ユーゴ「民衆革命」によせて

1.序

 私が「ユーゴスラヴィアの歴史」を書き終えて2週間もしないうちに、ユーゴスラヴィアは新たな歴史の転換点を迎えた。2週間にわたる争乱を、私は期待と不安を持って見守った。

 結果からいえば、ミロシェビッチ政権は民衆によって打倒され、「最後の東欧革命」が発生、コシュトニッツァが大統領となった。
 このコンテンツでは、この革命の原因と結果について考えてみようと思う。

2.投票問題について(注1)

 まず、なぜミロシェビッチは政権の座から追われたのかを考えてみよう。
 まず大きく取り上げられたのは、大統領選挙の投票問題である。
 世間的認識では、投票前からミロシェビッチは投票結果を操作するだろうといわれていた。
 投票前の(操作がないと仮定した)評価では、野党連合の推すコシュトニッツァが第一回で当選するか、ミロシェビッチとの決選投票に持ち込まれるかという情勢だった。そして、大方の見方は、「決選投票に持ち込まれるような僅差となり、ミロシェビッチが票を操作して自分の当選を宣言する」というものだった。
 ところが、ミロシェビッチの影響下にあるはずの選管が、決選投票を宣言した。
 これはどういうことなのだろうか?
 コシュトニッツァ側は、「コシュトニッツァが第一回当選するだけの票を集めたのだが、ミロシェビッチが延命を図って票を操作し、決選投票に持ち込んだ」とした。
 真相は分からない。ちゃんとした開票結果を知っているのは当のミロシェビッチ氏と選管当事者ぐらいだろう。
 ともかく、ミロシェビッチは野党側の反抗にあうと、投票の無効と再選挙を宣言させた。
 これは、実際上独裁者であっても民主主義の立場に立っていたミロシェビッチが、「民主主義を尊重しない行為」に及んだ、と見なされた。
 彼にとっては泥沼だっただろう。

3.ミロシェビッチはなぜ支持を失ったのか

 これまで10年にわたってミロシェビッチを支持してきたセルビア人が、ここに至ってミロシェビッチを見捨てる気になったのはどうしてなのか?
 私の考えでは、今まで積極的にミロシェビッチを支援してきたセルビア民族主義者(「大セルビア」主義者)がミロシェビッチから離れたのが大きいのではないだろうか?
 ミロシェビッチはセルビア民族主義を唱え、いわばユーゴスラヴィアを「セルビア人の統治する国」にしようとした。このことが他の民族、殊にセルビア人との対立感情の深いクロアチア人を刺激し、ユーゴスラヴィアの解体を早めた。(注2)
 ユーゴスラヴィアを「大セルビア」と見なすのであれば、彼の政策は完全に失敗に終わったことになる。スロヴェニアを、クロアチアを、ボスニア・ヘルツェゴビナを、マケドニアを失い、内戦で多くのセルビア人が命を落とした。
 さらには、諸外国から孤立を強いられている。これでコソヴォが、モンテネグロが独立しようとした場合、彼にはそれを止めるだけの手腕があるのだろうか?
 見ようによっては、この10年の「領土損失」は彼の無能の所産なのである。そして確かに、諸共和国を独立に向かわせたのは彼の硬直的な、強硬な態度だった。

4.諸外国の対応

 ミロシェビッチ政権下のユーゴスラヴィアは、多くの国から敵視、あるいは白眼視され、いわばヨーロッパの孤児となっていた。それはもちろん、その戦闘的な性格、非人道的な行為などが原因である。
 今回の選挙においても、EUは明らかにコシュトニッツァを応援していた。表だってやらなかったのは、外国の傀儡化を嫌うだろうという配慮によるものだろう。
 また、アメリカも、ミロシェビッチがモンテネグロに攻め込んで人気を取ろうという行為に及ばないように、アドリア海で大規模な海軍演習を行うなどの牽制をした。
 さらに、これまでセルビア寄りだったロシアまで、今回は傍観という立場を取った。ロシアは、ミロシェビッチと親しくありたいのではなく、ユーゴスラヴィアと親しくありたいのだ。ロシアはむしろ、コシュトニッツァとミロシェビッチの間を取り持つことで恩を売ろうとした。
 結局のところ、ミロシェビッチの政策は、国際社会の容認できるところではなかった。戦争を起こし、民族浄化を行うという倫理的な面からも、バルカンという火薬庫で火遊びをしているという点からも。
 この諸外国の冷たい態度が、ユーゴの民衆に圧迫感を与えたかもしれない。経済制裁は期待されたほどの効果を持たなかった。ユーゴはヨーロッパ屈指の農業国でもあり、穀物自給率は非常に高かった。経済制裁で困ったのは、むしろ交易路を断たれた形となった周辺諸国だった。だが、経済制裁の効果はゼロではなかったし、国際的な孤立感を高めもした。
 現代においては、完全に周りから孤立した国家などあり得ない。これは間違いない。

