2.マケドニア問題と国王独裁

1 マケドニア問題とは

 19世紀の民族協調の夢を打ち破る、直接の契機となったのはマケドニア問題であった。

 マケドニアといっても、現在のマケドニア共和国の領域を指す言葉ではない。
 マケドニアはこの稿で語られるように、結局ギリシャとセルビアによって分割された。現在のマケドニア共和国はそのうちセルビアが領有した地域を領土としている。
 マケドニアはバルカン半島でも特異な地域であり、周辺諸国の垂涎の的となった。なぜなら、南北に走る山脈によって細分化され、平地の少ないバルカン半島(注1)のなかで随一の平野を持ち、天然の良港テッサロニキを中心とする肥沃かつ重要な地だったからだ。
 マケドニアはエーゲ海沿岸のテッサロニキを中心とする地方と、ヴァルダル川流域の内陸部とに分かれる。前者をエーゲ・マケドニア、後者をヴァルダル・マケドニアという。マケドニア共和国が領有しているのが、ヴァルダル・マケドニアである。

▼ 地図1 マケドニア

 赤線は現在(2001年)の国境。
 緑線で囲まれた地域が「マケドニア」。マケドニア共和国、ギリシア、ブルガリアに分割されている。

 マケドニア問題が表面化するのは、サン・ステファノ条約によってである。
 この条約は露土戦争(注2)の結果として結ばれたもので、新しく独立した大ブルガリア公国は全マケドニアを領有することとなっていた。結局、イギリスやドイツ、オーストリアが介入しサン・ステファノ条約は撤回され、新しくベルリン条約が結ばれマケドニアはオスマン領に復した。
 マケドニアを狙う3国は、それぞれ「正当な」領有権を主張した。
 ブルガリアはマケドニア住民との言語的近親性をあげた。
 セルビアは祝日の慣習の近親性を主張した。
 ギリシャはマケドニア住民はスラヴ化したギリシャ人だと主張した。
 また、それぞれ中世の帝国(ブルガリア帝国、セルビア王国、ビザンツ)が領有したことも理由に挙げていた。
 もちろん、昔領有していたことが正当性の原因とはならない。だが、その時代に自分の民族が移住した(あるいは原住民が文化的影響を受け同一化した)という主張の根拠となりえたのだ。
ブルガリア、ギリシャ、マケドニアはいろいろな手段で持ってマケドニアの住民を自陣に取りこもうと努力した。宗教、文化、教育がその主な手段であった。

 一方、マケドニア住民自身も、自立の道を模索していた。1893年に結成された内部マケドニア革命組織(VMRO)がそれで、「マケドニア人のためのマケドニア」をスローガンとし、マケドニアをひとつの自治単位として独立することを目指した。バルカン連邦構想を主張する人々も、これに加わっていた。
 ただし、すでにバルカン連邦構想は過去のものとなりつつあった。サン・ステファノ条約以降バルカン諸国、なかでもブルガリア、セルビア、ギリシャの対立は激しく、ともに協力するのは夢となりつつあった。

2 両バルカン戦争

 いっぽう、トルコ内部でもこのかつてない危機に動きが生じる。青年トルコ党革命(注3)である。この結果生じた新政権は、トルコの近代化・中央集権化を推し進め、帝国臣民の「オスマン化」を推し進めるものであった。このため、バルカン諸国はこれに対し協調の動きを見せるようになる。
 1908年、諸国はロシアの仲介のもと同盟を模索する。しかし、ブルガリアとロシアの結びつきを嫌ったセルビアが(ボスニア・ヘルツェゴビナを併合されたにもかかわらず)オーストリア・ハンガリーに接近したこと、そしてブルガリアがマケドニアの分割に強硬に反対したことから交渉はなかなか身を結ばなかった。
 1912年、トリポリ戦争(注4)の勃発を機に、ロシア大使ハリコフの活躍によってブルガリアとセルビアの間に友好同盟条約が締結された。これによってバルカン諸国の同盟体制が結成されることになる。同年10月、モンテネグロの宣戦により、第1次バルカン戦争が勃発した。

 戦争の詳しい経過は省略するが、列強の介入によってロンドン条約が締結され、オスマン帝国はヨーロッパでの領土のほとんどを失った。
 この条約においてもバルカン諸国の諍いが浮彫りとなる。条約でアルバニアの独立が認められていたため、すでに同地に進駐しその領有を期待していたセルビアとギリシャが代償としてマケドニアを要求、ブルガリアと対立したのだ。
 ロンドン条約の翌月にセルビア・ギリシャは対ブルガリア秘密同盟を締結。マケドニアにおけるブルガリア軍の両国軍隊への攻撃によって、第2次バルカン戦争が勃発した。
 第1次バルカン戦争で主力として戦ったブルガリアは第2次バルカン戦争で周辺各国から攻めこまれ、敗北に追い込まれた。ブルガリアはマケドニアのごく一部(ピリン・マケドニア)、トラキアの領有を認められはしたが、ルーマニアに南ドブルジャを割譲し、目的であったマケドニアのほとんどは得られることなく終わった。

