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カ サ タ ナ ハ マ ヤ ラ ワ ン
列伝 ソ
列伝Index
- 蘇意(ソイ)【文官】
- 前漢王朝の臣。
楚の相となる。
B.C.159冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した。
文帝は蘇意は将軍として句注に駐屯して、匈奴に備えた。数ヶ月して匈奴が退却したので軍をやめた。
- 臧衍(ゾウエン)【文官】
- 前漢王朝の臣。臧荼の子。
B.C.202臧荼が漢に背いて破られると、臧衍は出奔して匈奴に亡命した。
B.C.197秋、陳豨が代の地で反し、匈奴に救援を求めた。
燕王盧綰は家臣の張勝を匈奴にやり「豨の軍は破られた」と言わせることにした。
張勝はそこで出奔していた臧衍に会った。臧衍は「公が燕に重用されるのは、胡のことに通暁しているからである。燕が久しく存続しているのは、
諸侯がそむいて勝敗が決しないためである。もし豨らが滅んだら、こんどは燕の番となり、公らも捕虜となるだろう」と言った。張勝はもっとものことと思い、
ひそかに匈奴と通じた。
- 初(ソウガ)【武官】
- 前漢王朝の臣。キ侯。
B.C.177済北王劉興居が叛乱を起した。
文帝は詔を下して棘蒲侯陳武を大将軍に任じて10万の将としてこれを討たせた。
また初黷将軍として滎陽に陣を布かせた。
8月、劉興居を破ってこれを捕らえた。
- 曹奇(ソウキ)【武官】
- 前漢王朝の臣。平陽侯。曹窋の子。〜B.C.144。
B.C.154呉楚七国が叛乱し、膠西王劉卬、淄川王劉賢、
膠東王劉雄渠が斉の臨淄を囲んだ。
曹奇は欒布とともに臨淄を救い、3国の軍を撃破した。
B.C.151曹窋が没したので、曹奇は後を継いで平陽侯となった。
B.C.144没して簡侯と諡された。
- 宋最(ソウサイ)【武官】
- 陳豨の臣。
B.C.196宋最は漢将周勃に破れて捕らえられた。
- 曹参(ソウサン)【将軍】
- 秦王朝の獄吏。前漢王朝の将軍。左丞相。右丞相。斉の相国。相国。建成君。建成侯。平陽公。〜B.C.190。
曹参は秦のとき、沛の獄掾となり、主吏蕭何とともに県の主要な役人であった。
B.C.209陳勝が蘄で兵を挙げ、陳で王となり、号して張楚といった。諸郡県で、みなその地の長官を殺して陳勝に応じた。
沛の令も殺されるのを恐れ、沛の民を率いて陳勝に応じようとすると、蕭何と曹参が「あなたが沛の子弟を率いられても、
だれも命令を聴きますまい。それより沛の者で外に逃げている連中を呼んで、その力で沛の民を脅かしたら、命令を聴くでしょう」と言った。
そこで樊噲に劉邦を呼ばせたが、沛の令は後悔して、城門を閉じて城を守り、蕭何と曹参を殺そうとした。
蕭何と曹参は城壁を越えて逃げ出し、劉邦のもとに頼った。
劉邦は帛に書信をしたためて城内に射込み、沛の父老の内応を求めた。そこで父老は沛の令を殺し、劉邦を迎え入れ、
劉邦を沛の令にしようとした。劉邦は「わしは自分の命が惜しいわけではないが、能力が足らず、父兄子弟の命をまっとうできないのが心配だ。これは大事だから、
もっとよく考えて適任の者を選ぶように」と言って辞退した。蕭何、曹参らは自重し、事が成就しなかったあかつき、秦が家族を皆殺しにするのを恐れ、みな劉邦を推薦した。
劉邦はついに立って沛公となった。
曹参は中涓となり劉邦に従った。
曹参は将として胡陵・方与を討ち、秦の泗水郡の監の軍を大いに破った。
東進して薛を降し、泗水郡守の軍を薛の城郭の西で討ち、ふたたび胡陵を攻め取り、移って方与を守ったところ、方与が背いて魏についたため、これを討った。
豊が背いて魏についたため、曹参はこれを攻めた。この功により、曹参は七大夫の爵を賜った。
曹参は秦の司馬イの軍を碭の東で討ち破り、碭・狐父およびキの善置を取った。
B.C.208曹参は下邑から以西、虞に至るまでを攻め、秦将章邯の車騎を討ち、爰戚および亢父を攻め、先陣の功があった。
曹参は五大夫の爵に進み、北のほう東阿を救った。
