平成19年5月13日更新

自殺と宗教

お供え物と共食の信仰

信なくんば立たず

歴史教育と天皇の権威

多神教

厄年と科学

鎮守の森

人を愛する基本

神様は解決のできない試練をけっしてあたえない

穢(ケガレ)と清め塩




自殺と宗教

自殺の統計的現状
警察庁の発表によれば 平成十七年度の自殺者の数は三二五五二人、八年連続三万人を超えている。この状況は世界と比較して、どのように判断すればよいのか。
 フリー百科事典ウィキペディアによれば、自殺率(人口十万人あたりの自殺者数)では日本が先進国G7諸国中で一位、OECD加盟国では二位(一位はハンガリー)となっている。世界国別の自殺率上位十カ国中日本は十位、九位以上はすべて東欧・旧ソ連の旧社会主義国であり、旧西側諸国の間では日本が一位なのだ。この統計から言える事は、日本は先進国でありながら、先進国とは異なる社会状況にあると言える。
 それでは東欧・旧ソ連の旧社会主義国との共通点は何であろう。それは唯物論による宗教心の荒廃である。
 戦後日本は激しい共産化の嵐が吹き荒れた。お仕着せ憲法である日本国憲法の影響もあり、特に公教育の現場では、日教組の共産化教育により宗教は排除された。イジメ自殺に対し、これと言った手立てもなく、狼狽えている大人達を見ていると、宗教心なくして命の尊厳は語れないことを改めて感じる。「命は己のものであって、己のものではない、天寿を全うすることを義務づけられたものである」この事をハッキリと言い切らなければ、命の尊厳は成り立たないのだ。

教えと自殺
キリスト教およびイスラーム、儒教では、自殺は宗教的に禁止されている。欧米やイスラーム諸国では自殺は犯罪と考えられ、自殺者には葬式が行われないなどの社会的な制約が課せらる場合もあるという。かつては、教会の墓地に埋葬することも許されなかった。宗教的戒めが強いと言える。
 対照的にヒンドゥー教には、夫が死ねば妻も焼身自殺するという、寡婦殉死(サティー)の風習があった。仏教でも、死は永遠ではなく輪廻・転生により生とは隔て難いものであり、また日本仏教には即身仏信仰など「己を捨てる」ことを美徳とする考えがある。必ずしも自殺を否定していないが、だからといって自殺者の数が多いかと言えば、国別の自殺率ランキングではインドは四十四位、タイは七十七位であり、中国やヨーロッパ諸国より低い。
 ヒンドゥー教や仏教は自殺を否定しないと言っても、輪廻転生によってカルマ(業)を克服しなければ、来世で同じ苦しみを味わうことを説いている。自殺を単純に論ずるのではなく、内面のあり方により、一様ではないとの考えた。しかし、この教えが自殺の抑止力になっている事は間違いない。

