3.チトーのユーゴ

1 大戦末期のバルカン

 ドイツ占領下におかれていた、あるいは親独政権の統治下にあった大戦中のバルカン半島では、国々はおおむね次のような事情にあった。
 ルーマニア(注1)……領土問題で多くの土地を失い、親独アントネスク軍事政権が打ちたてられる。この政権は失った領土、ことにソ連に奪われたベッサラビアの回復を目論み、バルカンでも屈指の反ソ政権となった。しかし戦争の東への拡大とともに野党から停戦が叫ばれるようになり、スターリングラードでドイツがてこずってる間に与党も停戦へと進んだ。しかし英仏ソはこれをそれぞれの思惑から無視。対独宣戦にこぎつけることで「敗戦国」としての扱いだけは免れることとなる。
 ブルガリア(注2)……対独協力も経済的なもののみに限定され、恵まれた環境にあったが、早くから共産系を中心とする祖国戦線によるパルチザンが行われた。この祖国戦線はのちのち政権の受け皿となっていく。
 ユーゴ、ギリシャ、アルバニア……共産系・旧体制系両派のパルチザンが活動したが、両派は戦後の政権樹立をにらみ次第に内戦に突入して行く。内戦の結果は両派の力バランスよりも諸外国の態度の影響が大きかった。
 諸外国の態度、というのはつまり、1944年10月にチャーチルとスターリンとの間で交わされたバルカン勢力圏分割協定のこと。

ソ連イギリス
ルーマニア90%10%
ブルガリア75%25%
ユーゴ50%50%
ギリシャ10%90%

という影響力を行使するという協定だった。
 これはイギリスにとって、地中海に大きくせりだし、インドへの航路に大きな意味を持つギリシャを勢力下に置いておきたいという意図の表れである。
 ともかく、このことがその後のギリシャとユーゴの情勢を大きく異なるものとした。どちらも、連合国としてドイツの占領を受け、傀儡政権を樹立させられ、旧政権はロンドンに亡命し、国内では左右両派のパルチザンが抵抗を続ける、という良く似た状況にあったにもかかわらずである。
 ソ連は、ユーゴに対してはむしろ自重を促しさえした。亡命政権およびユーゴスラヴィア王の排除を標榜するチトーに対し、ソ連は右派パルチザンとの祖国統一戦線の結成と対独協力体制樹立を促したのだ。
  一方、ドイツへの攻撃という戦略的観点からチトーを積極的に支援したのがイギリスだった。イギリスは、ギリシャに対しては先の勢力圏分割協定などに見られるように、自陣営に取り込むという政治的観点から共産党勢力の駆逐に努め(ソ連の了解のもとで)、亡命政府を中心とする政権を樹立させるのだが、ユーゴに対しては共産主義勢力の実行支配をほぼ追認する形をとった。ユーゴ共産党は亡命政権との連立を形式上取りはしたが、実際上はほぼ共産党政権といっていい政権を打ちたてることとなる。

 有名な「鉄のカーテン」演説でチャーチルは「バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンがひかれている」と言ったが、引かれたこと自体はともかく、引かれた位置を決めたのはほかでもないイギリスだったのである。

2 ソ連とユーゴの関係

 最近、ソ連崩壊後の研究で、第2次大戦後ソ連の占領下に置かれた諸国――のち、「東欧」と呼ばれる地域――は、占領後すぐにソ連によって共産化を推し進められたわけではないことが明らかになっている。
 戦後すぐの時期のソ連は非常に弱腰である。アメリカのみが核兵器を持っているというこの時代の状況において、強く出ることは出来なかったのだろう。(注3)
 このため、この時期の東欧では共産党を含む穏健的な連立政権や、共産党が実質的に政権を掌握している名目的な連立政権などがたてられた。そのなかでも最も急進的に共産化を進めたのはユーゴスラヴィアだった。
 ユーゴスラヴィアはイギリスの協力を得たとはいえ自力でドイツ軍を追い出し、政権を打ちたてた。この点で他の東欧諸国とは一線を画す存在である。1945年11月の選挙では共産党率いる人民戦線が、連邦院で90.5%、民族院で88.7%を占めるという結果になり、同月共和国宣言を発したユーゴは、1946年1月にソ連を範とする憲法を採択、早くも社会主義国家を建設したのだった。
  基幹産業の国有化は1945年8月にほぼ済ませており、1947年からは5ヵ年計画も開始。ユーゴはさながらバルカンの優等生だった。

