中国的こころ列伝秦王朝時代>二世皇帝


二世皇帝(ニセイコウテイ) ページ内の年代に飛びます B.C.210 B.C.209 B.C.208 B.C.207
秦王朝の皇帝(2代(37代目))。名は胡亥。始皇帝の末子。B.C.229〜B.C.207 帝位:B.C.209〜B.C.207
趙高より刑獄断罪のことを学んだ。
B.C.211、10月癸丑の日、始皇帝は出遊した。胡亥は始皇帝に寵愛されていたので、お伴を願って許され、左丞相李斯と伴をした。

B.C.210、7月丙寅の日、始皇帝は沙丘の平台で崩じた。
丞相李斯は、始皇帝が都の外で崩じたので、諸公子や天下の者が乱を起すのを恐れたため、崩御を秘密にして喪を発表しなかった。そしてお棺を轀涼車に載せ、 生前と同じように食事をたてまつり、奏事を裁決させた。始皇帝の死を知っていたのは、 公子胡亥と趙高と寵幸の宦官5、6人と李斯のみであった。
趙高は公子胡亥に「主上は崩御されましたが、ただ長子に書簡を賜っただけです。諸子には尺寸の領地さえありません。どうなさいますか」と言った。
「それは当然のことである。いま主に封じられないからといって、子として何の言い分があろうか」
「そうではありません。いま天下の権力はあなたとわたしと丞相にかかっているのです。このことをよくお考えなさいますように」
「兄を廃すのは不義であるし、父の詔を奉じないのは不孝である」
「小事にこだわって大事を忘れるなら、あとから必ず害があり、悔いがあります。 どうか断行なされますように」
こうして胡亥は説き伏せられた。さらに趙高は李斯とひそかにはかり、壐書を破り捨て、いつわって李斯が遺詔を沙丘で受けたと言い、胡亥を立てて太子とした。 また別に扶蘇蒙恬に賜う詔書を偽造して、二人の罪状を数え、どちらにも死を賜うた。
井陘から九原に着くと、暑気のため死臭が出た。そこで一石の塩魚を車に載せて臭いをまぎらわした。
九原から直道を通って咸陽に着いて初めて喪を発表した。
太子胡亥は位をついで、二世皇帝となった。
9月、始皇帝を驪山に葬る。
二世皇帝は「先帝の後宮で、子供を生んでいない者を宮殿から出すのはよろしくない」と言い、みな殉死させた。始皇帝の棺を陵に埋めると「工匠は、隣のしくみを知っているので、 外部に洩れたら大変です」と言う者があったので、二世皇帝は、従事した工匠をことごとく閉じ込めて出られないようにした。
蒙恬は命令を疑い再度の勅命を請うたのでこれを獄に下した。二世皇帝は蒙恬を釈放しようとしたが、趙高が報復されることを恐れ、蒙氏を讒言して 「蒙毅は以前から賢子(胡亥)を太子にされることを反対しておりました。これはまことに不忠で、主君を惑わすものです。 誅したほうがよろしいと思います」と言った。そこで二世皇帝は使者を遣り「そなたは過ちが多いうえ、そなたの弟毅が大罪を犯した。 法により内史(蒙恬)をも連坐させる」と言い、ついにこれを殺した。

B.C.209春、趙高を郎中令として政務をとらせた。
趙高が日々蒙氏をそしり弾劾した。二世皇帝は蒙毅に「さきに先帝が太子を立てようとしたとき、そなたは太子を非難した。 いま丞相は卿の振舞いを不忠として一族を連坐させようとしたが、ただ朕は心に忍びないので、とくにそなただけに死を賜うこととする」と言った。蒙毅は弁明したが許されず、 ついに殺された。
また二世皇帝は東方に巡遊し、李斯が付き添った。碣石に行き、海岸線沿いに南下して会稽に至った。
さらに趙高を重用し、法令をかさねた。さらに「大臣はわしに心服せず、官吏はなお力を持ち、さらに諸公子もわれと争うようになると思うが、よい対策はないか」と尋ねた。 趙高が罪を調べて殺すべきだと進言したため、二世皇帝は大臣や諸公子を殺し、罪を免れる者はなかった。
群臣でこれを諌める者は、朝廷を誹謗するとされたので、大吏は禄を失わず、朝廷に容れられて免れんことを求め、人民も震れ恐れた。
4月、阿房宮の工事を再開し、直道や馳道をつくり、そのため租税はいよいよ重く、夫役の徴発は止む時がなかった。
7月、陳勝が楚の地で叛乱し、自立して陳王を称した。
東方の郡県では、それぞれの地の守・尉・令・丞を殺し、陳勝に応じて叛乱を起した。中には自分で侯王と称し、合同して西方に向かい、秦を討つことを名目とする者もあった。
使者がこのことを伝えると、二世皇帝は怒って彼らを獄吏に下した。
そのうち武臣が自立して趙王となり、魏咎が魏王となり、 田儋が斉王となった。また劉邦は沛に起こり、項梁は会稽郡で挙兵した。
冬、陳勝の将周章が十万の兵を率いて戯に迫ろうとしていた。二世皇帝は大いに驚いて「どうしよう」と群臣にはかった。
少府章邯が酈山の囚徒を赦して兵に変えて討たせようと進言した。そこで二世皇帝は天下に大赦令を出し、 章邯にこれらを率いさせたところ、章邯は周章を撃破して敗走させ、曹陽でこれを殺した。
二世皇帝はますます兵を発し、長史司馬欣董翳に章邯を助けて賊を討たせた。
李斯は叛乱が治まらないため、しばしば折をみて諌めようとしたが、二世皇帝は許さず、聴き入れなかった。
李斯の長子の李由は三川郡守であったが、呉広らの攻撃を支えきれず、章邯に助けれられた。 このため李斯は責められ「君は三公の位におりながら、このように盗賊をはびこらすのはどうしてか」と二世皇帝に言われた。李斯は恐懼して、 二世皇帝におもねって赦しを得ようと、書簡で「君主の職分が定まり、上下の義理が明らかになれば、天下の臣はみな責任を果たして、主君に従わないものはありません。 したがって、ひとり君主だけが天下を制して至上の楽しみを極めることができるのであります」と言った。二世皇帝はこれを聞いて喜んだ。
そこで督責をおこなうことますます厳しく、人民から上手に租税を取り立てるものを明吏とした。
章邯は陳勝を城父で殺し、項梁を定陶で殺し、魏咎を臨済で滅ぼした。
章邯は楚の名将らを殺したので、北上して黄河を渡り、趙王歇らを鉅鹿で討った。
趙高は言上して「もし陛下に誤りがあれば、ご自分の短所を群臣に示すことになります。天子が朕と称するのは、もと天子の事を聞かないからです」と言った。それ以後、 二世皇帝は常に禁中におり、趙高とのみ事を決した。
反乱者はますます多くなり、関中の兵卒を発して、賊を討った。右丞相霍去疾、左丞相李斯、 将軍馮劫が阿房宮の造営や四方辺境の屯戍を減らすよう進言したが、二世皇帝は聴き入れなかった。逆に二世皇帝は彼らの位を剥奪し、 獄吏に下し、余罪を調べさせた。霍去疾と馮劫は「将相は辱められるものではない」と言って自殺し、李斯は禁錮される。

