中国的こころ特集>璽書改竄疑惑



B.C.210、7月丙寅の日、始皇帝は出遊先の沙丘の平台で崩じました。秦王朝は始皇帝の死により急速に滅亡に向かっていきましたが、 始皇帝の後を長子扶蘇が継げば、歴史は大きく変わったかもしれないと言われます。それは扶蘇は儒の精神を持つ仁愛の君であり、 二世皇帝は暗愚な君だったからだと言われています。
しかもこの後継者問題に重大な疑惑がからんでいるのです。

なぜ始皇帝は長子扶蘇ではなく末子の胡亥(二世皇帝)を後継者に指名したのでしょうか?
事件の概要は次のようです。始皇帝は5回目の巡遊に出かけました。 この巡遊には胡亥とその教育係の宦官趙高と丞相李斯が従いました。 そしてその途中で始皇帝は崩御したのです。ここで巡遊に随行した3人の間で密談が行われたのです。
始皇帝はその死の前に扶蘇を後継ぎとする内容の壐書をつくりました。趙高は符璽令(割符御璽を司る官)を兼務しており、その壐書を管理したのです。 趙高は胡亥と李斯を説いて、この壐書を改竄して胡亥を後継ぎにする内容にするのがよいと言いました。胡亥には扶蘇が即位してしまうと後から害があるといい、 李斯には扶蘇の信任厚い蒙恬が重用されるので、李斯は失脚するだろうといって、うまく二人をまるめこんで壐書を改竄しました。

こうして3人の密談によって胡亥は即位して二世皇帝となり、扶蘇と蒙恬は死を賜りました。そのため秦王朝は短期間で滅亡することになったと、後世の史家たちは惜しんだのです。
しかしこの事件にはいくつか疑問があります。

まずこの3人の密談を史家はどうして知りえたのでしょうか。『申生暗殺の真相』でも書きましたが、事件の内容を知っているのは当事者だけです。 しかもその当事者は事件のことを死ぬまで誰にも話さなかったはずです。他人が知ることは絶対にできないはずです。
この事件は、申生の場合のときよりもさらに当事者は少なく、胡亥・李斯・趙高の3人のみです。胡亥と趙高は死ぬまで話すはずはないですし、 李斯は趙高に陥れられて恨みを持ったとも考えられますが、この事件が発覚したら李斯自身のキャリア(名声)に傷がつくことになるので、 李斯も密談をばらしたと考えにくいのではないでしょうか。

大胆な仮定ですが、璽書改竄はなかったとはいえないでしょうか。
璽書改竄は後世の史家が作り上げた虚構であるという仮説です。
その@
扶蘇が仁愛の君であったので、彼が即位したら秦王朝は滅亡することがなかったのではないかという判官びいきがはたらいて、後世の史家が璽書改竄の話を作り出したという仮説。
そのA
始皇帝は最初から後継者を胡亥にしていたという仮説。始皇帝は末子の胡亥を愛したという事実があります。王が年老いて生まれた末子に愛情を注いで、 その子を後継者にしたいと思うのはよくある話です。また胡亥の母が始皇帝に寵愛されたのかもしれません。 晋の献公や漢の高祖もこのようなことがありました。
胡亥は趙高から刑獄断罪のことを学んでいました。始皇帝に気に入られるためにそのようにしたのでしょう。もちろん趙高には胡亥を裏で操ろうとする魂胆があったことは明白です。
さらに『史記』には始皇帝最後の巡遊の時に胡亥はお伴を願って許されたとしています。もしかしたら胡亥は始皇帝が余命僅かであることを知っていて、 後継者に指名されようとしたのではないでしょうか。そしてもし扶蘇が指名されたら璽書改竄も辞さないと考えていた、と仮定するのは行き過ぎでしょうか。
また始皇帝はもともと胡亥を後継者にするために、胡亥を巡遊に同行させたということも考えられます。
そのB
扶蘇は始皇帝に嫌われていたという説。扶蘇は咸陽には居らず、匈奴に備えて上郡の蒙恬の元に遣わされています。扶蘇は焚書坑儒を諌めたため始皇帝の怒りを買い、 蒙恬の軍を監督させられたとされています。
つまり太子扶蘇は始皇帝に嫌われて、北方に追いやられた、つまり皇位継承権を剥奪されたという考え方です。
ただしこの件で始皇帝は扶蘇を嫌っていたとするのは早計かもしれません。蒙恬は将軍の家系であり30万の軍を掌握しています。 彼が秦に叛旗を翻せば、秦王朝は揺らぎます。始皇帝がそれを警戒して太子扶蘇を監視役として遣わしたのかもしれません。また当時、匈奴の勢力は拡大していましたので、 有能な扶蘇をその指揮官として派遣したのかもしれません。
どちらにしてもオルドス地域への派遣は重要任務であったことは間違いないでしょう。
後世の史家が、扶蘇が死を賜ったので始皇帝から嫌われていたために、このとき外に出されたのだと仮定したのは、よく吟味しなければならないことだと思います。

さて長々と仮説を書きましたが、璽書改竄のその後を述べましょう。
当時から璽書改竄の疑惑はありましたが、何も混乱なく胡亥が即位したのは、小生には不思議に思われます。扶蘇は生まれつき仁柔であったので「父から死を賜うたのに、 子として恩赦を請えようか」と言い自殺しました。蒙恬はその璽書を疑いましたが、やはり納得して自殺しました。史書にはその他には混乱らしい記述はありません。 胡亥はさらに公子たちを誅殺したにもかかわらず、です。
あたかも、最初から胡亥に後継者は決まっていたかのようです。
秦の皇帝の権威、法の権威はそれほどまですごかったのでしょうか。不自然に思うのは小生だけでしょうか。すんなり胡亥が即位したように見えないでしょうか。 疑問が多くのこる事件です。
みなさんはどう思われますか?