「大往生の島」の著者 佐野眞一氏の沖家室島逗留日記

          大往生のあとさき  −前編−
                            
                                           松本昭司


今年の二月、待望の佐野眞一氏の著書、「大往生の島」が出版されました。

佐野氏は、宮本常一先生の足跡を描いた「旅する巨人」が昨年、第二十八回大宅賞一
ノンフィクション賞(日本文学振興会主催)を受賞されました。いわば、ノンフィク
ションクション分野のトップランナ−に立ったわけです。「大往生の島」は「旅する
巨人」の執筆にあたってたまたま取材に立ち寄ったこの島が、高齢化率日本一の地区
にもかかわらず、お年寄りが明るく生き生きと暮らしている姿の発見と、ゴ−ルドプ
ランを進める国の高齢化対策との、老人に対する見方のギャップ、また、団塊の世代
であるご自身あるいは、その世代丸ごとがまさにこれから踏み入れようとしている高
齢化社会への対応、という背景の中で副次的に生まれたものです。

大宅賞という大賞受賞後に、この一介の小さな島のルポを、受賞後の第一作書き下ろ
し作品という形で発表されたことは私たちの祖先は偉大だったんだなということ、ま
た、郷土史の掘り起こし作業を進める私たちにも、私たちのやっていることはムダで
はなかったんだなと、確信を持たせてくれました。
 
人は「自分もまんざらではないな」と感じたとき、次へのステップに向かうとと言い
ます。自分のふるさとの歴史もまんざらじゃないなと誇りを持つことは、島の将来を
考える上でとても大事なことでしょう。
 
島の人間としては、この本が出版されたことだけでもありがたいことですが、発売後
一ヵ月くらいは品切れで書店にありませんでした。県内大型書店のの売り上げランキ
ングで五位に入ったこともあります。「今売れています」と貼り紙を出した書店もあ
りました。また、新聞の読書欄にも大きく取り上げられ、「机上の発想しかできない
行政の役人にこそ読ませたい、すぐれた作品」と評されました。以来、以前にも増し
てテレビ取材、福祉関係の視察が多くなり、その方たちが一様にこの本を片手に携え
ての来島です。その反響の大きさに驚いています。
 
本文は、「大往生の島」が誕生する過程、つまり九十六年三月「文芸春秋」、九十六
年十一月「月刊プレジデント」の取材で佐野氏が島に逗留し、宿泊先となった民宿
「鯛の里」の私がその間のエピソ−ドをを綴ったものです。



佐野眞一氏 来島           

佐野氏が私のところに最初に訪れたのが九十五年の暮れだった。私が横山さんと海産
物の発送をしているとき、「幸」のママさんとほぼ同時にやって来た。「幸」のママ
さんとは今年の春まで営業していた、沖家室小学校の真向いにある現在の「みなせ」
の前のお店のママさんのことである。 その当時は、ママさんが東京からカムロに
引っ越してきた直後だったためよく分からず、てっきり佐野氏がママさんのご主人だ
と思っていた私は軽く会釈しただけの対応だった。ママさんが海産物を買って帰った
あとも私の仕事場を窓越しにながめていたため、              

「先程の方とご夫婦だと思っていました。失礼しました。何かご用ですか?」   

「新山さんに聞いてここに取材に来たんだけど、キミが松本くん?」 

ボサボサの頭で服装も決してセンスは良くないが、何となく品のある都会の匂いを感
じた。  
 
実は佐野氏がこの島にやってきたのは今回がはじめてではない。「旅する巨人」の執
筆のため何度か訪れ、新山さんとは早くから取材でともにしていたのだった。  
      
「どちらからの取材ですか?」              

「文藝春秋だ」                     

横にいた横山さんが「エッ、週間文春?」         

「イヤ、文藝春秋だ。今日泊めてもらえないかな?」    
 
本来なら予約以外の客は泊めないのだが、方丈さま(新山住職)からのお客さまなら
お断わりするわけにもいかないだろうと思い、                

「料理のコ−スが二通りありまして、一泊二食付きで一万円と七千五百円とがありま
すが?」  

「七千五百円でいい」                  
 
今考えると、ここで宿泊を断っていたら、今日の佐野氏とのつながりは違ったものに
なっていたかもしれない。   

早々に仕事を切り上げて民宿に帰り、料理を出すうちにはなしが始まった。   

「労働組合の専従をやってたんだって?」         

「ゲッ、なんでそんなことを知ってるんですか?」     

私はカムロで前職を隠していたわけではないが、この島の保守的な地盤を考えるとあ
まり言わないほうがいいのかなと思っていた。私はカムロにUタ−ンをする前は会社
の仕事を休職し、総評系の組合の中央役員をしていて全国を飛び回っていた。つま
り、政治的には保守の対局にいたわけである。そんななかで、思いもかけず外部の人
に言われてしまったことにとまどっていた。                  

「それを調べるのが私の仕事だ」             
 
その後しばらくのあいだ、私のUタ−ンのいきさつを聞いた。いただいた名刺をみる
と、ノンフィクションライタ−とある。佐野という名字を見たとき私は「有名な先生
じゃないですか」といったのだが、実は今になってバラすと、本当は知らなかった。
私が有名と言ったのは、小説家の佐野洋と勘違いしたためだった。今となってはたい
へん失礼なこをしたと思っている。        

それにしてもよく呑む人だ。座ってわずか三十分だが、中ジョッキ−五、六杯にはな
るだろう。ときおりサシミとウニをつつくだけでじつに気持ち良く呑んでいる。  
     
鯛の里では生ビ−ルのビア樽をヘルスメ−タ−の上に置いて、目盛りの減り具合で計
算しているこれを珍しそうにみていた佐野氏は、               

「こんなのははじめて見たなあ。どうしてだ?」      

「ここは貸し切りの宿だから、一杯いくらで計算するのは面倒なんですよ」    

それを聞いた佐野氏はからだを上下に揺すり、うなずき笑いをしながら、     
     
「しかし、いいなあ、いいなあ」           
  
と、いたく気に入っているようすだった。         

もう少し詳しく説明すると、なぜ鯛の里ではビア樽をヘルスメ−タ−の上に置いてい
るかというと、以前に、大学生の一行が宿泊したとき、そのころは一杯いくらという
ように出していた。ところが「ボクのはアワが多い」などとケチをつけられたため、
それならと思い、いっそ計り売りにしてやれば、アワも目方のウチだから文句もある
まい。水一リットルが一キロだから計算も簡単だ。             
 
それにしても、佐野氏とこのヘルスメ−タ−ビ−ルの出会いが、鯛の里の生ビ−ルを
こんな名物に押し上げようなどとは夢にも思わなかった。このことがなんと、本の中
で紹介されていたのである。                   