神道と自殺
 さて神道に於いてこの自殺問題を考える場合、何を糸口とするか。私は武士道に於ける切腹を取り上げたい。
 切腹の起源については諸説あるが、文献学上の所見は『播磨国風土記』に腹辟沼(はらさきぬま)という条があり、その様式は確かに切腹といえる。その内容は花浪の神の妻である淡海神が夫婦のいさかいから沼のほとりで腹を切って自害する話だ。切腹は潔白の証や名誉を守る手段としての側面が強いのだが、清明正直を尊ぶ神道の価値観がここにあると考えることも出来る。しかし、私は更に神道的説を紹介したい。
 樋口清之氏は「梅干しと日本刀」の中で切腹は再生の儀式と論じている。山口県の土井ヶ浜遺跡で、十三本の矢を打ち込まれ、顔面を打ち砕かれた、弥生時代の人骨発見された。腕にはゴホウラ貝の腕輪を二本している事から、シャーマンと考えられている。樋口氏は呪力が衰えたシャーマンが、過酷な死を選択し魂に強い試練を与え、更なる強い呪力を得て、生まれ変わろうとする儀式であり、これが武士道に於ける切腹の起源と論じている。
 戦国時代の武将中山鹿之助は三日月に「我に七難八苦を与えた給え」と祈ったと伝えられるが、切腹は試練を積極的に受け入れる行為であり、苦しみから逃げようとする自殺とは正反対のもの自決と言える。「神から与えられた人生は、神から与えられた試練である」逃げることは出来ないのだ。
 日本は地震、台風、水害と世界的に観ても自然風土が厳しい環境である。その自然を神とする日本人が、生きることを試練と考え、「物の哀れ」を見出したとしても何ら不思議ではない。
 それでは苦しみから逃げようと自殺をした霊はどうなるのか、神道の考えの一つとして御霊(ごりょう)信仰がある。人々を脅かすような天災・伝染病等の発生を、怨みを持って死んだり、非業の死を遂げた人間の怨霊、御霊のしわざと見なして恐怖し、祟りを鎮めて平穏と繁栄を実現しようとする信仰のことであるが、この事からすれば自殺した霊は昇天出来ず、この世を彷徨い荒んだ精神のまま苦しみ続ける事となる。
神道は自殺と自決を区別して捉えいる、けっして自殺を容認している分けではない。しかし、その区別はあくまで内面の問題であり、外見で判断できるものではないのだ。例えば三島由紀夫の割腹自殺をある人は愚かなドンキホーテと言い。ある人は三島の思想は自決によって永遠のものに成った評する。私は三島は再生の儀式として切腹したと考えている。それは昭和四十五年十一月二十五日は三島の自決の日であるが、この日は同時に「豊饒の海」第四巻「天人五衰」の最後の原稿が書き上がった日でもあるのだ。「豊饒の海」は本多繁邦を観察者に仕立てた輪廻転生の物語であり、この事から私は三島は更なる強い魂の再生と日本伝統の復活を期して切腹したと、私は確信している。

個人主義と自殺
 日本社会の自殺問題は、宗教心の荒廃と伝統基盤の浸食が重層的な形状を成している。戦後日本を蹂躙したのは共産主義思想だけではない、アメリカニズムは今も尚猛威振るっている。日本の伝統を寸断するアメリカニズムに個人主義がある。個人主義は本来神との個人の一対一の対話の中に存在し、神なくして個人主義はあり得なかった。古代ギリシャの時代から思想はあるが、西洋に広く普及確立したのは、プロテスタントニズムの影響が大きく、プロテスタントの国アメリカの基本精神の一つである。この個人主義と共産主義の唯物論が結びついてしまった事に、自殺問題の深い病理がある。神なき個人主義は日本人をニヒリズム(虚無主義)に陥れた。日本人が大切にしてきた地縁、血縁、義理人情はバラバラに切断され、家族の絆さえも危うい状態である。神なき個人主義に於いて命はあくまで個人の物であり、本人がいらないと思えば止める術はない。肉体もまた個人の物であり、売春をする少女に「誰にも迷惑かけてない」と開き直られ、親は沈黙してしまう。
 一神教の影響が大きい個人主義は、多神教の日本人にはなかなか理解しがたい思想と言える。まして神なき個人主義は単なる利己主義、功利主義にしか成り得なかった。この身勝手主義は人々を孤独にし、本来思いやりの精神で絆を深め、その絆の中で安定と安心を確保してきた日本人は、孤独地獄に耐えられなかったのだ。これが年間三万人以上の自殺者を出し、先進国G7諸国中で一位、世界ランク十位という結果の根底にあると考える。
絆と宗教心の回復
 先にも述べたように、日本民族は思いやりと気遣いで、精神の安定を築き社会を育んできた。荒廃したとはいえ犯罪率は世界的に見て、まだまだ低い水準にある。我々は民族の絆を取り戻さなくてはならない。その中核として斯界には重要な役割があり責任は大きいのだが、それでは具体的にどのように取り組むべきか、民族の絆は家族の絆が基礎であり、家族の再生こそ第一歩と考える。
 家族は支え合う命の絆、感謝の気持ちが生きる自覚を促す。
 私自身子を持つ父であり、昨今のイジメ自殺には心を痛めているのだが、それではどうしたら子どもの自殺をくい止めることが出来るのか、私なりに考えをまとめてみた。
 子どもの自殺を防ぐのなら、子どもに感謝する。最近の親は子育ての大変さばかりを主張して小言ばかりを口にする(自戒も含めて)。しかし、子どものお陰で自分の人生がどれほど豊かになったことか。子どもがいるからこそ、辛くても頑張れる自分が在る。つまり、子どもはたとえ赤ん坊であっても親を支えている。子どもに親を支えていると言う、自覚と愛情があれば、たとえ辛くても生きてくれる。親が子どもの為に、歯を食い縛って生きているように。
 支え合う自覚と愛情こそが絆である。
人は自分の為だけに生きられるほど強い存在ではない。神の存在が我々人間を励まし慰め戒めてくださる。神から与えれた命であるからこそ、尊厳を認められる。
絆と宗教心の回復こそが、この国を救う道である。

