第2節 心の痛み
 
 心の痛みは人間にとって、しばしば経験するもの。人間が生きている限り、肉体の痛みを感覚的に経験するように、心の痛みを経験するのは当然である。それで、心の痛みを考える前に、心そのものについて考える必要がある。心とは何か。心は複雑な営みをしている。人間は心を持っているが、その自分の心について、十分な理解を持たねばならない。それで心について、解明を試みてみたい。
 こころとは
 心について定義づけることは、はなはだ困難であるが、私たちの体をコントロールしている、心について考えることは、とても有益なことである。心の働きが人間の知・情・意に働きかけ、それをコントロールしている。又、人間の魂とも深い関係を持っている。その心について、信州大学医学部教授西丸四方はこう言っている。「こころが悩みと密接な関係を持っていることは、今日誰でもよく知っていることである。むかしは心臓や肝臓に心が宿っていると考えられたこともあった。しかしこころが脳と密接な関係にあるといっても、脳のどんなはたらき、どんな物質的変化が、こころを生み出すかということはわかっていない。」1)。人間の心を動かしているのは脳か、というのは明確ではないが、心と脳は深い関係があることは、否めない事実である。果たして心は脳の産物の結果であるのか分からない。人間の理性で考えて、脳が心を産み出したのかは不可解である。しかし確実なことは、人間の心も、神の創造の結果であるという事を、聖書は教えている2)。後は信ずるか信じないかの問題である。
 では心の動きについて、人間はどのようにして、知ることができるのであろうか。即ち他人は、その人間の心の動きについて、どの
 1)西丸四方、『脳と心』、(創元医学新書)、P3
 2)創世記2の7
ようにして知覚するのであろうか。その事に関して、西丸はこう述べている。「けれどもこころの動きはにはこのような外形の変化がともなうことが多いので、われわれはそれによって他人の心を知ることができる。他人のからだの動きによるのみでなく、他人の作ったもの、なしたこと、たとえば絵や、音楽や、歴史から、その人のこころを知ることができる。あるいはまた、他人のこころの内部のできごとをわれわれは直接知ることはできないが、他人が言葉でその人のこころの中のできごとを私に知らせるのを、私は耳で聞き、目で読んで知ることができる。」1)。人間の心の動きは、その人間の感情(情緒)が体全体によって表現されることによって、理解される。又、人間の社会行動や、芸術的表現によっても、知覚することができる。しかし、人間の内的な動き(内部の現象)は分からない。人間の内部の動きは、あまりにも緻密で、複
 1)西丸四方、『脳と心』、(創元医学新書)、PP6ー7
雑で、神秘的である。しかし、人間は多少は、他人の心の動きを、思考を言葉で表現するのを耳で聞き、心の動きを、書物や映像で表現したのを目で読むことができる。即ち人間は、人間の心の現象を感覚器官を通して、理解することが多少は可能なのである。      心はどこにあるのか
 人間は優生学的に見て、あらゆる生物の中で、最も優れたものである。その事を証明しているものの一つが、人間は心の保持者である、と言うことである。それではその心は、どこに存在しているのであろうか。人間の体の、どこの部分にあるのか、という問題である。その事に関して、九州大学医学部心療内科教授池見酉次郎は、こう述べている。「心と体の病気との関係を正しく理解するためには、心と体の結びつきを知らなければならないが、それにはまず生理的に見て『心はどこにあるか』を知っておく必要がある。今日では、心の座が大脳であることはよく知られているが、いろいろとことなる心の働きが1)、それぞれ大脳のどの部位で営まれるかについては、まだよくわかっていない点が多い。」2)。人間の心の存在については、これは、古代の哲学者にとって、論争の的となっていた。彼等は心の問題について、より真剣に、より真実に、議論し、探求してきた。しかし、心の存在について、心と体の関係について、密接に関係がある、と言うことだけは分かっていたが、それ以上の進展はなかった。そして、数百年の時が流れて、現代の哲学者に、その課題が引き継がれてきたが、心の存在という課題は、未だ謎である。特に現代では、医学のめざましい進歩によって、人体の細かい部分について、解剖学的な面から、詳細に解明されて、より明快に理解を深められた。そし
