の底でうたう唄

決して都会ではない僕の町の、サラ金と風俗店とが建ち並ぶ薄暗い裏通りに「名画座」はあった。名画座とはいっても、上映映画はポルノばかりで気のきいた娯楽映画などありはしない。品性下劣な成人映画二本に、どこかの学生が撮ったような前衛映画をサンドした三本立てを常時上映していて、まともな人間はまず寄り付かないような場所だ。
その頃は僕もサエも、学校を出てしまってから何をするでもなくブラブラしていた時期で、したがって金も無く、名画座周辺をさまよっては一日をぼんやりと過ごしていた。
名画座は料金も安かったし、僕等がアルコールを持ち込んでも誰も(とはいえ館員は年老いた映写技師兼支配人とモギリのおばさんだけだったが)咎めはしなかった。僕等はビールを飲みながら、この監督はいずれこういうものを撮りたいと思ってるのではなかろうかとか、今出てたの田口トモロヲじゃなかった? とか言いながら、下らない話に花を咲かせていた。

僕が初めて笹山博士と出会ったのも、そうして名画座に入り浸っていた頃の話だ。「博士」とはいっても、本当に博士だかどうだかは解からないのだが、いつもコートの下に白衣を着ていたため、僕等はおもしろがって博士、博士と呼んでいたのだ。

名画座は本当に客が少なくて、ほとんどは僕等の貸し切り状態だったのだが、たびたび最前列で見かける男はどうも常連らしく、僕もサエも気になっていた。というのもその男は、上映中に何度も席を立ち横に移動したりかがんで何かをしていたりするので、僕等はどうにも気が散ってしょうがないのだった。
そしてある日、僕とサエは前々から気になっていた一番前の席を調べてみることにした。その日は僕等の他には誰も客がいなかった。二人でかがんで、椅子の下を見てみる。すると、スクリーンの明かりに照らされて、座席の下がゴツゴツしているのを発見した。
「なんだこりゃ?」 僕はそう言って、その物体に手を伸ばした。そして板にへばりついているやつを少し剥がして、光に照らしてみる。オガクズのような匂いを発しているそれは、間違いなくキノコだった。
「何これ、気色悪!」 サエはそう言いながらも、嬉々とした表情で、順々に座席の裏側を見てまわった。
そのうち、最前列全ての座席の裏側に、びっしりとキノコが生えている事が分かった。それは、ナメコくらいの大きさだがぬめりは無く、ひとつひとつがしっかりと座席の裏に寄生していた。二列目以降も調べてみたが何も無く、普通の座席同様ただシートの裏板が剥き出しになっているだけだ。

「おい君ら、何をやっとるんだ」
びっくりして振り返ると、あの男が黒い鞄を下げて立っていた。僕等は映画の大音量のおかげで、彼が近くまで来ていたことに、声をかけられるまで気付かなかった。

その男が笹山博士だった。



「これって、マジックマッシュルームかなんかですか?」 普段と変わらない調子で、サエが聞いた。
博士はしばらく言おうか言うまいか迷っていたようだが、やがて口を開いた。
「いや、そういう気分を昂揚させたり、覚醒させたりっていうタイプのものではなくて、どちらかというと睡眠剤や鎮静剤に近いものだな」
「ここで、栽培をしてるんですか?」 今度は僕が聞いた。博士の話す口調がとても穏やかだったので、動揺するよりも、好奇心の方が勝ってしまったのだ。
「ああ。ここはある程度の温度を保てるし、湿気もあるしな。女のあえぎ声がキノコの成長にどのように作用するかは知らないけども、なにしろ金がかからない。君等が、ここの連中に喋らなければの話だが」 博士はそう言って、初めて笑った。

今こうして考えてみると、何故博士はあの時、そんな風に軽々しく僕等に説明をしてくれたのだろう? 彼は僕等に対しての口止め料なんて、ビール代くらいで済むと思ったのだろうか。そして、それは実際その通りだったのだけれど。

「これを飲み続ければ、毎晩同じ夢が見れる」、と博士は言った。
僕は、たとえそれを飲んで同じ夢が見られたからといって、はたしてそれに何のメリットがあるのか考えた。しかしそれと同時に、未知なるものを体験したいというその年頃の若者特有の感情がむくむくと湧いてきたのも確かだった。説明を聞くうち、だんだんとそういう気持ちが表情にも表れていたのだろうか、やがて博士は僕の顔を見ながら言った。
「じゃあ、試しに一服あげようか。麻薬の類とは間逆に位置する薬品なんだが、それでも初めは多少の幻覚作用はある。でもそれは、より深い所に落とし込むために高い所に引き上げるわけで、いわば助走のようなもんなんだな。別に死にゃあしないから、心配はいらんよ。とはいってもまだ実験段階で、何人かしか試してないんだがな」
そう博士は言って、鞄のジッパーを開いた。鞄の中に固まっていた消毒液の匂いが、スーッと立ち上っていく。
オブラートに包まれた粉末状のそれを受け取ると、サエが僕に目配せした。その目と表情は明らかに「胡散臭いからやめとけ」と語っていた。僕はそれを見て一瞬ひるんだものの、好奇心とアルコールの勢いもあって、それをビールで一気に流し込んだ。
「わ! ほんとに飲んだ!」
サエがそう言うか言わないかのうちに、車酔いみたいな感覚が僕を襲った。揺れが段々大きくなった気がして、急激に吐き気が襲ってくる。僕は便所に駆け込んだ。
やがて胃の中の物を洗いざらい吐いてしまうと、脳みその揺れがピタッと止まった。僕はビールまみれのポップコーンを見下ろした。気分は最悪だった。
一瞬、便器の中で何かが動いた気がした。
頭の中で、レディオヘッドのギターみたいな「ガコッ」という音がして、そのとたん吐瀉物の色が変わった。驚く間もなく、その中からミニサイズの向日葵が物凄い勢いで回転しながら、たくさん飛んできた。