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お供え物と共食の信仰

 神社では神様にお供物を捧げますが、これを神饌(しんせん)と申します。皆さんのご家庭でも神棚に米、塩、水またはお酒などをお供えしていると思います。日本人は太古より、自然を神と崇拝してきましたが、すべての食物は自然の恵みであり、神様からの贈り物なのです。神棚のお供えは、日々の食物に感謝し、その食物が神様のお恵みであることを実感する作業なのです。

 我々の祖先は共食の信仰を大切にしてきました。これは神様にお供えした食物をお下がりとして食することを直会(なおらい)といいます。神様と同じ物を食することで、神様との強い絆を実感するために行われますが、「同じ釜の飯を喰う」と言う言葉があるように、日本人は同じ物を食することをお互いの強い絆と感じてきたのです。このことは古事記にも「黄泉(よもつ)竈喰い(へぐい)」として神話に記されていますが、結婚式の三三九度、義兄弟の盃や上棟祭の餅撒きなどもその一つといえます。

 そう考えると神棚のお供物も、お下がりとして食さなくてはなりませんが、お米お水は何とかなりますが、お塩を毎日食べきることは大変ですし不健康です。また、近年は食生活の変化が激しく、毎日お米を食べる家庭も少なくなってきています。神棚にお米、お塩、お水を毎日お供えすることが、生活習慣と一致しなくなっている現実があるのです。

 このことから当社では、このような提案をしています。神棚にお供えするのは、お米、お塩、お水ではなく、その家の家長の朝食をお盆にのせ(量が多い場合は一部でもかまいません)お供えし、二拝二拍手一拝でお参りを済ませ、その後お供物をお下がりとして食するのです。朝はコーヒーしか飲まないという人は、コーヒー一杯で良いのです。

 これまで述べたように、神様のお恵みによって生かされていることを実感し、感謝の気持ちを持つことで、人は神様と強い絆で結ばれる。ここにこそお供物をし、それをお下がりとして食する共食の信仰の大きな意味があるからです。


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信なくんば立たず

孔子の弟子 子貢(シコウ)が、孔子に尋ねました。

子貢
「先生は仰いました。政治において重要なのは、食糧を十分にし、軍備を十分に し、人民には信 を持たせることだと。」
 「それではお伺いします。どうしてもやむをえず捨てるなら、三つの中どれを先に捨てますか?」

孔子
 「軍を捨てる。」

子貢
 「それでは更にお伺いします。どうしてもやむをえず捨てるなら食糧と信、二つの中どれを先に捨てますか?」

孔子
 「食糧を捨てる。(食糧が無ければ人は死ぬが)昔から誰にも死はある。人民は信が無ければ安定しない。」

若い頃、論語のこの話しを聞いて私は「信が先で食糧が最後だろう。孔子は理想主義者だなぁ。現実的じゃない。」そう考えたものです。
しかし、近年の日本の状況を観ると、二千五百年前の孔子の言葉が、ピッタリと当てはまっていることに驚きます。

