無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会「キラキラ星通信」第61号掲載記事


公開学習会(PART 9)
「日本の裁判はどこまで信用できるか」

    安田好弘弁護士が講演  11月18日(日)カトリック清瀬教会



こんにちは安田です。いつでも私が話をすると、暗い話ばっかしで、先の展望が開けない話になってしまうんですけども、やっぱり皆さん方にお話しなきゃならないだろうと思います。タイトルは、「日本の刑事裁判はどこまで信用できるか」ということで、私自身が実感として感じていることを、ぜひお話したいと思っています。

最初の方は、もともとの日本の刑事裁判がどうだったかを話して、裁判員制度が導入されることで日本の刑事裁判がどういうふうになっていこうとしているのかをぜひ理解して頂ければと思う。刑事裁判は信用できるかどうかという時に、どういう指標でその信用性を図るか、一つは制度そのもの、システムそのものが信用できるかどうか、もう一つは、システムを担っている人たちが信用できるかどうか、という二つの視点から見ていかなければならない。

まずシステム。当然、その制度が公平あるいは公正でなければならない。その場合、第一の指標は、被告人、被疑者が本当に当事者として対等に扱われているかどうか。第二に、これを裁こうとする裁判所そのものは、公平なシステムになっているかどうか。弁護士、検察官、裁判官に対しては、その職責そのものが適正に行なわれるような監視システムができているかどうか。裁判が誤った時に、どのような是正措置がとられているか。ここら辺りが本当に機能しているかどうかというのを見ていく必要がある。
日本で被疑者、被告人がどういう立場におかれているか。いったん身柄が逮捕、拘束されてしまうと、裁判が延々と続く過程の中にあって、ほとんどの場合は、身柄が拘束されたままというのが実状。よく「人質司法」と呼んいるが、否認している限りは原則として身柄は出て行かない。迷惑防止条例違反-いわゆる痴漢行為-の場合でも、いったん否認してしまえば、まず起訴。起訴後も保釈されないという状況が続く。半年でも一年でも、平気で身柄を拘束され続けるのが今の実状。もともと、逮捕するためには、犯罪を犯したと疑うに足りる相当の理由がなければならないし、罪証隠滅をする恐れがある、逃亡をする恐れがあるという理由がなければ身柄を拘束できない、というのが法律の建前だけども、現実はとにかく原則として逮捕。特別の理由がない限り、逮捕を免れることはない。むしろ逮捕がいま-皆さん方実感してると思うがー制裁的に使われている。懲らしめのために逮捕が使われている、というのが実状。そして勾留。逮捕は四八時間、それ以降一〇日ごとに勾留が続いていく。起訴されると二ヶ月ごとに勾留が延長されていく。自白させるために身柄拘束をされている、というのが実状だ。身柄を拘束されていれば、そもそも罪証隠滅しようにもしようがない。今の日本の刑事司法だと、警察、検察は徹底的に証拠を持っていくから、これらを隠滅しようにもしようがないけれども、隠滅する恐れがあるということで身柄を拘束される。

弁護人の弁護が十分に為されているかどうか。今の日本の制度は、私選弁護人を原則としている。私選弁護人を選任できない場合に国選弁護人を選任することができる。ところが、国選弁護人というのが、大変問題のある制度で、今回の法律の改正によって、被疑者の段階でも国選弁護人がつくことになった。しかし、言葉にある通り国が選ぶ弁護人で、本人が選ぶわけではない。国が選ぶということは、本当に被告人のためにやってくれない場合、解任しようがない。あるいは、弁護人と被告人が意見が違った場合、別の新たな弁護人を求めたい場合にも、解任できない。私はオウム事件で国選弁護人だった。裁判所があまりにも無茶苦茶な訴訟指揮をやるから、このままでは責任をもって被告人の弁護をすることはできない、と辞任の申し出をした。しかし国選弁護人は、国が選任すると同時に、解任は国しかない。だから解任さえ認めないという実状だ。国選弁護人というのは一見、弁護人の援助を得られる制度のように見えるけども、被告人は弁護人を選択する権限は全くないから、結局、事実上弁護人がないのと同じような状態がいま、続いている。

次に証拠について。依然として自白が偏重されている。自白が捜査段階でなされると、どれほど努力を払ってみても基本的にこれをつぶすことはできない。裁判所は、ひとたび自白がなされると真っ黒の心証を取る。その自白がよほど客観的証拠と違っていない限り、自白をひっくり返すことはできない。それから、証拠というのは、捜査機関が根こそぎ持っていくが、持っていった物さえも明らかにならない。その中には、被告人あるいは被疑者にとって有利な証拠も全部入っている。しかし、何が持って行かれているかもわからない。確かに新しい法律の中に証拠開示制度があるが、全面的な証拠開示ではない。検察官にとって都合のいい、不利とならない証拠しか事実上開示しないのが、現在の運用の状態だ。

それから感情証拠。殺人事件だと、必ず被害者遺族の人たちの、激しい報復感情が法廷に証拠として出てくる。具体的には被害者の人たちの供述調書、一〇年前から、被害者の人たちの意見陳述の機会が認められている。さらに証人として、被害者としての悔しい思い、苦しい思い、悲しい思いを法廷に出されてくる。これについては、まだまだ被害者の権利の方が足りないということで、いま法制審では、被害者がさらに訴訟に参加できるような機会を設けるべきだという審議がなされている。具体的には、被害者の人たちは証拠を閲覧することができる。さらに、検察官と同じ場所に座って、被告人、証人に対して証人尋問ができるところまで権利を拡張するべきだ、と審議されている。私は、これについて大変危惧していて、確かに被害者の人たちの気持ち云々はある。しかし、それを法廷に出していいのかどうか、という問題を考えなきゃならない。判例を一つ紹介したい。被害者が法廷に出てきて証人として証言したことを憲法違反だとして、死刑判決を破棄したケースが一つある。アメリカの連邦最高裁で一九七二年に破棄した。被害者感情が法廷に出てくることによって法廷そのものが扇情的になる。つまり、被害者の悲しい、悔しい思いで法廷が満たされる、その時に裁判官あるいは陪審員は理性を失う。理性を失う可能性があるような法廷というのは公正な法廷ではない、というのが第一の理由。第二の理由は、被害者感情だから、感情に対しては反対尋問ができない。すべての被告人は反対尋問をする権利を保障されているけれども、出てきている証拠そのものが感情なので、反対尋問できないではないか。だから反対尋問権の侵害になる。さらにもう一つは、被害者のいる場合と被害者がいない場合、被害者が法廷に出てきて被害者感情を法廷で吐露する場合とそうでない場合との間で、雲泥の差が生ずるのではないか、これは法の下の平等に反するのではないかという理由。つまり、公正な裁判とはいえない、反対尋問が保障できない、平等原則に反するということから、被害者が法廷に出てきて被害者感情を述べた裁判は憲法違反だ、という形で破棄したケースがある。もちろんそれは、後に判例変更されたわけだが。