曹参は章邯の軍を討って陳をおとしいれ、これを追って濮陽にいたり、定陶を攻め、臨済を取った。
曹参は南進して雍丘を救い、秦の李由の軍を破ってこれを殺し、秦の斥候1人を虜にした。
劉邦が楚懐王より碭郡の長となると、曹参は執帛となり、封じて建成君と号した。
曹参は移され戚公となり、碭郡に従属した。
曹参は劉邦に従って東郡の都尉を攻め、これを城武の南で破り、秦の王離の軍を成陽の南で討ち、ふたたび王離を杠里で攻めて、
大いに破った。曹参は敗走する敵を追って西のほう開封に至り、秦の趙賁の軍を討ち破り、趙賁を開封城中に囲んだ。
曹参は西のほう秦将楊態の軍を曲遇で討ち破り、秦の司馬および御史を虜にした。
曹参は執珪の爵に進んだ。劉邦に従って陽武を攻め、轘轅・緱氏を降し、河津を絶ち、引き返して趙賁の軍を尸郷の北で討ち破った。
劉邦に従い南進して犨を攻め、南陽郡守呂齮と陽城の東で戦って敵陣を陥れ宛を取り呂齮を虜にし、
南陽郡をことごとく平定した。
B.C.207劉邦に従って西進し、武関・嶢関を攻め取った。進んで秦の藍田の南で攻め、また夜陰に乗じてその北を討ち、大いに秦軍を破った。
ついに咸陽にいたって秦を滅ぼした。
B.C.206劉邦が漢王に封じられると、曹参は建成侯に封じられる。
曹参は劉邦に従って三秦を平定した。まず下弁・故道・雍を攻め、章平の軍を好畤の南で討ち破った。さらに好畤を囲み、
壌郷を取り、三秦の軍を壌の東および高櫟で討ち破り、また章平の軍を囲んだ。章平は好畤を出て逃走した。よって趙賁の内史保の軍を討ち破り、
東進して咸陽を取り、名を更めて新城といった。
曹参は景陵を守ること20日、三秦は章平らにこれを攻めさせたが、曹参は出撃して大いにこれを破った。曹参は功により食邑として寧秦を賜った。
曹参は将軍として兵を率い、章邯の軍を廃丘に囲んだ。
B.C.205曹参は中尉として劉邦に従い、臨晋関から出て河内に行き、脩武を下し、囲津を渡り、
東進して竜且・項他の軍を定陶に討ち破り、さらに東進して碭・蕭・彭城を取り、
項籍の軍を討った。
4月、劉邦が彭城で楚に大敗すると、曹参は中尉として雍丘を囲み、これを取った。
王武が外黄で背き、程処が燕で背いたので、曹参はこれを討ち、ことごとく破った。
柱天侯が衍氏で背くと、曹参はまたこれを破って衍氏を取り、羽嬰を昆陽で討ち、追って葉に至った。
曹参は引き返して武彊を攻め、滎陽に行った。
曹参は仮の左丞相を拝命し、関中に入って駐屯した。
6月、魏王魏豹が背くと、曹参は仮の左丞相のまま出陣し、
別軍として韓信とともに魏将孫遬を東張で破り、
ひきつづき安邑を攻めて魏将王襄を虜とし、魏豹を陽曲で討ち、
武垣まで追撃してこれを捕らえ、平陽を取り、魏豹の母や妻子を捕らえて、魏の地をことごとく平定した。攻略するところおよそ52城に及んだ。
曹参は食邑として平陽を賜った。
閏9月、曹参は韓信に従い、代の相国夏説を鄔の東で討ち、大いにこれを破って夏説を斬った。
韓信は趙の陳余を討つと、曹参に命じて引き返して趙の別将戚将軍を鄔城に囲ませた。
戚将軍は城を出て敗走したが、曹参は追撃してこれを斬り、兵を率いて敖倉にいる劉邦のもとに帰った。
B.C.203曹参は右丞相として韓信に従属し、斉の歴下の軍を攻め破り、ついに臨淄を取り、引き返して済北郡を平定し、著・漯陰・平原・鬲・廬を攻めた。
楚は竜且を遣って斉王田広とともに高密に陣取ったが、曹参は韓信とともにこれを上仮密で討って大いに破って竜且を殺し、
その将周蘭を虜にし、田広を捕らえた。
曹参は韓信とともに斉を平定しておよそ70余県を得、もとの斉の宰相田光、その守将許章、
もとの膠東の将田既を膠東で破ってこれを殺した。
韓信が斉王となり、兵を率いて南下して劉邦とともに項籍を破った。曹参は斉に留まって、まだ降服しない者を平らげた。
B.C.202韓信が移って楚王となり、斉は漢の郡になった。曹参は漢の右丞相の印を返還した。
劉肥が斉王となると、曹参は斉の相国に任じられる。
B.C.201曹参は列侯の爵を賜り、諸侯とともに割符を割いて子孫に世襲することが許され、食邑として平陽の10630戸が与えられ、号して平陽侯と称した。