戦後日本は食糧を満たす事に奔走しました。その集大成がバブル経済です。
銀行を始め政治家官僚が、目先の利益をむさぼる為に土地コロガシに走り、銀行は本来の業務を軽視し、政治は無責任な政策を行いました。まさにそれは、信を軽んじて食を重視した行いだったのです。 バブルが崩壊し、銀行も政治も国民から信用を失いました。
政治家官僚がどんなに金融の安定を主張しても、国民は信用せず消費は一向に伸びません。土地も株も円も下がり続けるのは、相互不信が根底にあるからでは無いでしょうか。

教育にも同じ事が言えるでしょう。
日教組の教師は自分達は、聖職者では無く労働者だと言い、法に従わずストを行い給与を値上げし、子供達を人質に政治活動にのめり込みました。その結果教育現場はどうなったでしょうか、子供も親たちも教師を信用しなくなったのです。
教育現場は荒廃し混乱の極みです。これもまた、信を軽んじて食を満たした結果です。

私自身も若き日、孔子を古くさいと考えた己を恥じております。永い歴史の試練に耐えて今に伝わる教えには、世間や人間に対する深い智慧が有る。伝統の力をあらためて感じ、もっと古典を学ばなければと思うこの頃です。


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歴史教育と天皇の権威

 天皇の権威はその権威を理解する、国民が居てこそ成立する権威です。それでは天皇の権威の源はとは何でしょうか。旭川神社 名誉宮司 芦原厳夫先生から以前こんな教えを戴きました。「天皇陛下とは神主の中の神主、大神主である。」 我々神主を例にして表現するのは、恐れ多いかもしれませんが、この言葉は素朴で氏子にとって分かり易いことから、私はよく引用させて戴いています。  例えば、イギリス国王と日本の天皇を比較してみます。イギリス国王はあくまで英国国教の「擁護者」であるに過ぎません。戴冠式における王位継承は、ウェストミンスター寺院において、本国イングランドとその征服国スコットランドの王冠、ガウンをそれぞれ大司教から授けられるのです。イギリスの王位は征服者としての覇権であると言えます。

 我が国の天皇は、天孫降臨の神話から始まり、国民の安寧を祈り続ける祭祀者と、統治権者の両方の性格を併せ持った存在といえます。武家政治が発達してからは、統治権の多くの部分を臣下に委譲してきました。鎌倉時代に順徳天皇が著された禁秘御抄には「神事を先にし、他事を後にす」とあり、祭祀者の権威は今も絶えることなく、皇室祭祀として引き継がれているのです。世界の国王と比較しても、極めて神秘的存在であると言えます。

 天皇の権威は信仰という神秘が根元なのです。共和国や共産国は合理主義という理屈で出来上っていますら、国の成り立ちは理屈で、国民に理解させることが出来ます。しかし、我が国は神秘が根元ですから、理屈で説明し尽くす事は不可能なのです。それでは私たちの祖先は、どのようにして天皇の権威を理解してきたのでしょうか。岩倉具視が明治憲法作成の前に、国体研究を命じ十年の歳月を費やし出した答えが、「大政紀要」の歴史書で有りました。歴史を遡れば、水戸光圀公の「大日本史」、北畠親房公の「神皇正統記」、当然これらの出発点は「古事記」「日本書紀」であります。我々の祖先は歴史という実績に触れることで、天皇の権威を実感し理解してきたのです。

 この事を重く受け止めるべきです。戦後五十六年間、天皇と国民をつなぐ、重要な歴史を蔑ろにしてきたことは、痛恨の極みで有ります。現在「新しい歴史教科書を作る会」の努力が続いておりますが、それは始まったばかりであり、とうてい十分とは言えません。憲法第一条の「象徴天皇」は、天皇の歴史的御性格を良く表していると言いますが、国家統合の象徴としての権威の源は神秘であり、これまで述べたように皇室祭祀にあります。従って皇室祭祀は国事でなければ成りません。しかし、現在は皇室の私事として位置づけられているのです。この事に疑問を感じる国民や政治家が、どれ程いるのでしょうか。この事からも天皇の権威が、十分に理解されていないことが、お分かり戴けると思います。

