キリシタン遺物資料館(キリシタンいぶつしりょうかん)
所在地 茨木市大字千提寺262
JR東海道線茨木駅下車、忍頂寺行、大岩行バス大岩下車又は千提寺口下車、徒歩約1km約20分。

キリシタン遺物資料館は思ったより小さな建物です。
千提寺は地名であり、お寺はありません。バス道からは細い急な坂を登って行きます。
このあたりはキリシタン自然歩道というハイキングコースにもなっています。
茨木郷土かるた「隠れキリシタン静かにねむる千提寺」

キリシタン遺跡
ここ千提寺およびもう少し北にある下音羽からは大正末期から昭和初期にかけて、絵画・彫刻・書籍・墓碑など多くのキリシタン遺物が発見された。
これらの遺物は、桃山・江戸初期のキリシタン文化を研究する上で貴重なものである。また当時厳禁されたキリスト教信仰がひそかにこの山中で行われていて明治にまで継続したことは、その信仰の強さを考えさせられる。
ここから600m先にある市立キリシタン遺物資料館には、発見されたキリシタン遺物の数々が展示されている。   茨木市
 
 北摂キリシタン遺物
     発見最初の家碑
碑裏
1974年 Xマスの日
高槻高山右近研究会建之


開館時間 :午前9時30分から午後5時
       ただし月曜日は午前9時30分から
       正午
休 館 日:毎週火曜日、国民の祝日
       12月28日から翌年1月4日
入 館 料:無料

8月15日の3時頃から行きました。前日・当日の午前中までは土砂降りの雨、谷川の水も増水し、途中の山道では一部崖崩れもありましたが、前には見学者が3組、後からも2組がこられていました。人気スポットですね。資料館事務所は家族でされているようです。お茶目な可愛い女の子が居りました。

さてさて、天文18年(1549年)フランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリスト教は、諸大名をはじめその支配下の民衆にも大きな影響を与えました。
キリシタン大名高山右近が高槻城主となってから、キリスト教は三島地方にも伝播しましたが、天正15年(1587年)には豊臣秀吉が、慶長17年(1612年)には徳川家康がキリスト教の布教と信仰を禁止しました。
キリスト信者たちはこうした厳しい弾圧を受けながらも、ここ千提寺や下音羽の山中深く、ひっそりとキリスト教を信仰し守り伝えてきました。千提寺では東藤嗣氏宅、中谷栄氏宅、中谷茂氏宅、中谷清氏宅に、下音羽では大神敏治氏宅、井上政治氏宅、高雲寺などにその遺品が残され、今に伝えられています。
キリシタン遺物資料館 
「聖フランシスコ・ザビエル画像」(複製)
布教のため最初に日本に来たフランシスコ・ザビエルの列聖後の画像。和紙に泥絵具、にかわ、鶏卵の黄身をまぜあわせて彩色されており、1623年頃狩野派の画家によって描かれた。
この絵画は、大正9年(1920年)9月26日、千提寺の東藤次郎氏母屋の屋根裏の梁にくくりつけてあった「あけずの櫃」の中から発見された。
最初にわが国へ来日した有名な伴天連のフランシスコ・ザビエルの肖像画で、歴史の参考資料として、中学校、高等学校の社会科の歴史の教科書などにも掲載されているものである。

画像は、ザビエルがマントの下から両手を十字形に交錯して出し、その右手の3本指で軽く押さえている赤い心臓をかたどったものに、キリストを磔にした十字架がつきたてられていて、その十字架の上端にはI・N・R・Iの4文字があらわされている。この4文字は、「ユダヤの王ナザレのゼスヌ」を意味する語の頭文字である。また、十字架のやや下の方には、耶蘇会(イエズス会)の紋章の略字I・H・S(耶蘇、人類救済者の意味)が印されている。ザビエルの口から発しているサチス(SATIS)エスト(EST)ドミネ(DNE・・・)とあるなかで、サチス エストというラテン語は、日本語では「十分なり主よ十分なり」ということを意味し、ザビエルは仏教徒の唱える念仏のように毎日、これを口にしたといわれている。

(縦89cm×横56cmの和紙に縦62cm×横49.5cmに描かれている)

  元東家蔵  現在:神戸市立博物館蔵
マリア十五玄義図(マリア15ゲンギズ)
マリア十五玄義図は2幅発見されており、その1幅はザビエル聖人画像と同じく大正9年(1920年)9月26日、千提寺の東藤次郎氏(東家)母屋の屋根裏の梁にくくりつけてあった「あけずの櫃」の中から発見され、もう1幅は昭和5年(1930年)4月23日、下音羽の原田辰次郎家の母屋の棟木と組み合わせてある檜楚にくくりつけてあったすすけた筒の中から発見された。筒の大きさは、周り27.7cm、長さ90.9cmの孟宗竹を縦に割り、栗の丸太の荒削り作りの差し込み蓋をしたものである。
マリア十五玄義図と呼ばれているのは、イエスの生母マリアの生涯を、「喜びの玄義」「悲しみの玄義」「栄福の玄義」の三部門に分け、これを基本にキリストの生涯の中で最も顕著な出来事を十五事あげて、それを各五事に分割して、マリアの三玄義と融合させたイエスの一代絵物語であるからである。
画像は、中央部を上下2段に区切り上段には聖母マリアが右手に幼いイエスを抱き、左手には白いバラの花をつまんでいる七分身像が表されている。下段には左に耶蘇会の開祖、聖父イグナチウス・ロヨラの合掌の半身像を、右には聖父フランシスコ・ザビエルがマントの下で両手で胸を押している半身像を、互いに聖杯と丸い耶蘇会の徽章をはさんで向かい合っているところが描かれている。
さらに上段と下段の区切り目にはポルトガル語で「いとも、尊き秘蹟讃仰せられよ、」の意味と、下段の下側には、それぞれ二聖人の名が書かれている。
これらの画像を、
左側から
「喜びの玄義」(聖母御告、聖母訪問、耶蘇誕生、耶蘇奉献、耶蘇発見)、
上側に「悲しみの玄義」(耶蘇苦悶、耶蘇折檻、耶蘇荊冠、十字架担負、十字架磔刑)、
右側に「栄福の玄義
(耶蘇復活、耶蘇昇天、耶蘇降臨、聖母昇天、聖母受冠)
の図が取り囲んでいるように描かれている。
この二幅はともに聖人画像と同一手法で和紙に描かれており、掛け物仕立になっている。東家(東本)の大きさは、縦81.9cm×横66.7cmで、かなり絵の具が剥離している。原田氏(原田本)の大きさは、縦75.9cm×横63.7cmでほぼ完全に保存されていた。画像は、東本とあまりかわらない構図であるが、ザビエル聖人の後ろに、目玉の入った器物をもった聖ルシヤ女の七分身像が描かれている点が異なっている。