 しかし、ユーゴは実は優等生ではなかった。1948年までは、ソ連とユーゴとの対立は見えなかった。見えなかっただけで、存在はしたのだが。
 ユーゴが望んだのは、ソ連の従属国という地位ではなかった。バルカン半島の盟主という地位だった。その結果、2つの大きな問題が両国の間に噴出することとなる。
 ひとつめは、バルカン連邦構想問題だった。ユーゴはハンガリー、アルバニア、ギリシャ、ブルガリア、ルーマニアを含む連邦を打ち立てるという構想を掲げたが、スターリンはこれに対しユーゴとブルガリアとの連邦という案を提示した。ブルガリアはバルカンきっての親ソ国であり、ブルガリアを通じてソ連のバルカンへの影響力が拡大することを嫌ったユーゴ政治局会議はこのスターリン案を否決した。
 ふたつめはアルバニア問題だった。ユーゴはアルバニアから専門家を引き上げさせるようにソ連に要求した。そしてアルバニアにユーゴ軍の駐留を受け入れるように要求し、さらに1948年にはスターリンの忠告にもかかわらずアルバニアをユーゴの第七の共和国にしようと画策した。
 1948年3月、ユーゴの共産党拡大政治局会議は、ソ連が自国の利益の為にユーゴへの武器供与や経済支援を意図的に遅らせていることを指摘、自力での国防力強化・経済発展を行う方針を打ち出した。この内容は同政治局員で親ソ派のジューヨヴィチによってソ連に伝えられた。またユーゴはこれに伴いソ連顧問団への経済情報の提供を拒否。ソ連はこの一連の動きに対し、軍事顧問団および民間専門家の引き上げの通告で応えた。ソ連はユーゴ批判を強め、ユーゴ内の親ソ派を使って政権転覆を目論んだ。ユーゴは親ソ派の粛清に乗り出した。そして、6月、コミンフォルム大会においてユーゴは激しく非難され、コミンフォルムから除名されるという破局を迎えた。

 東欧ではチトー狩りの嵐が吹き荒れた。親ソ的でない政治家は排除・逮捕・粛清された。このことは東欧に一枚板の結束をもたらしたと同時に、ユーゴに孤立をもたらした。それまで親ユーゴ的でユーゴに吸収されつつあったアルバニアは、ソ連にくみすることで独立を保持しえたのだった。

3 ユーゴの歩み

 さて、共産主義陣営からはじき出されたユーゴは、当然のように西側に歩み寄りを見せていくこととなる。1949年にはアメリカから経済・軍事援助を取りつけ、1953年にはギリシャ・トルコと友好協力条約を締結。このように外交的な歩み寄りと同時に、社会主義に対する見直しも試みられることとなった。1950年、ユーゴは国家ではなく労働者集団による自主管理を中核に据えた社会主義体制を整え、「真のマルクス・レーニン主義」にのっとった社会主義体制を樹立したとして、自らの正当性をアピールするようになる。

 その後有名なスターリン批判によってソ連とユーゴの関係は修復されるのであるが、ユーゴの目指したのはあくまで分権化・自由化・民主化への道であった。1958年には共産主義者同盟(注4)の積極的な役割が否定された。1963年、憲法の改正によって国名を「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」から「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」に改めた。1965年には市場原理が導入された。外交面では東西両陣営に属さない、いわゆる「非同盟諸国」の一方の旗手として活躍することになる。
 しかしこのような民主化・分権化は、ユーゴ伝統の問題を噴出させることにもなった。1968年、コソヴォのアルバニア人が権利拡大と共和国への昇格を要求し、暴動。1970〜71年、クロアチア人がセルビア人の経済的搾取を受けていると主張し蜂起、連邦からの離脱とクロアチア主権国家の樹立を要求した。
 チトーはこのような危機に対し、民族主義者の一掃を行うとともに、1974年の新憲法で各共和国に実質的には拒否権と言っていいほどの権限を与え、ユーゴの国家連合色を強めるという対処を行った。いわば、飴と鞭、ということになるが、この1974年憲法がその後のユーゴ解体に大きく関わってくることになる。

4 1974年憲法体制の問題

 この穏健的な体制は、前章で見たように、分権化という動きの中で浮上した民族問題を押さえつける為に登場した。しかしこの体制は、結局、民族問題を沈静化するどころか増幅することとなってしまう。

 各共和国には、平等の権利が与えられた。このことはすなわち、人口では36%を占めるセルビアが、5共和国の一つ、単純計算で20%の権利しか持たないということでもあった。
 セルビア共和国内の2つの自治州には共和国とほぼ同等の権限が与えられた。このことは、コソヴォ自治州での勢力バランスをひっくり返した。それまでセルビア共和国内の「少数民族」であったアルバニア人が、コソヴォ自治州での「多数派」となったのである。コソヴォのセルビア人の権利保護問題が浮上した。
 そして、なにより問題だったのは、いくら権利を与えたからといって経済格差が解消されたわけではないという事実である。1970年代は国際的にも経済が落ちこんだ時期だった。ニクソン・ショック、石油危機などによる世界的経済不安の煽りを食らい、ユーゴの経済格差はむしろ増大する一方だった。
 そして1980年、諸共和国の間を取り持ち、その統合を助けてきたチトーが死去。
 ユーゴは急速に空中分解へと向かっていくこととなる。

(注1)ベッサラビアを巡りソ連と激しく対立。ベッサラビアは独ソ不可侵条約でソ連のものと約束されたが、ソ連は当初ルーマニアを支援する英仏との関係を考慮しその占領を控えていた。フランスの降伏後、ソ連はベッサラビアを占領。これに及び、他の国もルーマニアに領土を要求した。バルカンの一円的な従属状態の瓦解を嫌ったドイツが仲裁し、ルーマニアは多大な損失を蒙った。

(注2)ドイツ占領下の東欧で、最も平和を謳歌した国。その歴史的な親ソ感情から対ソ戦を免除され、マケドニアや西トラキア、南ドブルジャなどの「悲願の土地」を手に入れたためである。

(注3)この時代の東欧のことはまだ良くわかってはおらず、今後の研究を待つ、という状況とのことだ。

(注4)1952年、共産党から改名。

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