さきに食んだ封邑は除かれた。
B.C.197、10月、曹参は斉の相国として、叛乱した陳豨の将張春の軍を討ってこれを破った。
B.C.196黥布が背くと、曹参は斉の相国として悼恵王(劉肥)に従い、車兵騎兵12万を率いて高祖と合流し、黥布を大いに破り、
蘄まで進み、引き返して竹邑・相・蕭・留を平定した。
曹参の軍功はすべてあわせると、2国122県を降し、王2人、相3人、将軍6人、大莫敖・郡守・司馬侯・御史それぞれ1人を捕らえるほどであった。
B.C.195高祖が病にかかると、呂后が「蕭相国が死んだなら、誰に代わらせたらよろしゅうございましょう」と問うた。
高祖が「曹参がよかろう」と言った。
この年、諸侯の国に相国を置く制度が廃止されたので、曹参はあらためて斉の丞相となった。
斉は70城ある大国で、天下は安定し、悼恵王は春秋に富んでいた。曹参は斉の長老や学者らを召し出したが、諸儒の言うことはみな人によって異なっていた。
膠西に蓋公という人がおり、よく黄老の言を研究していると聞いたので、幣物を手厚くして招いた。
蓋公は「政治の道は清静を貴ぶことです。そうすれば民はおのずから安定します」と言った。曹参は正堂を退いて蓋公をそこに置き、政治の要は黄老の道を用いることにした。
それゆえ曹参が斉の丞相の任にあること9年、斉は安泰で大いに賢相と称せられた。
B.C.194漢の相国蕭何が没した。曹参はこれを聞くと舎人に「急いで旅装を整えてくれ。わたしは都に入って宰相となるのだ」と言った。はたして使者が来て曹参を召した。
曹参は微賤のころ、蕭何と仲がよかったが、それぞれ将軍と宰相になると、不仲になってきた。しかし蕭何は死ぬ時、賢人として推薦したのはただ曹参のみであった。
曹参は蕭何に代わって漢の相国になると、万事に蕭何の方針を変えず、ひたすら蕭何の定めたきまりに従った。
曹参は郡・国の役人のうち、文章弁舌に朴訥で飾り気がなく、徳行の重厚な長者をえらんで丞相の属とした。一方で、法文の適用が厳酷で名声を挙げようと務めている者は、
容赦なく退けた。
曹参は日夜強い酒を飲み、卿大夫が、曹参が政務を取らないことを諌めようとしても、曹参はすぐ強い酒を勧めたためできなかった。
曹参は人の些細な過失をなるべく覆い隠して蓋をしたので、丞相府の中は無事であった。
恵帝は曹参が政務をとらないのを怪しみ、曹参の子曹窋に「わしを年少とみて、あなどるのだろうか。
そちは父に『父上は相国となられたのに、日々酒を飲んで、政事を奏上されませんが、どうしてなのでしょう』と尋ねてみよ」と言った。曹窋は賜暇で家に帰って、
自分の意見として曹参を諌めた。曹参は怒って曹窋を200回ほど鞭打ち「はやく宮中に入ってお仕えせよ。天下のことはおまえごときの言うことではない」と言った。
朝見のとき、恵帝は曹参に言った「どうして窋を鞭打ったのか。先日、わしが窋に言いつけて、そなたを諌めさせたのだ」
曹参は冠を脱ぎ詫びて言った「陛下はご自身の聖徳勇武を高帝に比べて、どちらが優れていると思い召されましょうか」
恵帝「どうして先帝と比べられよう」
曹参「陛下はわたくしの才能をご覧になって、蕭何とどちらが賢いと思し召されようか」
恵帝「おまえのほうが及ばないようだ」
曹参「陛下のおっしゃるとおりです。高帝と蕭何が天下を平定し、今や法令は明らかに具わっております。今日、陛下には安座され、参らも職を守って法令に従い、
失策のないようにさえしておれば、それでよいのではないでしょうか」
恵帝「よろしい、退がられよ」
B.C.190曹参は相国となって4年で没し、懿侯と諡された。
民は曹参のことをこう詠った。
蕭何 法をつくり 明らかなること一を画くごとし
曹参 相となり 法を守って失することなし
清静の政おこなわれ 民和して一に寧んず
- 曹時(ソウジ)【文官】
- 前漢王朝の臣。平陽侯。曹奇の子。〜B.C.121。
B.C.144曹奇が没したので、曹時は後を継いで平陽侯となった。
曹時は平陽公主を妻とし、曹襄を生んだ。
曹時は疫病を病んで、国に帰った。