しかし日本では、そういう問題意識さえないまま、ますます被害者感情が法廷に出てこようとしている。例えば、和歌山のカレー事件。被告人の林真須美さんは、捜査段階から一貫して「私はやっていない」と否定し続けてきた。しかし、第一審で二〇名(二十一名?)の被害者たちが意見陳述という機会があって、被告人の林さんを前にして、「この人に極刑を求める」、「これほど悲しい思いをし、あるいは苦しい思いをしたことはない」ということを述べる。そうすると、それを聞いている裁判官そのものが、本当に客観的に証拠を見ることができるだろうか、という疑問が生じてくる。有罪無罪を争っている時に、被害者感情が法廷に出てきた時に、本当にこれは無罪だと言えるかどうか。刑事裁判は、建前は、疑いを差し挟む余地がないほどまでに心証が形成されない限り、有罪判決を出してはダメだというのが原則だといわれているが、実際は、「疑わしきは有罪」というのがいま現在行なわれている。しかし「疑いを差し挟む余地がない程度に有罪心証を取る」という場合でもいろんなレベルがあって、大変微妙なケースだと、ほんのちょっと軸足をどちらに移すかによって、有罪になったり無罪になったりすることがいくらでもある。本当にそういう微妙なケースの中において、有罪の方向に裁判官の心証を動かしはしないだろうか、ということがいわれている。しかし現在はむしろ、被害者が被害者感情を述べる機会を十分保障しなければ、被害者支援にならないんだ、被害者の気持ちはその段階で収まらないんだ、といわれている。

最近ではさらに問題になっているのが二つあって、一つは、量刑の問題。被害者感情の表現の仕方がますます苛烈になってきて、例えば、光市の事件だと、本村さんという方は、「もし裁判所が死刑を出さなければ、私は彼を殺す」という激しい被害者感情を法廷で吐露される。そうした場合に、死刑か無期かという大変微妙なケースでは、どうしても激しい被害者感情に引きずられて、刑が重くなって来る。もう一つ、例えばこの前の奈良のケース。死刑判決について、控訴しないで裁判を終わらせる。この現象は最近増えていて、十年前のだいたい二倍の数に上っている。控訴するかしないかは、被告人の権利であると同時に弁護人の権利でもある。弁護人は被告人の意思を無視して控訴することができる。これは刑事訴訟法の規定。だから奈良のケースでも、本人の意思を無視して、高野という弁護人は控訴した。しかし、控訴すると同時に弁護人の地位を失う。弁護人は一審ごとに決まるから、控訴すると同時に控訴審に変わる。一審の弁護人はその段階で消えてしまう。控訴審で新しい弁護人が選ばれるまで空白地帯が生ずる。不安感、相談する人がいない、そういう過程の中で、最近取り下げが頻発している。なぜ増えてきたか。一方では裁判に対する期待がされなくなったということも言えるが、最近私どもの中で言われているのは、法廷が過酷な場になっている。被害者の人たちが法廷に見えて、被害者感情がぶつけられると、事実を明らかにされて罪の重さを確認されるだけじゃなくて、法廷がいわゆるリンチ、大変厳しい目で非難される場になってくる。そういう場にさらされること自体、被告人が精神的に大変な苦痛を受ける。それよりも控訴を取り下げて、むしろ拘置所の中で死刑の日々を待つ方がよほど精神的安定が得られる、ということなんだろうと思う。

元に戻ると、証拠というのは自白が中心になっている。検察官が片端から証拠を持っていくけれども、被告人に不利な証拠しか出してくれない。有利な証拠は隠されたまま。さらに、証拠というのは事実を明らかにするものだが、感情を明らかにするものまで拡大されつつある、ということになってくる。

それから、日本の独特の制度として二重の危険が常につきまとう。一審で無罪になった場合でも、検察官は控訴する。二審で無罪になっても検察官は上告する。死刑を求刑した場合、一審で無期になった場合は検察官は必ず控訴する。光市の事件のように、一審、二審とも無期であっても検察官は上告する。つまり、検察官は自分の求める判決が出るまで何度でも裁判所に判断を求める、という制度を日本は認めている。だから、被告人からすると、何度でも危険にさらされる。光市の彼の場合だと、一審は無期。検察官は死刑を求めて控訴したけども、二審の裁判官もやはり同じく無期。つまり六名の裁判官が無期が正しいと結論した。十八歳一ヶ月の段階で起こした事件、そういう子供を死刑にするほど日本の社会は厳しくはない、子供がそういうふうに育ったものの中には、親たちの、大人たちの責任があるんだ、ということを判決の中で述べている。けれども検察官は、このような事件を起こした人間は、悪を断たなきゃならない、少年であるかどうかは大した問題ではないということで、最後は上告する。すると、上告審の四名の裁判官が、六名の裁判官が下した判決をひっくり返すということが、この前行なわれた。彼は三回危険にさらされ、三回目にいよいよ死刑にされるという危険にさらされる。日本の裁判は検察官が主導で、検察官の思うような判決が出ない場合には、何度でも危険にさらされるのが実状。光市の彼だと、最高裁に上告されて原審が破棄差し戻しになったから、もう一度高裁で危険にさらされる状況にある。こういう恣意的なシステム、つまり、被告人は対等でなきゃならないのに、全然対等になってない状況の中で、本当に公正な裁判が出てくるのかどうか、信用できる判決になるのかどうか、ということになる。 

