3.チトーのユーゴ |
1 大戦末期のバルカン ドイツ占領下におかれていた、あるいは親独政権の統治下にあった大戦中のバルカン半島では、国々はおおむね次のような事情にあった。
という影響力を行使するという協定だった。 有名な「鉄のカーテン」演説でチャーチルは「バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンがひかれている」と言ったが、引かれたこと自体はともかく、引かれた位置を決めたのはほかでもないイギリスだったのである。 |
2 ソ連とユーゴの関係 最近、ソ連崩壊後の研究で、第2次大戦後ソ連の占領下に置かれた諸国――のち、「東欧」と呼ばれる地域――は、占領後すぐにソ連によって共産化を推し進められたわけではないことが明らかになっている。 しかし、ユーゴは実は優等生ではなかった。1948年までは、ソ連とユーゴとの対立は見えなかった。見えなかっただけで、存在はしたのだが。 東欧ではチトー狩りの嵐が吹き荒れた。親ソ的でない政治家は排除・逮捕・粛清された。このことは東欧に一枚板の結束をもたらしたと同時に、ユーゴに孤立をもたらした。それまで親ユーゴ的でユーゴに吸収されつつあったアルバニアは、ソ連にくみすることで独立を保持しえたのだった。 |
3 ユーゴの歩みさて、共産主義陣営からはじき出されたユーゴは、当然のように西側に歩み寄りを見せていくこととなる。1949年にはアメリカから経済・軍事援助を取りつけ、1953年にはギリシャ・トルコと友好協力条約を締結。このように外交的な歩み寄りと同時に、社会主義に対する見直しも試みられることとなった。1950年、ユーゴは国家ではなく労働者集団による自主管理を中核に据えた社会主義体制を整え、「真のマルクス・レーニン主義」にのっとった社会主義体制を樹立したとして、自らの正当性をアピールするようになる。 その後有名なスターリン批判によってソ連とユーゴの関係は修復されるのであるが、ユーゴの目指したのはあくまで分権化・自由化・民主化への道であった。1958年には共産主義者同盟(注4)の積極的な役割が否定された。1963年、憲法の改正によって国名を「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」から「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」に改めた。1965年には市場原理が導入された。外交面では東西両陣営に属さない、いわゆる「非同盟諸国」の一方の旗手として活躍することになる。 |
4 1974年憲法体制の問題この穏健的な体制は、前章で見たように、分権化という動きの中で浮上した民族問題を押さえつける為に登場した。しかしこの体制は、結局、民族問題を沈静化するどころか増幅することとなってしまう。 各共和国には、平等の権利が与えられた。このことはすなわち、人口では36%を占めるセルビアが、5共和国の一つ、単純計算で20%の権利しか持たないということでもあった。 |
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(注1)ベッサラビアを巡りソ連と激しく対立。ベッサラビアは独ソ不可侵条約でソ連のものと約束されたが、ソ連は当初ルーマニアを支援する英仏との関係を考慮しその占領を控えていた。フランスの降伏後、ソ連はベッサラビアを占領。これに及び、他の国もルーマニアに領土を要求した。バルカンの一円的な従属状態の瓦解を嫌ったドイツが仲裁し、ルーマニアは多大な損失を蒙った。 (注2)ドイツ占領下の東欧で、最も平和を謳歌した国。その歴史的な親ソ感情から対ソ戦を免除され、マケドニアや西トラキア、南ドブルジャなどの「悲願の土地」を手に入れたためである。 (注3)この時代の東欧のことはまだ良くわかってはおらず、今後の研究を待つ、という状況とのことだ。 (注4)1952年、共産党から改名。 |