西部戦線の異状

1.ミュンヘン会談

 「71.両大戦間期の東欧の問題点」で私は、ナチスの侵攻に対して東欧の抵抗が弱々しかった理由の一つとしてミュンヘン会談をあげた。
 ミュンヘン会談は、1938年、ナチスドイツがチェコのズデーテン地方侵攻に対し行われた会談で、出席者はヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、ダラディエ。順にドイツ、イタリア、イギリス、フランスの首脳であった。
 つまり、一方の当事者であるチェコの首脳は出席を許されなかった、まことに奇妙な会談であった。この会談において英仏はドイツのズデーテン併合を容認、翌年3月のチェコ解体への第一歩を記すこととなった。
 そして、この東欧随一の工業力を持つチェコの併合によって、東欧の多くの国がナチスになびいた。それは、もしナチスに対抗しても、英仏はけして助けてくれないという見通しが立ったからでもあった。事実、ポーランドはナチスの侵攻に抵抗し、激しく戦い、激しく弾圧された。しかし、それに対して英仏が行ったのはなんだったのか?
 まず、形だけの対独宣戦布告が行われた。これによって第二次大戦が始まったといわれるが、実際にドイツと英仏が戦争を始めるのは翌1940年5月であり、それもドイツ側の侵攻によって開始されたのである。英仏の抵抗は弱々しく、翌月にはフランスは降伏するに至る。
 また一方で、英仏はポーランドに東部領土のソ連への割譲要求を行った。1939年、ソ連はドイツと歩調を合わせてポーランドに侵攻し、その東半分を奪取した……あるいは、「回復」した。ポーランドのレジスタンスはもちろんソ連にも向けられたが、英仏はこの東部領土を諦めろとポーランドに言ったのである。ナチスの敵であるソ連を味方につけたいという思惑の現れであろう。
 このように、1938〜40年の英仏の対ドイツ政策は寛容であった……いやむしろ、弱腰であった。

2.西部戦線の異状

 私は、「71.両大戦間期の東欧の問題点」において、その原因をもっぱら第二次大戦における3陣営の対立……英仏 対 独伊 対 ソ連……に帰した。だが最近になって、さらにもう一つ、重要なことを付け加えなければならないことに気づかされた。
 ミュンヘン会談は、反共にのみ結びつけられるべきではなかった。私は、ミュンヘン会談の当事者がみな、第一次大戦の経験者であることを想起すべきだったのである。
 第一次大戦の西部戦線は、人類史上始めて出現した大規模な虐殺装置であった。第一次大戦の4年間にわたって独仏国境に存在したこの虐殺装置は、戦争の歴史の根本的な革命であった。
 ヴェストファーレン条約以降のヨーロッパの体制において、戦争は国家の総力を尽くし、相手を滅ぼすまで行うようなものではなかった。この約270年間の間に、フランスが行った戦争は合計76年ほどになる……約1/4が戦争の年であったわけだ……が、パリが征服されたのはたった1度であり、フランスが他の国の首都を占領したことはない。7回の政変があったが、外国によって引き起こされたのは普仏戦争による第二帝政の崩壊だけである。
 つまり、戦争は前線の兵を動かして殺し合いをし、その一方で外交交渉を行ってなるべく有利なところで終える、というものであった……戦争の際には宣戦布告をせねばならないという考えようによってはばかげた考え方は、ここに由来している。
 第一次大戦も、開戦当初はそういった戦争だと思われていた。兵士たちは男らしさの証明として、あるいは女の子にもてたいが為に従軍した。サライェヴォ事件は6月28日であったが、兵士たちの合い言葉は「クリスマスにまたあおう」だった。クリスマスまでの半年間戦争をやって、故郷に錦を飾る、ただそれだけのはずだった。
 当初の戦争はそのように進んだ。ドイツ軍は大挙して西部国境に殺到、パリに迫った。ところが10月、史上初めて……そして唯一……フランス軍はここでドイツ軍をくい止めることに成功した。ついで11月、東部戦線も膠着する。
 膠着した戦線の維持のために塹壕が掘られ、両軍の守備力は相手の攻撃力を大きく上回ることとなった。これがさらなる膠着を生んだ。膠着状態を打破するためにいろいろな策が取られた。中立国の引き込み、なるべくたくさんの人間を殺すための装置の開発。
 機関銃はなるべくたくさんの兵士を殺し、戦争を終わらせるために開発された。だがもちろん、その技術はすぐに敵にも伝わり、殺し合いが激しくなっただけだった。
 塹壕を越えずに相手を殺す方法として、毒ガスが開発された。風任せに漂う毒ガスは、時には味方陣地に流れ着き、失敗した。
 全員一斉に時間を合わせて突撃するため、腕時計が開発された。
 塹壕を越え、踏みつぶすために農業用トラクターを改良し、戦車が開発された。
 この時代の塹壕を突破する方策が、どれだけ後世に影響を与えたかは計り知れない。機関銃はホチキスに、毒ガスは殺虫剤に姿を変え、われわれの身近にある。
 それはまた、この塹壕を越えることがどれだけ難しかったをも物語っている。結局、1918年の休戦まで、両軍ともに西部戦線の塹壕を越えることはできなかった。戦争の行方を左右したのは北海における海上補給ルートの攻防で、同盟国側がドイツの補給ルートを寸断し、飢えに導いたのだった。