この宿ではビ−ルを一杯、二杯などとケチくさい勘定はしない。このあたりのドンブ
リ勘定が、いかにもおおらかな漁師の血を感じさせて好ましい。  
          
以来、この本を読んで宿泊される客からは「ああ、これがあのヘルスメ−タ−の生ビ
−ルか」とすっかり主役の座についてしまった。               

ところで、私も佐野氏とひとしきり呑んだ頃、時計は七時をさしていた。    
                
「今日はお寺で、新山さんが島のお年寄りを集めてくれてるんだよ」       

エッ? 私はてっきり腰を落ち着けて呑んでいるのだろうとばっかり思っていた。し
かし呑んだ風にはまったく感じられない。                  

「そうだ、君も一緒にいこう」              
 
お寺の書院に行くと、すでに皆さんが集まっていた。   

新山さんが取材の趣旨を説明され、集まった人たちの島のはなしを佐野氏が聞き取る
かたちで進められた。     
 
カムロでの会合は、自治会のような公式の会を除いては、酒を汲み交わしながらおこ
なうことが多い。当然この場も目の前に徳利が並べられてある。佐野氏の横に座って
いる人は当然酌をするのだが、グイっと飲み干し、ぐい呑みをテ−ブルに置いたとき
にはたいていカラになっている。そしてまたつぐ。島の人たちは最初はペ−スよく呑
むのだがだんだんとゆっくりになる。ところが、佐野氏のペ−スは一向におとろえる
気配はない。それでいて真剣に聞きながら、メモをとっている。まわりの人の酒があ
まりすすまなくなったころ、横にいる人も察してか佐野氏にあまりつがなくなった。
下座にいる我々若い部類はそんなお年寄りのペ−スに少々物足りなさを感じながら呑
んでいる。すると、佐野氏は手酌で呑みはじめたのである。私の右手前方に座ってい
た八木さんと目があったとき、オオという顔で見合わせた。そのうち手酌の酒も切れ
た。私は佐野氏とは真向いの一番下座に座っていた。佐野氏はカラの徳利をコトンと
テ−ブルに置くとチラっと私の方を見た。「松本くん酒がないぞ」という暗示にとれ
た。すると、横にいた新山さんが小さな声で、「松本くん、酒」と言ったので運んで
いった。               

このときからだろう、地元では「先生は酒豪」というイメ−ジが焼き付いたのは。し
かし、決してイヤミな呑み方ではない。いくら呑んでもシャンとしていらっしゃる。


泊り屋と雑誌「かむろ」              
                            
さて、この会合の中で特に佐野氏が興味を引いたのは、島のトマリヤという慣習と、
戦前まで発行されていた雑誌「かむろ」のことであったように思う。     
       
トマリヤ(泊り屋)とは本の中にも触れられているが、戦前この島の漁業の隆盛期、
人口が三千人から四千人に膨れ上がった頃、子どもの数が多すぎて漁家で賄いきれな
い子どもたちを、大船頭などの裕福な家が子どもを預かり、一人前になるまで漁師の
修業や教育をうけさせる、自発的な相互扶助の保護策である。本には、    
            
                            
島民全員が一種の疑似家族を構成してきた        
                            
と、表現されている。                  
                            
雑誌「かむろ」とは、一九一四年(大正三年)に創刊し、一九三六年(昭和十一年)
のあいだに一一九号も発行された島の定期刊行物である。詳しくは本文に書かれてい
るので省くが、島から出た多くの移民者や、島外出身者の情報通信手段として、大き
な役割を果たしたものだ。かむろの枝村があった九州、台湾などには支局のようなも
のもあった。このような小さな島で、こうした先進的な文化機能が存在していたこと
は全国にも例がないらしく、第一級の史料価値といわれている。発行責任者は新山法
山氏で現在の新山住職の祖父にあたる。いわば現在の「潮音」の前身ともいえる。 
    
 
佐野氏は本の「あとがき」の中で、日本の家族は古くから大家族制度を基本としてで
きあがってきた、と習ってきたし私自身もそう思いこんできた。しかし、島の取材を
して、大家族制度が日本の唯一の家族制度ではどうやらないらしい。ということがわ
かったきた。この島が高齢化社会の到来という目前に迫った状況の中で、注目を集め
ているのも、親子が離れて暮らしていても、なお家族的な機能がはたらいているとい
う不思議さへの興味が、おそらく根底にながれている。と書かれている。     
               
確かにここに住んでいる私自身に置き換えて考えてみても一旦は外に出て働いて、ふ
るさとをみたとき、家族と同時に島そのものへの思いが強かった。私の妻から、カム
ロの人はあなたといい、まわりのといい、ふるさとへの意識がなぜこんなに強いんだ
ろうかとよく言われる。それは、佐野氏が指摘するように、過去からトマリヤのよう
に、深い相互扶助的な環境の中で育ったことからきているかもしれないし、雑誌「か
むろ」から「潮音」へと引き継がれていったように、島と島外の人たちの結びつきを
決して怠らなかった先人たちの歴史的な営みや努力の延長線上で、こうしたふるさと
回帰の思考が機能しているのだろうと思う。           

この夜の会合が、この本の全体の流れを決めたのではないだろうか。      
                
その会合も十時頃にはお開きとなったが、その後も佐野氏と新山さん、私と三人が深
夜まで酒を交えたのたが、佐野氏は旅の疲れか呑みすぎたのか、私と新山さんが僅か
に会話しているすきに、グ−グ−とイビキをたててテ−ブルにつんのめるように寝て
しまった。                

「先生、帰りますよ」                  

とからだを揺すったが、起きそうにない。新山さんの奥さんが横でクスクス笑ってい
る。新山さんと私が両側から抱えたところ、                  

「ああわかった、わかった」               

と言って玄関とは反対の方向に歩きだしたため、      

「先生こっちこっち」                  

と言って、私が肩をかして鯛の里まで連れ帰った。     
 
寝間のある二階に連れて上がった頃、佐野氏は目がさめていた。        

「アレ、ノ−トはどこいった?」             

「ちゃんとボクが持ってかえりましたよ」         

「あ−、どうもどうも。しかし、きょうの話はよかったなあウンウン」      

「じゃあ、ボチボチもう寝ますか」            

「ンッ、もう寝るのか?」                

私はオイオイと思い、すぐに一階に降りてコップ酒を持って上がった。     
                
「ねえ、先生。今までマスコミの取材で、この島が猫と老人の島ふうに書くことが
あったけど、そんなふうにはしないでね」                   

佐野氏の目はもううつろだった、私の話にただ、ウンウンとうなずくだけだった。時
間がたつにつれ、ウンウンがコックリに、そしてヤジロベエに変わり、それでもはな
しかけると、ウン、ウンとうなずいた。ワーッさすがプロと、妙に感心した。  
                      
