聖書研究のうまみ

清田キリスト教会牧師 小島正義

 聖書を研究するということは、スバラシイことである。これによって神様を深く知るだけでなく、神様の個人にたいする願い要求がわかり、私がどのように生きなければならないかがわかる。それに私がもっと努力して、神の分野を開拓することができる。そして私の将来に対する展望がよく理解できるようになる。唯一度だけの私の人生を神様に100%知って、用いていただくということは、大変に有益な事である。
また、聖書研究は私達の全人格的な学びである。ある一時的な学びでなく、始めたその時から、一生涯かけて継続的にしていかなければ無意味である。一生涯かけてもよい程、聖書は深遠で、含蓄が厚く、内容があるのである。皆さんのような若いときからそのような学びの、研究の姿勢を持つことは大切な事である。以下に聖研の学びについての指針を記述する。


 体 験 的 取 得 法

 これはいえイエス様の体験を観察する、イエス様はどのような体験をされたのだろうかということを、聖書全体から、直観的に、また客観的に見ることである。イエス様は33年と6ケ月のご生涯を、この地で送られたのである。この長いご生涯の中の体験を全部知り、取り出して網羅するならば、それは膨大な量になり、それをまとめることは困難である。また、私達が十分に理解できない、知り得ないことも多くある。この理由は聖書に出ていないことも大量にあるからである。しかし、イエス様に関する体験は聖書外でも、伝統や、一時的な歴史、カトリック教会が用いている経外典などの外証などからも参考にすることができる。また、もっとも重要な資料は私達の主イエスとの交わりによる体験も大きな、重要な位置を占めることである。

 まず手始めに、私達はイエス様の体験として、イエス様の一日の生活(イエス様の24時間)の事を観察するとよい。18世紀の偉大な信仰の人して有名な英国人、ウエスレイは、当時の人々にメソジスト(規律屋)と呼ばれていた。それは彼の一日の生活がキチンとスケジュール化されていたからである。彼の一日は朝の4時から始まり、その後はお祈りのとき、朝の説教、朝食、学びの時間、訪問、午後の説教・・・・・とあって、夜の9時を持って一日のスケジュールがおわった。

 この様にイエス様の一日も、もっとJ・ウエスレイ以上に、スケジュール化されていたと思う。一日の初めは、イエス様は祈りを持って始められた。それは聖書が私達に教えている。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、さびしい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。これは一例であるが、聖書のいたる所に、イエス様は朝のスタートは祈りを持って始めている。しかも、朝は早朝からである。神の子であったイエス様は人間性を持っているがゆえに、祈りがどれ程に重要であったかということを十分に認識されていた。またこの早朝の祈りによってイエス様自身も支えられていただけでなく、この貴重さと犠牲のともなった祈りによって大きな働きをされたのである。ですから、このように祈りが私達の毎日の生活にどれほど大切でどれほど有用で、不可欠なものであるかということを体験的に(イエス様の例示により)私達に教える。また特にイエス様は困難なとき、重大なお仕事をする時には、必ずその前後にお祈りをされている。イエス様の究極的で献身的な祈りは、ゲッセマネ における祈りである。
この祈りは、苦痛の伴った祈りである。その祈りの場所に私達も置くなら、それはとても耐え忍びがたきことである。もっと詳細にこの場の情景を聖書の中の描写を通して、私達は体験に私達の感覚を刺激し、その苦痛を知ることが出来る。これは貴重な経験である。

 また、イエス様の一日のスケジュールはいろいろな人々との接見である。特に病気の人たちと罪の重荷を背負っている人々との個人的な会見である。病気の人々には直接的に体の部分に手を触れられた。頭に手を置いたり、目に手を当てたり、耳に指をつっこまれたり、手を取ったり、また病気の患部に手を触れて病気を直された。この動作は相手にイエス様の生きて力強く働く神の能力を体験的に、感動的に味わせた。これはスバラシイ体験である。聖書このような聖書の中の第三者的な事例であるが、学習者に感動的に、実際的に、生きた経験として感じさせるのである。またこのいやしの経験を捉えて実験的に行うという信仰を与えるのである。頭だけの学びで終るのではなく、感動的な信仰像を私達の心に印刻するのである。まさに生きた、活用的な聖書研究である。

 罪の重荷を負っている人々に対しては、イエス様はやさしい愛のまなざしをもってジット相手を見つめる。また相手を抱擁する。このようなイエス様の行動は、貧しい人々や社会的に弱い人々に大きな励ましと勇気を与えた。次の言葉は、非常に実感的なものである。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。
  
