第9講.ナチスの進出とユーゴ破綻

 アレクサンダル1世の暗殺された1934年、世界は既に5年後の第一次世界大戦へと疾走していた。
 その前年である1933年、日本は国際連盟から脱退し、ドイツではヒトラーが首相となり一党独裁を実現している。アレクサンダル1世の暗殺された2ヶ月前には、ヒトラーは総裁をも兼ねた。
 このような国際社会の波は、当然のようにユーゴにも波及することになる。

 アレクサンダル1世は遺言により、幼い次の王ペータル2世の主席摂政に、自らの従兄弟であるパヴレ公を指名していた。パヴレ公はセルビアとクロアチアの間に差別を設けようとはしない人物で、従って彼の摂政への登位は国内の統一機運に呼応することになると期待された。
 というのは、アレクサンダル1世の暗殺事件で、ユーゴ国民は改めてイタリアのダルマチアへの野望を思い起こさせられたからだった。1935年の選挙のあとで、パヴレは急進党の指導者ストヤノヴィチに組閣を命じた。
 しかし、前述のような非民主的な議会制度(第一党が票数に関わらず議席の2/3を占める)のため、クロアチア農民党のマチェクは議会ボイコットを続行した。ストヤディノヴィチはクロアチア農民党の活動を容認したが、それ以上クロアチアへの妥協を進めようとしなかった。急進党の自分の分派とイスラム党、スロヴェニア人民党で結成した「ユーゴスラヴィア急進同盟」により、ストヤディノヴィチは妥協の必要のない安定した権力を手に入れていたのだ。
 また、ストヤディノヴィチ政権は西欧から離れ、親独路線を取り始める。フランスが1935年、ナチスドイツへの警戒から結成したストレーザ戦線に、イタリアを引き入れたためであった。これ以後、ユーゴスラヴィアはドイツやその友邦国家群と手を結んでいき、フランスがこの地域に結成していたベルサイユ体制の基礎となる同盟を崩していくことになる。

 一方、1937年、ユーゴスラヴィアは一つの危機を迎えることとなった。「コンコルダート危機」である。スロヴェニアから内相となったコロシェツの提案がその始まりだった。彼は、クロアチア人と政府の間の溝を浅くするべく、ローマ教皇とのコンコルダート(宗教協約)の締結を主張したのである。
 これは、当然のことながら、大多数のセルビア人の反発を受けることになった。ファシスト政党のユーゴスラヴィア国民党は、これを「セルビアをイタリアへと売り渡す行為」と非難した。一方、クロアチアの反応も冷ややかだった。彼らの関心は宗教改革ではなく政治改革だったからだ。
 だが、このコンコルダート危機は、反対勢力の結集という意味を持っていた。反政府に回っている急進党の分派(セルビア急進党を名乗った)、民主党、農業党、そしてクロアチア農民党が、1937年10月、統一反対派ブロックを結成、1931年憲法の無効を要求した。
 この反対派運動は、民族の垣根を越えて広まっていた。1938年8月にマチェクが反対派の指導者と会談するためにベオグラードを訪問したときには、5万人の観衆がこの民主主義の旗手を出迎えた。
 一方、政府は1938年12月、選挙を実施した。露骨な選挙干渉と不正にも関わらず、反対派の得票は44%に達した。

 この間にも、東欧・中央の情勢は悪化の一途をたどっていた。1937年に日独伊三国防共協定を結成したナチスは、1938年9月、チェコスロヴァキア危機を引き起こした。そして、9月29日のミュンヘン会談で、ズデーテン地方は当事者のいない間にドイツへの割譲が決定された。1939年3月には、ドイツ軍がチェコスロヴァキアに侵攻し、それを分割・占領してしまうことになる。

 さて、ストヤディノヴィチの不人気を悟ったパヴレ公は、1939年2月に、急進党のツヴェトコヴィチに組閣を命じた。さらにパヴレ公は、ドイツのチェコスロヴァキア侵攻に対応するかのように、ツヴェトコヴィチにクロアチアとの交渉を命じた。
 ツヴェトコヴィチ政権は、マチェクに対し、クロアチアの自治権を認めるための交渉を要求した。そして、マチェクは、国際的な危機を勘案して、これに応じた。かくして成立したのが1939年8月26日の「スポラズム(協定)」である。
 このスポラズムにより、ユーゴスラヴィアの中に、ほとんど独立国と言っていいクロアチア自治州が成立した。その領土はユーゴスラヴィアの27%に及んでいた。
 このスポラズムは、それまでの民族の垣根を越えたマチェク人気を雲散霧消させた。彼と手を組んでいたセルビアの反政府政党にとっては、マチェクのこの行為は裏切り以外の何者でもなかった。セルビア右翼やファシストは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部がクロアチア自治州に編入されたことに抗議した。そして、クロアチア人は、自治州の外側にもクロアチア人が住んでいることに抗議した。また、スロヴェニア人やムスリムも自治を要求しはじめた。クロアチアの過激派は、クロアチアに住むセルビア人の暗殺を散発的に繰り返し、セルビア人の反クロアチア運動を引き起こした。

 このような内側の危機とは対照的に、ツヴェトコヴィチ政権は国際的には小康を得ていた。それまでユーゴは、第7講で述べたように、周囲を敵に囲まれていた。しかし、枢軸国との関係が深まるとともに、ドイツ主導で周囲の国々との協定が進んでいった。
 1937年1月、ブルガリアと恒久友好条約締結。マケドニアへの要求を取り下げさせることで東部国境の安全を確保した。
 同年3月25日、イタリアと同盟条約。これによってユーゴはイタリアのアルバニア支配を認める代わりに、ダルマチアへの領土要求を取り下げさせた。
 これらの条約によって、ユーゴは外敵に囲まれているという恐怖を取り除かれ、また、国内で活動するゲリラ組織、VMRO(内部マケドニア革命機構)やウスタシャの弱体化にも成功したのであった。

