両大戦間期の東欧の問題点

1.民族自決の原則と現実

 1918年1月にアメリカ大統領ウィルソンが議会で公表した平和14原則は、後のベルサイユ体制の基礎となるものであり、民族自決の原則を適用させるという点で重大な意味を持つものであった。
 実は民族自決はその前年にロシアのソヴィエト政権が11月革命で出した「平和に関する布告」で提起されている。しかし、後のベルサイユ体制への影響という点を考えると、ウィルソンの平和14原則が民族自決の原則のもととなった、と主張するのはさほど誤りではあるまい。
 民族自決とは、その名の通り、自らの帰属を民族自身が決めるという原則をさす。独立国家をつくるのも、旧宗主国内に留まるのも民族自身が決めるのである。
 今から考えれば当たり前にすら思えるこの原則であるが、第一次大戦開始時には多くの国民が選挙権すら持っていなかったということを考えると、また、敗戦国の領土分配はたいてい勝利国の思惑によるものであったということを考えると、非常に画期的なものである。

 しかし、結局、民族自決の原則は表面上適用されただけだった。勝利国にとっては、この原則はある程度は役に立つものだった。東欧を取り巻く3つの帝国……オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国……の全てが崩壊し、事実上ここを領有するのに適当な戦勝国は存在しなかった。
 そして、一方では、東方のソ連の共産主義革命が東欧に波及すること、あるいは将来ドイツがこの地に勢力を築き上げることは避けなければならないことだった。この点において、民族自決原則を利用し、ここに民族国家を誕生させることは戦勝国に非常に有益なことだったのだ。

 しかし、昨今のユーゴスラヴィアの戦争からも明らかなように、この地に民族自決の原則を適用するのは困難である。多くの民族が雑居状態にあるためだ。
 そして、何より問題であったのは、旧支配国の民族……ドイツ人、ハンガリー人、ムスリム……が少数民族として残ったという点であろう。例えば、チェコスロバキアの国民の24%がドイツ人であったという。これは、そのドイツ人の経済活動がドイツではなくチェコスロバキアの発展に寄与するという点では有益であった。また、支配者はあとで述べるような民衆の不満のはけ口として、共産主義者や無神論者と同様に少数民族を迫害の対象とした。
 だがもちろん、このことは敗戦国がベルサイユ体制を打破しようという方向へ向かう一つの大きな原動力であった。ナチスドイツが東欧へと勢力を広げることが出来たのは、そこに「迫害されている少数民族ドイツ人」が存在したからだ。

 つまるところ、ベルサイユ体制は、民族自決を掲げはしたがその目は常にソ連とドイツを見ていたのである。斜に構えて見過ぎなのかも知れないが、東欧の独立は東欧のためではなく、ドイツとソ連が再び大国となるのを阻止するためであったのだ。
 この体制の維持に最も熱心だったのは仏伊で、この二国は東欧諸国と多種多様な同盟を網の目のように結んだ。

2.国内問題

 東欧が抱えた最大の国内問題は、農民の問題だった。両大戦間期、東欧の農民は貧困のどん底にたたき落とされた。
   理由はまず、医療技術の発達にある。平均寿命が長くなり、死亡率が低下する。結果、人口爆発が起こった。人口爆発は農地をどんどん細分化していった。
 一般に、人口爆発を解消する方法は3つある。
 まず、移民。第一次大戦前の西欧における人口増加は、移民という形でアメリカが吸収した。だが、アメリカは1924年の移民法で南・東欧系移民を厳重に制限するようになった。
 次に、都市への流入。起こらないわけではなかったが、都市に行っても雇用の機会がなかった。東欧の工業化は非常に遅れていた。1938年のソ連をのぞくヨーロッパの工業生産のうちで、東欧の占める割合はわずか8%だった。しかも、そのうちの1/3をチェコスロバキアが占めていた。
 最後の解消方法は、大量死である。