それからはもう大変だった。欲望がライフルを撃ち続けた。
脳みその中に違うタイプの僕が二人いて、言い争いを続けている。やがてそれは殴り合いに発展し、クロスカウンターによる両者ノックアウトで、幕を下ろした。



僕は自分の部屋に座っていた。いや、僕の部屋に置いてある黄色い卓袱台がすぐ目に当たったので、反射的にそう思っただけなのかもしれない。部屋は壁も天井もなくなっていて、そのかわり見渡す限りの紺色の世界が広がっていた。
僕は海の底にいた。
やがて向こうの方から、サエが泳いでやってきた。左手に買い物袋を下げている。
「あー、やっぱり泳いだ方が速いね」 そう言って笑った。
サエはドーナツの箱を置いて紅茶を二人分淹れると、ラックからCDを選んでプレイヤーに突っ込んだ。やがてスピーカーから、古いジャズのメロディーが流れはじめた。ミュートのかかったトランペットに続いて、ビリー・ホリデイの歌声が聞こえる。

僕等は、黄色い卓袱台に向かい合って、ドーナツを食べ、紅茶を飲んで話をしている。やがて、彼女は自分の見た夢の話を始めた。

「それで、それを見てたおひょいさんがね……」
ふいに話は止まり、彼女はじっとスピーカーを見つめる。

「わたしこの曲好きよ」
彼女はそう言って立ち上がると、メロディーに合わせて歌い始めた。その歌声は海水に紛れ込むことなく、どこまでも伸びていった。僕等の上を、昔図鑑で見たような長細い魚が体をくねらせて泳いでいく。
僕は薄暗い海底の部屋で、何故か日向ぼっこでもしているような幸せな気分に包まれていた。


 ――また お会いしたいわ
    いつも 私の心に留まっている 思い出の場所
    貴方との 思い出の場所で



「で、どんな夢だった?」 数日後、煙草のヤニ色をした喫茶店で博士が聞いた。
僕は、夢の中での一部始終を彼に話して聞かせた。サエがいたら照れくさくて話せなかっただろうが、幸い彼女はその日いなかった。博士はその話を聞きながら、ポケットから手帳を取り出し夢の内容を書きとめていく。
「でも、なんであんな夢なんだろう? あれじゃ普段とあまり変わりませんよ。シチュエーションは海底ではあるんだけど、結局僕の部屋だし。ただ……」
「ただ、何?」博士は、手帳に書き込む手を休めて顔を上げると僕に聞いた。
「ええ。ただなんか、こう、うまく言えないんだけど、すごく心地よかった」
博士は煙草を灰皿に押し付け、完全に火種を潰し終えると僕に言った。
「何故その夢なのかは個人差ってのがあるから、自分としてもなんとも言えないんだがな。ただ、夢というのは消えていく記憶や思想の最後の断末魔なんだな。狭い部屋で増え続けていく記憶の固まりによって磨り潰される、一番壁際の記憶のな。その記憶を磨り潰されないようにギリギリのところで保留するっていうのが、あの薬の役割なわけだけども。
その記憶は君が普段一番触れないでいたい想いかもしれないし、一番心に留めておきたい大切な想いなのかもしれないし。でもな、どっちにしろ同じことなんだろうと思うよ」



その夢は博士がのちのち説明してくれた通り、五日目以降はぴたりと見なくなった。五日間サエは夢の中でおしゃべりを繰り返し、そして思い出したように例の曲を口ずさんだ。僕は、よくできたアトラクションのようにその夢を楽しんだ。目が覚めてもその幸福感は僕を包み、それが薄まるにつれ僕は軽い禁断症状を覚えた。
やがて僕は、サエに秘密で博士から薬を買うようになった。夢の中の女も同じサエではあるのだが、何故か浮気をしているような後ろめたい感じがして、どうもそのことは彼女には口にできなかった。