牛に乗った
      天神像


キリスト磔刑木像


ロレータ聖母
     浮彫画像



どちりいな・
    きりしたん


禁制札


その他 絵画
     彫刻
     典籍

その他遺物

天神像をはずすと牛の背中に十字が刻まれている。また牛の腹は空洞になっていて、ここにメダル等を隠していたものと思われる。

銅筒の中に入れられていたもので、十字架なしに吊るされていたキリスト像はキリシタン遺物の中でも珍しい。この像は胡粉を塗って彩色された木造でヨーロッパから輸入されたものらしい。

黒塗りの厨子に入れられ、純亜鉛板を裏側から押し出し、その上に油絵具で彩色されている。幼きイエスを抱いた聖母マリアが腰を掛け、その背後に鐘塔のある聖堂が描かれ、下部の雲中に3人の天使がいる。

「伴天連・伊留満を師匠」「信者を弟子」とする問答形式をとって、キリシタン信仰の目安になる宗旨の要点が86枚の美濃判紙に書き写されている。仕立ては和綴じ。

徳川幕府が発布した禁教令に伴い、街かどに立てられた立札で、キリスト教の信仰を禁じ、さらに信者を探しあてた者には、ほうびを与えることなどが書かれている。

キリスト画像、聖母子画像、聖人像、紙本銅版画(天使讃仰図)
象牙彫マリア浮彫像、厨子入り象牙彫キリスト磔刑像
吉利支丹抄物、ぎゃ・と・ぺかとる

あけずの櫃(前述)、ジシピリナ(苦業の鞭)、金属製キリスト磔刑十字架、各種金属製メダル
蓋付椀(クルスを配した蒔絵の蓋付)、数珠(コンタツ)
などがあります。 そして口碑としてビデオ説明があります。

ここは修道院のため、立ち入り禁止です。
千提寺天主堂が無くなったあとに、造られたそうです。
三島地方のキリシタン宗
キリシタン大名として高名な高山右近は、大和の国・沢城主であった父高山飛騨守とともに、永禄6年(1563年)11才の時、伊留満ロレンソから洗礼を受け、飛騨守は「ダリヨ」、右近は「ジュウスト」と命名されました。
この伊留満ロレンソは、フランシスコ・ザビエルから洗礼を受けた日本人最初の伊留満です。
その後、右近は天正元年(1573年)に高槻城主となり、在城の間、三島地方はキリシタン宗の一大中心地でありました。
しかし、豊臣秀吉は天正15年(1587年)にキリシタン宗の布教と信仰を厳禁し、伴天連・伊留満は即刻20日以内に日本から退去ならびに日本の信者は直ちに信仰をすてるようにと厳命を下しました。
ジュウスト高山右近像
鉄製でサビで赤茶けている。
(でも、よく雰囲気にあっています。)
マリア像
さらに慶長18年(1613年)には徳川家康もキリシタン禁教令を発布し、右近は慶長19年(1614年)にルソン島のマニラへ他の信者たちとともに追放され、他の信者たちは、その縁者までも含めて死罪・流罪等の厳科に処せられました。
こうしたことから、信者たちは、表面は仏教等を信仰しているように見せ、山奥深く隠れるようにして信仰していたもので、大正8年(1919年)2月、キリシタン研究家の藤波大超氏が千提寺の山林(通称クルス山)の中腹からキリシタン墓碑を発見されるまで、この辺りがキリシタン宗に関係があるという確証がありませんでした。

千提寺天主堂跡
  
天主堂跡は大岩バス停付近にあります。
右はここから茨木方面を見た地形です。
資料館はもっと山奥深い所にあります。

参考:「千提寺・下音羽のキリシタン遺跡」
    茨木市教育委員会
(マリア像の右)
千提寺天主堂は多数のキリシタン遺物が発見されたこの地を重視されたジョアン・パプチスタ・カスタニエ司教が、1925年(大正14年)に当地を購入し、この3年後(昭和3年)に天主堂を建設された。
当時の司教座聖堂であった川口教会の主任司祭ヨゼフ・ビローズ神父にその司教を託され、伝道婦の大前直氏と人見春子氏とがビローズ神父の布教活動を助けるため、この天主堂に常在していた。
第二時世界大戦により、外国人司祭の活動がままならなくなるまでの、およそ20年間余り千提寺天主堂は、ここ高山右近の里・千提寺村に生きる人々と自然とをこよなく愛された。ビローズ神父のもと皆に慕われる天主堂として当地に存在した。
かつて、ここに天主堂があったことを後世に記念するため聖母像を建立し、顕彰する。
平成15年8月現在
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