管理人の日記(2006年2月〜4月)(前の分はこちら

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4月29日(土)何事にも張り合いが欠けてしまって。

あらためて問題を抱えた訳ではないが、あまり写真も撮りたいと思わない。ピアノ触っていても気力が持たずため息とともに蓋を閉じる。
なにかこう今はうきうき昂揚した感覚を取り戻すことが出来ないでいる。ゴガツビョウという柄でもないだろうに。


4月19日(水)なるべきようになった時には、

すべきことをするのみ。


4月18日(火)覚悟。

あらゆる方面から全てが私に集中して押しつぶされそうになったこともある。しかし綻びもあったかもしれないが、しかと向き合ってきた。


4月15日(土)待つ、ということ。

答えを待つ。何日、何週間、何か月かかるかは分からない。
それは、これまでのわたしの言葉、態度、想いの蓄積だ。


4月14日(金)こころをあずけて。

受けとめ、そこから歩むほかに何が出来よう。


4月13日(木)ちゃんと聞かなきゃ。

言いたい事をぱっと口にするのがいい事だとは今でも思っていないが、しかし「言い出せない」自分の性格が疎ましいと思う時がある。30年余かけて培われた性格は、歯石なんかよりも遥かに強く深くこびりついていてなかなか修正出来んもののようだ。

…主張してどうするのか、という思いから出る自制が、自分をだましているようで、やはりこのままではいかんな、と思っている。


4月9日(日)自らの内にこそあれ。

境内の建物の影やゴミ箱などに鏡餅が捨ててあったりするのを見つけると、ぞっとする。食べるつもりがないのに鏡餅を買って、そして捨てるという精神にも寒気がするが、それを寺や神社にこっそり捨てて、それで何か「供養」めいた事をした気になる、という考えには尚更ぞっとする。
鏡餅を飾ろうと餅を買うのは大抵成人だろう。つまり、捨てる積もりで食べ物を買ったり、自分で捨てる後ろめたさを拭うために寺社に置いていく大人が、子供を産んだり「育て」たりして繁殖する、そんな絵図を想像するとじつに気色悪いというか恐怖に似たものを覚える。


4月6日(木)真言。

おいしい、ありがとう、…意に反しているのでなければ、良い言葉は意識して発した方がいい。言葉を惜しまない自分でありたい。


3月25日(土)舌がいたい。

節分前後のような、がんがん動いている時の大変さは、疲れはするしストレスも感じるが、まあ愚痴りながらでもやっていけるものだ。
しかし、このごろは考え事をしているといつの間にか舌先を前歯の裏にこすりつけていたり、犬歯で噛んでいたりで、ひりひりと痛いのに気が付けばまたやっている。味覚もおかしい。舌先がすーすーと、何か常にほのかな甘みの一歩手前のような味覚につきまとわれている。歯で味蕾を削っているからなのだろうか。


3月12日(日)チラシの裏に書くよな日記

考えや好悪を述べる。これはまあ出来ない事も無い。現にここでも生身でもやっている。しかし主張するというのは、せざるを得ぬ時も私は後ろめたさが残るもので、すこし嫌な気分である。そこには相手の現況を否定するという暴力的な働きがあって、それは真「理」にそぐわないように感じられる。
(この一見似ているかのような両者の違いは、「聴く」と「かたる」と、どちらに近いかによるのだ、と思う。)
けれども、そもそも肉体や生活というものは「理」不尽なものであった。これらを自ら捨て去るので無ければ、やはり、それこそ好悪を超えて理不尽にそぐったように生きるより他はないのだろう。その上はせめて何を目指して「主張」するかを忘れないことが肝要だ。

「わたし」は理不尽を生きている。生きているならこれを受け止め、迎え討たねばならない。先々何が行く手を阻むかは分からないが、飛び込むに値する事柄を一つでも見つけられたのなら、それをよき縁として歩み続けていけたら、と思う。