 工業の未発達という事象は、もうひとつの問題を生んでいた。国は躍起になって国内産業の育成を図っていた。それは一つには自給自足経済を志向したからであり、もう一つには為政者が企業カルテルと密接に結びついていたからである。
 工業の育成の最も単純で、かつ効果的な方法は関税政策だった。外国商品に高い関税をかけ、自国の製品を買わせる。この政策自身が、さらに農民の首を絞めた。
 工業製品の値段は高騰した。供給量は少なく、製品は粗悪。更に言えば少数企業の独占状態が競争を生まず、工業の発展そのものを阻害した。政府はさらに工業に投資し、農民から吸い上げた税金がどんどん工業につぎ込まれた。

 このような体制に対し、農民主義を掲げる政党も登場する。しかし、彼らが農民の主張を政治に活かすことは結局なかった。農民の願望はしばしば為政者たちによって、「非現実的である」などのもっともらしい理由によって切り捨てられた。農民主義政党はいずれも、急速に主張を失い、別の方向へと迷走したのである。
 また、農民主義は資本主義・共産主義を物質文明の所産として切り捨て、のどかな田園生活を至上とする主張でもあるが、この主張自身矛盾をはらんでいた。上で見たように、農民の貧困の原因の一つには工業の未熟があるのであって、結局農民を富ませるためには工業を発達させねばならない。この点において、農民主義は確かに「非現実的」だった。

 普通選挙制によって、農民たちも選挙権を持っていた。だが彼らが投票したのはまずキリスト教政党であり、のちには権威主義的な政党だった。

3.共産主義

 戦間期の東欧において、結局共産主義が受け入れられることはなかった。主な原因は二つある。

 一つには、国家の側の熱心な弾圧である。
 1.で述べたように、東欧の諸国が独立したのはソ連に備えるためであったから、共産主義は強い弾圧を受けた。共産主義はしばしば無神論、あるいは少数民族擁護と同一視され、共産主義者自身自らを同一視することがあった。要するに社会を揺るがす危険思想として、ひっくるめて弾圧されたのである。

 もうひとつの原因は、工業の未発達と、農民たちの不信である。工業が発達していないということは、つまりは共産主義を受け入れるプロレタリアート層が貧弱であるということでもあった。
 また、社会に対して不満を持つ農民たちは社会を揺るがすものを望んではいたが、共産主義にそれを求めなかった。なぜなら、工業そのものが彼らの生活を揺るがしていると知っていたからだ。プロレタリアートは農民にとって敵でこそあれ味方ではなかった。

 一方で、これらの国々の共産党そのものにも問題があった。彼らはコミンテルンを通じて、単なるモスクワの奴隷として行動した。いくつかの国の党がモスクワの路線から逸脱し独自の行動をとったが、それは大規模な粛正という結末をもたらした。彼らは、国家側が指弾したまさにその通りに、ソ連の奴隷だったのである。

 従って、ソ連が侵攻してこの地域を共産化するまで、この地にはほとんど共産主義の下地は存在しなかった。例外はアルバニアとユーゴスラヴィアである。ユーゴスラヴィアでは、戦間期の資本主義政党の腐敗、そして戦争直前の権威主義政党の綱渡り外交、そして戦争中の民族主義政党の恐怖政治、全てが失敗していた。そして、これらに対して「革命」を掲げる共産主義が受け入れられたのである。チトーが、個々の民族主義を排してあくまで「ユーゴスラヴィア」の統一を目指し活動を続けたことも受け入れられた原因であろう。