 1)佐藤陽二博士は心について、こう述べている。「人間の魂(霊)と心(潜在意識  と顕在意識)と、からだとの機能的関係が示される。」(佐藤陽二の神学、P9  9)
 2)池見酉次郎、『心療内科』、(中央公論社)、P14
て心に関しても、大脳が心の座であると分かってきた。しかし、その心の座が大脳の、どの部位であるのかということは、未だ特定できない。という言葉は、果たして心の座が大脳であるということも、疑問の余地が残っているのではないだろうか。と言うのは、心の問題は、これも又、神の支配されている分野だからである。神を経由しなければ、人間の心の問題は十分に理解の範囲に到達できない。
 人間の心の座について、もう少し深部に入り、その事に言及して、池見はこう書いいる。「これらの運動と感覚をつかさどる部分を除いた大脳皮質の広い部分は、連合野とよばれ、運動野と感覚野の間、連合野相互の間には、神経繊維による密接な連絡がある。この連合野は高等な動物ほどよく発達しており、人間らしい本当の心の働きはここで行われる。」1)。池見酉は、もう少し大脳学の
 1)池見酉次郎、『心療内科』、(中央公論社)、P15
面から、大脳の内側に入り、専門的な分野から、心の働きについて実証しようとしている。そして、心の働きは大脳から発出しているということを、強調している。しかしこの学説も未だ推測の息を脱してはいない。それ程、心の問題は人間の思考で、説明し、十分な理解に到達するには、人間の能力では不可能な課題である。人間能力の分野を超越した次元の問題である。即ち、神の分野の次元である。
 パーソナリティ(人格)
 人間の心は、人間そのものの現れである。そうするならば、人間自身の行動(言動)は、その人間の心の状態によって、様々な現れ方をする。そうであるならば、その人間の人格(パーソナリティ)のあり方が重要である。そのパーソナリティ1)について、横浜国立大学教育学部教授依田明は、こう述べている。
 
 1)パーソナリティとは、神学では形而上学的に用いられ、人格を構成することで  ある。(Unger's BIBLE DICTIONARY,p847)
「パーソナリティの語源はペルソナ(persona)1)で、もともとは仮面の意味であり、パーソナリティはみかけの、目に見える表面的な性質を暗示しているという。」2)。普通では、人間の人格は、深みと厚みのあるもので、人間そのものにとって、大切な、重要な存在を代表しているもの、と理解されていた。しかし、依田によると、人格(パーソナリティ)は、「みかけの、目にみえる表面的な性質を暗示」しているものである。と言うことを聞くと、人間が曖昧で、性格異常で、いい加減なものである、と言うことはある程度うなずけることができる。しかし著者は、この考えには全面的に、同意しかねる。何故なら、人格は内面的なところにまで降りて、観察しなければ理解できない。その人格内面には神が働いている分野だからである。それ
 1)E.ブルンナーは、意志と計画を持ち、責任を問い、かつ責任を問われる存在  がpersonaであるという。
 2)依田明、『性格心理学(テキストブック心理学6)』、(有斐閣)、P5
故、みかけの目に見える表面的な性質だけを暗示していたのでは不十分である。神によって表面的性質と共に、もっと内面的性質をも暗示している。神のペルソナの似像が人間のペルソナである。そして、その人格は、その持ち主である人間を、輝やしく、高潔に見せる。このような人間は、他の人々から尊敬され、重要視される。又、このような人間の存在は、この世にとって幸いな存在となる。
 心の構造