そして次に、公平な裁判所。憲法三七条は、公平な裁判を保障するとなっている。しかし、本当に今の裁判所は公平なのか。確かに裁判官に対する忌避(きひ)の制度がある。裁判官が予断を持っているとか公正な判断をしない恐れがある場合には、裁判を忌避することができる、という規定がある。しかし、これが事実上認められたことはない。裁判官は忌避されたことがない。なぜか。例えば、こういう場合がある。AさんとBさんが共犯事件だということで起訴される。Aさんは、「Bさんと一緒にやりました」と捜査段階から認める。Bさんは、「私はやってません」と捜査段階からずっと否認を続ける。AさんとBさんの事件は一つの事件だから、同じ裁判所に係属する。例えば東京地方裁判所の第二刑事部に係属することになる。二つの形があって、二人が同じ法廷で裁かれる場合と、分離といってAさんとBさんが別々の機会に裁判が進んでいく場合。Aさんの裁判は月曜日、Bさんの裁判は水曜日ということが平然として行なわれる。Aさんは証拠を全部同意する、自白調書も認める、Bさんに関する証拠も全部認める。裁判官は、AさんもBさんも両方の証拠を全部見る。ところがBさんの方は否認しているから、証拠は不同意で、捜査段階の自白調書は証拠にならない。証人で調べることになる。同じ裁判官が、片方では「有罪です」と言っている証拠を読み、片方では「無罪です」と言っている話を聞く。予断そのものだ。通常ならば、その裁判官は忌避される。しかし今の日本の裁判所は、それは忌避の理由にならない。裁判官は職業的プロフェッショナルだから、頭の中で区別できるという。もっと典型的なケース、Aさんは「私がやりました」とずっと認めてる。Bさんも捜査段階で「私はやりました」と認めさせられる。しかし裁判になって、「私はやっぱりやってません」「自白させられた」と言った時に、Aさんの方ではBさんの調書も証拠として出てるから、それを読んじゃう。ところがBさんの法廷では、「拷問によって得られたものだから、証拠排除。同意できません」と、自白調書は出て来ない。裁判官は、月曜日の裁判ではBさんがやりましたという調書を読む。水曜日の裁判では、Bさんはやりませんでしたという話を聞く。結局頭の中では、Bさんの自白調書を全部読んでいることになってしまう。これが本当に公平と言えるかどうか。

実は、これは裁判だけの問題ではなくて、裁判所もやはり大変重要な問題になってくる。例えばオウム事件の場合、地下鉄のサリン事件があった。これはどこを狙ったかというと、警視庁と裁判所。一番彼らがターゲットにしたのは裁判所だった。霞ヶ関は裁判所がある場所。そこに裁判官、裁判所の職員が出勤する時間、午前八時を狙った。つまり、東京地方裁判所というのは、あの事件における被害者。地下鉄サリン事件からすでに一〇年が経っているにもかかわらず、今なお、東京地方裁判所に入るには、身体検査なり金属探知器の検査がある。ターゲットにされている、と彼らは考えている。つまり、一方では被害者である裁判官が、あるいは被害者である裁判所に属する裁判官が、オウムのサリン事件を裁く。通常だとこれは公平な裁判とはいえないので、裁判地を変える、管轄を変えるというのが当り前。日本だとほとんど一元化された情報社会だけども、地域によっては全然違う。例えばカレー事件の場合、和歌山の地域の被害者の人達にとっては、必ず犯人が捕まってもらわないと困る。犯人がいるから不安ではなくて、誰かが捕まってもらわないと自分が疑われる。小さな自治会、七十世帯二百人ぐらいのコミュニティだから、誰かが捕まらないと全員が疑われるという構造になっている。そういう和歌山で裁判をやるということは、絶対に誰かが有罪になってもらわないと困る、地域の総意として。だから、激しく彼女は非難され、彼女が犯人だと言い続けることが、他の人たちの安心材料になる。事件が起こった後は全員が不信感でお互い同士を見る、口も聞かない状態が続いた。ところが、林真須美さんが捕まると同時に、会話が始まる。自分たちの潔白はそれで証明される。そういう構造の中にあるから、和歌山で裁判をすること自体、もともと公平な裁判所といえるはずはない。日本の場合、裁判所に対する忌避の制度は全く認められていない。だから、大変不公平な地域で、不公平な結論が予定された所で、裁判が行なわれていると言ってもいいだろうと思う。それが、公平な裁判所が確保されていない、ということだと思う。

それから、法曹—弁護士と検察官と裁判官を法曹三者と呼んでいるーの人たちに対する責任追及の手段が現実に認められていない。例えば免田さんのえん罪を作り上げた無数の人たち、誰一人責任を問われていない。赤堀さんの場合でもそうだ。つまり、責任を追及されないから、何でもやりたいことができるというのが日本の法曹制度。確かに、裁判官に対しては弾劾裁判所という制度があるが、弾劾裁判にかけられることはまずない。かけられたところで、責任を追及されることはない。弁護士も懲戒請求があるが、懲戒請求にかけられるケースはだいたい民事事件で、預かったお金を使ってしまったというケース。刑事事件において、被告人、被疑者が自分の弁護人を訴えるということはまず聞いたことがない。結局、被告人、被疑者にとっては、弁護士が絶対。自分についている弁護人を解任した場合に、本当に次の人がついてくれるかどうか、保障は一切ない。弁護人を訴えたところで、弁護士会が本当にその弁護人に対して懲罰、決議を上げてくれるかどうかでさえ期待できない。弁護人が「これは絶対に無罪になる」と言って裁判をやったが、いざフタを開けてみると有罪になる。そうすると弁護人は、「あれは、裁判所が悪いんだ」と言い出す。時には「あなたが自白などするから有罪になるんだ」と被告人のせいにする。つまり、弁護士そのものが責任を問われないでずっといままで来た。これは、むしろ戦後の問題があって、政治家などは戦争責任を追及されたが、法曹三者は戦争責任を一切追及されなかった。治安維持法で無茶苦茶な死刑判決を出した人達でも、ちゃんと戦後は裁判官として通用した。陸軍の法務官として死刑判決を出した、軍法会議で死刑判決を出した人達も、そのまま戦後、司法権の独立の中で、裁判官としてちゃんと職を得てやってきた。司法の場面は、誰も責任を問われないで今日まで来ている。無問責だ。だから裁判官は、間違った判決を出したところで別に誰にも責任を問われないので、痛痒を感じずに、その場限りの判決を出していくという風土ができている。

それから、誤った裁判の是正。これは、袴田さんの事件を考えればよくわかるが、一度出た裁判はそう簡単にひっくり返らない。戦後(再審無罪になった死刑事件)四事件があったが、この前、ようやく名張事件で、初めて四事件以降の再審開始決定が出たが、それ以外はまず認められることはない。再審を開始するかしないかは、結局、裁判所が判断する。再審を開始するというのは、前の裁判が誤りであることを裁判所が自ら認めることだから、そう簡単に認めるわけがない。自分の先輩の裁判官が出した裁判が誤りだという。ましてや死刑事件だと、とんでもない誤りを後輩の裁判官が認めるわけだから、安易に認められるはずはない。やっぱり、誤った裁判を是正するのは、裁判所ではとても無理。もともと第三者機関でない限り誤った裁判を是正する資格はないにもかかわらず、それを裁判所に任しているということ自体が大変大きな問題がある。

