傭兵たちの掠奪

1.傭兵たちが活躍する時代

 ヨーロッパ史上、戦争の主体に傭兵が使われた時代があった。
 具体的には12世紀、十字軍によって騎士の没落が始まったころから、17世紀フランスに絶対王制が確立するまでである。最も早く傭兵主体となったのはイタリアで、各都市国家相互の戦争の際に傭兵が活躍した。傭兵隊長の支配を受けるまでになった国もあった。
 傭兵の発達は、武器・鎧の発達と同時に進行した。
 傭兵はクロスボウやパイクを使用し、騎兵を無力化した。騎兵がいかに馬の突進力を利用できるとはいっても、遠距離から飛んでくるクロスボウの矢や歩兵が方陣をくんで構えるパイク(長槍)には太刀打ちできなかった。
 ことに、クロスボウの登場は戦争そのものに変革をもたらした。クロスボウは機械仕掛けの弓で、大した訓練もなく誰でも使えるという特徴を持っている。民衆をかき集め、クロスボウを与えたらそれだけで立派な戦闘部隊となるのである。これは、それまでの、戦争=金がかかる、よって軍事階級=富裕という数式を覆すこととなった。
 史上クロスボウ部隊が騎士たちを敗走させた例としては、1477年のナンシーの戦いが名高い。この戦いにおいて、ブルゴーニュ公シャルル(勇猛公)はスイスの農民軍のために敗死した。戦争における騎士の意義を覆す大事件であった。

 だが、傭兵の戦争としてもっとも名高いのは、やはりドイツ三十年戦争であろう。
 ドイツ三十年戦争は、1618年から1648年までドイツを舞台として行われた一連の戦争である。この戦争でドイツ全土とくに北ドイツは傭兵たちの掠奪に晒され、人口は大幅に減少した。

2.傭兵主体の軍隊の様相

 この時代の軍隊は、明らかに現在と様相を異にしていた。
 三十年戦争における傭兵の悪名は高い。その通ったあとには草一本残らないと言われるほどのものである。だが、それは単に傭兵たちのせいだけではなかった。傭兵たちのあとには、その妻、子供、召使い、御者、売春婦などからなる巨大な「輜重隊」が付き従ったのである。その数はおよそ傭兵の2〜3倍に及び、さらに彼らを養うための本職の「掠奪屋」たちがつきまとっていた。 「4万人の軍はとてつもない量の武器、食料、最も重要な各部隊の象徴である中隊旗などの装具を必要とした。更に、兵士たちは糧食を支給されなければならなかった……1日ごとに約1キロのパン、1ポンドの肉、3リットルのビール、を。これらの基準量から推定すると、当然しばしば少なくてすんだのだが、4万人のために毎日800ツェントナー(4万kg)のパンを焼き、400ツェントナー(2万kg)の肉を家畜からばらし、120キロリットルのビールを飲ませなければならなかった。そのために、日に少なくとも100頭の雄牛と2400個の50リットル樽入りビールが必要だった。しかし、馬もまた、近々肉を提供することになる雄牛と同様、食べることを欲した。25000頭の家畜が軍とともに行進することは通例であり必然的だった。」(参考文献1,P84)
 これらの傭兵を核とする「集団」(軍隊と呼ぶには躊躇せざるを得ない)を目当てに、たくさんの商人も集まってきた。彼らは酒保商人(Marketender、独)と呼ばれ、食料はもちろん武器すら自分で都合しなければならない傭兵たちにそれらを提供する役を果たした。
 酒保商人たちは君主によって保護されていた。理由は簡単で、もし酒保商人がいなくなれば軍は飢え、役に立たないどころか反乱を起こされるかも知れなかったからである。

 さて、ここで重要なことに注意を向けよう。
 略奪品は食物とは限らない。家畜などのこともあるが、そのまま食べることが出来る量は非常に限られている。
 給与(いつ払われるかすら怪しかったものだが。君主は最初から掠奪を見込んで少な目に給与を設定したとも言われている。)は貨幣で支払われる。
 一方、兵士は自前で装備を買わねばならず、妻や子供を引き連れている。
 ここから導き出される結論は、「傭兵は、略奪品を売らねばならなかった」である。もちろん、買い手は酒保商人である。
 そこに現出したのは、酒保商人による買い手市場である。傭兵にとっては、まず略奪品を買って貰わねば困るのだ。彼らは君主の保護もあって、相当安く買いたたいた。
 酒保商人の手に渡ったそれらの略奪品は、街などで売り払われた。傭兵が行ったことは、ある人の持っていたものを他に譲渡したといってもよいような行為だったのである。