 人間の心は、複雑多岐であって、それを把握するのにはとても大きすぎる。人間の心は無限に近い、可能性を秘めている。しかし、私たちの興味と関心は、人間の心の仕組み、構成(構造)にある。人間の心は、どのように構成されているのであろうか。その事について、依田は、次のように語っている。「フロイトは人間の心を、1つの装置(心的装置)になぞらえている。心的装置は、3つの領域から成り、それぞれを、イド(またはエス)、自我、超自我と呼ぶ。これらの3つの領域の機能が、力動的に関連しあいながら、人間の心を構成しているのである。」1)。フロイトの考えから推察すると、人間の心とは、機械の 一装置のようなものと、彼は思っている。人間の心は人間の体の全体の中の一部分的な装置として機能している。そしてそれは、特別に「自我」という、心的装置として、人間の心の中で働いている。聖書の中では2)、この「自我」は罪によって汚染されているので、人間の中で、凶暴で、危険な存在として描写されている。そして、人間はこの「自我」に悩まされている。しかし、この「自我」もキリストによって、潔められるなら3)、すばらしい機能を人間にもたらす。
 1)依田明、『性格心理学(テキストブック心理学6)』、(有斐閣)、PP
  23-24
 2)ロマ書7の17-20
 3)自我が清められるとは、罪に結って自己中心の生活をしていた   者がイエスに救われ、イエス中心の生活に変えられること。
 良心とは何か
 人間の心の別な表現として、良心1)という言葉がもちいられる。この良心について、私たち人間は、どう理解しているのであろうか。このことに関して、ノルウェー・オスロー独立神学校教授オー・ハレスビーは、こう述べている。「良心は、人間の生命の高い品位と、尊厳さを、最も、端的に、はっきりと表現するものであります。」2)。人間の良心はとても気品の高いもので、その人間の品格を現す的確な言葉である。人間はこの良心によって、生命的な高品位な気質を示し、その人の尊厳を叙述に顕示している。それ故良心と心とは不可分な関係にある。
 では、この人間の良心について、言語学的には、どういう意味があり、良心は、どのよ
1)自分自身の行為における特定の善悪に対する、知情意を含めた全  人格的な判断作用。参照Uサムエル24の10,詩篇32の1−  5.(新キリスト教辞典)
 2)オー・ハレスビー、岸千年訳、『良心』、(ルーテル文書協会)、P1
うに言葉で 表現されているのであろうか。ハレスピーは、このように陳述している。「『良心』と言う表現は、語源的には、ラテン語の『によって知る』と言う動詞から来たものであります。この言葉には、他の数ヶ国語にも相通ずる言語学上の語根があります。すなわち、ラテン語ではconscientia、ギリシャ語ではsyneidesis、ノールウェイ語ではsamvite、スウェーデン語ではsamvete、となっています。以上は皆、・・・によって知る、という意味です。」1)。人間の良心は、人種の区別なく、どの人種にも共通の思想であり、言葉であることが分かる。人間である以上、良心を持ち合わせていないものはいない。それ故、良心は良心と言う言葉によってその意味を言語学的に類推することが出来る。
 では、良心を定義づけると、どのように表現すればよいのか、という問題を考えてみよ
 1)オー・ハレスビー、岸千年訳、『良心』、(ルーテル文書協会)、P3
う。その事に関して、さらにハレスピーは、次のように考えている。「故に、良心とは人間に、道徳律、或いは、神の聖旨に順応していることを知らせる知識、または意識である、との定義を下すことができます。」1)。良心は常に、人間にどう生きるべきであるか、という基準の指標として道徳律を求めてくる。その道徳律は、人間が如何に生き、どう人生を過ごすべきかという知識を示唆し、具体的な道しるべを示す。又、良心は人間に、神に対して従順に従うべきであることと、神に従うことの安全であることを教える。これは人間にとって、幸いな道であり、最も麗しい道標となる。
 次に、良心の働きについてであるが、人間が生きていくためには、常に心の内に、良心の導きがあり、更に魂のささやきがある。それ故、魂は良心を正しい方向に導くという先導的関係を持っている。
 1)オー・ハレスビー、岸千年訳、『良心』、(ルーテル文書協会)、P4