 この聖書の背後には、イエス様がいかにこの社会で行われている悪い習慣や、政治、経済や法律(律法)によって犠牲になり、心身がボロ切れのようになって、まさに倒れようとしている人々に、愛の手をさしのばしている。イエス様の救い(助け)は具体性を持って人々の必要に実によく答えなさっているのである。聖書の研究はそのことを直に私達の肌で感じとることができるスバラシキ学びなのである。

 イエス様の一日の生活の中で、感じることはイエス様の情緒(感情)の問題である。イエス様は鋭い、またスバラシイ感性(感受性)を持たれていたお方である。イエス様はラザロの死に直面なさった時、聖書は短く簡潔に「イエスは涙を流された」とサラッと報告をしているが、イエス様とラザロの深い関係を聖書の他の箇所から見るならば、この短い記述から、私達は深い感動を受けるのである。イエス様は一人の小さな者のためにも、熱い涙を流されるのである。大変嬉しいことではないか。イエス様のこまやかで愛情あふれた感性の露出である。また祈りにおいてイエス様の感性がよく表されている場合がある。

 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてこの敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。

 イエス様は大きな叫び声と涙とを持って、感情をもろに出して祈っている。「大きな叫び声」と言うのは、ひっしさと真剣さを含んでいる描写である。神の子であるイエス様が、人の子としての部分、特に私達人間にわかるような様式で、それは何か形態的なカッコよさをアピールするのではなく、私達のためにこれ程までに大声で叫んで祈られているイエス様の姿は私達の情緒を激しくゆさぶるのである。また、もっと感動することは、涙をもって祈っている。クリスチャンたちが相互に涙をもって祈っている状態でも、深い感動と私達の胸に熱い衝撃を与える。ましてイエス様が、そうされたということは、筆舌に表すことのできぬ深遠な感動と衝撃を私達の頭と胸にブチあてる。徹底的に私達を打ちのめすような感激である。イエス様の祈りはこのように祈られていたのだということは、聖書研究によってのみ発見される不思議な甘いサムソンのハチミツなのだ。

 しかし、私達にもっと大きな感涙を与えるのはイエス様の十字架上での祈りである。イエス様は十字架で七つの言葉をおっしゃったが、このお言葉に優る言葉はなかった。すなわち、それは「父よ。彼らをお許し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と叫ばれたことだ。・・・苦しみと痛みに耐えながらこう言われたのである。体全体から血を流しながら、突き上げてくる痛みに唇を噛みしめながら、このように叫ばれたのである。人を憎まない、しかもご自分を十字架上に追いやった憎き奴(私達の当然の感情であり、実際に口をついで出てくる言葉である)、しかし主イエス様の口からは、不思議な、異様な言葉が出てきた。

 これはイエス様の普段の日常生活におけるイエス様の人々に対する姿勢であり、愛による祈りの状態であった。この場で即座に出てきた叫びでなく、常にイエス様の心で暖められていた結果、出てきた言葉である。それだからこそ、その場にいた人々に深い感動を与えた。またその人の救いの契機にもなった。その十字架の歴史の言葉は、現在の私達にも深い感動と共に私達に救いの恵みになっている。この発見も聖書の学びからもたらされるハッピーな体験である。

 その他にイエス様の社会に対する対処法について考えると、いろいろ興味ある秘事を発掘できると思う。この世の支配者たちに対した時、いわゆる政治の世界に対して、どのように考えられ、どう取り組まれたかということ、また経済的な問題、それはご自分の日常生活の家計のことから、国家財政についてどのように考えられ、どのように取り扱われたか。多く謎に包まれていて、不可解な部分が多い。聖書はそのようなことは第一義的なことではないので、省略されている。

 しかし、現在の複雑な社会機構の中に生活している私達は、少しの手がかりを依り所にして、探ってみるのも大変な楽しみである。イエス様は様々なヒントを与えている。このことも聖研似よる付随的な祝福である。このことは、特に私達の複雑な社会を見る視点を与える。この時代に生きる現代の予言者的洞察力が期待されている。

 イエス様の生活全体を見ることによって、イエス様が大変注意深く考えて生活されていたということを感じる。イエス様は若くして、この世の指導的な、また教育的(説教によって多くの人々に教えられた)な立場をとられたので、特に指導的階層の人々、律法学者や長老達に批評、非難された。それゆえに彼らの言葉のわなやたくみな攻撃に陥らないように、巧みにそのようなものをかわされた。また逆に彼らのことばのたくみさを捕らえて、彼らに考えさせ、彼らに驚嘆を与えている。