4.権威主義

 権威主義とは、ここではほぼファシズムと同義である。東欧では、ファシズムの一側面である権威主義が、ナチスの台頭とともに受け入れられるようになった。それは、ナチスの見せた驚異的な復興力に依るところが大きい。また、少数民族特にユダヤ人への迫害を正当化することもできた。敗戦国であるハンガリー、ブルガリアにとっては、領土修正主義もまた、魅力的であった。
 だが、ここで「権威主義」といい、ファシズムと言わないのはその全体主義的な色彩の弱さにある。彼らは国王独裁、あるいは軍事独裁を志向するクーデターを起こし政権を取ったものの、単に独裁的な政権を作り上げただけで、脆弱かつ軟弱な政権が続くことになるのである。
 彼らは……これはナチスの侵略が及んだときに明らかになるのであるが……どっちつかずで、弱々しかった。その性向から、民衆の支持を急速に失うこととなる。彼らの多くはナチスの支配下に生き残ったが、それはヒトラーにとってこのような体制が「支配しやすい」ものであったからにすぎない。

5.ナチスドイツの侵攻に対して

 ドイツにナチス政権が成立したとき、東欧の多くの国はこれにむしろある種の羨望と期待感を寄せていた。一方、ドイツの側から見れば、東欧に小国がひしめいているという現実はけして不利なものではなかった。
 第一次大戦前には、この地には他の大国の介入を許さないほどにロシアとオーストリアの影響が強く働いていたが、今やこの地には自主独立を掲げる小国がひしめいていた。そして、それらの小国は共産主義を嫌悪する一方で、権威主義に憧れを感じていた……言い換えれば、ソ連を嫌悪し、ドイツに憧れていた。

 ベルサイユ体制において、ドイツは一般に言われるほどの打撃を被っていたのだろうか?
 第一次大戦において戦場となったのは、ドイツではない。ドイツが降伏した1918年11月現在、西部戦線はいまだブリュッセル近郊にあった。主戦場はフランドル、バルカン半島、そしてポーランドだった。ドイツ領内に戦場が移る前に、ドイツ国内で革命が起こって戦争が終結した。ドイツは経済的打撃から崩壊したが、工場はまるまる残っていたのである。これが、ベルサイユ体制におけるドイツの復活の原因となった。
 さらにくわえて、民族自決の原則の結果、崩壊を強いられたのはまずオーストリア=ハンガリーだった。オーストリア=ハンガリーの領土からはオーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキアが誕生し、更に南部の領土はルーマニアとユーゴスラヴィアに割譲された。これに対し、ドイツが失ったのは、アルザス・ロレーヌ、シュレスウィヒ、そして西プロイセンのみで、領土の大部分……特に、工業的価値の高いシュレジエン(シロンスク)、ライン川沿岸地方は結局ドイツに留まったのである。
 だが、「敗戦から立ち上がった」という意識から見れば、ドイツの「復興」はすさまじいものであった。それは国民の大半が農民であり、工業化が遅々として進まない東欧にとっては羨望の的であり、なおかつ恐怖の的でもあった。