 果たして、その良心が、どのように私たちに働きかけ、導きを与えているのかと、言うことを考えなければならない。その事に関して、ハレスピーはまた、このように言っている。「これに反して、良心は知識であり、意識であって、本能に見るように、本姓によって既定された過程に従わさせようとする、内部からの強制的衝動ではありません。良心とは、人間の自覚意志に語りかける、聖い神の律法を、意識するものであります。その語りかけは、律法への服従を強いるためではなく、人間が良心によって、守らねばならないと認めたその律法に、自らすすんで、自由に従うようにするためであります。」1)。人間の良心は、常に知識と連動しているから、善悪の判断を的確にし、自らの言動を適正化していく。また、人間の良心は、生物のように意識しているので、常に正しい判断を下し、悪の道から遠ざかって、神の道を志向する。しか
 1)オー・ハレスビー、岸千年訳、『良心』、(ルーテル文書協会)、P5
し人間の良心はとても弱いものなので、その人間の言動通りには行かない。それ故、人間の良心はあくまでも、人間の意志の僕であるから、人間の意志は善悪の選択に左右されてしまう。そこで、人間の良心が神の律法(神の言葉)に従うことの、重要性が強調されねばならぬ。しかし、神の律法に従うことは、人間の良心の自由で、積極的な態度に任されている。ここに、人間の良心の選択肢の重要性が、指摘される。
 痛みという言葉
 痛みは、人間にとって耐え難く、苦痛をもたらすものである。だが、痛みという言葉をどのように理解し、把握しているであろうか。その事に関して、C.S.ルイスは、このように言っている。「実のところ、<痛み>という言葉には二つの意味があり、両者をはっきり区別することがこの際必要なのです。(A)痛みとは、おそらく特殊な神経組織によって伝えられる特定の感覚で、当人が好むと好まざるとにかかわらず、そうしたものとして当人に感じとられるもの(わたしの足をかすかな痛みは、たとえわたしがそれを不快として斥けなくても、痛みとして認められるのです)。(B)肉体的と精神的とを問わず、それを受ける当人の忌み嫌う経験。Aの意味における痛みがすべて、一定の低い限度を超えればBの意味における痛みとなるのに対し、Bの意味の痛みがまたAの痛みであるとは必ずしも言えない−ということにあなたは気ずくでしょう。実際、Bの意味の痛みは『苦痛』
『苦悶』『悩み』『逆境』『厄介ごと』などと(しばしば同意語で、本書に論じようとしている痛みの問題もまた、聖書に関して起こるのです。」1)。まず痛みは生理学的面から、捕らえられている問題である。痛みは、人間の神経組織から発生せられる感覚で、それが痛みとして感じられる。人間の体の、どこか
 1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、PP113ー  114
の局部に痛みが起こると、その痛みは人間の脳から指令が発せられ、神経組織のパイプによって体全体に伝導される。そして、人間はその痛みを、好むと好まざるとにかかわらず、「痛い」という感覚を持つ。そして、この痛み感覚は、人間にとって、好まれない経験であるから、肉体的と精神的の両面に、痛み感覚の衝動としての影響を受ける。また、この痛みは、語原的には、様々な表現の形を取るが、同意語的なものである。それは、このような表現、「苦痛」「苦悶」「悩み」「逆境」「 厄介ごと」などという形態をとる。しかし、その伝導しようとしている内容は、みな同じである。その内容によって痛みの持っている、深みと幅の広さを、少しかいま見せている。
 マゾヒスト的痛み  
 痛みも正常な状態で感じるときは、他者も理解でき、その痛みの内容を理解し、痛み感情を共有するが、アブノーマル(正常でない)
 
な場合はどうなるか。マゾヒスト1)的痛みに関して、どう捕らえたならばよいのであろうか。その事に関して、ルイスはこう語っている。「痛いときには誰にでもどこかがおかしいと気ずくのです。マゾヒストもこの例外ではありません。サディズムとマゾヒズムはどちらもノーマルな性的情熱のある『瞬間』、ある『一面』をとりだして誇張しているに過ぎません。サディズムは攻略と征服の面を誇張し、ついには愛するものを虐待することのみが変質者を満足させるようになるのです。」2)。痛みは、万人に共通な感覚である。だから、マゾヒストの痛みは、他者と比較して独特的で、アブノーマルであると思考するするのは誤りであり、誤認の見解である。彼等も普通の人間と変わらない。ただあえて相違を取り出してみるならば、彼等は痛みに関して、 1)苦痛を受けることに快感を覚える人。(三省堂現代国語辞典)