「じゃあ先生、このへんで」               

と言って、今にもこぼれそうなコップを受け取ると、佐野氏はそのままバタンとうし
ろにひっくり返ってしまった。  
 
台所で付けっ放しにしていたラジオは、すでにシャ−という放送終了後の雑音に変
わっていた。            

朝、佐野氏はゆうべ何事もなかったようにすっきりした顔で二階から降りてきた。 
               
「イヤ−、ゆうべはどうもどうも。オレ、あれからどうしたっけ?」       

ゆうべのいきさつをはなしたが、記憶がとぎれているらしい。          

「そうか、そうか」                   

と照れ笑いしていた。朝ご飯を済ませ、                   

「松本くん、そろそろ出ますわ」             

といって二階から降りてきた姿は、毛糸の帽子をすっぽりとかぶり、分厚いジャンパ
−を着た姿は、今から山にでも登るかのような重装備だった。温暖な気候に育った私
にとっては妙におかしく映った。                  

「車で送りましょうか?」                

「イヤ、バスで行くよ」                 

バスで行くと言ったのは、この島の出身者たちがこの島をあとにするときの島影を、
自身の目で見てその心情に触れてみたいという考えなのだろうと、それ以上はすすめ
なかった。 
 
あるいは、バスに乗っていなければ、バス停の待合室に貼られていた、中学生の旅人
が残したあの感動的なメッセ−ジに出会うことはなかったかもしれない。    
      
佐野氏が島を去って二週間くらいたった頃、私のところに電話が入った。    
                
「このあいだ、カムロのバス停の待合所に貼ってあった画用紙のことなんだけど、
知ってる?」           

「ええ、知ってますよ。アレ、いい文章ですよね」     

「それ、原文のままFAXで送ってくれないかな? それとカムロの写真のよさそう
なのも探して送ってほしいんだけど」   

私はその足で待合所に行き、それをはがして佐野氏のアトリエにFAXで送った。そ
のあとでまた、待合所の元貼ってあった場所に戻しておいた。とてもいい文章なの
で、このままはがさずにいてみんなに読んでほしいな、と思いながらもひょっとし
て、掃除のときにはがしたりはしないだろうかとの不安もあった。残念ながらその不
安はあたった。数日後、はがされてしまっていたのだ。いまから思うと、保管してお
けばよかったと、残念でならない。カムロの写真については急いでいる様子だったの
で、橋の映ったものを数枚送らせていただいたのだが、写りがあまりよくなかったせ
いか、文藝春秋に掲載された写真は別のものだった。使われた写真はおそらく、白木
山から映した大島のキンギョの尻尾の部分だと思う。              
           
年が明けて文藝春秋の本が送られてきた。さっそく読ませていただいた。読むうちに
どんどん引き込まれていった。一気に読んだあとで、私はしばらくあいだ窓越しに海
を眺めながら、その余韻にひたっていた。私の頭のなかには、最後の章に書かれてあ
る、「美しい墓地」の風景が浮かんでいた。 
                            

墓地のすぐ下に泊清寺の甍がみえ、その下に、寒椿が咲き、ひしめくように軒を接し
た集落がみえる。その向こうには、瀬戸内のおだやかな海が広がる。    

その海は、ハワイなどの外地に沖家室の種を運んだ生の世界であり、島民の命を数知
れず呑み込んだ死の世界でもある。                    
墓と寺と集落と海。目の前に広がる風景は、私の目にはあの世とこの世が互いに通信
している姿にみえた。この島では生と死が繋がりあっている。      
 
 
この文章を読んだとき、私は佐野氏のやさしく豊かな表現力に感動していた。自分の
住んでいるいつもみている風景なのに、まるで別世界に誘われたような気持ちだっ
た。   
                            
佐野氏が再び島をおとずれたのは、翌年のお盆だった。文藝春秋に掲載された文章の
結びに、           
 

盆に「大往生の島」が沈む頃、もう一度この島をたずねよう。     
    
ということで、いわば続編を書くためだった。今回は「月刊プレジデント」に掲載さ
れるということだった。     

                            
台風直撃の盆                   
                            
八月十三日、佐野氏は夕方ひとりで鯛の里にやってきた。道中は、柳原利夫先生の取
材もあってその息子の良樹さんがいる大阪から車に同乗してきたということだった。
    
「イヤ−っ、高速道路が渋滞してね。それにしてもカムロはほんとうに涼しいなあ」
                
さっそく、おいしそうに生ビ−ルをぐいぐいやっている。  

「向こうで、鯛の里っていう民宿はヘルスメ−タ−に樽を乗せて計って売ってるん
ぜって、みんなにいうと、大笑いするんだよ」                 

そのうち、石井さんが佐野氏がきたということで会いにやってきた。石井さんは、文
藝春秋を読んですっかり佐野氏のファンになっていたのだ。          
      
夜になると、東京から取材に同行するプレジデント社の中田氏、カメラマンの岩崎氏
が福岡から到着した。     
 
実は鯛の里には佐野氏の一行とは別に バサラ というテレビ番組制作会社のクル−
が泊まっていたのだ。同じ趣旨の取材ということもあって、両方の宿泊をお請けし、
部屋を分け合うな形で了解いただいたのだが、これがあまりよくなかったようだ。佐
野氏一行とは、はなしが噛み合わないようなのだ。クル−は早々に二階に引き揚げ、
下では新山さんもやってきて、例のように深夜まで盛り上がった。     
  
翌朝、バサラのクル−ははなはだ機嫌が悪かった。一階で深夜まで呑んでいた佐野氏
一行の声がうるさくて寝られなかったようなのだ。それに加えてカムロの盆は朝が早
い。参道添いに面した鯛の里の前の道路は、早朝から墓参りに行き交う人で、銀座並
みの通りに変貌するからだ。        

一方、佐野氏一行は「イヤ−っ、オレはこれをみたかったんだよ」と、はしゃぎま
くっている。          
 
十四日は、本来なら一番賑わう日なのだが、あいにく台風十五号の接近で、灰色に染
まった空はいまにも襲いかかるほど下降していた。台風情報によると、昼過ぎには島
のほぼ真上を通過するということだ。最悪のコ−スだ。       
 
