中国的こころ特集>古代中国地域間交流

古代中国は、黄河流域や長江流域で複数の文化が発生し、並立して発展してやがてそれが融合されて、現在の中国文化圏を形作っていきました。 今回の特集は、古代中国の各地域で発生した文化がどのように交流していたかをまとめてみます。

高度な文明が並立したB.C.3000年代と、夏王朝であるといわれるB.C.2000頃の二里頭時代にスポットをあてました。 夏王朝とそれ以前の中国の地域間の交流はどのようなものであったのでしょうか。

B.C.3000年代は、黄河中・下流域の龍山文化のほかに、黄河上流域の斉家文化、長江中流域の屈家嶺・石家河文化、長江下流域の良渚文化が並存し、 それぞれ自立的な発展をたどりながら、地域間の交流が活発になって、地域をこえた共通性が現れるようになりました。 これを北京大学の厳文明氏は「龍山時代」と称しました。
夏王朝を生み出した文化であるとされる二里頭文化の物は各地で発掘されています。 それは飲酒用の土器や儀礼用の大型有刃玉器などの非日常的な儀礼器が大半を占めるようです。二里頭の儀礼などもこれらの土器・玉器とともに伝わったと考えられています。
逆に他の地域から二里頭にはタカラガイや銅の原料などが伝わっています。遠くは遼寧・山東・南海から、はるか離れた二里頭まで伝わっているのは驚きです。
しかしこの時代は二里頭を中心とした交易ではなかったようです。山東・湖北で産する豆形土器は、中国西北部の山西龍山文化に伝わりました。
良渚文化で産する玉j・玉璧も山西龍山文化に伝わり、さらに陝西龍山文化・斉家文化に達しました。
山東龍山文化で産する玉璋・玉斧・玉刀も山西龍山文化に伝わっています。
一方、西北部から河南・山東地域には鬲形土器や羊の飼育、卜骨の風習が伝わっています。
これらを見るに、相互に生産物や風習が交流されていたことがわかります。それは隣接する地域の間を少しずつ伝わっていき、 しかも各種ある生産物のなかから一部だけが選択的に受容されていったものであり、各地の生活方式を一変させるようなものではありませんでした。 つまり生産物を輸出する側に主体があったわけではなく、あくまでも受容する側に主体があったのであり、強い強制力はそこに発生したとは考えにくいのです。

このような地域間ネットワークはB.C.3000年代末の各文化の衰退によって一時的に崩壊します。
良渚文化、山東龍山文化、石家河文化、山西龍山文化はB.C.3000年代末のほぼ同時期に崩壊しています。この理由は洪水説などがあってはっきりしないのですが、 高度な文化が一時的に崩壊することにより、これまでの交流方法が変わってしまったようです。
河南には夏王朝と想定される二里頭文化が健在でした。B.C.2000年紀はこの二里頭文化を中核とする放射型の交流に変化しました。
二里頭文化の文化発進力が相対的に強まり、周辺地域は絶えず二里頭文化に引きつけられながら、二里頭文化を中心に文化が動いてゆくようになりました。
この時代になってようやく中原と呼ばれる地域から周辺への文化伝播という形ができたのです。後世、中国では中華と周辺異民族という二元的な考えが生まれましたが、 最初からそのような状態であったわけではなく、B.C.2000年代という比較的新しい時代にその状態がはじめて生まれたのです。

その後は、夏王朝を討伐した商王朝の文化であるとされる二里岡文化が、二里頭を引きついで強い文化発信力を持ち、中原が文化交流の中心となりました。 さらに商王朝は夏王朝を征服したという性質を保持していたためか、その後も周辺地域に積極的に関与しました。商王朝の支配者たちは軍事的城郭を作り、 遠隔地交易を掌握しようとしたのです。(参照「遺跡に見る商史」)
小生はこの商王朝の積極的対外政策が、中華⇔周辺異民族という思想を確立させたのではないかと思うのです。

さて、今回は前夏王朝時代の交流を見てきました。二里頭文化の占める地域は河南の一部という小さな地域ですが、 生産物や原料の交流が現在の中国の範囲まで広がっていたというのは大きな驚きでした。当時の人がなぜ交易を行ったのか、どのように行ったのか、 非常に興味のあるところです。

※参考書類 夏王朝 王権誕生の考古学 講談社 2003