 皇室の歴史は、日本の歴史の背骨です。背骨の有るシャンとした歴史教育をしてこそ、天皇の権威が正しく理解され、凛とした日本人が育つものと考えます。


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多神教

 平成十三年九月十一日、アメリカに於いてイスラム教徒過激派による、同時多発テロが発生しました。六千名以上が死亡し、日本人も二十数名が帰らぬ人となりました。この事件を切っ掛けとして、アフガニスタンは戦場となり、多くの罪もない人たちが犠牲になっています。悲しいことです。何が悲しいかと言えば、この悲劇の元が宗教だと言うことが、私には何より悲しいのです。

 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、これら一神教の争いは千数百年の永きに渡り続き、未だに終わることは有りません。それはこの三宗教が、おのれの神を唯一絶対と信じ、歩み寄ることがないからです。彼らにとっては自分の宗教以外は全て邪教なのです。このところがどうしても、日本人には理解できません。、日本人の宗教の基盤は、土着信仰である神道であり、神道の根本は自然崇拝から発展した多神教です。

 多神教である、私たちは沢山の神様がいらっしゃることを、あたりまえと考えています。ですから、たとへ敵対する相手が自分達とまったく違う神様を信じていても、相手が人間であると言う事を疑うことはありません。従って、同じ人間同士なんだから話せば分かると考えます。ここには対等の人間としての価値観が有ります。しかし、一神教の人たちは自分の宗教以外を邪教と考えていますから、どうしても見下してしまうのです。よく一神教の方が「寛容な心で異教徒を許す。」という言葉を使われますが、私は日本人として、とても疑問に感じるのです。信仰が違うからといって どうして許したり許されたりしなければいけないのでしょうか、これでは対等な人間同士として話し合うことも理解し合う事も出来ません。

 日本人は一神教の方々から、宗教に対し曖昧でいい加減であると非難されます。しかし、地球は狭くなりました。この狭い空間で多様な価値観が仲良く共存する道を世界が求めています。神棚があり仏壇があり そして年末にはクリスマスツリーがある、この生活を自然に受止める事の出来る日本人を私は素晴らしいと思います。自分に誇りを持つことは大切です。しかし、それは己を律するためのものであって けして見下したり差別したりするためのものではありません。

 日本古来の信仰と伝統に、私たちはもっともっと、自信と誇りを持つべきと考えます。


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厄年と科学

 とかく神社等で行なう神事は迷信ときめつける人がありますが、しかし科学では証明できないものが信仰には存在し、それがために「ありがたい」という気持ちになることも事実なのです。

 その反面、逆に祖先から受け継いだ信仰が正しいものであることが、科学的に証明される場合もあります。

 理学博士 本川達雄教授によれば多くの生物は、体の大きいものほど心臓の鼓動は遅くて、しかも寿命は長い、逆に体の小さいものほど鼓動は早くて寿命は短いと論説されています。しかも、これを一生の時間で計算すれば、寿命の長短にかかわらず『鼓動数は二十億回』となり、象もネズミも同じ回数になるそうです。

 このことを人間にあてはめたとき、1日の平均心拍数を幾らにするかが問題ですが、一分間の平均心拍数70回とすると約54才、80回とすると約47才になります。どっちにしても、40才から50才前後か生物学的限界なのでしょう。現在の平均寿命の八十才に比べて、余りにも短すぎると思われるでしょうが、これは、文明の力によって、人間が自然界から切り離され、他の生物と違ってきたからだそうです。つまり肩が凝ったとき、マッサージをします。これは新陳代謝を外部からエネルギーを加えて、助けていることになりますから、理論上は寿命が少し延びることになるのです。

 つまり、現在の平均寿命は、自然界の法則から見れば、可成り無理をした寿命であると言えます。従って42才の厄年に成ったら、養生に努め無理はしないことが大切なようです。

  我々日本人の祖先が長い間信じてきた、数え年四十二才の厄年の意味が科学的に証明された訳ですが、科学が最近になって明らかにした事を昔の人は経験から、すでに厄年として言い伝えてた事が驚きです。