実は昨年、新しい再審制度がイギリスで行なわれているということで、見に行ったことがある。イギリスでは、IRAの事件が多数発生し、えん罪がかなり出た。しかもその後、バーミンガムシックスといわれる一連のバーミンガムで起こった六件の事件が、連続的にえん罪であることが発覚した。それで、えん罪であるかどうかについて見直す新しいシステムが必要だと。従来、日本と同じように裁判所に対して再審請求をしていたのを、再審委員会という独立の委員会を設けた。再審委員会には、弁護士も裁判官も検察官もなるけれども、公認会計士とか、化学薬品会社の研究者とか、つまり専門家集団としてなる。しかも彼らは特権を持っていて、警察、検察のコンピュータの端末に自由に入ることができる。しかも公務員は調査に対して守秘義務を行使できない。全部洗いざらい委員会に暴かれることになる。この委員会の人たちが、弁護士の質の悪さ、警察、検察官が嘘をつくこと、裁判官が警察、警察官を信頼することによってえん罪が起こるんだと言っていた。そして、えん罪かどうかを発見するのに一番最高のものは何かというと、捜査報告書だと言う。警察、検察が事件を捜査する時には、必ず捜査報告書を作る。聞き込み捜査した結果を、報告書にして全部上にあげていく。そうすると、警察がどういう捜査をしたか、どういう証人を調べたか、どういう目撃者を捜したかというのが全部明らかになってくる。和歌山のカレー事件でも、何千人という人たちを聞き込んでいく。そうして捜査報告書がザッとできる。その中で、林真須美さんを犯人とするに足りる目撃者だけを、今度は捜査し始める。しかも、林さんを有罪にする供述だけを証拠として調書として取っていく。参考人、目撃者の供述調書があるけれども、すでに犯人が決まっていて、その犯人を有罪にするための調書しか出てこない。だから、検察は裁判所に「林さんが犯人だ、犯人らしい」という証拠しか出してこない。「Bさんもあそこにいるのを見た」「Cさんもカレーの鍋の近くにいたのを見た」という話は、全部出てこない。そういう話は、捜査報告書に唯一出てくる。しかしそれは証拠じゃないから、絶対に警察は開示しない。名張事件の弁護団は、検察に対して「捜査報告書を出せ」と大変強く求めたが、今なお出てこない。名張事件というのは、あの村の中の誰かが、ぶどう酒の中に毒—ニッカリンを入れた。全員に聞き込んでいるが、奥西さんが犯人だと思われるような証拠しか出てこない。捜査報告書を出せば、いろんな人のいろんな目撃供述が全部出てくる。だから弁護団は、とにかく捜査報告書を出せと検察に求め続けたけれど、結局、検察は出さない。

イギリスの再審委員会は、まず捜査報告書に着目する。どうしてこの犯人に絞ったのかという流れを見る。そして、そこに証拠のねつ造とか証拠のトリミングー都合のいいところだけを取るーがなされていないかを調べていく。捜査報告書は警察の内部書類だから、結局、コンピュータの中に入り込んでいる。だから、コンピュータ端末に、再審委員会が自由に中に入ることができるということを認める。話に聞くと、一九九七年からスタートして、もう三百件の再審開始決定を出している、と言っていた。ところが日本の場合は裁判所がやる。しかも、再審に関する再審法という法律さえまともにできてなくて、全く法律のない状態だ。再審については、条文がせいぜい七つぐらいしかない。何をやるか、どういう権利があるか、全然定まってもいない。袴田事件でも大変皆さん方苦労していて、証拠を一つ引っ張り出すだけでもなかなか検察官は出してこない、というのが実状だ。

制度としては、四つの視点から見たけれども、どの場面から見ても、システムそのものが公正さを維持しているとはおよそいえない。そういうものを支えている人たちが、いったいどういう状態なのか、資源の問題から見ていこうと思う。法曹三者は、全員、司法試験に受からなきゃならない。もちろん例外は一部ある。例えば、大学法学部の教授、教員は、司法試験なしで法曹になることはできる。最近だとさらに拡大されて、国会議員も法曹になる資格を一定の条件の下に得られる。少しずつ拡大されているが、基本的には司法試験を受けなきゃならない。従来は、受験資格は基本的にない。短大以上を卒業した人は、短答式試験と論文試験と面接試験、三つの試験に合格すれば司法試験に合格する。司法研修所で二年間の研修を受けて、選択に応じて、裁判官、検察官、弁護士を自分で選択して就職していくことになる。ところが、一万二千人位の弁護士があまりにも少なすぎる、五万人に増やそうと、司法試験は一気に改革され始めた。まず、二年間の養成期間を一年半、将来一年に縮める。法科大学院という新しい制度を設けて、そこを卒業した人が特別の枠で受験資格があって、合格率を良くする。現在は約二人に一人、将来は全員が受かるようにする、と言われている。前は年間に五百人ぐらいしか受からなかったが、今は千五百人が受かるような状態になってるし、カリキュラムも少なくなって、より修習が早く終わるようになった。昔は、修習生の頃は、国から給与をもらっていたが、今度は貸付金、後ほど返す制度に切り替わりつつある。一方では、法曹が増えるということは、過疎の村にも弁護士が行くようになる、企業に弁護士が固まるのではなく、いろんな事件をやってくれる弁護士が増えると歓迎する人達もいる。しかし一方では、それに対して大変疑問視する人達もいて、結局、企業が安く弁護士を使うための法曹人口の拡大にしかならないんじゃないか、とも言われている。一番大きな問題は、法科大学院を出た人たちを優先的に弁護士にさせることが本当に正しいかという問題。つまり、司法に携わる人間が、専門教育を受けたということだけで優先的に司法官になれるのであれば、司法になる場面のバックグラウンドをどんどん狭めていくんではないだろうか。具体的に言えば、法学部に入るだけの経済的余裕があって、なおかつ、それを卒業して法科大学院にも入れる余裕がある人たちでない限り、裁判官にも検察官にも弁護士にもなれない。間口を狭めていいのだろうかというのが、現在問われている。