バサラのクル−も心配そうに二階の窓から外をのぞいている。         

「松本さん、どんな具合ですかねえ」           

「マジ(南風)が吹いてきたから、一気にきますよ」    
 
カムロはマジの吹く台風が一番恐い。          
 
台風は時計の反対方向に渦巻いている。台風の中心から右手にあたる、つまり島の北
側を通ると、進行方向の力と合わさって南の風が吹き荒れる。さらに、豊後水道から
一気に吹き込む風がモロにあたるのだ。              

昼過ぎには、すでに暴風雨圏のほぼ中心に入っていた。  
 
鯛の里は、先の大被害をだした十九号台風の教訓から、風に対してあまり効果をなさ
ない雨戸をやめて、全面強化ガラスをはめている。つまり、嵐が来ようともガラス張
りのままで外は一望なのである。そんなこともあって、佐野氏一行は外の様子にクギ
づけになっている。            

「こんなにすごいものとは思わなかった」         

佐野氏は本のなかで次のようにのべている。        
                            
  
それは、山全体が連獅子になり、気が狂ったように緑の髪の毛を振り乱している姿に
もみえた         
                            

カメラマンの岩崎氏は、                

「私は海に囲まれた島の台風ははじめての体験だ」     

と言って、カメラ片手に海の方に出ていった。しかし、すぐに舞い戻ってきた。  
                
「イヤ−っ、参った、参った。瓦は落ちてくるし。波はうちあげる。とても立っては
いられない」          

「きょうはお手上げだな」                

と佐野氏一行が居間で談笑していたら、二階で鳴りを潜めていたバサラのクル−が、
ものすごい格好でドタドタとテレビカメラをかついで降りてきた。        
      
なんと、ディレクタ−がパンツ一丁になって、半透明のナイロン袋を体中に巻きつ
け、他のスタッフも似たような格好で機材をかばいながら出て行こうとしている。そ
れをみていた佐野氏一行はキョトンとしている。           

「気をつけてくださいよ。波止には行かないようにしてくださいね」       
                
そんな私の心配をよそに、元気一杯に飛び出していった。その直後、佐野氏一行は大
爆笑となった。        

「なんだ、あいつら元気じゃないか。笑っちゃ悪いと思ってこらえていたんだが、す
ごい格好をしてたなあ。イヤ−、たいしたもんだ」               

そのあとも、佐野氏一行は外を眺めている。       

「今日は盆踊りは無理だろうなあ。運が悪いなあ」     

と佐野氏が残念そうな顔をしていたので、         

「先生、そうでもないですよ。お盆に台風がやってくるのは いつものことなんです
よ。今の台風は逃げるのも早いから夕方には日がさしますよ」
                
私は気分直しにと思い、         

「先生、一杯呑みますか?」               

「イヤ−、彼らをみたら呑めないな−。オレはいいよ。みん 
なはどうぞ」                      

とすすめたので、私がジョッキ−にビ−ルをついでいると他の二人も「オレたちもい
いよ」というので、半分つぎかけてコックを止めた。              

「すいません。じゃこれボクがいただきます」       

と呑もうとしたら、カメラマンの岩崎氏が鼻の穴を膨らませてこちらをジ−っと横目
でにらんでいる。私は首をすくめながら、恐る恐る台所に去った。そりゃそうだ。先
生が呑まないのに呑めるわけがない。                

夕方になる頃、風はおさまっていた。外では墓参りの人でにぎやかになっていた。し
かし、台風を避けるため早めに島を去った人もあったようで、思ったより人通りは多
くなかった。                          

佐野氏は、網戸の向こうの人通りをビ−ル片手に嬉しそうに眺めている。    
                
「イヤ−ッ、まったくふさわしいところに宿をとったもんだここは、特等席だよ」 
                
人の流れがみえるところが特等席だなんて妙な話だ。私から言えば、これがいやでい
やでしょうがなかったのだ。

「先生、ここは参道に面しているでしょう。だから、誰が里帰りしているかがすぐに
分かるんですが、この前を通るときはみんな一斉にこっちに首が向くんです。だか
ら、夕方になって外よりも家の中の方が明るくなると、中が丸見えになるんですよ。
食事が喉を通りませんよ。だからといって閉めるわけにもいかないしね」     
            
外が薄暗くなると佐野氏はさらに縁側に陣取り、ニヤニヤ しながら恥ずかしげもな
く見入っていた。例年だと、里帰りした友人が通り掛かりに声をかけていくのだが、
今年はそれはなかった。                     

夕飯後、佐野氏一行は居なくなっていた。どこに行ったのだろう?そういえば、食事
中に「幸」がどうとか言っていたのを思い出し私も行ってみた。店に入るや否や中で
飲んでいた佐野氏一行が私を指差しながら、いきなり大笑いをはじめたのだ。ズボン
のチャックでも開いてるのかなと思い、みなりを確かめていると、       
           
「いやな、そろそろ松本くんがくるぞ。たばこも切れたからもらおうと思ってはなし
ていたら、絶妙なタイミングで入ってきたんだよ」               

「なんだ、そうだったんですか」             

ママさんは、台風のあとかたずけをしていた。強風で窓ガラスが割れたようだ。はな
しを聞いてみると、強風で揺れる店を夫婦と消防団の見回りで来ていた横山さんとで
必死に支えていたそうだ。そのときの状況は佐野氏の本のなかにも書かれてある。
                      
「バサラの一行はどうしてる?」             

「食べたあと、また飛び出していきましたよ」       

「彼らは暗いようにみえるけど、あれは、実は生真面目なん だよ。それに比べたら
オレたちは不真面目だよなあ」    

と大笑い。私が                     

「こう言っちゃ失礼ですが、実は作家という人にすごく暗いイメ−ジをもってたんで
す。ところが、ぜんぜん違う。みなさんメチャクチャ明るいんですよね」     
      
「大酒くらってな」                   

「そうそう。でね、テレビドラマなんかで作家の人が机に向かってゴホンゴホン咳し
ながら、手をみると血がドバッついていたりしてね。そんなシ−ンが多いじゃないで
すか」   

〜なんだそりゃ〜                  

「結局な、彼ら映像の世界は会話はさほど必要ないんだよ。だけど我々物書きの世界
は、相手と楽しくやらないとネタがとれないんだよ」              
なるほどなと、感心しながら、その後、鯛の里に帰ってからも、またもや深夜まで盛
り上がった。            

翌朝、空は昨日の台風がウソのように晴れ上がっていた。しかし、バサラの一行は一
層不機嫌だった。ゆうべもうるさくて寝られなかったようなのだ。ディレクタ−が私
のところにやってきて、         
            
「私たちは平気なんですが、カメラマンの方がかなりバテてまして、そこで相談なん
ですが、潮音荘が空いているそうなんで、そちらに移ろうと思うんですがいいでしょ
うか?」  
 
