木の葉のような人生

牧師  小島 正義

  

「私たちはみな、汚れた者のようになり、
私たちはみな、不潔な着物のようです。
私たちはみな、木葉のように枯れ、
私たちの咎(とが)は風のように私たちを吹き上げる。」

(イザヤ書64−6)

 

 ここには神を知らない人間の姿が描写されている。彼らの姿がどのようになっているのでしょうか。

 まず第一に彼らは「汚れた者」。この汚れた者というのはライ病人と同じような人という意味があります。ライ病により、自分の肉体が膿を持ち、ただれ、腐っていく。そしてだんだん痛みの感覚がなくなっていく。そして死という危険な状態になっていく。私たちも同じように汚れた者である。私たちの良心も罪というライ病によって良心に膿を持ち、ただれ、腐ってきている。そのため良心的な痛みの感覚が麻痺によりなくなっている。そして良心的な死の危険に陥っている。

 第二の彼らの姿は「私たちの義は不潔な着物」。不潔な着物とは、泥とあかにまみれて汚いぼろ切れのようになったもの。不潔な人は最初から不潔ではなかった。不潔になったその原因は何か。その人は面倒くさがりな人であり、怠け癖のある人。そのような状態がその人に清さを忘れさせてしまった。私たちの義も不潔な着物のようである。悪や罪という泥やあかによって本当の義がわからなくなっている。

 第三に彼らは「木葉のような人生」を送っている。木の葉は木についている時は青々として生気に満ちている。これは若いとき、人生に何か張りのあるときでしょう。しかし木から落ちたとき、それは人生の晩年。人生に何か問題が起こった時。木の葉は地面に落ちて、土の上で枯れて腐ってなくなってしまう。何も残らない人生。これは神を持たない人生の姿です。しかし自分は粘土で、自分ではどうすることもできないということに気がつき、陶器師である神に一切を任せるとき、私たちの人生は新しく創造されるのです。又、私たちは神に顔を向けると、神が私たちにとって、「あなたは私たちの父です。」ということがわかって来るのです。このような神にゆだねた人生を送りましょう。