 塹壕戦は非常に凄惨なものだった。絶え間なく聞こえる砲弾の音、生と死の狭間に生きるという恐怖感から、神経症を患う兵士も続出した。また、長時間塹壕の中で泥にまみれて過ごしたために、足を腐らせたものもいた。
 そして、塹壕が突破できなかったために、参戦国の動員率は跳ね上がった。動員率20%……5人に1人が出征し、労働力の不足は女性の社会進出という副産物をもたらした。フランス兵のうち、わずかに3人に1人が無事に帰還できた。残りは死ぬか、不具になるか、捕虜になるか、なまなましい傷痕を刻まれてなんとか帰り着いた物たちである。
 E.ホブズボウムの言葉を借りるならば、「アメリカの戦死者数は一見したところ小さいが、それは西部戦線−−アメリカ兵が戦ったのはこの戦線だけだった−−がいかに残酷であったかをまざまざと示している。アメリカは、第二次大戦では第一次大戦と比べて2.5倍から3倍の死者を出したが、1917−18年のアメリカ軍は、第二次大戦の3年半と比べて、しかも全世界ではなく西部戦線というただ一つの狭い戦域で参加しただけだった。」(「20世紀の歴史 極端な時代(上)」p.38)

 第一次大戦の経験者ということは、少なくとも英仏においては西部戦線の経験者を意味していた。従って、彼らがミュンヘン会談においてできる限りの戦争回避に走ったのはある意味無理もないことであったのだ。
 だがもちろん、最初に述べたように、それが東欧諸国をナチスになびかせ、第二次大戦を回避不能にしたというのも事実であろう。結果論であるが、ミュンヘン会談で英仏が強硬な姿勢に出たならば、ナチスの拡大は抑止され、第二次大戦はあのような形では起こらなかったかもしれない。
 しかし、ヒトラーはなぜ戦争を回避しようとしなかったのだろうか。ドイツ人はなぜ戦争を回避しようとしなかったのだろうか。この命題は考えるに値することだろう。ベルサイユ体制のドイツいじめと大恐慌による修正主義は、戦争の記憶を乗り越えたのだろうか。私にはまだよくわからない。
 ただ言えることは、ナチス政権は、日本の軍部独裁と違って、真の民主主義が生んだ政権であるということである。(この点において、戦前・戦中日本は決定的にファシズムではない。)つまり、ナチスは民衆が望んだものなのである。

参考文献

「20世紀の歴史 極端な時代(上)」 エリック・ホブズボウム:著 河合秀和:訳 三省堂

「西部戦線異状なし」レマルク

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