B.C.208章邯らが鉅鹿を囲んだ。楚の上将軍項羽が鉅鹿を援けた。
趙高は李斯を陥れようとして、二世皇帝が宴会をしている時に、李斯に奏上させて怒りを買うようにさせた。このことが三度かさなると、二世皇帝は怒って 「丞相は平素ひまなときには来ず、酒宴を楽しんでいる時に限って奏上してくる。 わしを年少と見て軽んずるのであろうか」と言った。趙高は「それは危険です。かの沙丘での陰謀には丞相も関与しています。丞相は王になろうとの下心を持っているのでしょう。 また丞相の長男李由は三川郡守ですが、彼は賊と書簡を往復していると聞いています」と讒言した。
李斯はこのことを聞き、上書して「趙高に邪悪放逸の志、危険叛乱のおこないがあります。陛下が今のうちに処置をはかられなければ、謀叛が起こりましょう」と言った。 しかし二世皇帝は「何を言うのか。趙高は人となり清廉努力、下は民情を知り、上は朕の意にかなっている」と反論した。
二世皇帝は李斯が趙高を殺すことを恐れ、ひそかに趙高に事情を告げた。趙高は「丞相にとって邪魔者は高ひとりであります。 高が死ねば丞相は田常の振舞いをしましょう」と言ったので、二世皇帝は李斯を取り調べて、市場で処刑した。
冬、趙高を丞相とした。

B.C.207夏、章邯らがたびたび敗れたので、二世皇帝は人を遣ってこれを責めた。章邯は司馬欣を咸陽に遣り、指示を請うたが、趙高は司馬欣に会わなかった。 司馬欣は恐れて逃げ戻り、章邯に「趙高が朝廷にあって政権をとっているので、将軍は功を立てても殺され、功を立てなくても殺されましょう」と言った。
この時、項羽が秦軍を急襲して王離を虜にしたので、章邯は兵とともに諸侯に降った。
8月、二世皇帝は不吉な夢を見たので、吉凶を問うと「水崇りをなす」という卦が出た。また二世皇帝は上林苑にこもって斎戒し、狩猟に遊び暮らしていた。 苑中を通行する者があり、二世皇帝は自らこれを射殺した。趙高は咸陽令閻楽と弟の趙成に命じて 「誰かが人を殺して屍を上林苑に移した者がいる」と糾弾させた。そして二世皇帝を諌めるふりをして 「宮殿を遠ざかり、祈祷して禍を祓われるのがよろしゅうございます」と言った。
そこで望夷宮で斎戒し、水の神を祀るため4匹の白馬を沈めた。一方で、二世皇帝は使いを趙高の元に遣り、賊の鎮まらない責任を追及した。 3日して趙高は詔といつわって警護の衛士に武器を持って宮内に向かうよう命じ、自分はさきに宮内に入って 「山東の群盗が大挙攻め寄せてきました」と告げた。二世皇帝は望楼に上ってこれを見、恐れおののいた。
趙高は閻楽と趙成と兵を率いて宮中に入った。二世皇帝はかたわらの宦官に「おまえはどうして早くわしに注進しなかったのか」と言うと 「わたくしは注進しなかったからこそ命があったのです。もし注進しておれば、どうして今まで生きていましょう」と答えた。
閻楽は進み出て二世皇帝を責めて言った。
「足下は驕慢放恣、人を殺して無道である。だから天下がみな叛いた。自分で身を処置せられよ」
「丞相に会えないか」「できない」
「せめて一郡の地をもらい、王になれないか」「できない」
「一郡がだめなら万戸侯にでも」「できない」
「妻子ともども平民となり、諸公子のようにしてもらえないか」と言うと、閻楽は
「わたしは丞相の命を受け、あなたを殺しにきたのだ。何と言われようと取り次ぐことはできん」と言った。そこで二世皇帝はついに自殺した。
趙高は公子嬰を立てて、位をおとして秦王とし、二世皇帝を庶民の礼式をもって杜南の宜春苑に葬った。