潮音荘というのは、お寺の宿泊所のことである。     

私は深くお詫びをし、了解した。それもそうだろう。暑い日中、重いカメラを一日中
持ち、夜も寝させてもらえないとなると堪忍袋の緒が切れるのも当然だろう。しか
し、内心ほっとしていた。                     

そのうち、今晩盆踊りを行なう旨の島内放送があった。  
                            
お盆も過ぎ、すっかり静けさを取り戻したころ、プレジデント社から「月刊プレジデ
ント」が届いた。文章もさることながら、岩崎氏の撮った写真の素晴らしさに目を見
張った。 
                            
そのうち、「大往生の島」が単行本になり、佐野氏が再び島に訪れるという情報がが
入った。           
 
そして、昨年六月、「旅する巨人」で佐野氏が大宅荘一賞を受賞されたとの知らせが
入った。           
 
六月初め、石井さんが「ヤッタ、ヤッタ! 佐野さんがヤッタ」と、新聞の切り抜き
をもって血相を変えて飛び込んできた。そこには、

「大宅荘一賞に二作品決まる」

と見出しに書かれてある。                     

これで佐野氏も大物作家となるのか。嬉しさ半分、私にはこれで「大往生の島」の単
行本の企画も無くなるのかな、との不安もよぎった。             

石井さんが、「すぐに祝電を打ってくれ」と言うので、さっそく次のような内容でレ
タックスを打った。      

                            
佐野先生へ                    
 
ついにやりましたね。大宅荘一賞受賞おめでとうございます。          
              
きょう、石井さんが「佐野さんがヤッタ、ヤッタ」と新聞記事を持って飛び込んでき
ました。地元ではみんな喜んでいます。            
またの来島を楽しみにしています。みんなで祝杯をあげましょう。

                        新山玄雄
                        石井正夫
                        松本昭司
              
普通の祝電とは少しちがうが、形式的でないほうが思いが伝わると考え、あえて肉筆
で届くレタックスとした。   
 
のちに聞いたことであるが、今年二月、「大往生の島」の出版記念パ−ティ−が泊清
寺でおこなわれた際、佐野氏が石井さんに、「あの、祝電が一番嬉しかった」と語っ
ていたということである。                    

新山さんのところには、東京でおこなわれる受賞祝賀会に宮本先生の奥さんであるア
サ子夫人と一緒に出席してほしいという、連絡が入っていた。残念ながら、公務の都
合で出席できなかった。                     

それから、一ヵ月くらいたった頃、文藝春秋社から佐野氏の編集担当である照井氏と
いう方から、「佐野先生と島を訪れたいので鯛の里の部屋を空けておいてほしい」と
いう連絡が入った。その連絡は新山さんのところにも同時に入っていた。    
                      
私はさっそく新山さんのところに行った。そして新山さんが日程調整のため文藝春秋
および佐野氏に連絡をとったところ、「大往生の島」の単行本を執筆するための取材
の来島であり、それが、受賞後の第一作の書き下ろし作品になるということが分かっ
た。                   

「松本くん、これは大きい企画だぞ」           

と、新山さんも喜びを隠しきれないようすだった。     
 
私は、この企画がとうに先延ばしになっていると思っていただけに、それが受賞後の
第一作という幸運と、それだけ価値ある作品として佐野氏が考えているということ、
同時に佐野氏を再びお迎えすることに、感激とともに身が引き締まる思いだった。 
                     
七月の初め、佐野氏から「伊保田港まで君に迎えに来てほしい」という連絡が入っ
た。              
 
私は、もしかして、これもシナリオのなかに既に入っていることかもしれないと、期
待もしながら、この日は一切の予定を寄せ付けなかった。           
      
                            
「大往生の島」取材で再来島            
                            
その日はあいにく小雨混じりだった。上空をみると、鈍よりとして雲行きは早く風も
少しある。予定どうり船がつけばよいがと心配だった。            
予定どうり船は到着した。船には思ったよりも多くの人が乗っていた。遠くから、

「ヨ−オッ、どうも、どうも」と、声を掛けてきた。文藝春秋の照井氏も同行してい
た。    
                            
「先生、どうもお疲れ様。船は揺れませんでした?」    

「イヤイヤ、思ったほどじゃなかったよ」         
 
車のなかで、                     

「照井くん、これが例の鯛の里の松本くんだよ」      

と紹介された。例のとは、ヘルスメ−タ−の生ビ−ルのことをさしているのかなと、
ひとり笑いながら車は島に向かっていた。本では、このあたりのやりとりからスタ−
トしている。  
 
私は車を運転しながら、通り過ぎる景色や施設の説明をていた。佐野氏と照井氏の質
問も矢継ぎ早に入る。まさに取材はこのときからスタ−トしていたのである。このと
きの模様は本のなかでこと細かく描写されている。        
 
車が森野の火葬場にさしかかる頃、           

「先生、きのう近所のおばあちゃんが亡くなって、きょうが通夜で明日が葬式なんで
すよ。それにしてもいいときに来たもんですねえ」               

私は、人の死に対して言い方が少し不謹慎かなと思いながらも、大往生の島の取材で
来島するからには、葬式を直に見ていただくのも必要かなと考えて、そう伝えた。
      
「ウンウン、そうかあ。なるほど、なるほど」       
 
本のなかでは、                    
                            
    
松本くんの口ぶりに皮肉のニュアンスはまったくなかった。       
                  
と書かれてある。                    

佐野氏が、東和町の資料がほしいと言うので役場に案内した。実を言うと、私のあた
まのなかでは、いやな予感がしていた。というのも、九十六年三月号の「文藝春秋」
に掲載された最初のルポには、東和町の老人福祉行政の立ち後れを指摘していたから
である。このことで、役場の対応が悪くなければよいのだがと心配していた。 
            
佐野氏と照井氏は割と早く出てきた。          

「先生、いい資料はありましたか?」           

佐野氏はため息をつくように首を横に振った。後ろに座っている照井氏をみても、ダ
メダメと言うように顔の前で手を横に振っていた。              

「観光案内所にあるような資料しかなかったよ。結局ここは社協のような民間ボラン
ティアが支えているんだろうなあ」

と、ぽつりと言った。                  
 
私は、ヤレヤレこりゃあまた書かれるなあと思っていたがこのときのことが本にはや
はり書かれていた。      


……アロハシャツ……。そんな自由な雰囲気とは裏腹に役場の対応ははなはだ悪かっ
た。担当 職員はこちらの質問にほとんど応えられず、資料らしき資料も何ひとつな
いというありさまだった。                 
                            