 このようにイエス様の体験を見ることによって、私達の一日の生活をイエス様の一日の生活と、比較したり、参照したりして、何処がどう違うのか、また修正しなければならないかを考える。そこには多くの知恵とヒント、秘訣を発見することが可能である。イエス様の生涯から様々な励ましや、意外なイエス様の人間性の中に私達と同じ共通項を発見する。特に肉体的な弱さについて、それをどのように克服したのかということを、聖書は明瞭に、視覚でわかるように描写している。

 このことは、私達に取って大きな助けである。また、有意義な助言である。人としてのイエス様は私達の経験するあらゆることを体験なさった。罪を他にして。イエス様の体験と私達の体験を対照すると、私達の誤りと、気が付かなかった問題点を指摘することが出来る。イエス様の頭のてっぺんから足の爪先まで上から舌まで観察して行くと、私達を助け、私達を生かす、恵みの道具が隠されている。私達はそれを発見して用いていかなければならない。イエス様を頭にして、私達はイエス様の体の部分である。また、イエス様の有能な器官としてそれぞれに賜物を与えられ、イエス様のために働くよう期待されているし、その働きのために、私達はイエス様のために召されたのである。ですから、私達の賜物を発見し、それを十分に育成し、有用に活用する義務があるのである。

 このように体験的修得法は、聖書を学ぶために有効な手段である。また親しみのある聖研の方法論でもある。神の子であるイエス様を人の子としての面より、私達の人間性に符号させながら、楽しく、また新鮮な発見をしながら学べるハウトウである。また、興味を倍加的に増大させる聖書の学びの秘訣でもある。


学 問 的 修 得 法

 聖書を学問的に学習するということを言うと 、それに反論される方々がいる。聖書は霊的な点に力点を於て学ぶべきである。それはもっともなことである。しかし学問的に霊的に読むと言うことは、もっと重大なことである。霊的にということを強調なさる方は、この学問的ということを、どちらかというと軽視なさる。即ち、「論語読みの論語知らず」という欠陥にはまるのではないでしょうか。また学問的ということに力点を強調し過ぎると危険の狭間に落下することも事実である。であるから霊的で学問的であるというバランスを取る必要がある。しかし学問的ということが余り重要視されていないという感が私には強く残存しているキライがあるので、今回は「学問的」という観点より考察する。聖書研究の方法論に一つの提訴を発するものである。

 この学問的と言うのは、聖書の学びのための傍系的な準備である。このことがなされるなら、もっとよく聖書を理解することが可能であると思う。その取得方法として、二つの面から考えることが出来る。一つは一時的な学問の観点に立ち、この一般学を十分に駆使することにより聖書をよく理解することが出来る。もう一つは、聖書に関する学問的(聖書学)なことによって、聖書に関する専門的な学びによって学ぶ。

 聖書に対する一般学からの接近であるが、一般学の世界に、自然科学、社会科学、人文科学、という三つの分野がある。それぞれ大学生の皆さんはその専門分野のどれかを履修している。大学の4年間、または2年間に専門的な学びをしているはずである。しかし卒業後はその専門が社会で活用されている例は余り多くない。この社会では4年間(2年間)程度の学問では余り利用価値がないのかも知れない。しかし、在学中から自分の専門学科を十分にマスター、研究して、その学びの方法論を聖書を学ぶための道具として役立てて欲しいのである。この世の学問もスバラシイ道具に役立てることが出来る。

 ルカ伝は文学てきに高度の価値のある書である。だから文学を専攻している人が、ルカ伝をよく研究して、ルカ伝のエッセンスをよく理解して、どの部分が文学的に味わいがあるのかということを紹介するとよい。またその表現力とか、内容の構成についてとか、文章の美しさとかをじっくりとみる機会を持つことは大変に有意義である。このことに依ってより聖書の理解力が向上し、聖書に対する親近感をもっと持つことが出来る。聖書を進んで積極的に学ぶ動機になる。またルカ伝は医学者であるルカによって書かれたので、医学用語や医者としての鋭い観察眼を持って見ている箇所が沢山ある。人間の肉体的なこと、イエス様のいやし(奇跡)について、他の聖書記者が触れていないことを記述している。また、人間の心の動き(感情)などについてもよく捕らえている。だから医学を学んでいる学生はその様なことが、よく理解できるはずである。

