のトマトソース

三浦という古い友人が引越しをしたというので訪ねてみることにした。新居は、彼が以前住んでいた家へ行く途中に何度か見た事があったので、すぐ解った。それは山の上にあり、まわりの壁には蔦が絡まっていたため、そのアパートの事を僕はずっと『少年自然の家』か何かだと思っていた。 部屋番号を聞いていなかったので、やむなく各部屋を見てまわっていると、一階奥の部屋の郵便受けに、『三浦 保』の名が見てとれた。ああ此処だな、と思いベルを鳴らそうとしたら、その横になにやら書いてある。

『ティアガッロ・山岡(トロール)』
鉛筆で。汚い字で。

ティアガッロ山岡?

僕はきっとこのアパートの名前なのだと思い(トロールが若干気になったが)、かまわず呼び鈴を押した。
しばし沈黙。やがて奥で女の声がする。ははぁ、女と住んでいるのだなと思った。すると、扉を開けて出て来たのは、色の黒い太ったオバサンだった。紺のジャージにセーラーズのトレーナーを着ている。
僕は三浦の母親かな? と思い、
「あ、どうも。こんにちは。保くんは……」と言いかけると、
「おっ、来たね。上がって」と、三浦が出てきた。


「あれ、お母さん?」と、僕は訊いた。「ずいぶんワイルドな感じだけれども」
「いや、山岡さんだよ。書いてあっただろ。トロールの」
彼は学生時代ずいぶんと幻想文学にのめり込んでいた。とりわけ妖精・精霊に関する知識と見解は、我々の中で一目置かれる存在だった。
「最近あまり言わないから、興味が無くなったもんだと思ってたよ」
「や、それは事実なんだ。ところが最近実家に帰ったら、こんなものが出てきたんだよ」
三浦はベランダからLPレコードくらいの大きさの、砂の入った薄い箱を持ってきながら言った。「これ憶えてるだろ」

僕等が小学生当時、『うしろの百太郎』というオカルト物の漫画が流行った。
その中に妖精の呼び方が出てくるくだりがある。砂を山様に盛り上げ、上の方を平らにし、横に階段をつける。そして夜の間それを外に出しておくと、朝にはステージ上に足跡がついているというものだ。そして彼は夏休みを利用し、それ用の箱を作ったのだ。
「で、試したの?」
「ああ。ここ山ん中だろ。半分ノスタルジックな気分で始めたんだ。そしたら3日目に微かに足跡が付いてくる。で、それは日毎増えていった。そして、最終的に山岡さんが訪ねてきたんだ」

彼女は玄関から入ってくるなり、妖精であることを告白。そしてルームメイトとしてこの部屋で暮らすことを、自ら願い出たのだ。そして三浦は「ここの家賃が高」く、「コンパで話したらウケそうだから」という理由から、山岡さんと共に暮らしはじめる。
「きっとタイミングが良かったんだ」
「どうかしてるよ」僕は言った。「みんなどうかしてる」

にょんにょんにょんにょんにょんにょんにょんにょんにょんにょん……

「ところでこれ何の音?」
「見てみるか? 彼女料理が得意なんだ」

台所に行ってみると、山岡さんが洗濯機の中を覗いていた。
僕も横から見てみると、中に紫がかった灰色のぐにゃぐにゃしたものが揉み洗いされている。
「何? これ」僕は訊いた。
「蛸だよ。粗塩をかけてぬめりを取るんだ」
「なんだ。てっきりモード学園の卒業制作かと思った」

やがて山岡さんはタイマーを止め、蛸を湯の沸いた鍋に入れた。そして足が丸まると、それを引きあげ、別の鍋に入れる。そして冷蔵庫を開け、ペットボトルのコーラを出すと、それを蛸が浸るくらい鍋に注ぎ入れ、火にかけた(こうすると蛸が柔らかくなるらしい)。そして煮込み用のトマトソースに、オレガノを入れて仕上げ、火から下ろすと、ポルチーニ茸入りリゾットを作り出した。
「手際が良いね。捌けている」
「台所の妖精って事で」彼が笑った。

その晩は、3人で料理やワインを飲みかつ食らい、そして談笑して遅くまで騒いでいた。そして気が付くとみんな、一年中出しっぱなしのコタツで眠っていた。
僕は、オリーヴオイルの香りが残る部屋で夢うつつになりながらも、こんな生活も楽しいかもしれないと思いつつ、次第に深い眠りへと誘われていった。


そして翌朝、アバンギャルドな山岡さんのアルトサックスの音色で目覚めたのである。





る。