 それゆえに、東欧にナチスが手を伸ばしたとき、これらの国々の抵抗は弱々しかった。
 唯一の例外は、ポーランドであった。ポーランドは西のドイツと東のソ連から侵攻を受け、英仏は宣戦布告は行ったものの手を出さず、ソ連との提携の模索からソ連の占領した領土をポーランド領として認めないなど、絶望的な状況にあったにもかかわらず頑強に抵抗した。それゆえ、ナチスの弾圧もポーランドで最も強く行われた。ポーランド人は占領とともに素早く地下組織を作り上げ、ロンドンに亡命した臨時政府と提携しながら抵抗した。この抵抗は、共産化を目指すソ連にとっても目障りであった。ソ連は明らかに、この抵抗運動を無視した。
 このポーランドの抵抗運動は、絶望的ではあったが大きな効果を上げた。50万のドイツ兵がポーランドに釘付けとなり、東部戦線の作戦行動に大きく支障を来したのである。ドイツが東でソ連に破れた原因の一つは、ここにある。
 だが、多くの国は、少しの抵抗の後にナチスを受け入れた。
 こちらの好例は、チェコスロヴァキアである。チェコスロヴァキアは、最初にナチスの矛先が向けられた国であるが、同時にドイツとソ連の間にある国々の中では、例外的なほどに最も富んだ国であった。
 実のところ、チェコスロヴァキアがズデーテン割譲に抵抗し武器を取ったら、ドイツはあれほど簡単に東欧に版図を広げることが出来たか疑問である。ヒトラーによると、1930年代に本当に戦争に備えていた国は自分の帝国とチェコスロヴァキアだけであった、という。
 しかしチェコスロヴァキアは弱腰だった。そして従順と言っていいほどにナチスの侵攻を受け入れ、それに耐えた。この姿勢の原因となったのは恐らくミュンヘン会談であろう。英仏は当事者の居ないところで勝手に会議し、チェコスロヴァキアを見捨てたのである。
 チェコスロバキアの分割・併合後、その保有する資源の多くがナチスによって活用された。そして、チェコスロヴァキアは、ナチスの敗北に対しほとんど関わりを持たなかった。
 彼らの忍従は、資源を提供するということでナチスの侵略の手伝いをするだけに終わってしまったのである。
 東欧ではたいていの場合、国内からナチスに協力する者が出て、この「売国奴」が親独政権をうち立てた。クロアチアのウスタシャが好例である。
 このような「売国奴」(ジョゼフ・ロスチャイルドによると、売国奴を出さなかったのは唯一ポーランドだけである、という。)が出た原因は、もちろん自己保身や外圧もあるだろうが、権威主義、あるいは民族主義への憧れも大きかったであろう。外国支配を嫌うという点ではある意味非常に民族主義的であったポーランドは、結局外圧に屈することはなかった。
 更に言えば、英仏の態度にも問題があったということも指摘しておかねばならない。英仏は、まずチェコスロヴァキアを見捨て、そしてポーランド亡命政権には東部領土のロシア割譲を要求した。バルカン半島においては、当事者たちの思惑を完全に無視して、ソ連との協議によって鉄のカーテンを引いたのだ。
 英仏がこのような行動に出たのはなぜか?

6.第二次大戦の構図

 第二次大戦は、ヨーロッパにおいては米英仏ソのいわゆる連合国と独伊のいわゆる枢軸国との戦いであったと理解される。だが、上記のように細かく各国の動きを見る上では、この二極対立という構図は正しいと言えない。
 実のところ、ベルサイユ体制から国々は3つのグループに分かれていた。
 一つは、戦勝国。米英仏を中心とし、現状維持を望むグループ。
 もう一つは、敗北国。独を中心とし、領土修正を望むグループ。
 そして最後に、ソ連。領土修正を望むという点ではドイツと一緒だが、戦勝国からも敗北国からも危険視される国。
 この対立は、戦勝国=資本主義・民主主義、敗北国=ファシズム、ソ連=共産主義というイデオロギーの対立へと収斂していく。第二次大戦の結果、ファシズムは崩壊し、(第一次大戦の)戦勝国グループと共産主義グループによってその領土は分割されることになる。そして、残った2グループが冷戦という対立を続けることになるのである。

 この3勢力の対立は、第二次世界大戦前から顕著であった。英仏がドイツの東方拡大を座視したのは、ナチスが反共を掲げていたからであり、独ソが東欧を巡って戦うということを予想していたからである。結果、チェコスロヴァキアは犠牲となった。
 そして、ドイツが英仏と戦争を始めるや、英仏はソ連との提携を模索することになる。結果、ポーランド亡命政府は東方領土の割譲を要求された。
 結局のところ、英仏にとって東欧は外交上の具にすぎなかったということである。

参考文献

○「ユーゴスラヴィアの歴史」と重なるものは、省略する。

「現代東欧史 多様性への回帰」 ジョゼフ・ロスチャイルド:著 羽場久?子・水谷驍:訳 共同通信社

?になっているのは、字がないからです。さんずいに尾という字なんですが。
 今回のコンテンツは主にこの本の第一章〜第二章に拠りました。

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