2)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、PP113ー  117
性的情熱のある「瞬間」とある「一面」につ
いて誇張している、とルイスは言っている。それがマゾヒスト的痛みとして捕らえられ、誤解を生む問題としてしまっている。しかし本質的には、痛みの面では、共通な要素を相互に保有していることは、間違いのないことである。
 人間にとって、痛みは悪の結果であるのか、否かという問題の提起をする考えがあるが、それをどう考えるべきであろうか。痛みが全然悪と無関係であると断言はできないが、非常に微妙で、難しい問題である。その問いに関して、ルイスはこう言っている。「苦痛が悪と−−他者の完全な支配を強調する暴虐と−−強く感じられるのでなければ、それはマゾヒストにとってエロティツクな刺激ではなくなってしまうでしょう。それはまた苦痛は、ただちに認められる悪であるばかりでなく、とうてい無視することのできない悪です。わたしたちは自分の罪の中に、また愚かしさの中に、ぬくぬくと安住することができます。」1)。人間の心の痛みは、罪との関わりを大いに持っている。心の痛みによって、人間は罪の呵責、認罪を実感する。であるから、心の痛みは、大いなる悪の結果であり、それは、無視することのできない悪である。神は、この心の痛みをもって、人間に、罪の悔い改めを迫ってくる。であるから、心の痛みに悩まされることは、その人間にとって、人生の転機のための最大のチャンスなのである。
 心の痛みに関する関心
 私たち人間は、痛みに関する関心をなるべく持たず、それから逃避しようと企んでいる。しかし、それは消極的な態度である。むしろ積極的にそれに取り組んで、解決の糸口を見つけるのが賢明である。その事に関して、ルイスは、更にこう述べている。「しかし苦痛はあくまでもわたしたちの関心を要求します。
 1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、PP117ー  118
神は、楽しみにおいてわたしたちにささやきかけられます。良心において語られます。しかし苦痛においては、わたしたちに向かって激しく呼びかけたもうのです。苦痛は耳しいた世界を呼びさまそうとしたもう神のメガホンです。幸福な悪人とは、自分の行為に『何の手ごたえもないこと』、それが宇宙の法に一致しないことを、夢にも悟らぬ人間の謂いです。」1)。心の苦痛は、しばしば人間の良心を揺さぶる。その事によって、私たち人間は、自分の心の中の悪に目覚めさせられるのである。それは神の警告であり、神は私たち人間に向かってメガホンで、叫びかけられているのだ。この神の良心の呼びかけに、人間の良心が目覚めるときに、その人間の心の痛みはいやしへと招かれ、導かれる。しかし人間の良心は、罪に鈍感で、なかなか神の呼びかけに応答しない。しかし神は忍耐して、人間の応答を待望されている。
 1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、P118
 心の痛みによる自覚
 心の痛みは、人間に自覚を呼びさます。それは神が、人間に対して激しく揺さぶりをかけて、人間の良心に、自らが何者であるかを気づかせようとしているからである。その実態を観察した結果、ルイスは、このように言っている。「われわれの先祖たちが痛みや悲しみを、罪に対する神の『復讐』であるといったとき、彼等は必ずしも悪しき激情を神に帰していたわけではありません。それどころか、彼等は、もしかしたら報復という概念に含まれる上述のような良き要素を認めていたのかも知れないのです。悪人が自分の存在そのもののうちに見誤りようもなく悪が、痛みという形で、含まれているということを見出すまでは、彼は幻想の中に閉じこめられているのです。