3.家畜の所有権の移動

 さて、ここで先ほど引いた本からもう一つの箇所を引用しよう。
「兵士が家畜を奪う……不法だが「日常的な」出来事だった。その出来事は襲われた農民たちにその農場の放棄を強いることもあり得た。奪われた人は奪われた家畜を買い戻すよう強要されたが、そうしなかったときには兵士たちは2・3の村に家畜を追い立て、そこで定価以下で売り渡した。新しい所有者から家畜がすぐに奪われなかったとき、彼らは自分の農場に必要ではないその動物を軍あるいは最も近い都市に売り飛ばした。兵士たちもまた、彼らの手に入れたものを大部分農村において引き渡したと考えられた……結局は、財産の再分配だけが起こったにすぎなかった。」(参考文献1,P90-91)
 ここでは先の酒保商人については触れられていないが、家畜に関して興味深い経済活動が行われていたと主張している。兵士たちは家畜をまず買い戻すよう強要したというのだ。だが、掠奪された側の農民が兵士に捕らえられていて、かつ買い戻すだけの財を持っている可能性があったのだろうか? むしろ、その財はその前に傭兵たちの掠奪の対象になったのではないだろうか。
 そうすると、傭兵たちが入手した家畜は、村で売り渡すか、あるいは引き渡すかされたのである。
 そして、傭兵たちから家畜を入手した人々は、おそらくは酒保商人も含まれるだろうが、その家畜をぐんや都市に売り払ったのである。彼らはそこでおそらく利益を得たであろう。軍も都市も、彼らから得る以外の方法を持っていたとは思えないからだ。
 結局この戦争状態において、損をしたと言えるのは最初に家畜を奪われた人だけである。兵士は(はした金とは言え)、掠奪によって得た家畜を売り払ったのだから利益を得ているし、傭兵たちから購入し売り払った人々もまた利益を得ているからだ。

4.人口減少の意味

 上のような奇妙な状況に陥ったのはなぜだろうか。私の考えでは、そもそも人口が減少したからではないだろうか。人口減少はすなわち食料消費の減少である。そして荒廃した地方の生き残りは傭兵となるか都市に流入するかした。傭兵たちは掠奪以外に利益を得る手段を持たないので、その存在そのものが土地荒廃と傭兵の増大をもたらした。このサイクルの中で、食料過多が生じ、食料の値段は下落した。
 シュミットは三十年戦争の利点として、人口減少そのものをあげている。17世紀初め、ドイツは慢性的な人口過多と食糧不足に陥っていた。この状況を打破し、ドイツ経済をある意味健全化した、というのが彼の主張である。少なくとも、経済学という観点から見れば、この主張は正しいと思う。

 もちろん、人道的な観点からいって、たくさんの人が死んだからこそ出来たことだということに変わりはない。
 ところで、掠奪を受けた農民たちがどうなったのかについても見ておこう。
 まず考えられるのが、都市への流入である。城壁に囲まれ、自治都市として独立した存在であった都市は安全であった。必ずしも安全と言い切ることは出来なかったが、それでも都市の代表は傭兵隊長や君主と話し合って都市を守ることが出来た(多くの場合には、軍税と呼ばれる臨時徴収が行われ、掠奪の代わりとされた)。安全なときはもちろん交渉中も、農民たちは都市の中から外へと耕しに出かけることもあった。
 だが、それが無理な場合には、農民は傭兵となるか、あるいは夜盗化した。夜盗化した農民たちは、時には地の利を活かして傭兵隊を襲い、食料を奪うことすらあったようだ。
 傭兵となっても数多くの危険が待ち受けていた。戦争はもちろん、月10%の死亡率を記録したといわれる流行病や飢えが慢性的に彼らを襲った。
 彼らは儲かるから傭兵となったのではない。傭兵とならなければ生きていけなかったのである。掠奪しても、そのほとんどは酒保商人によって巻き上げられる傭兵たちは、結局刹那的・享楽的になり、略奪品を蕩尽する以外のことをしなかった。
 実は、ここで扱ったような掠奪経済の中で、最も経済的抑圧を受けていたのは他ならぬ傭兵たちだったのである。

参考文献

1."Der Dreissigjaehrige Krieg",Georg Schmidt,Verlag C.H.Beck,Muenchen,1995

2.「掠奪の法観念史 中・近世ヨーロッパの人・戦争・法」山内 進著、東京大学出版会

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