▼ 地図2 バルカン戦争の結果

 赤線は戦争直後の国境
 黄色は各国の最終的な獲得領土

 

3 セルビアの政策転換

 セルビアは、ブルガリアを大きく支援していたロシアに対し、オーストリア・ハンガリーに接近していた。世紀転換期、セルビアは政治的にも経済的にもオーストリアの従属国だった。
 しかし、1903年、国王アレクサンダルが暗殺されると、カラジョルジェヴィチ家のペータルが即位した。彼はパリやジュネーブで学んだ経験を持ち、親仏的であった。当時フランスは、ドイツの為に国際的に孤立していたが、同じ境遇に追いやられたロシアに接近していた。これとともに諸政党は大セルビア主義を主張していくようになる。セルビアは次第にフランスに接近、「豚戦争」と呼ばれる経済戦争を経て経済的独立も果たしてゆく。
 1908年、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、反ハプスブルク機運が次第に高まることとなる。1911年、秘密結社「統一か死か」(通称、「黒手組」)が結成された。この黒手組は実質的にサライェヴォ事件の黒幕となる。
 一方で、ボスニアでも併合したハプスブルクへの反感は高まっていた。この地域においていろいろな反ハプスブルク、南スラヴ解放、あるいは統一といった運動が行われたが、これらは「青年ボスニア」と総称される。「青年ボスニア」は統一された組織というわけではなく、文学的役割も大きかったといわれる。しかしともかく、サライェヴォ事件の実行犯であるガブリロ・プリンツィプらはこの「青年ボスニア」の一員であり、このような機運がサライェヴォ事件の原因となったことは間違いない。

4 第一次大戦とバルカン

 第一次大戦は「青年ボスニア」のガブリロ・プリンツィプらによるオーストリアの大公フェルディナンドの暗殺によって始まった。サライェヴォ事件である。
 直接原因として名指しされ、宣戦されたセルビアはともかく、それ以外のバルカン諸国はこの戦争を「利用」出来る立場にあった。すなわち、彼らはいかにして多くの領土を獲得できるかで、同盟側・協商側のどちらにつくかを考えたのである。
 たとえば、ブルガリア。ブルガリアにとっては、セルビアと交戦状態にあるため参戦条件に「ヴァルダル・マケドニアの割譲」を提示できた同盟側に味方することは非常に有益だった。親独的な国王はドイツの勝利を確信して国内の反戦派を逮捕、ブルガリアはセルビアに宣戦した。1915年、ブルガリア軍はセルビア軍を打ち破り、セルビア軍はセルビアを逃れて西へと敗走、アルバニアの南に浮かぶコルフ島に逃れた。
 同様に、オスマン帝国はロシアに奪われた領土を求め協商側に宣戦した。ルーマニアは同盟側と秘密条約を結び、ロシア領ベッサラビアを約束されたが、協商側からトランシルヴァニアを約束されて中立を宣言、さらにブコヴィナ等を約束されるにおよび協商側に立って参戦した。ところがドイツ軍の大攻勢にあい国土の3分の2を占領され、1917年にロシアが革命によって休戦すると、休戦。逆にロシア領ベッサラビアに軍を展開させた。
 バルカンにおける情勢はこのように、同盟側が優勢、むしろ圧勝となったが、これをひっくり返すことになったのがギリシャの動きだった。
 ギリシャは親独派の国王と協商側の首相が対立していた。1915年首相は協商軍のテッサロニキ上陸を許可したが、国王は首相を辞任させ中立を宣言。首相は対抗してテッサロニキに臨時政府を樹立し、協商側の承認を得た。国王は協商側の圧力に屈して退位、ギリシャは同盟側に宣戦した。
 1918年9月、テッサロニキの協商軍は大攻勢に出た。既にセルビアの全域を占領していたブルガリア軍はこれに抗しきれず敗走、降伏した。続いてオスマン帝国も降伏すると、同盟側についてベッサラビアを占領していたルーマニアも三度寝返り、バルカンの協商側有利は決定的となった。