それから、裁判官の独立。裁判官の独立性については、憲法で保障されていて、「裁判官は、自由に自分の良心に従って、結論を出せる」というのが建前になっている。ところが実際はそうではない。一九六〇年代までは、各裁判所にある裁判官会議というのが裁判所の中の最高の決定機関だった。司法行政というが、裁判所の中の運営をどうやっていくかは、裁判官の会議によって決める。十年目の裁判官、十五年目の裁判官、全部同じ一票で決める、というシステムだった。ところが、それが一気に変わったー裁判官会議というのは残されているけれども。だいたい普通、合議制は三人。裁判所は、例えば刑事だと、刑事一部、二部、三部と別れている。一つの部は三人ないし四人の裁判官でなる。その中のトップが部長。部長が部下の評価、人事考課をする。法廷に裁判官が三人並んでいて、真ん中が部長。その部長が、右と左の裁判官の人事評価をする。部長の人事評価をするのは所長。所長の人事考課は、最高裁がやる。つまり、人事考課は、最高裁によって、一九六〇年の後半から、評価の仕方が完全に変えられてしまった。表向きには、裁判官が三人いて、裁判官が合議して、同じ一票をもって結論を出す、これを合議制という。しかし、真ん中にいる裁判官が人事考課をするわけだから、結局、右陪席、左陪席は、裁判長の意向に沿った判決を出していくというふうになる。裁判長は所長の意向に沿った判決を出す。所長は最高裁の意に沿った人事をやっていく。完全に一元化されてしまった。さらに、報告事件という制度を設けて、重要な事件、注目される事件、困難な事件は、すべて最高裁に裁判の進行状況を報告しなければならない、というシステムを作った。だから、独立して裁判をやっているように見えても、毎回、最高裁に対して報告書を出すわけだから、常に監視されている。私どもは、いわゆる「ヒラメ裁判官」と呼ぶ。上しか見ない。大変残酷物語があって、裁判官は原則として宿舎で生活しなきゃならない。一般の家に住むと、いろんな圧力を受ける可能性がある。だから、宿舎にコロニーを作ることになる。しかし、そのコロニーの中でも位(くらい)があって、下の人は上の人に対して率先して挨拶する。家族までも徹底している。だから、とにかく偉くならなきゃならない。その競争に敗れた人が、裁判官を辞めて弁護士になっていく。検察でも同じ。だから、裁判官は独立している、良心に基づき判決を出すというシステムになっているけれども、そのシステムが現実には保障されてなくて、蝕まれているというのが現状だ。

それから、法曹一元といって、司法試験を受けて合格した場合は、全員が研修所で訓練を受ける。半年間は研修所で一緒になって勉強する。それから、残りの半分は研修所で授業を受ける。残りの半分は、現地修習といって、裁判官、弁護士、検察官の見習いを全部やらされる。それで二回試験という試験を受けてなってくる。元々は全員同じ教育を受けているから、弁護士が裁判官になり、裁判官が弁護士になりという形で人事交流をするというのが建前だったが、原則として人事交流をしないままで終わる。一度裁判官になった人間は最後まで裁判官、弁護士は弁護士のまま。人事交流をしないから、結局、裁判官は純粋培養でそのままいってしまう。ところが、例外で判検交流がある。検察官と裁判官は割合頻繁に交流している。この前まで裁判官の所に座っていた人間が突然検察官になっているのが結構ある。特に訟務検事。国を相手に裁判を起こすと、法務省付きの検察官が国の代理人として出てくる。実は裁判所からの出向。この前まで裁判官として座っていた人が、突然、国側の代理人として出てくる。大変よく例に挙げられるのが、長良川の水害事件。あの時、国の責任を追及した。ある裁判官は、そこで国側の責任を認める。ある裁判官は、もともと訟務検事だったのが、その裁判では裁判官に変わる。つまり、国側の主張をした人が、人事が異動して、今度は裁判官になって判決を出すわけだから、国側の主張と基本的に同じになる。だから、行政訴訟—国とか地方公共団体の責任を追及する裁判はなかなか勝てない。人事交流で、裁判官と国側の代理人とがほとんど同僚だから、同じ感覚で裁く。だからどうしても国側が勝つ、という傾向になってくる。

それから、任期制というのがある。裁判官は、十年間で任期になり、再任という形になる。任期制があるということは、新陳代謝があって良さそうに見えるけれども、再任するかしないかは最高裁判所が決めるから、最高裁判所の目にかなわない人間は再任しない。だから、裁判官は最高裁に刃向かうようなことはしない、となる。人間的にも全く自由がきかない。独立と言われても独立し得ない。システムとしても偏頗(へんぱ)。人間としてもいろんな足かせ、手かせがある。こういう人たちが裁判をやっていくわけだから、まともな裁判ができるはずはない。

こういうものを何とか打開しようという名目のもとに、裁判員制度が導入されようとしてる、と言われている。実際どうか。この裁判員制度を導入するに当たっての法律がある。この法律の目的は、「国民に広く裁判に関与をさせることによって、裁判の信頼を回復すると同時に、裁判の公正を確保する」と言っている。従来の裁判官の偏頗な、あるいは独善的な裁判を、裁判員制度によって風穴を開けることが目的だと言われている。これに対しては、裁判員というのは一般市井の中で生活しているのでマスコミに影響されやすい。すでにマスコミに汚染された人たちが裁判員になるんだから、公正な判断が出せるはずがないという指摘をする人がいる。しかし、実際考えて見ると、裁判官もマスコミに汚染されている。例えば、オウム事件の場合でもそうだけども、どういう報道があるかというのは、裁判所の庶務課が全部その日の報道をコピーして、翌日の朝には必ず裁判官の上に乗る。世間でどういうふうに報道されているかも、ちゃんと裁判官の手元に知られるようになっている。裁判官はテレビを見ないわけじゃないから、結局は裁判官も、一般市民も、みんなマスコミには汚染されているし、マスコミの報道は気にしている。だから、いまの裁判員制度に対する批判は、必ずしも当を得てない。少なくとも、裁判官の独善さよりも、裁判員の方がまだマシだろうと思う。私からすると、裁判官はどうしようもならない。裁判官は、絶対的に公務員を信頼する。それは第一。さらに、絶対的に市民をバカにしている、疑っている。つまり、市民は犯罪を犯しやすい、卑しいという徹底した蔑視が染みついていると言っていいと思う。つまり、自分たちは本当に偉いんだ、選ばれたエリートだと思っている。少なくとも、裁判員として選ばれてくる人たちは、そういう感覚は持っていない。その点では、私はまだ救いがあると思っている。だから、裁判員制度はそれなりに救いがある制度だろうと思うけども、実はそうではなくて、裁判員制度を導入されることによって、刑事司法は一気に変わってしまった。