私の心配とは別にそれ以前の問題だったのだ。町長までとはいわないが、せめて助役
か課長クラスが対応してもよかろうものに。佐野氏は本文でも触れられているよう
に、行政の批判を目的にしたものではない。特養「白寿園」のショ−トステイ事業、
毎日給食への補助などの評価とともに、そうした、行政のサ−ビスをはるかに上まわ
る老人福祉サ−ビスが老人たち自身の手によってなされていることが、全国に例のな
い特徴だと指摘しているのである。もっとも、事実にもとずいて述べられたことにヘ
ソをまげる行政ではどうにもならないのではあるが。              
     
役場をあとにして、私は、佐野氏が東和町の図書館をまだ見ていないというので、あ
えて案内することにした。   
 
最初に宮本先生関係の著書がおかれている郷土史料室を案内した。薄暗い部屋のなか
で、佐野氏と照井氏が隅々まで見て回っていたが、言葉は少なかった。     
      
「常さんのふるさとがこれじゃあなあ」          

と、ぽつりと言った。それでも、そのなかから何冊か選んで借りることにした。 
 
私が受け付にて小さな声で、              

「今、おみえになっているのが『旅する巨人』を書かれた佐野眞一さんですよ」  

と伝えたのだが、キョトンとしているだけで、佐野氏と照井氏が、「どうも、おじゃ
ましました」と丁寧にあいさつしたのだが、「はい、どうも」とにこやかに応じただ
けだった。 
                            
カムロに着くと、参道ですれちがった隣の林さんの奥さんが、「今から出棺じゃが、
早うせにゃあ」と教えてくれたので佐野氏にそのことを告げ、雨のなか亡くなられた
古川のおばあちゃんの家に急いだ。               

夕方になると、新山さんと石井さんも駆け付け久々の宴となった。はなしは学生運動
の頃のはなしが中心だったと思う。 佐野氏と照井氏はほぼ同世代のいわば団塊の世
代。大学時代は学生運動の真っ只中にあった。新山さんはそれから三〜四才下で学生
運動がやや下火になった頃の世代。それでも、当時はリ−ダ−的存在であった。石井
さんは三井三池争議の時代の組合幹部。私もついこのあいだまで現役の組合幹部だっ
た。いわば親子、孫が世代を超えて、似たような経歴をもった役者が揃ったわけであ
る。このあとも「幸」に繰り出し、店で呑んでいた他の客も含めて深夜まで大いに盛
り上がった。                         

朝起きると、まだ目がまわっていた。「イヤ−、ゆうべは派手にやりましたねえ」

とことばをかわす佐野氏と照井氏はまだ真っ赤な顔をしていた。外では、葬式の準備
のため女性たちが参道を行き交いしていた。             

葬式がお寺でとりおこなわれるなか参列する一行のなかに佐野氏のすがたもあった。
               
 その後の新山さんとの会話のなかで、          

「いや−、ゆうべは呑みすぎました。お経が終わったとき、立てなくなるんじゃない
かと思いましたよ。でも、古川のおばあちゃんだから許してくれるでしょう」   
      
と笑いながら語ったのだが、佐野氏にとってはこのときの様子がよほどおかしかった
のだろう。
                            
   
…九十九才の大往生とはいえ、二日酔いの住職を笑って許すこの島の住民のおおらか
さに、私はますますこの島が気に入り、…                   
 
                            
この部分には、少しフォロ−が必要だ。のちに新山さんとこのことについて話題とな
り、大笑いとなるのだが、    

「あれって、カムロがいつもあんな調子でやってると思われますよね。新山住職がい
かにも呑み助けって感じですよね」
 
葬式が終わった晩、かねて企画していた、大宅賞受賞の祝賀会が書院でおこなわれた
のだが、佐野氏は本のなかで感想をのべている。               
      
…数時間前に死者を弔った同じ場所が、にぎやかなカラオケの場所となる。戦後民主
主義的感性からいけば、死者を冒涜するのもほどほどにしろ、ということになるのだ
ろう。だが、そんなやせ細って不健全な観念性はここにはまったくはいりこむ余地は
ない。私の目には、ここもまた死者と生者が互いにたのしく交流しあっている場のよ
うにみえた。                        
                            
葬式のあとでのカラオケ。これは、前回佐野氏が来島した際、石井さんが佐野氏に

「ここでは葬式のあと、カラオケがはじまるんですよ」と語ったことがある。そのこ
とが佐野氏の記憶のなかにあったんだと思う。            

「あれって、石井さんがいったんだよね。いつもそんなことはしないよね」    

「しかし、ウソじゃないんだよ。ウチの葬式のあと、湿っぽくなるのは故人も望んで
はいないと思ってやったことがある。もし、これが病気とか事故で死んだというので
あれば、それはできない」                    
数日前、あるテレビ局のディレクタ−が番組企画を持って来た際、企画書を拝見した
ら、「長寿のしまの暮らしぶり」について、・島が一番賑わうのは葬式のとき。大往
生であれば悲しむ必要はない。・葬式のあとは、酒を飲み、カラオケを歌い騒ぐ
(?)となっている。        

この島がそんなイメ−ジを持たれていることは確かなようだ。佐野氏が来島したら丁
度タイミングよく葬式があったことその葬式前夜に盛り上がったこと、葬式後に祝賀
会が開かれてカラオケになったこと、これらが実ににうまくつながっただけであっ
て、決していつもこんなことをやっているわけではないことは、強調しておきたいと
思う。

住職の新山さんにそのことを聞くと、                   

「私はカムロの場合、そんなことがあってもいいとは思う。しかし、それをよく言わ
ない人もいる」          
 
盛会だった祝賀会もお開きとなった頃、外は雨が激しくなっていた。翌日は石井さん
のお誘いもあって、夕食は石井宅におじゃますることになった。 
                
「大宅賞作家がウチへきて、食事をするなんぞ夢のようなはなしじゃ」と上機嫌だっ
た。もてなしをする奥さんも、きれいな洋服に着替え、緊張した面持ちで「大宅賞の
受賞、おめでとうございます」と言って、色紙を差し出してサインをお願いした。 
                      
                            
忘れられた日本人の美しい輝き  佐野眞一       
                            

と記された。                      
 
話題は多技にわたったため、すべては覚えていないが、ノンフィクションについて
語ったことが記憶に残っている。 

「ノンフィクションを書くスタンスで参考にする場合、大岡昌平の『レイテ戦記』だ
と思う。加害者、被害者の両立場にかかわりなく、ひとりひとりの人間を大切に描
く。司馬遼太郎のように、バサバサと切り捨てていくような書き方はしない」
 
