達を率いる程の威厳はなくなっていたのでした・・・。また、御家人の生活苦は冒頭の「悪党」の登場を招くこととなり、都市部を中心に治安は悪化していくこととなりました。冒頭部で触れた政治的な鎌倉幕府滅亡のシナリオとは別に、このような社会的な面からも幕府滅亡は歴史的必然の上で起きたことだったのです。これらの起因となるのは各種ありますが、その一つに元冦があることは否めません。もし、元軍の襲来がなければ、日本最初の軍事政権である鎌倉幕府はもう少しは長く続いたのでしょうか。 文:犬江康高 02.05.28 |