昨年の一一月から、新しい刑事訴訟法ができた。そこでは、どういうことが起こっているか。まず公判前整理手続という新しい制度ができた。これは、公判を開く前に、弁護士と検察官と裁判官三者で打ち合わせをする。どういう証拠か、どういう主張か、何を争うかを、公判前整理手続という密室でやる。整理し終わったところで、初めて裁判員のいる法廷で裁判を始める。だから、事前にほとんどの争点は密室の中で整理し終わっている。従来は、起訴状一本主義、予断排除の原則があって、裁判官は、裁判が始まるまでは起訴状しか読んではならない、そのほかの記録、証拠を全く見てはならない。起訴状は、単に「何々によって起訴をする」というペラペラの紙だから、どんな事件かしかわからない。それ以外のものを見ることは、予断をもって事件を見ることになるからいかんという制度だった。それから、無罪推定の原則があって、立証は全面的に検察官がしなきゃならない。検察官が立証できなければ自動的に無罪になるという原則。逆にいえば、被告人はまず検察官の立証のお手並みを見る。そして後から被告人の反証をしていく。被告人はあと出しジャンケンが認められていた。ところが公判前整理手続きでは、被告人、弁護人も、事前にここを争うと言うだけじゃなく、こういう証拠があって、これで争うということをその場で言わなきゃならない。手の内を全部さらさなければならない。裁判所は事前に証拠も見るし、主張も見る。だから予断排除なんてない、もう予断を持っている。手の内も全部見えている。そして「失権効」。公判前整理手続の過程の中で、弁護人が言わなかった証拠は、原則として後から出せない。あと出しジャンケンは認めない。何を意味しているかというと、裁判の公開ではなくて、密室でやられるということが一つ。もう一つは、被告人、弁護人が大変な負担を背負わされる。対等な力を持っていたら話は別。しかし、検察官と弁護人、被告人とは、全くの力の差がある。検察官は、全面的な強制権限を持っている。捜索も、公務所などに照会することもできる。銀行に対して、証拠を出せと言うこともできる。もっと強いのは、被告人を拘束しておくことができる。ところが、弁護人や被告人の方は、そんな権限は何にもない。ところがそれを対等に裁判の前でやらされる。なぜそういう制度を設けたかというと、裁判員制度を導入したから。つまり、裁判員の人にそんな細かい手続をずっと見せるわけにはいかない。何日も何日も、証拠調べに立ち会わせるわけにはいかない。お互いで整理したエッセンスだけを裁判員が判断すればいいという。だからこんな制度が設けられてしまった。

さらに、弁護人なき裁判。私たちは弁護人抜きの裁判と呼んでるが、実質、それが可能になってきた。公判前整理手続に出頭しない恐れがある場合、出頭しても途中で退席する恐れがある場合、現実に退席した場合、あるいは現実に欠席した場合、公判—実際の裁判に弁護人が出頭しない恐れがある場合、出頭しても退廷する恐れがある場合、現実に退廷した場合、現実に欠席した場合には、裁判所は別途、国選弁護人を選任することができる、という新しい規定ができた。例えば、私はこの前の光市の事件で、最高裁を欠席しました。欠席する前の段階で欠席届を出すと、裁判所は別の国選弁護人を選んで、あの三月一五日に裁判を終わらせることできるようになっちゃった。ところが選ばれるのは、裁判所の因果を含められたーその日に裁判を終わらせるためだけに選ばれた国選弁護人。その弁護人が、被告人のために弁護活動をするはずはない。私は大変非難されているけれども、もう少し言うと、二月二七日に、(被告人)本人と広島で初めて会った。すると、彼は「実は、事実は違うんですよ」と言い始めた。彼は、判決も手元にない、証拠も全然見てない。被告人が判決をもらえる権利はどこにもない。被告人は、一枚六〇円のお金を出さないと判決は手に入らない。証拠は自分で直接見ることはできない。弁護人が一枚四〇円出してコピーを取って、それをさらにコピーして被告人に入れて、記録が読める。だから、彼は一審の無期判決も持っていない。控訴審で無期だったが、それも持っていない。検察官に上告されたけども、上告された上告申立書も上告趣意書も持っていない。何にもない。だから、自分が何を裁かれているか具体的にわからない。どんな証拠で裁かれるかもわからない。それが被告人の現実だ。そういう状況で物事が進んで来る。会いに行ったら「実はそうじゃない」という話になる。ところが一週間後に弁論が迫っている。最高裁判所が弁論を入れるというのは、元の判決をひっくり返すためだし、弁論を入れたらすぐ判決になる。つまり、判決をするために弁論を開くわけだから、弁論が開かれてしまうと、もうそれで裁判が終わってしまう。一週間の間に何事もできるわけない。それで三月二日、延期申請を出した。一五日に迫ってたから。朝、延期申請を出すと、午後になって即、延期申請の却下を言ってきた。普通だったら、延期申請を出せば、当然こちらが話をして、いつにしようかという話になるが、事情も何も聞かずに一方的に却下してくる。その段階で私どもが怒って、何言ってんだって話になったら、三月一五日に出て来ない恐れがあると、別の弁護人が選ばれてたんだろうと思う。そういうことがあったから、私どもは、三月一四日の午後に欠席届を出した。そうすると、もう半日しかないから、国選弁護人が選ばれないままで裁判が開かれた。弁護人がいないと裁判を開くことはできないから、結局三月一五日は、いったん法廷は開いたけれども、弁護人を思い切り非難して、裁判が開けないと終わらせてしまった。こちらとしては緊急の事態だった。しかし、今の新しい法律は、私どもがもっと早い段階で欠席届など出しておれば、違う弁護人でこの裁判は行なわれていた。確かに弁護士のついた裁判ではあるけれども、その弁護士が本当に弁護人と言えるだろうか。つまり、弁護人のいない裁判が行なわれるようになった。新しい制度ができてしまった。なぜかというと、やはり理由としては裁判員制度。裁判員が仕事を休んでまで裁判所に来てるのに、弁護士が欠席したから裁判開けないーそんなとんでもないことはさせないという話。近代司法の中で、弁護人のいない裁判は絶対存在してはならないという原則になっている。だから、どんな過酷な国でも弁護人が選ばれる。フセイン元大統領に対する裁判でも、ちゃんと弁護人が選ばれるようになっている。近代司法の中で、弁護人を選ばないこと自体司法じゃないという大原則があるので、結局弁護人を選ばなきゃならない。しかし、どのような弁護人を選ぶかというのが大変重要。ところが、実質上、弁護人のない裁判ができるように変わった。