 第一次大戦の結果、バルカンの諸国は領土拡張主義の負の遺産を抱えこむこととなる。
 ルーマニアは、戦時中のどっちつかずな(どっちにもつく、のほうが正確だろうか?)態度と、戦後の外交的勝利によって東西に領土を獲得したが、それに伴って多くの少数民族を抱えこむこととなった。ことにトランシルヴァニアはドイツ人、ハンガリー人という「もと支配者階級」を少数民族として抱え込むこととなった。
 ブルガリアは、領土獲得によって少数民族問題を抱えこむことはなかったが、マケドニアから流入した「ブルガリア人」難民を抱えこんだ。彼らはマケドニア人であるとは言え、文化的にはやはり異質な存在だったのだ。
 ギリシャは第一次大戦でのオスマン帝国の敗北・解体に乗じて更なる領土獲得を目論んだ。「ギリシャ人」というアイデンティティは正教と強く結びついており、アナトリア地方にもギリシャ人は多かったのだ。しかし、アナトリアに侵攻したギリシャ軍はトルコ共和国を打ちたてたムスタファ・ケマル・パシャに大敗、既に割譲が決定していたイズミール(スミュルナ)すら失う結果となった。そしてアナトリアから大量のギリシャ人難民が流入することとなった。
 このような情勢は、セルボ・クロアート・スロヴェーヌでさらにややこしい形で見られた。セルビア人とされた人々の間でも、旧セルビア王国領の人々と、ヴァルダル・マケドニアの人々と、そしてドナウ川やサヴァ川の北側の人々(プレチャニン)とのあいだではやはり文化的差異があった。そしてクロアチアの自治と民族性を強調するクロアチア人エリートにとっては、この王国はいわば拡大セルビア王国以外の何物でもなかった。

5 国王独裁

 第一次大戦の終結によって、バルカンは久しぶりの平和を享受した。バルカン戦争から数えれば約20年にわたり、バルカン半島は戦争状態でありつづけた。結果、医療技術の向上、難民の流入もあってバルカン諸国の人口はみるみる膨れ上がった。
 しかし、まさにこのことが、バルカン諸国を不安定と混迷に突き落として行く。
 通常なら、増大した農村人口は都市に流入し、工業の発達を促す。しかし、工業の発展は遅々として進まなかった。国家は工業の育成のために保護政策を実施したが、結果として農民は高くて粗悪な自国製品を買わざるを得なくなった。農民は人口増加の為の土地分配もあって、貧困のどん底に突き落とされていった。
 農民の主張は、議会ではほとんど反映されなかった。彼らは選挙権を持たなかった。バルカン諸国で農民政党が政権を取ったこともあるが、それらの政党は急速に農民の主張を代弁しなくなるか、あるいは衰退し消滅した。そもそも、この時期のバルカン諸国の政党はみな、ある主張をする為の政策集団ではなく、あるひとりのカリスマ的人物に群がる集団に過ぎなかった。企業は政党と結びつき、繁栄を謳歌した。結果、都市と農村の格差はますます広がった。
 この情勢に不満を持った人々は、左右の急進派に身を投じた。たとえば共産党は、セルボ・クロアート・スロヴェーヌの制憲選挙では第3党となった。だが、共産党はまもなく非合法化されていく。バルカン諸国は東欧諸国とともにソ連に対する防波堤の役割を持っていたのだから、当然といえば当然だった。
 結果、表立って行動し、政府を倒そうと動くのは右翼急進派だった。1920年代半ばから、バルカン諸国では軍部クーデターと国王独裁制が多発するようになる。

 このコンテンツの主役であるセルボ・クロアート・スロヴェーヌも、例外ではなかった。1929年、国王アレクサンダルは独裁を宣言、憲法を停止し政党を解散させた。
 議会ではセルビア急進党に代表されるセルビア中心の中央集権主義が支配的であった。スロヴェニアを除く各地方の官僚のほとんどがセルビア人であり、首相、軍部大臣もほとんどセルビア人が占めた。そして、地方行政は中央政府と密接につながっていた。
 これに対しクロアチア農民党は、地方分権・連邦制を主張して対立した。この対立がセルボ・クロアート・スロヴェーヌ議会制の柱だった。
 アレクサンダルはこれらどちらの道でもない、第3の道を模索し独裁制を進める。それはある意味、セルビアの中央集権主義をさらに押し進めたものだった。
 アレクサンダルは全国の行政区の再分割を行った。それまでの「セルビア」「クロアチア」などの民族別呼称を止め、ヴァルダル川沿いの「ヴァルダルスカ」ドナウ川沿いの「ドナフスカ」サヴァ川沿いの「サフスカ」というように、地理的に分割したものだった。
 また、国名を「セルボ・クロアート・スロヴェーヌ」から「ユーゴスラヴィア」と改めた。彼は、セルビア人とクロアチア人とスロヴェニア人の連合あるいは連邦という考え方を捨て、「ユーゴスラヴィア国民」、いや、「ユーゴスラヴィア人」という民族を作り出すことで民族紛争を撲滅しようとした。国王、あるいは国家を中央に据えることで、対立の軸であった民族そのものを抹消してしまうのがねらいだった。
 この考え方を「ユーゴスラヴィア統一主義(ユーゴスロヴェンストヴォ)」という。
 この考え方は、結局は受け入れられなかった。民族性が失われることへの反発、そして憲法停止への反発を招いた。さらに、世界恐慌が波及し、農民の暴動が起こった。
 そして1934年、アレクサンダルはマルセーユでフランス外相のバルトゥーでウスタシャ(注5)と内部マケドニア革命組織の青年によって暗殺された。
 その後もユーゴスラヴィア統一主義とウスタシャとの対立は続き、結局1939年、ナチスによってスロバキアの独立が達成されたことに刺激され、クロアチアは自治州の地位を獲得した。この協定(スポラズム)はクロアチア問題の最終的解答といえるが、自治州外にクロアチア人がいたことから依然として独立を主張するウスタシャは支持され、またクロアチア以外の諸民族も独立を主張するようになっていく。