3月8日(水)演奏音源アップ

先日、ピアノサークルの練習会でブゾーニ「J.S.バッハによる幻想曲」を弾いた際に、録音もしていたので、弾き直して重複した部分のみカットし、久々に自分の演奏をアップしてみた。→演奏はこちらで聴けます
改めて聴くと、楽器の違いや人前での緊張もあって、難しいところは余計にボロボロになのだけど、この曲を完璧に弾く事は自分にはまず無理なので、とりあえず曲の感じだけでも伝えられればと思う。完成度の追求はまたの機会に・・;
音が多いところも大変だけど、あるメンバーから指摘を受けたように、弱音で鳴らすというのも難しいものだと思う。
う・・・2年前にアップしたゴドフスキ編の「白鳥」も録り直ししなきゃなあ。


3月6日(月)

暖かくなるのはありがたいのだけど、どうやらこの冬から春への季節の変わり目が自分には合わないらしく、かなりの虚脱感や、強い眠気に襲われやすく、よい気候なのに私には中々つらい時期ではある。眠いを通り越して、気が遠くなりそうと言うか。


2月26日(日)げぷー。

朝、目覚ましにテレビがつくようにしてあって、大抵、天気予報とか、今ならオリンピックネタなどが流れているのだが、今日は室内楽が流れていた。
クラリネットと弦楽器の曲で、布団の中で寝ぼけた頭で聴いても誰の作曲かが分かるものであった。ころころつるつると数珠つなぎに流れる音階、虚ろだが破綻のない協和音、聴感の上っ面を撫でるうすキレイなメロディ。

「あー、またか。」

なんでも生誕250年という事で、テレビやらレコード店で取り上げられてるけどね、つい15年前も没後200年でけたたましかったばかりじゃんか。ネタなら他にも幾らでもありましょうものを。

・・・というわけで個人的な好きずきの話ですが、私はモーツァルトの大抵の曲が嫌いです。といっても全部が全部ではなく、オペラはモツに限らず観ないからなんとも言えないし、一方、宗教合唱曲なんかは結構心洗われるものもあって好ましいと思います。
当時としては斬新な曲を書いたとか、後の作曲家に讃えられたとか、下書きを必要としない天才だった、とかは、自分にはどちらでも良い事で(もちろんモーツァルト好きの中にも
そういう人はいるでしょうが)、聴けば上記のような印象ばかりで、聴き続けるのが苦痛か退屈でしかありませんじゃ。
しかしまあ東山魁夷やC. ラッセンの絵と同様に、造りとしては感情を逆撫でする要素は皆無だし、商売する方される方の双方に、LVモノグラムがごとく強いブランド力も効いていて、このように喧伝されているのだろうかな。

似たような時代の人なら、少ししか知らないけれどクレメンティの作品の方が素朴な滋味があって好きだな。あるいは比較対象としては適当ではないかも知れんが、ベートーヴェンの後期ソナタの三途の川的気分とかも良いね。

いづれにしても、今年の周年記念なら他にも紹介すべき人は色々いるでしょうに。・・と、書き捨てるのも何なので、ざっと拾いだしてみた。

(没後150年)
・愁慢 Schumann, Robert (1810-1856)独
(生誕150年)
・グラズノフ Glazunov, Alexander (1856-1936)露
・マルトゥッチ Martucci, Giuseppe (1856-1909)伊
・タネィエフ Taneyev, Sergei (1856-1915)露
・カヤーヌス Kajanus, Robert (1856-1933)フィンランド
・フェラータ Ferrata, Giuseppe (1856-1928)伊
(没後100年)
・ラヴィーナ Ravina, Henri (1818-1906)仏
・アレンスキー Arensky, Anton (1861-1906)露
(生誕100年)
・ショスタコーヴィチ Shostakovich, Dimitri (1906-1975)露
・ワックスマン Waxman, Franz (1906-1967)独→米
・ニャッターリ Gnattali, Radames (1906-1988)ブラジル
(没後50年)
・フィンジ Finzi, Gerald (1901-1956)英
・グリエール Gliere, Rheinhold (1875-1956)露


2月25日(土)掲示板復活

あまりにも業者の自動宣伝書き込みがひどかったので、しばらくお休みしていた掲示板だが、掲示板のスクリプトを最新のものにし、業者が書き込みにくいように設定した。

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