さらに、もっと大きなことが起こっている。裁判所は、被告人を公判前整理手続の所に呼び出して、直接事情を聞くことができる。その場合には、弁護人と被告人が連名で陳述書を出さなきゃならないという新しい法律ができた。裁判所が被告人と会うのは、普通は法廷でしかない。ところが、わざわざ公判前整理手続の場に呼び出すことができるということはどういうことかというと、弁護人が「これについては争います」と言っている。しかし、裁判所の方は「もしかしたら、被告人は争わないと考えているかも知れない」と。それで被告人を呼んで来て、「本当にあんた、争うつもりなの?」と聞く。弁護人と被告人を分断させる。弁護人は、被告人が「認める」といくら言ったところで、やっぱりこの人はやってないと思ってれば、戦う。この人は身代わりだと思ったら、「身代わりです」とはっきり言う。つまり、真実を追求することが弁護人の責任になる。だから、被告人と利害が対立することがいくらでもある。最終的には理解を得ることになるけれども、時には、被告人と考え方が変ることがある。例えば、被告人が、本当はやってないけども、やったと認めて早く出たいという場合、弁護人は、何とかがんばれよと一所懸命励ます。ところが、裁判所は早く終わらせたいと思ったら、被告人を呼んで、「弁護人はあんなこと言ってるけども、本当にあんた戦うの」という話になる。つまり、弁護人の援助を受ける権利を、そこで事実上放棄させてしまう。裁判所は自分を裁こうとしているわけだから、被告人が裁判所の唇を見て裁判所に従うのは当たり前。弁護人のアドバイスじゃなくて、裁判所の顔色に従わざるを得なくなってくる。そういう制度も新しくできた。なぜかというと、弁護人にむやみに争わせないためだ。この前、この先取りが起こった。麻原彰晃という人が控訴審の段階で、訴訟能力があるかどうか大変に争いになったケース。その時に裁判所は、弁護人に告げずに、東京拘置所に自ら直接出かけて行って、麻原さんに「あなたにはこういう権利がありますよ」と説明した。そしたら「ふんふん」といったような雰囲気で首を振ったから、彼は理解できている、と。一五〇回以上面会している弁護人に言わせれば、麻原さんは、いつでも震えている。私の一審の時でもそう。最後の方になると、クーッと震え続ける。密室の中で、弁護人の援助を得ないまま、裁判所が直接被告人に会って心証を作るという、とんでもないことが起こる。それが、今回の法律では認められることになってしまった。

最高裁を欠席した後、即、裁判所から「次の四月一四日の弁論期日には出頭せよ」という出頭命令が出た。「在廷せよ」ー出頭したら勝手に出て行ってはならんという命令も出た。今までは、裁判所が弁護人に対して命令をするなんて、原則としてなかった。唯一あるのは、「法廷の秩序を維持する法律」。法廷が開かれている最中には、裁判官は法廷の主宰者として、被告人、検察官、弁護人、出席している当事者、傍聴人に対して命令を発することができる。発言禁止とか、着席命令とか、退廷命令とか。今まで裁判所と弁護人とは対等だった。ところが今回の新しい法律で、裁判所は弁護人に対して一方的に命令し、命令に従わない場合には制裁措置を科すことができる。裁判所は一歩上に上がってしまった。それもやはり裁判員制度、つまり事前に命令を出して、絶対に弁護人にすっぽかさせないということを確保するためだ。最後に、連日裁判。原則として毎日裁判をやれ、主尋問の後は必ず反対尋問を連続してやれ、という法律の中身になった。これも、裁判を迅速に終わらせるため。裁判員に迷惑をかけるわけにはいかない、というわけだ。

いま世の中で、裁判員制度が裁判に新しい風を入れる、国民の監視の下に裁判を置く、あるいは、国民のー国民といっても、国籍でやるわけだからとんでもない話だがー、いわゆる世間一般の常識が通用する裁判をやるんだと言っている。しかしその名の下に、刑事訴訟の大改悪、今まで戦後六十年の間ずっと培ってきた刑事訴訟が、完全にひっくり返ってしまった。こういう状況の中で、本当にまともな裁判ができるだろうか。裁判官は、すべての証拠を事前に見ちゃうから、予断を持っている。弁護人の方は、主張も証拠も全部事前に明らかにしなきゃならない。証拠を出せばどういうことが起こるか。検察官につぶされるのは目に見えている。例えば、私がやった村松兄弟事件。村松さん兄弟が、今だと東武動物公園の駅の近くで、夜中に民家に押し入って親子を殺して火を付けたという嫌疑を受けて、死刑になっているケースがある。そのケースで、事件の日に、キャバレーのホステスさんとホテルに行っていたというアリバイが出てきた。そのホステスさんの話を聞いて、毎日の行動を追いかけていくと、確かに一緒にその日の晩ホテルに行っているという証拠までつかめた。当時の弁護人は、これは最大の証拠だと、その女性の陳述書を取って、検察庁に駆け込んだ。そしたら処分保留になった。強盗殺人と現住建造物放火で逮捕、勾留されて、起訴日に処分保留で、処分を決めなかった。村松兄弟は、日光でも強盗をやって、そっちの方ですでに勾留、起訴されていたから、処分保留になっても身柄は外に出て来なかった。そして一ヶ月後、強盗殺人で起訴された。処分保留は一気に一転した。あれからもう二五年経つけども、そのホステスさん—ひとみさんの行方は全くわからない。一歳の子供さんを施設に預けたまま、実家とも接触を取っていない。つまり、そのアリバイ証人は完全に消えてしまった。それで検察官が出してきた証拠は、拓大生が「実はアリバイの日には、ひとみさんと一緒にドライブしていました」というアリバイ供述がボーンと出てきた。真相はわからない。なぜ、ひとみさんが今になっても見つからないのか、痕跡さえもないのかわからない。しかし、弁護人が証拠を出すということがどういうことか、これで大変よくわかる。私どもが、当たり前のこととして、被告人に有利な証拠は最後まで残しておく。不用意に出せば必ず検察官につぶされる。しかし、そういうことも通用しなくなって来た。これが、いま行なわれようとしている、裁判員制度だ。

昨年の十一月から、裁判員制度が導入されていないにもかかわらず、裁判員制度を導入することを前提とした、公判前整理手続などがどんどんやられている。例えばこの前、死刑確定者の数が、法務省が発表する数と、僕たちがずっとフォローしている数が一人違っていた。ようやくわかったが、神戸の事件で公判前整理手続が開かれ、連日裁判で、起訴されてわずか三ヶ月で死刑判決が出た。だから、報道される暇(いとま)のないまま、死刑が確定してしまった。判決を受けた人は控訴しなかった。だから、こちらがその人をフォローできなかった。まだまだ裁判は続いている、そんなに早く裁判なんて終わるはずがないと思って、終わっちゃう。ましてや「私がやりました」というケースだと、公判前整理手続もすぐ終わってしまう。裁判も連日裁判だから、すぐ終わってしまう。真相などおよそ究明できない。あるいは、えん罪などを主張する場合も、いろんな証人をずっと調べていくなんてできなくなってくる。だから、お金のある人、たくさんの弁護人を雇うことができる人だけが、これからの裁判をやっていけるということになる。一日に五人、六人と、平気で証人を調べることになる。主尋問の後、すぐに反対尋問をやる、争点も整理することになるから、聞くことも限られる。一日六人証人を調べるとしたら、最低六人の弁護人を雇わないと、やっていけなくなる。公判前整理手続で、ほとんど連日やっている堀江さんだけども、結局あの人は五人弁護人を雇ってやっている。ああいうケースでないと、公判前整理手続ができなくなってしまったということになる。前半で「日本の刑事裁判は本当に信用できるか」と言ったけれども、信用できない。さらにこれからもっとひどい状態になる。これを何とかしなけりゃならないが、どうしようもない。昨年のころは、「日本の刑事司法は、刑事裁判は、死んだ」というふうに言ってたけれども、最近は少し思い直して「刑事裁判は、本当に殺された」という状態になってきたなあ、というふうに思っている。