 こうした人生の節目に当たり、これまで生活させていただいたことに感謝し、又これからの人生の充実を神に祈るための厄祓祈願を忘れることなく、産土(うぶすな)の神に祈りを捧げ、その御加護をいただきたいものです。

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鎮守の森

 古来神社には森が付き物です。うっそうとした緑の中に、お宮があるというのが日本人の神社に対するイメ−ジではないでしょうか。これは祖先が自然を神と崇めてきた象徴であり神道の根底をなす信仰といっていいでしょう。

 植物、特に森は太陽の光りを、光合成によって水と反応させ花を成し、実を結び酵素を発生させます。虫も鳥も獣もそして人間もこの恩恵なしでは生きて行けません、最近では海の生物も森によって育まれいるのという研究があるくらいです。

 森を伐採すれば表土が川に流れ込み海へと運ばれます。海は泥によって酵素を失い多くの生物が死滅します。又森は雨水を蓄え、蓄えられた水は森の養分やミネラルを十分に吸収し川へ少しずつ染み入り、海へ流れ込むことによって海草類が茂り、貝類や大小の魚たちの生きる場が作られるわけで、まさに森は、天と地を結び命を育む生命の源であり、太陽と水によって命を製造する工場と言えるのです。

 私等の祖先は古来よりそのことを体験の中から知っていたのでしょう。森の中にお宮を建て大神様を奉り、森を神域として大切にしてきました。現代の科学が最近明らかにしたことを、古代から森の中に神社を建てることによって見事に表現してきた訳です。

 羽幌神社の鎮守の森は、この地に入殖した伝統信仰の念厚い私等の先輩が、生命力溢れる力強い羽幌の発展を願い一本一本植え育ててきた財産と言うべき森であります。自然の中に神を感ずる日本人の心をいつまでも絶やすことなく、森を守り、それを子孫に残して行きたいものだと思います。

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人を愛する基本

 近年,凶悪な少年犯罪が世の中を騒がせています。そう言った報道でよく聞く言葉は「愛情が足りない」とか「愛情いっぱいの教育」など愛を量で計る表現が多いように感じます。確かに一日数時間は子供と遊ぶとか年に一回は家族と旅行に行くとか,量で表現した方が分かりやすいことは事実です。しかし,量が多いからと言って愛情が伝わるとはかぎりませんし,量が少ないからと言って非行に走るとも限りません。

   私は「愛は量ではなく質」で論じるべきと考えるのです。愛は大変広範囲な意味を含んだ言葉ですから,『質のよい愛』とは何かと言っても簡単には論じられません。しかし,どんなものにも基本は有ります。私は日本の伝統文化の大きな要素,神道,仏教,儒教この三っの信仰教学の根本を絞り込むことで,日本人の『人を愛する基本』を考えてみたいと思います。

 神道は本来自然崇拝であり,自然が生み出す生命に対する 生命信仰と言えます。従って,生きる事への『励まし』考えられます。仏教は欲を滅して悟りを開くことを目指し,この世の無常を説いて慈悲を尊びます。これは,生きる事への『慰め』と理解できます。儒教は孔子を祖として,仁義,道徳,教養を重んじる,人の道を説いた現実的教学ですから,生きる事への『戒めと』位置づけられます。

 日本人は伝統的に,この三っの精神を調和させることで,家庭を営み社会を築いてきたと言えるのではないでしょうか。従って,『質のよい愛』とは『励まし』『慰め』『戒めと』 この三っの調和を整える事に心を砕く,これが『人を愛する基本』と考えられないでしょうか。

『人を愛する基本』
一, 愛する人が前向きに生きることを 『ほめて励ます』
二, 愛する人が傷ついたり挫折したときは 『優しく慰める』
三, 愛する人が自分を粗末にしたり周囲を傷つけ様とした時には 『毅然として戒める』