B.C.121没して、夷侯と諡された。
- 宋昌(ソウショウ)【将軍】
- 前漢王朝の将軍。中尉(王国の兵権を司る官)。衛将軍。壮武侯。
B.C.180、9月、太尉周勃らは呂氏一族を族滅し、劉恒を皇帝に擁立しようとした。
劉恒は張武らに謀ったところ、張武らは「漢朝の大臣は、みな高帝のときの猛将であり、兵戦に習熟しはかりごとに長けている人であり、
大王を天子の位につけようとするのは、ただそれだけのことではありますまい。病気と称して行くことなく、情勢の変化を見られますように」と言った。一方、
宋昌は「それはいけません。秦が滅びたとき、天子になろうとした者は万を数えるほどでしたが、結局、劉氏が天子となり、他の者は望みを絶たれました。
今も同じ状況です。また呂氏の強権も太尉が一呼すると滅びました。これこそ天授であり、人力ではありません。
高帝の子としては、ただ淮南王と大王だけであり、しかも大王のほうが年長で、賢聖仁孝は天下に聞こえております。大王よ、疑ってはいけません」と言った。
そこで劉恒は薄昭を周勃のところにやり事情を聞かせた。薄昭は帰ってきて「真実であります」と報告した。劉恒は宋昌に「はたしておまえの言ったとおりであった」と言い、
宋昌に同車を命じ、張武ら6人とともに6乗の伝車に乗り長安に向かい、高陵に至って留まり、まず宋昌を先に長安に行かせて情勢をうかがった。
そこで劉恒は代邸に入り、即位した。
文帝はその日の夕方に未央宮に入り、その夜、宋昌を拝して衛将軍とし、南北軍を鎮撫させ、張武を郎中令に任じて殿中をめぐらせ、前殿に侍坐させた。
B.C.179、3月、文帝は代から来た時の臣下の論功を行い、文帝は「大臣らがみな朕を止めたとき、ただ中尉宋昌だけが天子となることを勧めたので、
朕は宗廟を奉ずることができたのである。そこで宋昌を封じて壮武侯とする。」と言った。
B.C.177、5月、匈奴が北地郡に侵入し、河南(オルドス)で寇掠した。
6月、中尉の統率する材官(長安付近から徴集される歩兵)を徴発して、宋昌はこれを所属して長安に駐屯した。
- 曹襄(ソウジョウ)【文官】
- 前漢王朝の臣。平陽侯。曹時の子。母は平陽公主。〜B.C.105。
B.C.121曹時が没したので、曹襄は後を継いで平陽侯となった。
曹時は衛長公主を妻とし、曹宗を生んだ。
B.C.105没して、共侯と諡された。
- 曹宗(ソウソウ)【文官】
- 前漢王朝の臣。平陽侯。曹襄の子。母は衛長公主。
B.C.105曹襄が没したので、曹宗は後を継いで平陽侯となった。
- 曹窋(ソウチュツ)【文官】
- 前漢王朝の臣。御史大夫。平陽侯。曹参の子。〜B.C.151。
曹窋は呂后のときに御史大夫となった。
B.C.180、9月庚申の朝、曹窋は呂産に会って事を決していた。
そこへ郎中令賈寿が使いとして斉から来て、
呂産を責めて「王はすぐに領国に行かれなかったが、今となっては行きたくてもいけないでしょう」と言い、
灌嬰が斉・楚と連合して呂氏一族を誅しようとしていることを告げ、宮中に入って防衛するように促した。
これを聞いた曹窋は、このことを丞相陳平と太尉周勃に知らせた。
そのため周勃はすぐに事を起して、呂氏一族を族滅させた。
文帝が即位すると、曹窋は職を免ぜられて平陽侯に封じられた。
B.C.151没し、静侯と諡された。

- 蘇嘉(ソカ)【宰相】
- 前漢王朝の臣。趙国の宰相。江陵侯。
B.C.151春、蘇嘉は江陵侯に封じられた。
- 遬(ソク)【文官】
- 前漢王朝の臣。雲中の守。
B.C.197陳豨に呼応して漢に反す。
B.C.196遬は漢将周勃に破られて捕らえられた。

- 尊(ソン)【文官】
- 前漢王朝の臣。潁川郡守。名は尊。
B.C.179列侯のうち高帝に従って蜀漢中に入ったもの68人にはみな300戸を加封し、
もと2000石以上の官吏で高帝に付き従った尊ら10人には食邑として600戸を賜った。
- 孫奮(ソンフン)【武官】
- 前漢王朝の臣。代の臣。
B.C.196樊噲に破られ丞相馮梁・大将軍王黄・
太卜・太僕解福ら10人とともに捕虜となる。