だいぶん時間をオーバーして申し訳ありませんでした。だいたい、今日お話したかったことです。

◆質疑応答の後、最後に安田先生から(ゆる)しについてお話がありました◆   

今から一五年前くらい、名古屋アベック殺人事件の弁護をやったことがありまして、これは永山さんが少年で死刑になった後、はじめて少年に対して死刑判決が出たケースです。少年五人と青年—二〇歳になったばかりー六人で、アベックを襲って女性を強姦し、二人からお金を取って、最初は男の子を殺して、次に女の子を殺して、二人を穴を掘って埋めたという事件です。大変残忍だと。しかも男の子を殺す時、首にひもを巻いてお互い同士で引っ張るんですけども、煙草を吸いながら、「綱引きだぜ、いっせいのせ」って引っ張った。男の子の方は命乞いをする。命乞いをしてても引っ張り続けて殺した。今度女の子を殺す時にはー男の子はボーイフレンドで、おにいちゃんていう呼び方をしていたーおにいちゃんのところに連れて行ってほしい、早く殺して欲しいと。殺した子供達は、パンを買って、残された女の子に与えるんですけども、食べないんですね。あんた方私を殺そうとしてるから、殺された後このパンを持って一緒におにいちゃんと食べるんだと、そういう話まで出るくらいの事件だったんです。ものすごい残忍だということで、一審で主犯とされた子ども(一九才)に対して、死刑判決が出ました。二審で僕たちが担当したんです。その時、被害者に何とか許してもらわなければならないというので、死刑判決を言い渡された子の両親なんかが一所懸命、私どももそうですが、謝りに行ったんですけども、女の子さんのお父さんが大変に厳しい人でー当たり前なんですけどー会ってももらえなかったわけです。激しい怒りっていうのはとても収まらなかった。でも、高裁で一審の死刑が破棄されて無期になった。いろんな事情があったわけですけども、それをお話していたらたいへん長くなります。今日はその話はやめます。実は事実は大分違ってたんです。

当然確定しますと、彼は岡山刑務所に連れて行かれる。私どもとは全く音信が途絶えた。確定してから一〇年後になって、ようやく彼のお母さんから手紙が来るんですね。うれしい知らせを伝えたい、その中身がこうなんです。××ちゃんが確定してから、(被害者二人の)お父さんとお母さんに謝罪の手紙と作業賞与金を毎年送っていた。九年目に、はじめて、全く許してもらえなかったお父さんから「頑張れよ」という手紙をもらえた、という手紙が届くんです。その手紙の全文をこの前見せてもらったんですが、実はその前の年から赦してらっしゃった。謝罪の手紙と作業賞与金を仏壇に供えた。返事を書かなきゃならなかったんだけども、病気のために書けなかった。ようやく病気が良くなったから、手紙の返事を書きます、遅くなってごめんなさい。とにかく頑張って下さいっていう赦しの手紙がくるんです。つまり、事件の最中はとてもとても許してもらえない。今の光市の本村さんと一緒です。絶対に許さない。しかし十年の歳月がたって、彼が十年間一所懸命頑張って、謝罪の手紙をし続けるということで、お父さんが赦す。一審の判決はこういうこと言ってたんです。この子達は鬼畜にも勝る。ましてや命乞いをした男の子を、命乞いをしているにもかかわらず、それを聞きながら殺した。これはもう絶対許せない事だ。だから少年でも死刑だ、と。しかもその中で、誰も死刑を選択するだろうとまで言ってる。しかし彼を死刑にした場合に、この十年後の赦しはあっただろうか。お父さんは、もし彼の謝罪がなかったら、今のような気持ちになれただろうか。憎しみが残ってたかもしれない。僕は死刑は絶対なくさなければならないと思ってるんです。それは人道に反するだけじゃなくて、死刑によっては絶対にものを生まない。人間の信頼は回復しない。僕はそれを見て、人間はこんなにすごいものなのか、人間はこれほど信頼できるものなのか。この××ちゃんというのは、僕たち別れる時に、謝罪を続けるなんてひとことも言いませんでした。でも彼はずーっと謝罪を続けていたんですよね。彼は赦してもらおうとして一所懸命頑張る。謝罪の手紙を書きたいと言った時に、刑務所は書かせなかったんです。なぜか。被害者の気持ちをまた混乱させるからだと。せっかく事件を忘れているのに、加害者から謝罪の手紙が来ると心の平安を乱すと。彼は、それでも謝罪させてくれと二年間頑張った。二年目にようやく出せるようになったんです。

その話は、実は光市の××君に伝わるんです。××君は最初、もう自分は死ぬしかないんだと言ってたんです。やっぱりこんなことをしてしまったら、自分は生きて行けないと。つらいんですよね、生きていくことが。償うって一体どうするんだと。償うって口でいうけど、嘘になっちゃうと彼は言うわけです。彼はいまキリスト者になってまして、自分を偽るようなことは言えない、自分は謝罪し続ける自信なんか何もない。むしろそれだったら、悪者になって悪者で死んで行った方がいいんだと。彼は、このまま忘れられてしまうのが一番こわいって言うんですよ。死刑はこわくない。瞬間的にはこわいけれども、わーって気張れば、恐怖なんて克服できる。死に対してたいへん近い。ところがこの××ちゃんの話を聞いて、自分はやっぱり××ちゃんみたいになりたい。一所懸命頑張って謝罪して、赦してもらいたい。自分がどうやって生きて行けばいいのかわかるというわけです。今から一所懸命、何とか××ちゃんの跡をつごう、追いかけようとしてるんですけどね。そんなことは、なかなかみなさんわかってもらえない。でも、ぜひここに集まられた人達にわかってほしいんですけども、赦す前提がない限り、人間性を回復しないし、死刑をやる中では、絶対人間は人間として生きていけないというか、人間性そのものを自分たちは殺してしまう。それがやっぱり死刑制度だなと思うんですよね。そういうエピソードがあるもんですから、ぜひ自信を持って皆さん方も死刑廃止を言って欲しいなと思ってます。(内容が変らない範囲でまとめさせて頂きました)

・この文章は、あくまで安田先生の講演を「袴田巌さんを救う会」がまとめたものです。
 無断転載はお断りします。引用する場合は、必ず以下の出典を明記して下さい。
  無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会「キラキラ星通信」第61号掲載記事

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