第11講.コミンフォルム追放

 第10講で見たように、戦時中のユーゴ、中でもパルチザンと強く関わってきたのはあくまでイギリスであり、ソ連ではなかった。ソ連は実際にユーゴ解放に関わったが、それまでパルチザンを支援しようともしなかった。
 だが、思想的な類似性や「スラヴ」という同胞意識が、両者を蜜月状態であるように思わせた。これは、当事者たちでさえそうだったらしい。1947年の第一回コミンフォルムで、ユーゴ共産党は他国の共産党の権力奪取が遅々として進まないことを非難した。
 しかし、朝鮮半島やドイツを舞台とする米ソの対立が明らかになり、冷戦という構造が固まって来るにつれて、ソ連とユーゴとの対立もまた、深まっていった。ソ連が次第に、ドイツとソ連の間にある諸国に、ソ連への従属を強いるようになっていったからである。

 この従属とは、ひとつには経済支配であり、ひとつには政治介入だった。ソ連は各国と個別に同盟を結んで、その経済を従属下におさめていった。
 ここで、「各国と個別に」ということは重要である。ソ連は、この地域の国々にある程度のまとまりを持たせるのを嫌った。その国家連合体が、ソ連に対抗する勢力となったり西側諸国と独自の外交を展開したりする可能性を警戒したのだ。

 ユーゴとソ連との対立は、おおむね次の三点をめぐるものであった。

 ひとつめは、農業の集団化をめぐる問題である。ユーゴは、農地改革で「敵」の持っていた土地の再分配を行ったものの、共産主義の原則に反し、農業の集団化を行わなかった。
 これは、本来共産党の支持基盤となるプロレタリアートが、工業の未発達のためにほとんど存在せず、パルチザンを支持したのはおもに地方の農民たちであったという事実に由来する。農業の集団化は、共産党の大きな支持基盤を失うということを意味した。

 ふたつめは、外交問題に関する問題である。ギリシアでは戦後もなお共産党と王党派の内戦が続いていたが、チトーはこれに対し、積極的にギリシア共産党を支持・援助した。
 これはソ連にとって、米英への危険な挑発行為であり、また、スターリンがチャーチルと取り交わした「バルカン分割協定」に反するものでもあった。ソ連が米英との戦争を避けるために自重を促す一方、ユーゴはソ連の弱腰に不満を持った。
  ユーゴの積極的態度はソ連を困惑させた。「核兵器の所持」という点でアメリカに劣っていたこの時代のソ連は、西側諸国との衝突に非常に慎重であった。

 みっつめは、大バルカン連邦構想をめぐる問題である。チトーは、ユーゴスラヴィアを東南欧の大国にしようとしていた。それは、アルバニアをユーゴの第7の共和国にしようとしたこと、リエーカ(フィウメ)問題やギリシア内戦に対する積極的態度に明らかに現れている。
 この積極的態度の現れのひとつに、大バルカン連邦構想があった。これは、ユーゴスラヴィア主導で、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、アルバニア、そして共産化したギリシアを一つの連邦にまとめるというものである。この連邦は二つの意味で「大ユーゴスラヴィア」と言えるだろう。南スラヴ人を束ねる連邦という意味で、そして拡大したユーゴという意味で。
 この連邦は、南東欧にソ連に対抗できるような勢力を作ろうとするものと警戒され、嫌悪された。スターリンはこの構想を初めて聞いたとき、それまで自分と無関係に計画されていたことに憤ったあと、まずブルガリアとの連邦を指示した。ブルガリアはバルカンきっての親ソ国で、この指示はユーゴの猛反発を受け連邦構想は頓挫した。

 まとめるならば、ユーゴがバルカン共産主義の盟主として振る舞おうとしたのに対し、ソ連はユーゴをあくまで傘下の一従属国と見なそうとしたのである。チトーにとって自らは、スターリンと対等の存在であった。