 政治、法律を学んでいる学生はイエス様が当時の社会に於て政治や法律をどの様に理解し、それをどのように適用されていたかということが分かる。非常にイエス様の知恵ある姿を知ることが出来る。特に神の黄金律といわれている山上の説教(マタイ5章ー7章)の中には法律的な観点から学んで行くと、とても興味ある問題が山積されてある。旧法と新法の調和、旧法から新法に対してどの様に評価するかという問題が考えられる。また現代の裁判制度とその判決にイエス様の処方方法を学ぶことが出来る。
経済問題に関して、個人の生計の問題、商売の問題、利息や税金の問題に関して、注意深く聖書を見ていくなら、いろいろなことを考えさせる材料を提供している。そして現在の私達が悩んでいる経済問題に適切な解題を与えている。いま問題になっている失業のこと、これは第一次産業と第二次産業の不調により、企業が労働者を解雇することに依って起こっている。また、円高により企業が海外に流失して、産業の空洞化が起こり、日本の労働者が益々就職のチャンスを失っている。日本は外国に比べて税金がスゴク高い、その理由はなぜか。日本は世界一の債権国(お金持ち)なのに、国民である私達はそんなに豊かでない。なぜか。等等いろいろな経済問題を抱えている。

 この様な問題に対して経済学を学んでいる学生の兄姉が聖書を研究することに依って、イエス様から経済原則やその経済問題に対処する方法と事実を学んで、この世に奉仕することが出来るのである。この世の経済学者や経済人も大きな悩みと問題を持って、どうしたらよいのか思案している。人間の知識や能力には限界がある。しかし主にある学生せいの兄姉は、特に経済学を学んでいる兄姉は祈りと経済学の方法論を持って対処できるのである。このことを通して、神の栄光を表すことが可能である。

 このように二、三の一般学にしか触れなかったが、全ての一般学により聖書を研究する良き道具となる。もし、手で地面に深い穴を掘ろうとしたなら、先ず回りを出来るだけ広く掘らなければならない。その様に聖書をよりよく知りたいと思うならば、あらゆる知識、学問を学ぶと言うことは、必然の理なのである。
 有名な18世紀の神の人と言われた、ジョン・ウエスレイー刃「一書の人」と言われたが、彼は学生のために数学、物理、文学、語学等等の多数の教科書を書きました。彼は一書の人とならんがために、広く一般学の分野にまで学びをした人だった。私達も一書の人たるべく広く一般学をよく学ぶ忠僕でありたいものである。折角現在学なんでいる専門学科をおろそかにせず、よく学びそれを活用できるものとなって欲しい。特に聖書を活用して欲しい。そしてそれは日本のキリスト社会にも大きな貢献となる。
 
 次は聖書の専門に関わることについて考えていく。一般学と共に、更に必要なことは一般学の専門知識とその学びの方法論を用いて、聖書の専門学にも興味を持って欲しい。ただ、毎日聖書を読むだけでは不十分である。もっと専門的に取り扱って(取り組んで)欲しいものである。即ち、聖書神学の学びである。聖書を学ぶための神学、または聖書の神学の両面に取り組んで努力することである。

 先ず聖書を神学的に読むと言うことである。どうゆうことかというと、聖書そのものは神学のテキストのように神学的には整理していない。しかしパウロと言う人は、神学的に考えながら聖書の本文を書いていた。例えば、パウロの教理書簡(手紙)と言われているローマ書とガラテヤ書は少し理解するのに困難かもしれない。それはパウロが神学的な論理を意識しながら書いているからである。だから、私達がローマ書やガラテヤ書を学ぶときに、その様な目的意識を持って学なら、大変理解しやすいし、また非常に論理的にまとまっているから、整理しやすい。この福音が広範囲に伝えられ、急速にこの世に電導されたのはパウロのお陰である。パウロの知的神学的な助けによるものである。出スカラ、私達に神学的論理の能力をつけると言うことは重要なことである。

 神学的な整理に依って、もっと聖書をよりよく理解することが出来る。イエス様の死、十字架に依っての死の意味、なぜに十字架で死ななければならなかったのか。これは贖罪という大切な機能がある。旧約時代には動物が人の罪のために殺され、犠牲になっていた。これは旧約神学による理解である。そして贖罪には限界があった。即ち、一匹のどうぶつの血(死)はその人の一回限りの罪の赦しである。再度の罪のためには別の動物の血が要求された。しかし新約の神学は異なるのである。神の小羊であるイエス様の血による犠牲はただの一回で、全ての人に、何度でも有効なのである。