 この事は子育てだけではなく,家族,夫婦,恋人,友人いろいろな愛情関係に当てはまると思います。愛情関係に迷った時は,『人を愛する基本』を思い出して下さい。

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神様は解決のできない試練をけっしてあたえない

 人生には、試練がつきものです。何の苦労もなくて生きて行くことはできません。人は何らかの困難に立ち向かうために生れてくるといっても過言ではありません。避けることの出来るものなら、避けるにこしたこと事はないかもしれません。しかし、避けることのできないもの、避けてはいけないものがあります。この二つの試練には人は全力で立ち向かわなければなりません。これは神に与えられた試練だからです。したがって逃げれば追いかけられ、追いかけられる苦しみにやたら人生を無駄にしてしまうだけなのです。『神様は解決することのできない試練をけっして与えない』と言う言葉があります。

 この言葉には実に深い意味があります。私たちは神の分霊です。私等ちの魂の底には神が宿っています。したがって如何なる困難、如何なる苦しみが目の前に現れても、神に念ずることによって知恵と力が授けられ何等かの形で解決することができることを意味しているからです。言葉を変えて言うならば、あなたがもし避けることのできない避けてはならない困難に遭遇した時、こう考えてほしいのです。
 『自分はこの困難を解決できる知恵と力を授かって生れてきたのだ。自分には出来る。』自分を信じると言うことは、自分に命を授けてくれた神を信じると言うことにつながるからです。

 しかし人間は愚かな面も多々ありますから、普段の生活の中では、なかなかそのことに気づくことがありません。『苦しい時の神頼み』と言いますが、困難に遭遇して始めて手を合わせるという人が多いかもしれませんね。しかしそれは人間が本当に困った時、頼れるものは神しかないと言うことの裏返しでもあります。魂の底の神様は常に見つめていないと見え無くなってしまいます。常日頃、神棚に手を合わせると言う事は自分自身が授かった神の力を見失うことがないようにする行為でもあると言えるのではないでしょうか。

 出来れば年の初めから、神社へのお参りをしていただき、節分の厄祓、家内安全祈願をなさり、毎日欠かすことなく神棚に心中祈念をする事で、自分自身の眠っている力を引き出していただきたいと願うしだいです。

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穢(ケガレ)と清め塩



 現在、神社界では「穢」の解釈は、国文学からの提言と民俗学の提言とに二分している。国文学派は民俗学の「気の枯れ説」は、古典の記述には一切なく、神職が唱える論としては、不十分である。神職は古典を重んじるべきとし批判している。しかし、国文学の考え方は、「怪我説」や「秩序の撹乱説」などなど、多種多様で複雑であり、氏子に理解してもらうには難しい側面がある。一方、民俗学の「気の枯れ説」は一言で説明できる点で氏子にとって分かりやすい。

 当社では「ケガレ」を「気の枯れ説」の立場で、氏子に説明しているが、昨今 浄土真宗の一部僧侶が、「清め塩」は「故人を汚いものと貶、仏を冒涜するものである。」日本社会の差別の根源が、神道の穢れ観であるかのように檀家に指導し、葬儀社に対して清め塩を使用しないよう指導している。
 神仏習合の歴史が永かった影響とは言え、神道の「穢(ケガレ)れ観」と仏教の「不浄観」が同義語として語られる事には、信仰的に問題が多い。神道と仏教では、その信仰の発生,発展過程,目指す方向性これらの点で、違うことは歴然としているが、にもかかわらず一般には神道の「穢(ケガレ)れ観」と仏教の「不浄観」が同義で有ると認識されている。ここに問題の根元がある。

 仏教の根本は欲を滅して悟りを開くことにあるが、その仏教に於て不浄とは、「貪欲、下等、不潔」の意味が込められている。一方神道は自然崇拝が根本であり、自然が生み出す生命への信仰といえる。「誕生→衰退(スイタ)→死→再生」この自然循環は、神道的生命観の根本であるから、死はその一過程である。「気の枯れ説」でケガレを説明すれば、『死は生命力の衰退枯渇(スイタコカツ)を意味するもので、死をケガレとしたからといって、故人を貶めたことにはならない。』

 この様に、この問題は「穢(ケガレ)れ観」と「不浄観」意味の混同に問題があり、「気の枯れ説」により両者の意味が峻別(シュンベツ)され、氏子また浄土真宗の一部僧侶誤解が、説けることをここに望む。

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