ハーフ・ア・カウ
half a cow

会社から帰ってシャツを着替え、夕飯の用意をしようと冷蔵庫を開ける。
しめじ、まいたけ、はくさい。あれ? これ青リンゴだっけナシだっけ。
その時、携帯が鳴った。以前いた職場の上司、佐藤さんからだ。
「おお、生きとるかー? 今なー、メチャクチャ暇なのよ。例の一件で」
佐藤さんは現在、会社が経営する焼肉屋の料理長になっていた。僕は携帯を切ると、すぐ陽子に電話をしてみた。陽子ははじめ嫌がっていたが渋々承諾し、焼肉屋の近くで待ち合わせることになった。

「でも実際、どうなんだろうな、狂牛病」
「そういや昨日、こんなん見たよ。病弱な姉さんが弟に『私が死んだら景色のいい所に骨をまいてね』って言うの」
「うん」
「で、飛行機乗って空から骨まいたらさあ、下にいる牛がみんな狂牛病になっちゃうの」
「くだらねえ」
「ねえ、狂牛病ってさあ、脳がスポンジ状になるんだよね」
「吸収力がさらにアップ」
「コックさんとか、一番感染率高いんじゃないの?」
「そうだろね。コンソメとか、タンシチューとか、フォン・ド・ヴォーとか。あ、あれは仔牛だからいいのか」
「そのうち、みんな牛肉食べられなくなっちゃうんじゃない?」
「うちの職場の従食も、牛肉入れないようになった」
「へえ、そうなんだ」
「農水省の食堂も、今牛肉使ってないらしいしな。相変わらずやることが汚い」
「もうすぐ牛もフグみたいに、取り扱うのに免許がいるようになったりして」
「フグは店で捌けるからいいんだけどさあ、牛は解体したやつがくるからなあ」
「でもあれね、自分の体の中に毒を持ってるってどんな感じなんだろう」
「毒舌女がよくいうよ」
「ぎゃあ」

「なあ、これ見てみ」僕はスポーツ新聞の記事を指さして言った。「『巨大おにぎり世界一への挑戦、失敗』て」
「ふーん。しかし、日本は平和だねえ」
「それって今一番ブラックな発言やね」

やがて陽子は化粧室に行くために席を立った。
しかしそれからいくら待っても、陽子は席には戻ってはこなかった。
僕は少し心配になって席を立つと、女性用トイレの前へ行ってうろうろしていた。

「なにやっとるんだ、変態よ」
ぎょっとして振り返ると佐藤さんが立っていた。僕は赤面し、事情を説明した。

「陽子? なんや、お前んとこ、より戻ったんか」

そうだった。僕はこの夏に陽子と別れたんだっけ。



これは、海と山と町で起こった歴史の一部である。
それは「食べられる者」から「食べる者」へ対しての、怒りと呪いの記録でもある。

海の中で、仲間が食べられるのを見ていた一匹のフグはこう考えていた。
「わたしたちは、食料であるのだな」
だが、毒針で敵の攻撃から回避するオニオコゼを見て、ああいう生き方もあるのだとも思う。だが自分の腹をふくらませてみたところで、たいした効力もない。しばらく考えていた彼は、毒素を含むプランクトンや海藻をしこたま摂取し、毒を体内に蓄積する能力を身につける。

そのころ山では、若い牛が、乳牛の小屋を眺めながら考えていた。
「なんであいつらは搾乳されるだけでいつまでも生き延びてんだ?」
そして、肉牛として生まれた自らの運命を呪った。やがてそれは、脳内で怒りのエネルギーに変換され、彼の体内にくまなく行き渡る。そうして脳みそがすっかりスカスカになってしまうと、足を折って、へたりこんで腹ばいになり、甘い眠りについた。

また町では、胸だけがやたら大きい女が悩んでいた。
「男ときたら、わたしのことを性の対象としてしか見ていないわ」
やがて女は思案の末、避妊具に細工をして体内に胎児を宿すと、ある不幸な男に「父親」の称号を与え、結婚し幸せな生涯をおくったという。



