会津藩特集

 5、6年前、夏休みに福島県・会津若松市に旅行に行ってきました。本当は2泊3日ぐらいで充分だったのですが、気付いたら1週間滞在していました(笑)。会津若松市と言えば幕末の戊辰戦争での鶴ヶ城の戦いで有名です。この頁では、会津若松市の主要観光地である「鶴ヶ城」と「飯盛山」について少しずつではありますが解説したいと思います。

鶴ヶ城

 幕末時の会津藩士にとって精神的支柱となったのが会津若松城、通称「鶴ヶ城」です。天守閣は5層構造となっていて、1層が会津の歴史、2層が武器・武具・甲冑・印篭などの展示、3層が戊辰戦争関係資料、4層は松平容保公の肖像画と白虎隊隊士画の展示室、そして最上階の5層は展望台になっています。

 鶴が城は文禄年間に、蒲生氏郷によって本格的な天守閣を持つ城に築城されましたが、17世紀にこの地方を襲った大地震で、石垣や天守閣は傾きましたが、加藤明成が改修し、ほぼ現在と同じ姿を作り上げました。1643年に保科正之(徳川三代将軍家光の弟)が信州から移封され、23万石の城主となると、幕末に滅びるまで約240年の間、保科・松平家が会津を支配しました。戊辰戦争では、西軍の執拗な攻撃に対して約1ヶ月もの篭城戦を繰り広げましたが、明治元年(1868年)9月22日に降参という形で陥落しました。その時に受けた何千発もの砲撃で城壁は穴だらけになり、明治7年に陸軍省の命令で取り壊されました。その後、旧藩士遠藤敬祉らの尽力で払い下げられ、再び松平家に献上されました。昭和9年、国の史跡指定を受け、昭和40年には、当時の姿のままに復元されました。

参考:会津藩歴代藩主

松平容保の父・兄弟

飯盛山

 会津若松市の北東部にあり、鶴ヶ城や城下町を一望に見渡すことができる小高い丘です。1868年(慶応4年)にわずか16、17歳の白虎隊が西軍と戦って自刀した場所です。

 会津藩は年齢ごとに隊士を50歳以上の玄武隊、36歳から49歳までの青竜隊、18歳から35歳の朱雀隊、16歳と17歳の白虎隊の4隊に大きく分けて西軍に対して反撃しました。白虎隊は身分により士中・寄合・足軽の三組に分かれていて、各二中隊がありました。ちなみに士中は上級藩士の子供達で編成されていました。

 1868年8月23日、白虎隊士中二番隊20名が大野ヶ原の激戦の末、身も心疲れ果てて飯盛山の洞門にたどり着いた時、すでに鶴ヶ城は烈火につつまれていました。精神的支柱をを失った彼らは武士として死を潔して、燃え上がる城を枕に次々と自刃していきました。しかし、飯盛山から見た城の砲煙は、実は城下が燃えていたものでした。自刃を図った20名のうち、飯沼貞吉が奇跡的に蘇生したことによって、隊士の奮戦の様子と心情が後に語り伝えられることになりました。

自刃を図った白虎隊士は、

安達藤三郎 (17) 津川喜代美 (16)
有賀織之助 (16) 津田 捨蔵 (17)
池上新太郎 (16) 永瀬 雄次 (16)
石田 和助 (16) 西川勝太郎 (16)
石山虎之助 (17) 野村駒四郎 (17)
伊藤梯次郎 (17) 林 八十次 (16)
伊藤 俊彦 (17) 間瀬源七郎 (17)
井深茂太郎 (16) 簗瀬勝太郎 (17)
篠田儀三郎 (17) 簗瀬 武治 (16)
鈴木 源吉 (17) 飯沼 貞吉 (16)

の20人です(括弧内は年齢)。この中で、飯沼貞吉だけが奇跡的に蘇生しました。

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