5.コシュトニッツァ陣営とEU

 コシュトニッツァが本当に民衆多数派の賛成を得ているのかは不明だ。前述のように、投票結果は今となっては闇の中である。革命を諸外国が受け入れることでうやむやにし、コシュトニッツァと諸外国の望むユーゴスラヴィアを確固たる既成事実としたのだ。
 ただ言えるのは、彼がセルビア民衆の多数派の代表であると、そして、独裁的な国家をつくらないと称していることだけだ。民衆の彼への支持は、まずミロシェビッチへの不支持の裏返しであるから、この態度は少なくとも当分続くだろう。
 そもそも彼自身、セルビア民族主義者である。この「民族主義者」がどのようなものであるのかは今後の彼の行動を見なければ分からないが、すくなくともモンテネグロやコソヴォの独立を許す気がないことは確かであり、またミロシェビッチを国際法廷の場で裁く気がないことも確かである。
 民衆の声を代表するという立場を取っている以上、民衆内に広がっている厭戦気分を無視できないとは思うが、だからといってEUなどの、平和な国家が出来たという主張を鵜呑みにするのは誤りであろう。
 むしろEUは、これを機にユーゴスラヴィアの反諸外国姿勢を改めさせるために、そう主張して見せたのではないかと思っている。
 諸外国が一様に距離を置く、という姿勢は往々にしてその国を戦争へと導くからだ。
 だから、マケドニア問題とコソヴォ問題をはじめとするこの地域の問題が紛争化するかどうかは、まず諸外国、とりわけEUのコシュトニッツァ政権への対応に依るところが大きいだろう。

6.追記1−−国名の問題

 コシュトニッツァ氏が政権を取った当初に、何度かささやかれたのが国名の改称の噂だった。
 少しするうちに立ち消えとなった観があるが、彼自身、国名を改めることを示唆したこともある。
 彼が示唆したのは、「セルビア・モンテネグロ連邦」というものだった。
 これは実は、彼の思想を端的に示した国名である。すなわち、モンテネグロの独立を封じるとともに、コソヴォの共和国昇格をも封じる、という。
 私としては、あの「南スラヴ連邦構想」の名残である「ユーゴスラヴィア」という国名を消して欲しくはない。もちろん、南スラヴ連邦構想は単なる夢物語の域を超えなかったのだが……。

7.その後の政権運営

 コシュトニッツァ政権は、実はまったく盤石ではない。議会選挙では彼の率いる民主野党連合が多数を確保できず、結局組閣にあたってはミロシェビッチの社会党およびセルビア再生運動の協力を仰ぐ必要があった。
 大統領選前から反ミロシェビッチの旗を掲げていたモンテネグロのジュカノビッチ大統領はこれに反発し、コシュトニッツァ政権への協力を拒否。コシュトニッツァはモンテネグロの野党で旧ミロシェビッチ派の社会人民党と連携している。
 ユーゴスラヴィア憲法によると、大統領がセルビアからでた場合、首相はモンテネグロから出さなければならない。このため、ジュカノビッチと連携できない以上、社会人民党と連携せざるをえないのである。
 結果、コシュトニッツァ政権はセルビアの野党連合+セルビアのミロシェビッチ派+モンテネグロのミロシェビッチ派、と、結局ミロシェビッチ派に頼らざるをえなくなっている。
 これがこの先どのような結果を生むのかは分からないが、コシュトニッツアは、はやくもその足下が弱いことを露呈してしまっているのだ。
 彼自身の「民族主義者である」という発言といい、このモンテネグロとの関係が火種を残してしまってることは間違いないだろう。

(注1)投票方法は次の通り。全有権者の直接選挙で、第一回の投票で過半数を獲得したものがなかった場合、1位の候補者と2位の候補者で決選投票を行う。

(注2)ユーゴスラヴィアの解体、あるいは地方分権化に対する歯止めをかけようとして、民族主義的な指導者が登場した。(ユーゴスラヴィアの歴史「4.崩壊と戦争」を参照)

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