石井さんが                       

「ノンフィクション作家といえば澤地久枝が有名ですが、日本軍に痛め付けられる匪
属の描写は、女性であるだけに感情移入にすごいものがありますなあ」      
      
「女性は少し感情が入りすぎるのが欠点となりうる場合もある。澤池さんは先輩格だ
し、選考委員だからあまりいえないけどね」   
 
ほどよく飲んだ頃、私は不覚にも酔い潰れてしまった。朝起きるとなんと仏壇の前で
服を着たまま、布団も掛けてもらえず転がるように丸くなって寝ていたのだ。  
      
「シマッタ!」                     
 
見回すと、食卓はすっかりかたずけられ、八畳ほどの部屋の真ん中には布団が敷か
れ、佐野氏がパジャマに着替えてちゃんと寝ている。それとは対照的にその部屋の
隅っこでぶざまに自分が丸くなって寝ている状況を天井からみた風景で想像したと
き、思わず吹き出してしまった。         

下の台所では、奥さんが朝ご飯の支度をしていた。    

「まあまあ、やっと起きてきはったの。ゆうべ松本さんを起こしたんやけど、動かへ
んのよ。放っといたわ。でも、ザブトンはかけておいたわよ」 

「モオ! 冷たい」
    
と言うと、けたけたと笑っていた。あとで石井さんに「大宅賞作家が呑んでいる横
で、大の
字になって寝るなんぞ、アンタもええ根性しとるわい」とたしなめられた。考えてみ
ると無礼なはなしではある。                    

滞在中はこの島の取材だけではなく、現在連載中の原稿のことで東京と頻繁に電話の
やりとりをしていた。何本もの原稿を同時進行で書いていたのだ。聞いてみると、そ
んなものらしい。   

「松本くん、これ編集部宛てにFAXでおくってくれないかな」         

その原稿はダイエ−の中内氏を書いたも のだった。佐野氏が来られた際、お土産だ
といっていただいた、すでに連載の終えた分のコピ−を読んでみると、この作品はか
なり際どい内容となっていた。      
             
「これを読んだ中内氏がキレる寸前らしい。連載がでるたびに株価が下がっているか
らなあ」  

「先生は、このなかで、私は決して中内氏を批判するつもりはないと書かれています
けど、内容はずいぶん叩き上げてますよね」            

「ふふふふ。そうなんだよなあ」             
 
大往生の島を書いたやさしさの佐野氏とは思えないほどの激しさだが、新山さんによ
ると。  

「佐野さんの本は以来ずいぶん読んだが、『大往生の島』はそのなかでも、異色の作
品だと思う。おそらくそれは『旅する巨人』の取材で触れた宮本先生と澁沢敬三さん
の影響だと思う。どちらが本当の佐野さんかというよりは、その幅の広さと嗅覚の鋭
さがこうした作品をうむんだと思う」    
 
この作品は「日経ビシネス」に今年三月まで連載されたがその後、中内氏とダイエ−
から、二億円の損害賠償と慰謝料で訴えられた。私は心配になって、佐野氏に電話を
したら、 

「ナ−ニ。ハナクソみたいなもんだよ」と、あっけらかんとしていた。      
                
話しはもとに戻るが、たのまれた原稿をお寺に持っていき奥さんにお願いした。そし
て、さあ夕ご飯を食べましょうと言ったが、佐野氏はそわそわして、いっこうに手を
つけない 

「先生、どうしたんですか?」              

「さっきの原稿が気になってな」             

さっそく電話が入った。短く会話があったあと、佐野氏はおかずの横で無言にペンを
走らせていた。顔は真剣そのものだった。佐野氏が原稿を書いている姿を見るのは、
実はこれがはじめてだった。そして、また電話をとった。      
 
電話を終えた佐野氏の顔は、もとに戻っていた。     

「ヤ−、スマン、スマン。原稿ワクに少しはみだしたもんだから」        

「僕は、この民宿で原稿をかく先生の姿ははじめてみたんですが、夜は僕らと呑ん
で、昼は取材で歩きまわっているでしょう。いつ書くんですか?」        
       
「帰って書くんだよ。それと、酒を呑んで書いちゃだめだね自分が天才だと思ってし
まう」             
 
私は佐野氏が逗留しているあいだ、山を見ながら、ボーっと首をかしげてタバコを
吸っているうしろ姿をたびたび見かけた。いつも考え込んでいる。「なぜ?」という
思いがいつもつきまとっているように見えた。この本を書くための原稿にペンを走ら
せている姿を最後まで見ることはなかった。  
 
私は佐野氏が投宿するにあたり、静かに原稿が書ける環境を確保するために、二階を
すべて開放していた。しかし、そこはただ寝るだけで、大抵は人が出入りし、人通り
の見える参道に面した居間に居た。日が経つにつれ、取材先から持ち帰った資料など
がどんどん溜まっていく。   
                
ある日、「松本くん、これ洗濯してくれないか?」と頼まれた。夕方になってそれを
取り込み、「先生、ここに吊しておきますから、あとで二階に持って上がってくださ
い」と言って天井に吊しておいたのだが、それはそのままで、その下の夕食となっ
た。                    

翌日の昼前、部屋に入ると資料は一層と散乱し、洗濯物はそのまま天井に吊したまま
で、その光景はまさに佐野氏の仕事場そのものだった。私は、このままでは人が尋ね
てきてもカッコ悪いと思い、資料は佐野氏のカバンに詰込み、下着も含む洗濯物をた
たむのも女房気取りで気恥ずかしいので、二階の天井に吊しておいた。      
                   

取材先から帰って来た佐野氏はすっかりかたずいた部屋の中で「松本くん、あの資料
どこいった?」と探し回っていたのは言うまでもない。のちに、佐野氏の奥さんのコ
メントが載った雑誌の中に、 