 1941年、ナチスはユーゴとギリシャを除くバルカン諸国を枢軸に加盟させ、ユーゴに加盟を迫っていた。ユーゴは周囲を枢軸国に囲まれ、フランスは既になく、ソ連はドイツとの関係悪化を恐れて疎遠になっていた。高まる外圧のなか、スポラズムは破綻。ユーゴ上層部は三国同盟加盟を決意した。
 これに対し反独感情の強いセルビア人を背景に軍部がクーデターを決行。新政権はあくまで中立路線を追求し、イギリスとの連絡を密にしソ連とも友好不可侵条約を締結するが、ソ連との開戦を控えたナチスがこれを許すはずもなかった。1941年4月、ユーゴはギリシャもろともナチスの侵攻を受け、分割・占領された。セルビアはドイツの傀儡政権の支配を受け、クロアチアはウスタシャの支配のもと親独国家となった。マケドニアはブルガリア領とされた。
 かくして、戦前ユーゴスラヴィアは滅び去った。セルビアの中央集権、クロアチアの地方分権、そして国王独裁の「ユーゴスラヴィア統一主義」、そしてクロアチアの自治を認めるスポラズムは、全て失敗に終わったのだった。

▼ 地図3 第二次大戦中の東欧

 ポーランド・チェコスロバキア・ユーゴスラヴィアの三国が分割される一方、ハンガリー、ブルガリアが領土を拡大している。マケドニアの大部分をブルガリアが獲得していること、トランシルヴァニアをハンガリーとルーマニアに分割されていることに注意。

(注1)ちなみに余談だが、「バルカン」はトルコ語の「(草木の生えない)山」から来た言葉だ。本来はブルガリアの山脈の名だったが、いろいろあって半島全体の名前となった。(詳細は省略)

(注2)同名の戦争がいくつもあるが、ここではボスニア・ヘルツェゴビナの農民反乱を機にセルビア・モンテネグロがオスマン帝国に宣戦して始まった戦争(1876-78)。この農民反乱はバルカン全土を動揺させ、テッサロニキでムスリムが蜂起し独仏の領事が殺された。当初はオスマン側有利で、セルビア・モンテネグロは危機的状況に追いやられたが、ロシアが1877年宣戦すると次第に情勢はロシア側有利に傾き、ロシアはサン・ステファノ条約をオスマン帝国に強いた。

(注3)青年トルコ党はときの皇帝アブドゥル=ハミト2世に反感を抱く党派で、おもにパリで活動していた。この革命は実質的にはムスタファ・ケマル・パシャひきいるマケドニア軍団による軍事クーデター。青年トルコ党がその思想的なブレインとなり、これ以後政治の実権を握ったためこう呼ばれる。ムスタファ・ケマル・パシャが政治の表舞台に現れるのはもっと後……第一次大戦後である。彼はトルコ共和国の建国に尽力し、アタチュルクと呼ばれた。

(注4)(1911-12)伊土戦争とも。トリポリは現リビアの都市で、リビア地方を指すことばでもある。トルコ領だったが、イタリア・フランス協商で、モロッコのフランス領有を認める代償としてイタリアの優越権が認められていた(勝手に)。アガディール事件(第二次モロッコ事件、モロッコの内乱にフランスが出兵したことに対しドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコの領有を主張して艦隊を派遣した)に列強が注目していることを利用しイタリアはトルコに戦争をしかけトリポリを奪った。これをも列強が認めたため、バルカン諸国はトルコからの領土奪取は容認されると判断した。

(注5)1932年に結成された結社で、クロアチアの独立を主張。後ナチスと提携してその傀儡国クロアチアの成立と維持に携わった。

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