席に戻ると、吸いかけの煙草も網の上の肉も炭化して、ブスブスとくすぶっていた。向かいの席に置いてあった新聞を広げる。『巨大おにぎり世界一への挑戦、失敗』。その記事の左には、会場の小さい写真が掲載されている。木枠の中に飯を詰める数人のメンバー。その中に僕らしき若者の姿を発見した。

僕は、このイベントに参加したような気がしてならない。

『おにぎりの里フェスティバル二〇〇一』。このイベントは、一九八七年、石川県鹿西町金村・杉谷チャノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から日本最古のおにぎりの化石が発見されたことを記念して行われる。



新米を使うことに関して、僕は最初から反対だった。新米は古米に比べどうしても水分量が多すぎるし、むらもある。したがって、あらかじめ算出された米と水の比率も狂ってくる。だが主催者側の意見は、鹿西産コシヒカリの美味しさを広く人々に知ってもらうためにも、新米の使用が好ましいとのことだった。このイベントの終盤では、おにぎりを崩し、来客にカレーや雑炊を振舞うのが恒例となっている。僕はその事でもメンバー等と幾度か衝突した。「俺とお前たちとは、おにぎりの概念が違いすぎるのだ!」。やがて仲間達から徐々に孤立していった僕に、転機が訪れる。練習場として使用していた体育館で、僕は跳び箱を発見したのだ。「跳び箱型の木枠でおにぎりを作ったらどうだろうか?」。それまでの樽型から一歩飛躍したアイデアにみんなすぐ同意した。底辺を二メートル四方にした四角すいの木枠。それは十一層に分かれ、高さは二・二メートル。それが町役場に届けられるとメンバーから歓声があがった。やがてイベント当日。一・六トンの飯が炊き上がり、我々は木枠に飯を詰めだした。その時僕は、飯の熱さに不安を感じた。「しまった! 飯が炊きたてだと、底辺に近い層は水分が邪魔をして米と米がくっつかないぞ!」。僕は炊き上がった飯をビニールシートに薄く広げ、扇いで冷ますよう指示した。だが衛生面や時間的なこともあって、主催者側からの返事はNOだ。しかたなく僕は、苦渋に満ちた表情で作業を続ける。やがて最上段に飯が詰められると、地元の小学生二人が古代米で作ったおにぎりを頂点に配置する。そして順番に木枠を取り外していく我々。次第に姿を現すピラミッド型のおにぎりに場内は歓声に包まれる。だが、その声もすぐにどよめきに変わった。八段目の木枠を外した時、おにぎりはその重さに耐えかね、崩壊してしまったのだ。「ほら、見てみろ! お前が! お前が!!」僕は号泣し、木枠を主催者席に投げつけ、その町を後にした。



焼肉屋を出て、家へと帰る途中、ふと黄色い固まりが目にとまった。半年前まで、かなりの広範囲に更地があった場所に、セイタカアワダチソウが生い茂っている。隙間なく寄生したそれは、なにか巨大な生物を想像させた。
やがて、その遥か向こうに、クリーム色の物体が顔を覗かせているのが見えた。わずかな外灯の光しかない薄暗い空間の中で、それはくっきりと浮かび上がって見える。僕は雑草を掻き分け踏みしめて、そこまで行ってみた。大量の黄色い花粉が舞って、僕の喉をひどく苛つかせる。

 ―なんだ、冷蔵庫か。

そうだ、僕は夕飯の用意をしていたんだ。
しめじ、まいたけ、はくさい。あれ? これ青リンゴだっけナシだっけ。

「冷蔵庫開けっ放しにすると物が腐るよ」

そう言われた気がして振り返ると、コンロの上には煮えたぎる牛の頭のスープ。
真っ白い眼球から、赤黒いあぶくがいくつもいくつも浮かんでは消え、やがて震えだしたポケットの中の携帯から、陽子の声がする。

「しかし、日本は平和だねえ」





る。