「主人はかまわない人だから」というのを見たときに、私は声を出して笑ってしまっ
た。              
 
こうして五日間滞在して、私また伊保田港にお送りした。 

「沖家室はこれからブ−ムになるだろうなあ。鯛の里もたいへんなことになるぞ」 
                
と言い残して、船に乗り込んだ。             
                            
                           
方言指導の依頼                  
                            
その年の秋、文藝春秋の照井氏から思いもかけない電話が入った。       
「先生の原稿の一部がすでに上がってきているんですが、方言の部分について見てほ
しい」   

「エッ、そんな大事なことを僕なんかがやってもいいんですか?」        
「先生からの依頼なんですよ。それが済んだら、文藝春秋の方に送り返してくださ
い」     

「じゃあ、僕にわからない部分があったら、新山さんや石井さんもいるから相談しな
がらやってみます」       

「ウ−ン、それって、人に見せないものなんですよ」    

「ああ、そうなんですか。責任重大ですね」        

大宅賞作家の原稿に手を入れさせてもらえるなど、光栄だなあと、ひとり感激してい
た。しかしこれがのちに私を悩ませた。                   

その翌日、原稿が送られてきた。広げてみると、佐野氏が伊保田港に到着し、迎えに
いったところから、私が登場しているではないか。              

さっそく作業に入った。私は普通あまり方言を使わないのだが、あえてコテコテの方
言にしてみた。その方が地元色が出ていいと思ったからだ。私の女房が、「あなた、
こんなにカムロ弁を使うかしら」と言ったが、それがあってか、この本をみて鯛の里
を訪れる人が一様に、「鯛の里の主人は、よほどのガンコオヤジかイカツイ漁師風の
お兄さんかと思っていたが実際に来てみると、思ったよりもシティ−ボ−イだった」
と言われて照れることがある。他の人の部分は、日常会話のなかで観察し、原稿に手
を入れさせていただいた。  
 
私がさきほど、のちに私を悩ませたと書いたのは、この本のことが話題になったとき
の場に居合わせているときだった。秋祭りのとき、愛知大学の印南先生が町史を書く
ため取材に訪れたときのことであった。新山さんと印南先生と私が会話していると
き、この本のことが話題になった。      

「佐野さんが、どんなふうにこの島を描くのか楽しみな反面とても恐いですよ。歯に
衣着せぬ方だから、際どい部分も書くだろうなあ」               

確かに原稿の中では、新山さんの幼少から住職になるまでのいきさつが細かく書かれ
ている。とりわけ、学生運動のリーダーだったことなど、私にとっては新しい情報
だったし、ご本人からもあまり聞かされてはいない。         
 
私は新山さんたちの話しをただただ黙って聞いていたが、たいへん居心地が悪かっ
た。翌日、佐野氏から電話があったとき、そのことを伝えたら笑いながら、    
      
「そうだろう、そうだろう。言いたいだろう。でも、ダメ。特に彼には」     
                
「新山さんのところでは、ずいぶん掘り下げて書いてありますよね。読んだらなんて
いうでしょうね」        

「そうだなあ。でも、あえて深く書くほうが、結果的には人物が上がるんだよ。私は
経験的にそれを知っているんだから心配することはないんだよ。それよりも、私が気
になるのは彼のお父さんの製作所のことを書いた部分なんだよなあ…」 
 
佐野氏の言ったことは当たっていた。新山さんが出来上がった本を読んで最初に言っ
たのが、「私はともかく、おやじの方がねえ」と語っていた。そのことについて私は
聞き返すことはしなかったが、私は本のなかに、製作所の役割と評価がもう少しあっ
てもいいかなとは思う。戦争とその後の高度成長によって、基幹産業であった漁業が
次第に衰退し、それにともなって釣り針業や造船業などの製造業、商主などの鮮魚商
あるいは海運業、旅館、雑貨店などのサ−ビス業が急速にしぼんでいくなか、島民の
家計を支えたかむろ製作所の役割の大きさは、島の歴史にしっかりと書き記すべきだ
と思うし、現に島の人から「製作所があったから、子どもを学校にやることができ
た」と、多くの人から聞いている。結果的に借金が残ったとあるが、島の経済を支え
た代償をひとりかぶってもそれを島民に愚痴ることなく、その歴史を静かに閉じた姿
はまさに雄姿だと思う。               
 
文藝春秋からの原稿は四回に分けて送られてきた。二回目の原稿の頃、佐野氏から、
読んでみてどうだと感想を求められた。                  

「感動的な場面が一杯出てくるんですよね。特に、視察に来た役人の質問で、家族と
離れてくらしていて、さみしくありませんか。ホンネで答えてください。と言ったこ
とに対して新山さんが、それは愚問でしょう。…さみしくないわけないじゃないです
か。さみしさにじっと耐えながら精一杯明るくふるまって、この島で死のうと思って
いるんです。と、色をなして怒った。というところ、あれには涙がでましたよ」  

「そうなんだよなあ。オレも何回も読み返して、いいはなしが一杯あるんだよなあと
思うよ」            
 
もうひとつ、気になるところがあった。石井さんが登場するんだが、なじみのUタ−
ン老人になっている点だった。私は方言指導についての依頼はうけたが、内容に関す
る部分については意見を述べることなど依頼されてはいない。まして、そんな無礼な
ことなどできない。ただ、私ども郷土会が調べた史料の引用部分、あるいは、事実関
係について、多少意見を申し上げた。うわさのUタ−ン老人という表現については、
のちに、本人ではなく奥さんの方からブ−イングが起きた。         

三回目の原稿を送り返すときに、トラブルが起きた。原稿を送り返す先は、歴史的記
述の修正など、内容にかかわる部分も含まれていたため、佐野氏宛てに直接送ること
になっていた。ところが、十日あまりたっても届いていないというのだ。さっそく郵
便局に行き、訳をはなすと、「作家の先生の原稿を紛失したのではたいへんなことに
なる」と、到着局などに頻繁に連絡していた。しかし、普通封書便であるため配達人
の記憶に頼るしかないという。相手局からも届いてはいないという返事だった。それ
から三日くらいたった頃、佐野氏から電話があった。             

「松本くん、たった今届いたよ。オレも気になってこちらの郵便局に電話していて、
やはり届いてないという。丁度そのとき、その局の配達員が持って来たんだよ。おか
しな話しだよ。結局、何が原因だったとか言わないんだよ。やっぱりお役所だよな
あ」                     

その旨をこちらの局長につたえたところ、「先生に深くお詫びしておいてほしい」

と、申し訳なさそうにしていた。 
 
最後の原稿が送られて来たのは、十一月後半だったように思う。切羽詰まっていたか
らFAXでのやりとりになった。

「松本くんのことを書いてある部分が含まれているんだからよくみろよ。カッコヨク
書いたつもりだから」      
 
FAXからでてくる長いロ−ル紙を、まるで古文書を読むようにワクワクしながら見
入っていた。その頃になると、カムロ弁そのままの原稿だった。        
      
「先生、何も言うことはありません」           

「そうか、じゃあこれで完了だが、OKだな?」      

「ハイ。いい経験をさせていただきました。」       

と、電話を切った。                   

私は、そのあとも何度も最後の原稿を読み返しながら、この作品は単なる紀行文でも
なく、ルポでもない。むしろ、世に問い掛ける訴求力を持った作品だと思った。 
      
何よりも、原稿が上がった瞬間、いわば歴史的な瞬間に自分が立会え、その達成感が
佐野氏と共有できたことに心地よさを感じていた。              
                −−−続くーーー


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