痛みがひとたび彼を目覚めさせる時、彼は自分が何らかの意味で真の宇宙と『向かい合って』いることを知ります。その際、彼は反逆するか(後により明確に問題を感じとり、より深い悔い改めに導かれないとも限りませんが)、何らかの調整をはかろうと努力します。」1)。ある意味で、心の痛みというものは、強い表現であるが、神による、罪に対する悔い改めで有るとも考えられる。しかしこれは、神の憎悪に満ちた激しい復讐ではない。神はできる限り、人間を悔い改めに導くため、やもうえない手段として、人間に対して取られた。しかし、神の心の根底には愛の動機が秘められている。しかし、悪人は自らの心の中にある悪を痛みとしては、なかなか捕らえない。彼らはそれを幻想化して、その中に悪を幽閉してしまう。それ故神は、彼らに悪を痛みとして、知覚させるために、過激な言動に出られる。そして、やがて心の痛みが、彼らを目覚めさせる動機となる。  
1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、PP120ー  121
 
  無神論者の痛み
 心の痛みは神の助けによって1)いやされる
が、神を無視し、神の助けを嫌がる無神論者
がいる。彼らは、どのように、痛みから解放されているのであろうか。その事に関して、ルイスは、こう陳述している。「他の無神論者、たとえばハクスリー氏のような人物は、苦しみによって存在の問題そのものを考察するようにうながされ、それを受容しうる道を見出そうと努力しています。キリスト教的ではないとしても、それは涜神的な生活に愚かしく満足しきっている場合より、どのくらいよいかわかりません。たしかに神のメガホンとしての痛みは恐ろしい道具です。それは最終的な悔い改めのない反逆に導く可能性もあります。しかしそれはまた、悪人にとって可能な矯正に唯一の機会を提供するものです。それは現実をおおうヴェールを取り去り、反逆的魂の城砦の中に真理の旗を掲げるのです。」
1)神のいやしという助け
1)。無神論者も、心の痛みによって、自分の存在を認識し、自らの行状に関心を持ち、自らの生き方を反省し、正しい方向に歩むことを正される。又、自らの存在を、よく考察するように促される。そうして、どうしたら自らの存在が受容されるかを、熟考するようになる。又、努力するようになる。そしてそれは、どんなにか神を無視していく生活よりか、愚かしさから脱出する良い機会へと指向されていく。又、心の痛みは、無神論者にとって、神からの警告のメガホンなのである。これに反逆することは、恐ろしい暗黒の世界に引き落とされてしまう。であるから、神に対して悔い改めることにより、反逆的な魂の中に、真理の旗を掲げることになる。         幻想を打ち砕く痛み
 心の痛みによってしばしば、人間は当惑し、自らの考えが夢遊病者のように焦点が定まらず、宙を浮いているような状態になることが
 1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、P121
ある。それは、どういうことなのかと、しばしば疑問を抱く。その事に関して、ルイスは、それをこう解釈している。「もしも痛みの最初の、そして最も低い作用でさえもが、すべてよしという人間の幻想を打ち砕くとしたら、痛みの第二の作用は、それ自体いいか悪いかは別として、わたしたちがもっているものは自分たち自身のものであり、わたしたちにとってはそれだけで十分なのだという幻想を打ち砕くことです。」1)。私たち人間は、しばしばあらゆる事に対して、幻想を抱きがちである。だから、心の痛みに関しても、例外ではない。痛みはまず肉体から起こり、又、逆の心から肉体に起こるという作用がある。その時に、人間の心に幻想を抱くという微妙な現象が起こり、そして錯覚が起こる。そこに、心と体のバランスが失われ、幻想が現出する。即ちそれは、心の痛みを打ち砕こうとして、
 1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、PP121ー  122
