クーデンホーフ光子


クーデンホーフ光子という方をご存じでしょうか? 結婚前の名前は青山光子(本名:青山みつ)。オーストリア=ハンガリー帝国のハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の妻となった方です。

青山光子は、1874年7月16日、東京の東京市牛込区納屋町で生まれました。父親は青山喜八。骨董商を営む大地主で、東京の「青山」という地名はこの家の苗字が由来であると言われております。

1892年、オーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理公使としてハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵(Heinrich Graf von Coudenhove-Kalergi)が来日。ある日、伯爵が光子の実家である骨董店の店先で凍った水たまりに滑って転倒し、光子がそれを介抱したことが縁となり、結婚することになったそうです。

しかし結婚までの道程は長く、光子の父喜八は外国人と結婚することに猛反対。また伯爵の家族も同様に、由緒正しきオーストリア=ハンガリー帝国の伯爵家に東洋の異教徒を迎えることに猛反対。しかし1892年に二人はそれを乗り越えて結婚。この時光子は18歳。その後2人の男子(光太郎、栄次郎)を出産しました。

1896年、伯爵に帰国命令が出され、光子も2人の子供と共にオーストリア=ハンガリー帝国へ移住しました。クーデンホーフ=カレルギー伯爵家はボヘミア(現在のチェコ)に広大な領地を所有しており、一家は領地内にあるロンスベルク城を住居として、日本で生まれた2人の子供に加え、更に5人の子供に恵まれて幸せに暮らしていました。また、この頃、光子はウィーンの社交界にも出入りしていたそうです。

ここまで読むと華麗なるシンデレラストーリーのようですが、光子にはある問題がありました。教育の問題です。光子の実家は大金持ちの大地主でしたが、光子は尋常小学校までの教育しか受けていなかったのです。ある時、勉強中の子供達から質問されて答えに窮し、学のない自分を大いに恥じたそうです。周りの人間が知っていることを自分だけ知らないのでは、日本人女性の名折れ。このままではいけない、ということで、自分自身も家庭教師に教えを請い、寝る間も惜しんで勉強して教養を身に付けたそうです(算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、フランス語、歴史、地理)。それに加え、生活スタイルも日本風からヨーロッパ風に変え、周囲に溶け込むように努力したそうです。今のように外国の情報が手に入らない時代、右も左も分からない土地で、その土地の生活習慣に自分を適応させていくのは大変なことだったと思います。しかし光子はその苦労を乗り越えて、伯爵夫人として恥ずかしくない教養と立ち居振る舞いを身に付け、子供達を育てて行きました。

ところが、1906年に伯爵が突然死亡し、トラブルが発生します。伯爵は遺言書において「全ての財産を光子に譲る」と書いてあったのですが、東洋からやってきた光子がクーデンホーフ=カレルギー伯爵家の莫大な財産を相続することを快く思わない親族が、その財産の譲渡を迫り、裁判を起こしてきたのです。しかし光子はこの裁判を戦い抜き、晴れてクーデンホーフ=カレルギー伯爵家の当主となりました。

光子はその後ウィーンに住居を移して子供達を名門学校に入学させ、高い教育を受けさせました。そして社交界へも復帰し「黒い瞳の伯爵夫人」と呼ばれ注目されていたそうです。

ところがこの幸せも長くは続かず、1914年に第一次世界大戦勃発しました。この大戦において、オーストリア=ハンガリー帝国と光子の祖国日本は敵国の関係となってしまいました。在オーストリア=ハンガリー帝国の日本人は国外に退去し、日本人は光子だけになったそうです。光子はこの戦争においてオーストリア=ハンガリー帝国に協力し、長男と三男を出征させ、自らは3人の娘と共に赤十字の活動に参加して賞賛されました。また、光子は領地を開墾してジャガイモを生産し、最前線や周辺住民に提供して食糧難から救ったそうです。しかし1918年にオーストリア=ハンガリー帝国は敗戦により崩壊。これにより光子も財産を失ってウィーン郊外へ住居を移しました。そして1941年、67歳で亡くなりました。

なお、第一次世界大戦後の1922年にヨーロッパ統合を提唱し、現在のヨーロッパ連合(EU)の基礎となるパン・ヨーロッパ連合を作ったリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、光子の次男である栄次郎です。リヒャルト・栄二郎・クーデンホーフ=カレルギー伯爵とも呼ばれます。

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は第二次世界大戦時にナチス・ドイツに追われ、アメリカに亡命します。この亡命劇をモデルにしたのが映画「カサブランカ」だと言われております。

 


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