1.なぜユーゴ?

1 民族自決

 私はユーゴを調べていて、ひとつの疑問にぶち当たった。
 どうして、ユーゴスラヴィアなのだろう?
 ユーゴスラヴィアが出来たのは第1次大戦後。東欧に民族自決の波が(表面上)押し寄せた時代だ。
 第1次大戦で敗北し、消滅した三つの帝国〜オーストリア・ハンガリー、オスマン、そしてロシア〜の領土からいくつもの民族国家が生まれた。
 実際にはそれらはドイツ・ソ連に対する警戒から実際の民族分布よりも大きな領土を与えられ、それゆえに国内に少数民族問題を抱えこむことになったのだが。
 私が気付いたのは、それらの国家のうち、ユーゴスラヴィア(建国当時はセルボ・クロアート・スロヴェーヌといった)だけが民族国家ではないということだった。
 しいていえば、チェコスロバキアもチェコ人とスロバキア人の国家だが、両民族は非常に近く、スロバキア人をチェコ人の一部とみなす見方もあったので、まあ民族国家かどうかは保留。
 ユーゴスラヴィアは正教徒でありセルボ・クロアート語を話すセルビア人と、カトリック教徒でありセルボ・クロアート語を話すクロアティア人と、カトリック教徒でありスロヴェニア語を話すスロヴェニア人の国家だった。だから、「セルボ・クロアート・スロヴェーヌ」といったのだ。

2 その要因

 要因はいくつか考えられる。まず、セルボ・クロアート語が出来る時。
 19世紀半ば、セルビアのヴク・カラジッチは、セルビアで用いられていたロシア語に近い文章語に対し、文章語としてのセルビア語の確立に寄与し、文法書と辞書の編纂を行った。
 これに、クロアチアで「イリリア語」での文芸活動を行っていたリュデヴィド・ガイが共鳴。両者は協力して「セルボ・クロアート語」を作っていったのだ。
 ただし、これはおもに文芸面からの活動で、文章語としての「共通語」という強制力ある言語は誕生しなかった。セルボ・クロアート語は方言を内包した言語となる。

 次に、第1次大戦、特にイタリアとの関係。
 ダルマティア海岸、つまり現在のクロアティアの海岸地域は、昔からイタリア都市、特にベネツィアの影響を受けた地方だった。
 イタリアはこれを理由に、東方、つまりスロヴェニアおよびクロアティアに領土を得ようと画策した。現にリエーカ(フィウメ)はイタリア領となった。
 少なくともスロヴェニアとダルマティアはイタリア領となる可能性を持っていた。

 最後に、「南スラヴ連邦構想」。これについては次章でより詳しく扱うことにする。

3 南スラブ連邦構想

 19世紀、オスマン帝国の衰退とともに、バルカンの諸民族は独立を志向した。だが、その民族分布は非常に複雑で、たいていの都市は複数の民族によって構成されていた。
 したがって、19世紀の独立運動、民族主義は排外的な色もなかったとはいえないが、バルカンの諸民族の協調と友好を基調とした連邦という構想も提唱されたのである。
 それはもちろん、衰退したとはいえ未だ大国であるオスマン帝国に対し、各民族が協力して独立運動を起こそうという、つまりは対オスマン共同戦線という主張でもあった。
 この構想は、ガリバルディのバルカン一斉蜂起やコッシュートのドナウ連邦構想が祖であるとされている。バルカン内部でも、例えばセルビア人ミハイロ・ボリト=デサンチッチがスイスをモデルとした連邦制を提示するなどの動きが見られた。1860年代、多数の連邦構想が提示された。
 しかし、これらの構想のほとんどは政治的潮流に結びつくことなく泡のように消え去ってしまう。だが例外として、クロアチアとセルビアの間で連帯を求める動きが残った。
 1868年、クロアチアのフラニョ・ラチュキとヨシプ・シュトロスマイエルが南スラブ諸民族の文化的同一性を促進するために「ユーゴスラヴィア科学芸術アカデミー」を創設した。シュトロスマイエルはクロアチア人民党党首としてオーストリア・ハンガリー内での自治を要求していたが、セルビアのイリア・ガラシャニン(大セルビア主義で知られる)と接近し協力を模索した。
 また、ダルマチアのイタリア人の自治要求に対してもセルビアとクロアチアが協力した。
 このように、今から考えれば全く意外というほかないが、19世紀中葉から末にかけてセルビアとクロアチアはバルカン全体を束ねる連邦のために協力し、助け合ったのだ。
 確かにセルビアにとっては「大セルビア主義」の実現という意味があっただろう。クロアチアには、先に独立したセルビアを利用しようというはらがあったかもしれない。だが、少なくとも両者がひとつの目的のために協力した時期があったのだ。

 ちなみに、南スラブ連邦構想、というよりは「対オスマン共同戦線」はセルビア公ミハイロ・オブレノヴィッチによって一時期実現した。第1次バルカン同盟がそれで、1868年にセルビア・モンテネグロ・ギリシャ・ルーマニアが対オスマン同盟を結んだのだ。
 しかしこれは既に夢物語だった。同年ミハイロは暗殺されこの同盟は実質的に解体する。バルカンの諸国が共同してオスマンに対抗する時代は既に終わっていた。オスマンは弱体だった――それでも第1次バルカン戦争でセルビア軍とモンテネグロ軍を壊滅に追いやるだけの力は持っていたのだが。バルカン諸国の目的は、残されたオスマン領をいかに分割するか、その過程でどれだけ多くの領土を分捕るか、だった。
 バルカン諸民族協調の時代は終わった。諸国、特にギリシャ・セルビア・ブルガリアはマケドニアを巡り激しく対立して行くこととなる。

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