 イエス様の十字架はスバラシキ贖罪の恩恵的な法則を私達の罪のために設置して下さった。この様にイエス様の復活について、イエス様の昇天について、イエス様の終末について深く探求するために、私達は聖書を神学的に学ぶ必要があるのである。聖書の全体の記述を神学的に整理、分析して理解しなければならない。神学的に聖書を学ぼうとするときに、私達は神学に関わる、神学的把握を助ける関連的な別の道具が必要である。即ち、部分的に学ぶためには、各論的な学びをするために、総論的な学びが必要なのである。それは聖書序論(聖書緒論)である。聖書のアウトライン的な学びである。この道具に依って聖書は誰に依って書かれたか、聖書の記者。その時代はどの様な時代であったのか。その聖書の時代背景。大まかにどの様なことが書かれているのか。聖書のないよう。その当時の生活習慣、文化的な様子、政治的経済的な状態。また法律的にはどの様に処理されていたのであろうか、ということなどが、この学びに依って理解されてくる。またこの書を書いた記者の動機や目的も分かってくる。更に神様のご意志まで見えてくるようになる。また私達への神様の願いと希望も察知すること 我でき、私達の人生を神様の有用な器として、神様のために働くことが出来る。これが神学的に学ぶことによるメリットである。

 次に聖書考古学による学びである。聖書考古学は、聖書の歴史学と密接な関係がある。聖書の歴史は創世記の天地創造から始まって、最後の黙示録を持って終っている。その歴史の一部分一部分に起こった出来事が埋蔵されている。それを発見して発掘して、その歴史の事実を実証(例証)していくのが、考古学の目的・使命である。

 聖書の中の小さな、何でもないように思われるものも、歴史学と考古学の光に照らされるとき、驚くべき大発見をするものである。なぜなら聖書は、歴史学と考古学の偉大な発見に依って、写本が多く私達の目前に提供されたことに依って、聖書の記述や事実が疑うことの出来ない真実であることが証明されたのである。また実際に聖書に記されている人物達が存在し、関係ある事柄が間違いなく行われたということが、証明された。仇むとイブの存在と彼らのしたこと、アブラハムの偉大性と彼のなした偉大事。ヤコブとその十二部族の出現。モーセの必然性と彼の偉大な業。等等である。

 この様に、聖書の歴史学と考古学の協調に依って、歴史の中に働いておられる神の足跡を考古学というゲタによって、体験的に、感触的に知ることが出来る。そして生ける神の働きに私達は驚嘆するのである。

 このことに加えて、大切なことは聖書の注解学的な学びである。これは今まで述べた学びと比較するならば、各論的な学びである。聖書の本文を一節毎に詳細に注意深く学ぶ。その本文中の言葉の意味、その言葉を調べるために別訳の聖書、日本語でもいろいろな訳がある。

 口語訳の聖書、文語訳の聖書、詳訳聖書、現代訳聖書、共同訳聖書(カトリック発行)、また個人訳の聖書に依って調査研究をすることが出来る。それに合わせて他国語の聖書によることも興味深い、英語訳聖書、ドイツ語訳聖書、フランス語訳聖書、中国語訳聖書、その他沢山の外国語がある。英語訳はほとんどが読めると思う。またそれぞれ第二外国語として英語以外の語学を履修しているはずであるから、辞書を引きながらでも読まれると良い。更に挑戦心のあるものは、聖書の原典(原書)に食いつくとよい。新約聖書はギリシャ語で書かれており、旧約聖書はヘブル語で書かれている。

 この様な聖書を対照しながら、聖書を楽しく読んで行くことは、大きな祝福であり、意外な発見をし、聖書に対する愛着が涌いてくる。また聖書に対する興味も倍加される。

 聖書の単語の学びから、分節の学び、そして文節の学びへと発展していく。この注解的な学びは大量の文節の学びでなく、一回に二分節程度の学びをすると良い。時間がかかり忍耐を要するが、ちょうど毎日の食事のように、規則的にとっていれば、その人の肉体を支えているように、その人の魂も日々に養育されて行くのである。これと並行して聖書の毎日の通読は不可欠である。それでなければ聖書の注解だけでは、十分な理解も得れないし、また役に立たない。通読は聖書の全体を把握するのに役立つし、通読の基礎に依って注解の学びは一層の効果をもたらす。

