中国的こころ特集>遺跡に見る商史



夏王朝はまだ正式に認められていないため、中国の古代王朝は商王朝に始まるとするのが通例です。
ここでは存在が立証されている商王朝の遺跡から商王朝の形跡を見てみましょう。

商王朝の文化はB.C.2000頃、中原龍山文化の後を受けて河北省に発展した下七垣文化に始まります。この下七垣文化はそのため先商文化とも言われます。 中原に夏王朝と考えられる二里頭文化が発展した時代も、河北省一帯は下七垣文化が続き、両者は共存の関係にあったようです。
紀元前16世紀頃になると二里岡文化が中原に起こり、二里頭文化に取って代わります。この二里岡文化が初期商王朝です。二里頭文化と二里岡文化は系統的に異なるものであり、 中原において文化の交替が行われたのです。そして二里岡文化は、下七垣文化の系統に属することから、下七垣文化が中原に進出したということになります。 (下七垣文化→二里岡文化)
いままで商王朝は東方出自であると考えられていましたが、実は河北出自の文化であったのです。

二里頭文化三期頃に、下七垣文化は河北省南部の輝衛文化を吸収し、二里頭文化四期には河南省北部に拡大し、黄河を渡り、河南省杞県一帯まで南下をします。 現在の鄭州にある鄭州商城は、商王朝の初期の都城といわれています。下七垣文化は二里頭文化の特徴である青銅器や玉器や儀礼にかかわる土器などを吸収しました。
そのすぐ後の時代に偃師に商王朝の都城が現れました。これを偃師商城といいます。商王朝はここに中原の文化(夏王朝?)を駆逐して、王朝を創始したのです。
下七垣文化 周辺 ●鄭州商城●
7kmの長方形の巨大な城郭に囲まれ、大型建築基址や手工業工房址や墓域があったとされる
●偃師商城●
二里岡文化下層前期の遺跡で、鄭州商城よりは小型だが城郭に囲まれており、商王朝の都城であると考えられている。 湯王が作った西亳であるとも、鄭州商城の副都とも、対夏王朝戦略的拠点ともいわれる
下七垣文化は青銅器、玉器ともに未発達でしたが、二里岡文化は高度な青銅器・玉器をもっています。これは下七垣文化が二里頭文化を吸収したことを意味しており、 おそらく族的な結びつきで形成された技術者の集団があって、彼らが強制的に王朝間を移動させられたのでしょう。同じような文化の継承は商→周の時代にも起っており、 古代の社会体系は氏族の結びつきが強かったと思われます。(特集「西周史」参照)

さて時代は少し下って二里岡文化上層後期の遺跡として、小双橋遺跡が挙げられます。これは鄭州商城の北東20kmのところにあり、 仲丁が遷都した慠ではないかといわれています。ここには大型建築基址が3基あり、商王朝が何度も遷都したことを物語っています。
またこのころになると商王朝は各地に地域的拠点を持つようになります。特に長江中流域に進出した地域的拠点は次のようなステップを踏みました。
@二里頭文化期に人の集住が行われる(在地の伝統社会と中原王朝との共存)
A二里岡文化上層期に大型建築や城郭が築かれる(商王朝の政治力を背景とした植民的拠点)
B殷墟期に廃絶
これら長江流域の拠点は、豊富な銅資源の獲得という目的があり、中央政治の衰退(殷墟遷都)により放置されることになったと考えられます。
このように商王朝の地域的拠点はあるパターンに分かれるようです。
@軍事的・経済的拠点の性格を持ち、中央の政治的変動とともに廃絶されるもの
Aしだいに中央とは距離をおいて自立的な集落を形成するもの
Bもともと在地系文化との共存を前提として形成されたもの

商王朝の拡大 ●垣曲商城遺跡●
山西省垣曲県の遺跡
南北400m、東西300mの城郭に囲まれ、大型建築基址6基がある鄭州商城と同時期の遺跡。城郭の一部が二重構造で深い濠を持ち、黄河北岸の大地縁辺部にあり、 軍事的な拠点と思われる
●盤龍城遺跡●
湖北省黄陂県の遺跡
中原からまっすぐ南下して最短距離で長江に到達する位置にある南北290m、東西260mの城郭をもつ。長江流域の銅資源の確保のための拠点と思われる
B.C.1384、18代王の般庚は安陽に遷都します。これが殷墟と呼ばれる遺跡です。殷墟から甲骨が出土し、考古学上大きな発見がありました。 これにより、殷墟後の商王朝が詳細までわかるようになったのです。
さてこの甲骨はほぼ完全に殷墟に集中しており、他の場所からは発見されていません。これは文字という新技術は商王室が独占していたことを表します。 しかしこの時期に完成度の高い文字がいきなり現れたことも謎のひとつです。どのようないきさつで文字が現れたのかはまだよくわかっていません。
●殷墟遺跡●
安陽の洹河の南北30kuに広がる遺跡。宮殿・宗廟址があり、王陵、青銅器製作址、住居址、墓域が多く発掘される。 城郭がなく、整備された城都ではないため、王都ではなく王墓を中心とした祭祀センターではないかといわれている。多くの甲骨が出土し、 商王朝を知る貴重な発見があった
商王朝前期のことはまだよくわかっていないことばかりです。夏王朝との関係もまだ不明です。殷墟のような大発見があり、これらのことがさらに詳しく分析されれば、 新事実が現れてくるに違いありません。それを期待しましょう。

※参考書類 中国の考古学 同成社 1999