プリン

左胸に弾丸が撃ち込まれ、ぎゃんて叫んで倒れるも痛みもなく血さえ出なくて。
ああ死んでしまう時ってこんな感じなのな、ってよく見たら胸のポケットに入っていた父の形見であるところのお守り、その中のコインによって僕の命は守られている。
そのコインこそ僕の父がオリンピックに出場した際の記念硬貨なのだ!

という様な月曜ドラマランド風味の悪夢から目覚めると朝の三時。雨。
「此処にはスコールさえも無い。表はそぼ降る小糠雨」
なんて歌が昔あったけど、今日家に向かって降ってる雨は小糠なんてもんじゃない。練りに練った糠味噌が漬物樽ごと屋根に落下しているが如し。胡瓜や茄子、それの発色を促す古釘などと共に。

僕は昔からキャベツの糠漬けが好きでさぁ。あれの刻んだやつに七味と醤油なんぞをてろっとかけて御飯に乗っけて食うとそれはもうね……。
でもそんな事を言っても始まらぬ。冷蔵庫の中には牛乳やらキムコやらしか入っとらんのだからね。田舎から送ってきた米の袋からはなんだかカサカサ音がしているよ。

今日は僕の会社主催のディナーショー、とはいっても昼間っからやっているのだが、それがあって、調理部員であるところの僕はなにが悲しいのか楽しいのか五時出勤なのだけれども、どうでもいい、行く気がしねぇ、やる気がしねぇ、といったある種のDIY精神がむくむくと湧いてきて、今日はもういいよね、休もうよね、となったのです。
そもそもディナーショーとはいっても松田聖子や谷村新司といった日本を代表するエンターティナー風の方々ではなくして、今陽子なのだから。飲み会等で婦女子から「ところでブルース・リーって誰?」と言われ驚愕を隠しきれない昨今、今陽子なのだからね。

ところで先ほどから、らーらーという聞き慣れた声がする。裏口を開けてやるとミーコさんがヤモリを咥えてちょこんと座っていた。そして立ち上がりヤモリを僕の足元に置くと顔を見上げて、らーと鳴いた。
捕えた獲物を持ってくる猫には二通りある。飼い主に褒めてもらいたいという猫、そして自分がその一家の主だと考え、人間(つまり僕ですが)を養っているのだという自覚を持った猫だ。かつての同居人が捨てていったミーコさんはこの場合後者であり、それは彼女が僕からの餌を滅多に受け取らない事からも明らかなのであって、そうなるともう本当につらい、情けない。ヒモ待遇ですからね。なので猫だからといって僕に情けをかけてくれる人をあだや呼び捨てにはできません。

かつての同居人というのは当時恋人だった女性で、引越し祝いにラッセンの置時計を持ってくるような厄介な人物だったのだが、その嫌な予感通り数日後には僕の家に転がり込み、その何ヶ月後かには僕の労働時間の果てしない長さに辟易し出て行くはめになる。
飼い猫を置いて。
当時僕は、時計の中を泳ぐ異様にテカテカしたイルカの絵を見ながらこう思ったものだ。
これは彼女にとって、いや普通の人間にとってごく自然な選択だったのだ、と。ラッセンの置時計も、出て行った事も、その他の様々な憤りも。むしろ狂っているのは、たぶんきっと。


うちの調理場の場合、無断欠勤は無言の退職願を意味する。もともとまともに辞めた人間なんていやしないのだ、いわば伝統行事であって。いつかはこうなるって事はわかっていたのだ。それがちょっと早くなっただけだ。むしろ遅すぎたのかも知れんが。嵐が過ぎるのを待って温泉にでも行こうではないか、つって携帯の電源を切りつつ考えていたらなんだか楽しくなってきた。そうすると不思議なもんで腹が減ってくるのだが、先ほどからご案内の通り牛乳やらキムコやら虫涌き米やらしかないのであって。だが横のラックに卵が一個。これはどうかと思ったが割ったところまだ使えそうなので、それでプリンを作ることにしたのです。

この何年間か仕事以外の料理はほとんど作る事がなかったのだが、仕事を辞めると決めた途端、料理がとても素敵な事に思え、早朝から小鍋でカラメルをたぎらす男。とても正気の沙汰とは思えないのだが、でもこれが新しい自分・僕・俺の誕生を祝す、いわばシャンペンシャワーの様な意気込みで僕はプリンを作っているのです。
バニラビーンズを裂いて卵と共に攪拌したり、カラメルをカップに入れたりしながら。そして布を敷いた鉄板にお湯を張りカップを乗せてオーブンに入れると自分の部屋に戻る。

部屋にはミーコさんが丸まって寝ており、首元を撫でてやるとグルグルと音が。
そうだ誰かの小説に。猫がグルグルいうのは、人間の何倍もの時間が彼等の中に過ぎ去っていく時の音なんだって書いてあった。神秘的である。ああ改めて見るとだいぶ大きくなったものだな。あの時はまだ子供だった。もちろん僕も。今までそんな事考える暇もなかったし、その必要性も然り。
みんな、忘れていたのだ、と。
辛い事も楽しい事もまあまあ、ぼちぼち。完全に満たされる事もないが激しく悲観的になることもなくて。そんなだから自分の自虐性を笑いに変換できない奴には嫌悪感。そして来る罪悪感。
僕は誰かから必要とされているか? そして誰かを必要としているか?
日常の不安を校舎の窓ガラスにぶつけるには年を取り過ぎた。
もう、なにがなんだか。さっぱりなんだ。

ほんと世知辛い。ねッ、正味の話、僕ってヤバイ人間なんです?
するとミーコさんは桃井かおりみたいな声でこう言うのだ。
「自分で解ってんなら疑問形にしないでくれるかなぁ」

僕はグルグルいう音に耳を澄ませて目を閉じた。
台所から甘い香りが流れてきて雨の匂いと混ざった。


嵐は一層ひどくなっていた。
車内はうっすらと安い香水臭で満たされている。
「すいません。ミサキノホールまで」
雨がガラスに叩きつけられて騒がしい。
「お客さんあそこの人?」運転手が口を開いた。
「今日ディナーショーあるでしょ、ピンキラの人の」
僕は不意をつかれ、あーと曖昧な返事をしてしまう。
「あのね、家のやつが今日行く予定なんですよ。でもこんな嵐の日にくる人おるんかねぇ」
ああ。まったくですよ。
「でもさぁ」日焼けした運転手は笑って言う。
「お客さんもそうやけど、私等もこんな天気の日ぐらい休ませてほしいよねぇ」
その言い方が妙に芝居がかっていたので僕もつられて自嘲気味にへっと笑い、
「ほんと。ほんとですよ」つって煙草に火を点けた。

やがて頭の中で回りだしたターンテーブルに針が落とされ、『恋の季節』が流れはじめる。それは冷蔵庫のプリンに捧げるに相応しい音楽だと、そう思う。

                               ― 雨はまだ止まない。





る。