4.崩壊と戦争

1 内戦の経緯

 前コンテンツで書いたように、74年憲法は非常に地方分権指向で、結果として各民族の不満を増大させた。
 これに対し、1987年にセルビア共和国幹部会議長に就任したミロシェビッチらは、連邦制の強化による危機の打開を叫んだ。1988年、74年憲法が、続いて89年にセルビア共和国憲法が修正され、コソヴォ自治州の権限は縮小された。
 ところが、この1989年、東欧諸国には大きな波紋が広がっていた。ペレストロイカの影響による、いわゆる東欧革命である。東欧のほとんどの国では、戦闘が行われることなく共産党の一党独裁が崩壊、国民の投票による政権の選択が行われた。
 これはソ連の圏外にいたユーゴスラヴィアにも波紋を広げた。共産主義ではソ連の先を行き、民衆主体の制度を確立していると自称するユーゴの制度を、東欧諸国は一気に追い越したのだ。「国民の投票による政権の選択」とはそういうことだった。
 既に複数政党制を導入していたスロヴェニアに続いて、セルビアとクロアチアも複数政党制を導入。1990年、各共和国は順次選挙に突入した。
 選挙戦の大きな争点だったのは、もちろん連邦制そのものだった。そして、セルビア・モンテネグロをのぞく4つの共和国で民族派の諸政党が勝利し、連邦制の崩壊は決定的となった。

 1991年6月25日、スロヴェニアとクロアチアの共和国議会が独立を宣言した。
 6月27日、ユーゴ連邦軍がスロヴェニアに侵攻した。これによって始まったスロヴェニアでの戦争は「10日間戦争」あるいは「スロヴェニア独立戦争」と呼ばれる。戦争そのものはそれほど大規模ではなく、短期間で連邦軍は駆逐された。しかし、この戦争は大きな意味を持っている。それは、武力による解決という方法を取ったことだ。中央集権を望むセルビアは、6月6日にサライェヴォでボスニア・ヘルツェゴヴィナとマケドニアが提唱した「主権国家による連合」というあり方を突っぱねたのだ。
 かくして、彼らの前には2つの道だけが残された。戦争に勝利し、侵略者を追い出すか、あるいは敗北して勝利者の前に頭をたれるか、である。
 武力による解決という方法は、両方に武器を握らせたということでもあった。したがって、その間にあるどのような妥協も、非常に難しくなってしまったのである。

 クロアチアにおける戦争は、9月14日のクロアチア側の攻撃によって激化した。
 住民の9割がスロヴェニア人であるスロヴェニアとは違い、クロアチアには相当数のセルビア人が住んでいる。中でもセルビア人の多いクライナ地方では、90年9月に「クライナ・セルビア人自治区」の創設が宣言されていた。
 したがって、クロアチアの戦争は、クロアチア軍対クライナ軍+連邦軍、という図式であった。クライナはクロアチア東部の東スラヴォニア地方の「スラヴォニア・セルビア人自治区」と協力し、ダルマチア地方を中心にクロアチアの三分の一を勢力下に置いた。
 凄惨な戦争とプロパガンダ合戦のすえ、91年11月に国連の仲介によって停戦が実現した。が、12月にクライナはスラヴォニアと合併し、「クライナ・セルビア人共和国」(注1)として独立を宣言した。
 結局、クロアチアとクライナとの間の交渉は難航し、95年8月にクロアチアはクライナに侵攻、これを併合した。東スラヴォニアは国連の暫定機構下に置かれたが、97年4月の選挙でクロアチア側が大勝し、98年に国連からクロアチアに返還された。

 91年11月、マケドニアが独立を宣言しユーゴから離脱した。マケドニアの前に立ちはだかった問題は、ユーゴではなくギリシャとの問題だった。
 「2.マケドニア問題と国王独裁」で述べたように、マケドニアとはギリシャ・ブルガリアにまたがるもっと広く裕福な地域の名称である。ギリシャは歴史的にこのマケドニアをセルビアと語らい、分割・占領したという過去を持っている。
 したがって、ギリシャ領マケドニアとの関連を苦慮した(注2)ギリシャは、マケドニアに文句をつけたのだった。いわく、「マケドニアはアレクサンドロス大王の国号であって、ギリシャの栄光を示しているのだから、その国号をやめて欲しい」「国旗から古代マケドニア朝の「ベルギナの星」をはずすこと」。
 マケドニアは取り合わず、94年ギリシャは経済制裁措置を取った。そして国際的非難を浴び、結局95年9月に国連の仲介で正常化への取り組みが始まった。が、いまでも解決には至っていない。