 これらの対立は累積し、1948年6月28日のコミンフォルムからのユーゴ追放という結果を生んだ。この6月28日は、ヴィドヴ=ダン(聖ヴィドの日)である。第8講で見たように、セルボ・クロアート・スロヴェーヌ最初の憲法の制定日であるこの日は、さまざまな要因からユーゴスラヴィアの国民が愛国的となる日だった。この日は、1389年の「コソヴォポリスの戦い」でセルビア人が敗れた日であり、1914年サライェヴォでオーストリアのフランツ・フェルディナント大公が暗殺された日でもある。
 この前後のスターリンの失敗は多い。ユーゴスラヴィア国民がひときわ愛国的となるこの日の追放宣言だけではなく、ユーゴが共産化したのは戦時中のパルチザンではなくソ連軍のおかげであるという主張、そしてなにより、ユーゴスラヴィア共産党の内部結束を見抜けなかったことによる誤った行動。
 スターリンはコミンフォルムの追放声明で、ユーゴ共産党内部の健全な部分に、現指導部の更迭を呼びかけた。他国の共産党ならばここで、党内のクーデターが発生したことだろう。東欧諸国の共産党は、等しく戦時中に地下活動を続けた「国内地下派」とモスクワに逃れソ連の庇護を受けた「モスクワ派」に分かれていた。だが、ユーゴ共産党はそうではなかった。チトーのカリスマ、そしてパルチザンで培われた組織力と結束力は、スターリンの予想を裏切ったのである。
 スターリンが当てにしていたアンドリヤ・ヘブランクとスレテン・ジュヨヴィチは、たちまち孤立し、追放・逮捕された。
 次にスターリンは軍事クーデターを計画した。だが、ユーゴ軍の親ソ将校3人がルーマニアに出国しようとして捕まり、頓挫した。
 この間に行われたソ連による宣伝は、当然逆効果だった。経済的な抑圧も失敗に終わった。西側諸国がユーゴに対する態度を軟化させたためである。その見返りとして、ユーゴはギリシア内戦における共産党への援助を打ち切り、この内戦を終わらせた。

 だがユーゴは、西側の思想を受け入れはしなかった。1949〜50年にかけて、ユーゴスラヴィア共産党は自らの共産主義解釈を「正当」なものとして主張し、ソ連の解釈は「修正主義的」と批判した。1950年代には労働者の参加する体制の模索が行われ、マルクス理論の定める「国家の漸次的消滅」のプロセスをも試みようとした。
 1953年のユーゴ新憲法は、ソ連型の1946年憲法を否定し、連邦政府やエリートの権限を分散・制限し、官僚機構の縮小を行い、個人の自由を拡大した。

 だが、これらの進歩もしくは変化の中で、いくつかの問題点が浮かび上がりユーゴを悩ませることになる。
 まず、共産党の権力独占が続くのであれば、「国家の漸次的消滅」とはいったい何なのか。
 この問題は1954年のジラス危機を生み出した。ユーゴの最高指導者のひとりであり、チトーと最も近しい関係にあったというミロヴァン・ジラスが、レーニン主義(スターリン主義、ではない)タイプの党はその歴史的役割を終えたのだから、国家とともに消滅すべきと主張したのである。
 大衆から自然発生する「社会主義」という考え方に懐疑的であった大部分の共産党員はこれを拒否し、罵倒し、嘲笑した。そもそも、1953年のスターリン死去以後、ソ連との関係が改善に向かっていて、これ以上理論武装の必要はなくなってきていたのだ。1954年の特別中央委員会総会で、チトーは個人的に介入し、この問題を平和裡に終わらせた。体制内外の敵に対する警戒から、党(この時には「共産主義者同盟」と改名していた)の消滅は時期尚早で不適切である。
 ジラスは中央委員会を追放され、共産主義者同盟から脱退した。この措置は「平和裡」であった。彼は投獄されることも処刑されることもなく、それ以後も野にあってユーゴの体制や国際共産主義運動への積極的な批判者であり続けることになる。
 もう一つの問題点は、「帝国主義的」な西側諸国から援助を受けることを、いかにして正当化するのかである。1950年の朝鮮戦争勃発は、ユーゴを極度に緊張させた。ソ連が極東で侵略に成功すれば、同じことをバルカンで試みないとどうしていえるだろうか?
 結果、ユーゴは西側諸国から大量の軍事・経済援助を受けるようになる。そしてイデオロギー的には、これらの諸国はもはや「ブルジョワ帝国主義」ではなく、自由な政治政党と社会民主主義政党によって平和的な社会主義への移行の種をそのうちに宿していると主張された。

 かくして、第二次大戦の直後から、ユーゴは東側陣営を離れ、西側陣営の協力を得ることである意味特異な共産主義体制をうち立てていった。一方、共産圏内では、「チトー狩り」の名の下に、各国が独裁的な政権をうち立てていった。
 1953年のスターリン死去は、この状況をもう一度揺るがし、1950〜60年代の東欧各国にさまざまな影響を及ぼした。ユーゴもまた、間接的にその影響を被ることになる。

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