心の痛みを、痛みとして受け取らせないようにとの、幻想が生じる。しかし、人間の心は、痛みをしっかりと受け止めて、真実に痛みの事実を理解し、痛みを打破しなければならない。    
 被造物としての痛みの把握
 私たち人間は、神によって作られた被造物である。それ故、神との関係が狂っている被造物としての人間は、しばしば悩み、試練を受けて苦しみ、心の痛みによって悲しむ。そして、ついに心の痛みによって、心が打ち壊されることがある。何故にそうされるのであろうか。ルイスは、次のように述べている。「苦しみは折々、被造物の見せかけばかりの『自足』においては、それは、真に被造物のものであるべき自足を−−『神に与えられたものであっても、人が自分のものと呼ぶことを許されるような』力を−−教えるのです。」1)。心の痛みは、ある時は自分の心の中から
 1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、P131
出て来て、私たち人間を悩ませたり、苦しめたりする。しかしもう一方は、神から、心の痛みがやって来ることがある1)。しかし、その痛みに対する助けを、真摯に神に我々の満足を求めて、助けを受容すべきである。そうするならば、我々は最高の満足を満喫することができる2)。
 炎のような痛み
 心の痛みは、正に受けているものにとっては、地獄のような苦しみである。それは筆舌に現すことのできない状態である。その状態を、どのように表現して、自らも、他者も理解したらよいのであろうか。ルイスは、その事を、このように表現している。「わたしが痛みについて考えるとき−−炎のようにわた
 1)予言者サムエルに罪を指摘された、サウル王はこう言っている。「私は罪を犯し  ました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。」(Tサムエル  15の24)
 2)神は我々のここの痛みをご存じで、全くいやして下さるからである。「わたしは  主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15の26b)
しを噛む苦悩や、砂漠のようにひろがる孤独を、ただ単調にみじめにその日その日を送り迎えする言いようのないおぞましさ、あたりの風景全体を暗くする鈍痛の繰り返し、一撃で人の心を滅いらせ、嘔吐をもよおさせる激痛、すでに耐え難いと思われるのに追い打ちをかけるように増し加わる苦痛、責苦にぐったりしているものを突如狂気のように狂い回らせる蠍の刺し傷ような鋭い痛み−−こうしたものを思うとき、わたしの『魂はまさに打ちひしがれ』ます。痛みから逃れる道があるなら、下水管の中を這いずってでもそれを求めるでしょう。」1)。心の痛みは、焼き尽くす火の炎のように人間を容赦なく襲い、痛みと悩みの奈落の底に引き吊り落とす。又、夏の日照りによって、乾いた土、砂漠の砂のように、人間の心を枯渇させる。そして、その人間を単調化し、みじめにし、孤独を味わせる。そして、その人間の心に繰り返し、繰り
 1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、P135
返し鈍痛を与え続け、その人間の心を疲弊させ、まさに吐き気をもようさせる激痛に、引っ張っていく。人間は、この激痛の周期によって、心は打ちひしがれてしまう。
 心の痛みからのいやし
 心の痛みがどんなに、私たち人間を苦しませ、悩ませ、大きな打撃を与えるものか、ということを見てきた。そして、私たち人間は、心の痛みから、何とか逃れ、いやされないものかと模索してきた。果たして、この心の痛みからのいやしは可能なのであろうか。その事に関して、キリストの弟子の一人であるペテロは、このように言っている。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」1)。主イエスは、私たち人間のために、十字架で血を流して、私たちの魂の痛みをいやして下さったのだ。であるから、誰でも、心の痛みをイエス様に、お願いするならいやされる2)。
 
 1)ペテロ前書2の24
 2)信仰によっていやされることを祈る。(ヤコブ5の15−16)