そんなことを一ヶ月あまり続けた頃だったろうか。ある日を境にし、夢の中にサエが現れなくなった。僕は、(いつか戻ってくるだろう)、と夢の中でそう思い、前より薄暗くなった感のあるその部屋で音楽を聞いた。いつもの曲が始まり、僕は例のフレーズを口ずさもうとしたがうまくはいかなかった。僕のつぶやきのような歌声はただの大きな泡になって、鮫の横腹に当たって砕けた。
僕はやがて、卓袱台の上に立って目をつむり、そっと耳をすましてみた。かすかだが、暗闇の向こうから声が聞こえた気がした。


 ――また お会いしたいわ
    いつも 私の心に留まっている 思い出の場所
    貴方との 思い出の場所で



僕は一日の大半を眠る事だけに費やした。オートリバースのように、何度も寝返りを繰り返した。だがあの日以来、夢の中にサエは一度も現れなかった。遠く歌われるあの声だけが、僕の頭を霧がかかったようにぼんやりとさせる。だが僕はその声の方向へ決して足を踏み出そうとはしなかった。ただ目をつぶり、卓袱台の上にじっと立ち尽くしているだけだ。
そんな事を繰り返すうち、現実のサエともなんとなく疎遠になり、やがて別れてしまった。二人のサエはそういう風にして、僕の前から姿を消した。いや、むしろ姿を隠したのは僕の方だったのかもしれない。
僕の頭の中に一瞬、「正夢」という言葉が浮かんだ。でもこれは正夢だとかそういうことじゃないんだ。悪いのは完全に僕自身だって決まってるじゃないか。
それは本当に。本当に僕にとって考えなくてもいいくらい解かりきったことだったのだ。



それからしばらくして知人と酒を飲んでいる席で、サエが他県に就職したことを聞いた。僕は何食わぬ顔で「ふうん」と頷いてはいたが、何かしら心を揺さぶられていた。飲み屋から出ると、どこか遠く鳴っている消防車のサイレンに合わせて犬が吠えたてていた。その悲しげな声は、僕を一層寂しい気持ちにさせた。

翌日のニュースで、その火事の現場が名画座であったことを知った。出火元は二階の支配人室で、煙草の残り火が原因らしい。幸いにして館内に人は居なかったが、あのキノコが全て灰になったのは、ニュース映像の焼け跡を見るかぎり明らかだった。

付近の住民や消防士がその晩どんな夢を見たかは、僕には解からない。

それから数日間、僕は何度か名画座の焼け跡に行き、博士の姿を探してみたのだが、結局それ以降彼を見かけることはなかった。
僕は、何かに突然居場所を取られたような気持ちになり、新たな居場所を求めるかのような気持ちで就職した。そこは決して魅力的な職場ではなかったが、何かを忘れていくには適した場所だったのかもしれない。いずれにせよ、僕が「時間の流れ」に対して一番感傷的になっていた時期の出来事だ。そして、そんな時期さえもやがては過ぎ去る。

「すべては移りかわっていく」
ジョージ・ハリスンの歌にある通りだ。



それから数年経って、駅前に巨大なパチンコ屋ができ、その裏手に高いビルが建った。金融屋と風俗店は寂れたあの通りを離れ、こぞってそのビルに移転した。最後に残った映画館も、営業再開の噂がたったものの、結局すすだらけのまま取り壊されてしまった。
真っ白い穴みたいに残された広大な土地にやがてデパートが建ち、その中にピカピカでニス臭い映画館が建てられた。そこは平日でも家族連れや恋人たちで溢れかえっていて、かつての薄汚れた裏通りを想起することはできない。そこにあるのは、キャラメルポップコーンとコーラの泡。笑い声と感涙と、それから、


ある日突然手紙が届き、それに返事を出すことで再び会う約束をした僕は、その映画館でサエと待ち合わせをした。
数年ぶりに会った彼女は、とても洗練された大人の女性になっていた。もう「サエ」という感じではなくて、本来の名前である「紗枝子」というイメージに近い感じに思えた。しかし、喋り方や性格は以前とさほど変わっておらず、それが僕をどこかほっとさせた。と同時に、僕自身はあれからどう変わってしまったのだろうかと客観的に考えた。僕は「以前の僕」が持っていたものを、どこかにまだ持っているのだろうか?

映画の途中で、退屈して時計を見た。逆算して残り時間を計算する。隣席の彼女は、巻いたマフラーのせいで表情がよく分からなかったが、どうやら静かに寝息を立てているようだった。
僕は、なんとはなく座席の下に手を入れてみる。冷たい鉄板が手に当たってヒヤっとした。
僕はもう、二度とあんな風景に出会わない。あんな風に想ったりしない。


――そこは、なんだか海の底にいるみたいで


スクリーンの字幕を見て、ビクッと反応した。まるで字幕が僕に反応したような気がしたから。


そうだ いまなら

どうかな

どうなのかな

いまなら探しに行けるのかもしれない



そして、僕の意識は再び海底に潜り、あの場所を目指した。

僕の抜け殻は黄色い卓袱台の上に立ち、遠くを眺めている。
泣いているような、笑っているような顔で、遠くを眺めている。



                                  BILLY HOLIDAY / I'll Be Seeing You





る。