 ボスニアでの内戦は、これまでの戦争より激しく、複雑な方向性を秘めていた。92年3月にセルビア人のボイコットする中投票が行われ、独立が承認された。これを4月にECが承認したことが、直接の契機である。
 ボスニアの場合、ムスリム主導の正統政府(国際的承認を得、国連に加盟している)のほか、セルビア人の「セルビア人共和国」(91年9月、自治区として結成)、クロアチア人の「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」(91年11月、自治区として結成)が「独立」し、三つ巴の戦争となった。
 内戦の経緯は省く(注3)。95年9月にニューヨークで、続いて11月にオハイオ州デイトンで関係三国(クロアチア、セルビア、ボスニア=ヘルツェゴビナ正統政府)の和平交渉が行われ、合意に至ってとりあえず内戦は終結した。96年にはムスリムとセルビア人から一人ずつ首相を出す形が整い、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国は解体された。
 現在、ムスリムとクロアチア人主導の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(51%支配)とセルビア人の「セルビア人共和国」(49%支配)の協力体制がしかれている。

2 そして空爆

 歴史をやっていると時々、人間の統合体であるはずの国家に感情や心理があるように感じることがある。それが幻覚なのか真理なのかは私にはわからないが、ユーゴスラヴィアの崩壊に対するドイツの反応は充分に感情的だった。

 伝統的なドイツとクロアチアの親密な関係とはあまり関係がない。ドイツにとって重大だったのは、セルビアの所業が、半世紀前の自分たちの所業に似通っていたことにあった。
 つまり、彼らはアルバニア人を抑圧するセルビア民族主義にナチスを、迫害され国を追われるアルバニア人にユダヤ人を重ねて見たのである。

 このようなドイツの感情的な態度、そしてそれに引きずられたEC(当時)、EUの行動がしばしば内戦の契機になっていることは見逃せない事実である。たとえば、ボスニアでの内戦のきっかけとなったのはECのボスニア正統政府承認だった。
 このように、このたびのユーゴの内戦は、ユーゴ内部の複雑な事情とともに、外からそれを止めるべきであるにもかかわらず結局は煽ってしまった諸外国の行動にも原因を求めることが出来る。
 NATOの空爆は、コソヴォにおけるアルバニア人迫害を止めるべく開始された。アルバニア人は、「禁止された民族」(レヘプ・コーシャ)だった。セルビアは中世セルビアの首都であったこの地を取り戻すべく、教育・労働の場からのアルバニアの追い出しを進めると同時に、セルビア人のコソヴォ移住を奨励した。まさしく、コソヴォのセルビア化を進めたのである。
 しかし、空爆は批判を浴び、結局なんら成果を得ることなく終了した。(注4)

3 展望

 ユーゴスラヴィアの崩壊がはじまって10年が経った。しかし、崩壊はまだ終わったとはいえない。この崩壊は北から始まり南に移動するにつれて激化したが、それは単なる偶然ではない。スラヴォニアはほとんど単一民族国家であるが、クロアチア、ボスニア、コソヴォと南下するにつれてだんだん「少数民族」の割合が増加しているのだ。
 そして、内戦はコソヴォに至り外国の介入を招いた。NATOは直接的にはこの地域に領土的野心を持たない存在であり、民主主義に従い国際世論に左右される存在であるから、批判を受けて空爆を停止し、介入は終わった。
 だが、次に予想される戦争、マケドニアを巡る紛争はそうではない。マケドニアでマケドニア人とアルバニア人の内戦が始まれば、ギリシャ・ブルガリア・セルビアを巻きこむことになる。この三国はともにマケドニアを巡り争った歴史を持っていて、端的に言えばマケドニアは自分の領土であるという領土的野心を持っている(少なくとも、持っていた)。そして、セルビアがそうであるように、国際世論にどこまで左右されるかは疑問である。
 つまり、国連やNATOがうまく立ちまわらない限り、この紛争は「第三次バルカン戦争」となるだろう。

(注1)クライナとスラヴォニアにセルビア人が多いことは、歴史的に複雑な要因を持っている。17世紀末、第2次ウィーン包囲に失敗したオスマン帝国は敗走を続け、ハプスブルクはハンガリー王として現在のクロアチアまでを「回復」した。セルビア人はこれに呼応して叛乱を起こしたが敗北、1691年総主教アルセニエに率いられて難民化、ハプスブルク領に逃れた。ハプスブルクは彼らを守備兵としてクライナやスラヴォニアに屯田させた。なお、このときセルビア人の去ったコソヴォにはオスマン帝国によってアルバニア人が入植。クロアチア内戦とコソヴォ紛争の原因はどちらもここに遡る。

(注2)マケドニアという名称は、ギリシャ領マケドニアへの領土的野心を示していると取れる。そして事実、第一党となったVMRO(内部マケドニア革命組織)はマケドニアの統一を訴えている。

(注3)冗長な上に、無意味だからである。彼らがやったことは虐殺とレイプであり、国外に支援者を持つクロアチアとセルビア、中でもセルビアが優位に立っていた。セルビアのサライェヴォ市民への無差別攻撃に、NATOが空爆を発動し、あわせてクロアチア・ムスリムの連合が大攻勢をかけたことで停戦交渉が始まった。

(注4)空爆の詳しい経緯を書かないのは、空爆を扱った文献が得られないからである。「最近過ぎる」のが原因だろうが、まだ終結したとは言えないこの紛争を止めるべく、もっと詳しい本がたくさん書かれることを望みたい。

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