 聖書注解学は更にその本文の意味が分かると共に、その中の疑問−−どうして、そうなのか−−について気付く。その本文が他の箇所とどの様に関係しているのかということが分かる。同じ聖書本文でも、その記者の意図に依って、また話されている対象のどの部分にスポットを当てたかによって違ってくる。イエス様の説教、同じ説教でも、マタイ伝、ルカ伝、マルコ伝、ヨハネ伝の記者に依って相違している。
このことは、単純な通読では分からない。注解というテクニック的な学びにのみによって、理解されることである。イエス様の説教の中に表現されている言葉のニュアンスにも細やかな違いを発見することが出来る。実にイエス様の聖言は、生きて働いているということが分かる。また、私達の情緒にコダマのように反響して、イエス様の心を心とするような捕らえ方が出来る。

 これは聖書本文にじっくりと取り組み、親しく取り組んで結果的な、神による(聖霊というべきか!!)、濃厚(重厚)なお取扱である。

 この様に聖書注解の学びは、私達に聖書本文に対する知識的な理解を増大させ、生ける神(イエス)との親交を深める。とても愉快な学びである。この学びに習熟されることは幸いなものとなる特権を神より授与される。

 以上のように、学問的取得法は、私達の一般学に対する認識を深めて、また聖書を学ぶために重要であるという了解を深めて、現在の学びをおろそかにせず、今からそれを用いて聖書研究に取り組んで欲しい。このことを将来に委ねることは、怠惰のレッテルを貴方に強要しなければならない。

 また、聖書研究の為の傍系的な聖書の関係学も並行して学んで行くことは、貴方の魂に大いなる祝福を呼びいれるのだ。ハトの形のように、また火の炎の様な舌のように聖霊を貴方の内に反映させるべきである。

 この学問的修得法こそ、貴方のプロとしての聖書研究者としての真価をこの世に問う、最善のチャンスである。

 そろそろ結論に入らなければならない。私達は聖書研究のうまみとして、二つの面から考えてきた。即ち、一つは体験的な取得法。これはイエス様の体験を一番の軸としてその他に聖書の中の神の人々にも距離を拡大し、更に私達の歴史に記録された聖徒達の体験を主観的に、客観的に観察して彼らの生きざまを把握しなければならない。それを私達の体験と比較したり、参照したり、対照したり、査証したりしていく。その中から、イエス様なら現在の私達の社会の中で、どの様に対処なさるだろうか、また私がこうして行こうとするとき、イエス様の中に、また他の神の人たちの中に私が用いようとしている例証があるか否か、思慮深く考え、祈って用いて行かなければならない。また適用して行かなければならない。そのために聖書は私達の体験の良き判例集である。それは判例集だけでなく、具体的に活用できる聖典なのである。

 二つ目は学問的取得法としての方面から、聖書研究を取り上げた。これは自らを初歩的段階にとどめないで、より発展的にしていく大切な要素である。私達は努力的にするということに対して消極的である。その様な習慣的に形成されたクリスチャン的性質を破壊して、甘えのスピリットを鍛える良い手段である。そして、この学問的取得法に依ってクリスチャンとしてのプロ根性を着身するよい転機である。この聖書を用いて私達の同胞に福音を伝えて行く。

 聖書研究は自分達の満足のみに奉仕していたのでは無意味である。聖研によって私達の魂が燃やされ、この世の必要に応答して行くのでなければ意味がない。私達の今の時代に聖書を持って、この世に奉仕して行く。このことが必要なことであり、このために私達は神より、罪の世より召されて、聖研により聖別され、神の有用な器と成るように期待されているのである。だから、この学問的取得法を見に付けるべきである。

 若きクリスチャン学生には特別にいろいろな特権が与えられている。それでけに責任も重くのしかかっている。その使命をよく理解して、誤りのない人生を送るべきである。

 この奉仕に必要な自分の賜物発見するのに大いに寄与するのも聖研である。またこの様な聖研は一時的な学びでなく、動機ずけられたのは、学生の時であっても、学生の間だけで終らないで、長期的に、否、一生涯的なこととして学び続けることが必要である。その蓄積に依って、深みを付け、人格的な豊かさをその人に内住させていく。そして神と人との為に活用される予言者的で祭司的な、イエス様に類似した神の人、貴方となる。
(KGK 週刊キリスト者NO.1021−1023 1987年度)