 しかし、1939年に入ると、外交面でも難しい事態に陥ってきた。というのは、それまで共産主義の脅威などのためにドイツに宥和的であったイギリスが、ドイツとの対立を深めて来たのだ。ユーゴは、イギリス及びその友邦であるトルコと、ドイツとの狭間におかれて中立を指向しようとした。
 1939年9月1日の、ドイツのポーランド侵攻に始まる第二次大戦によって、ユーゴはもはやこの中立路線を捨てなければいけなくなった。ドイツは、フランスを倒したあとで、次の矛先をソ連に向けようとした。
 ソ連侵攻のためには、バルカン半島の安定が不可欠だった。また、ヒトラーは、盟友であるムッソリーニの1940年の失敗を償うために、ギリシア侵攻も念頭に入れなければいけなかった。
 ヒトラーは従って、ユーゴに枢軸への参加を求めた。
 ここで、ヒトラーとムッソリーニのユーゴに対する態度の違いが明らかになる。ムッソリーニはダルマチアをその支配下に収めるために、ユーゴの分裂崩壊を望んでいた。だが一方、ヒトラーはユーゴを枢軸同盟に参加させることで、バルカンの安定を目指していた。
 だから、ヒトラーが当初ユーゴスラヴィアに示した、同盟の見返りは破格のものであった。
 まず、領土の不可侵。領内を軍隊が通行しないことさえも約束した。
 そして、ユーゴ軍の枢軸軍参加を要求しないこと。
 更に、ギリシア領となっているエーゲ・マケドニアの割譲、エーゲ海への領土的回廊の設置。エーゲ海きっての良港テッサロニキの割譲も含まれていた。
 また、明言はされなかったが、将来パヴレ公がペタル2世に代わって王位につこうとしたとき、ドイツはそれを支援することが匂わされた。
 これらの待遇は、非常に破格のものであった。そしてまた、パヴレ公にとっては断るすべなど無かったのである。フランスは既になく、イギリスは遠く、ソ連は不可解だった。そして、外資系資本の母国も、貿易相手国も、既にドイツに併合されていた。経済的にはユーゴは既にドイツの支配下にあったのである。

 しかし、ユーゴの三国同盟参加は、国内のセルビア人の憤激を生み出した。セルビア人たちにとってこれは、セルビア人のチュートン人への屈服であったからだ。
 ユーゴの三国同盟参加は1941年3月25日であったが、その翌日の晩、無血軍事クーデターが発生。パヴレ公は亡命を強いられたのであった。

 この軍事クーデターにより、ペタル2世の成人が宣言され、そして空軍の司令官であったドゥシャン・シモヴィチが首相になった。このクーデターはセルビア人に熱狂的に受け入れられたが、クロアチア人やスロヴェニア人はユーゴスラヴィアを戦争に向かわせるものと考えたようである。そのうちの過激派は、いまや本気でドイツ軍の侵攻によるユーゴ瓦解・クロアチア独立を望んでいた。
 シモヴィチは必死になって自分の政権が枢軸国に受け入れられるよう奔走した……結局、枢軸に屈するほかにユーゴ存続の道はなかったのである。だが、ヒトラーはクーデター発生の数時間後にはユーゴの粉砕を命じていたと言われている。
 ヒトラーは、シモヴィチ政権の懇願も、ソ連が示した対ユーゴ友好・相互不可侵条約にも動じなかった。彼は恐らく、このクーデターを武力で鎮圧することによって枢軸の他の諸国への見せしめにしようとしたのだろう。4月6日、ドイツ空軍のベオグラード爆撃とドイツ軍の侵入が始まった。反撃は弱々しく、無益と思われた*
 ユーゴの軍の配置の失敗……北からの侵攻を想定していたのだが、ドイツ軍はブルガリアからの侵攻を主要なものとした……はもちろんユーゴの敗北の要因となったかも知れないが、それ以上に、セルビア人・クロアチア人の政府への態度が大きかっただろう。
 4月10日、ザグレブでクロアチアの独立が宣言された。そして12日にはベオグラードが陥落、17日にはユーゴ軍が降伏した(その生き残りのいくらかは、チェトニクとなって野に伏せった)。政府はアテネ、エルサレムを経てベルリンへと亡命した。

 ドイツは結局、ユーゴスラヴィアを分割し、占領したり傀儡国家に統治を任せたりした。その主要な分割は次の通りである。
 ブルガリア、ハンガリー、オーストリアは第一次大戦前の領土のいくらかを回復した。ルーマニアとハンガリーが領有を望んだバナート地方は、ドイツ軍の臨時政府の統治下におかれた。
 スロヴェニアの三分の一、そしてダルマチア海岸地方、モンテネグロはイタリアが併合した。
 コソヴォ及びマケドニア西部は、イタリア占領下のアルバニアに併合された。
 そして、クロアチアの大部分にはクロアチア傀儡国家が形成された。ウスタシャが担ったこの国は、ダルマチアを喪ったが、代わりにボスニア・ヘルツェゴヴィナを得た。
 セルビアの残った部分には、ミラン・ネディチ将軍によるセルビア傀儡国家が形成された。

* 実のところ、この一連のドイツ軍侵攻によって、ソ連侵攻が一ヶ月遅れたことは注目に値するかも知れない。これはユーゴスラヴィアに直接的な利益を生み出さなかったが、ドイツの東部戦線での敗北の原因の一つとなった。

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