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懐王(カイオウ)【王】
楚王。名は心。楚懐王の孫。義帝。〜B.C.206。
B.C.208項梁范増の進言を容れ、楚王の子孫を王位に立てることとした。 そして懐王の孫の心が民間で人に雇われ、羊を飼っていると聞き出し、立てて楚の懐王とした。
また陳嬰が楚の上柱国となり、項梁を封じて武信君と号し、黥布を当陽君と号し、 懐王は盱眙に都した。
項梁が定陶で敗死すると、懐王は恐れて盱眙から彭城に行き、 項籍呂臣の軍をあわせて自らこれを率い、 呂臣を司徒、その父呂青を令尹とし、劉邦を碭郡の長として武安侯に封じ、碭郡の兵を率いさせた。 また高陵君の進言で宋義を招いて談合したところ、大いに意にかなったので、 宋義を上将軍とし、項籍を次将とし、范増を末将として北方に趙を援けさせ、 劉邦には西方の地を攻略して函谷関に入るように命じた。そして諸将と約束して「まっさきに函谷関を入り、関中を平定した者を関中の王にしよう」と言った。 このとき、諸老将が「項羽は剽悍残忍で、項羽の通ったところで、残滅されないところはありません。だから温厚な長者を送り、正義を以て助けて西にゆかせ、 秦の父兄をさとさせるにこしたことはありません。よって剽悍な項羽をやってはいけません。ただ沛公だけはもともと寛大な長者で、やってよいと思います」と言ったのであった。
項籍が宋義を殺すと、懐王は項籍を上将軍とし、黥布や蒲将軍はみな項籍に所属させた。
B.C.207項籍は秦を滅ぼし、天下を分け、諸将を立てて侯や王とした。項籍が人をやって懐王のために忠誠を尽く旨を伝えてきたので、懐王は「はじめの約束のようにせよ」 と言ったが、項籍は、懐王が自分ではなく劉邦を函谷関にさし向けたことを恨み「懐王はわが家で王位に立てたもの、 攻伐の功労があったわけではない。どうして約束などつかさどれよう。もともと天下を定めたのは諸将とわしなのだ」と言って、懐王をいつわり尊んで義帝とし、 実際には命令を聴かなかった。
B.C.206項籍は人を懐王のもとに遣り「昔の帝王は地方千里で、かならず川の上流地方にいたものである」と言い、懐王を長沙の郴にうつそうとした。 そこで群臣に命に背こうとする気配があったので、 懐王は衡山王呉芮と臨江王共敖に撃ち殺された。また一説では黥布に殺されたとされる。
隗状(カイジョウ)【宰相】
秦王朝の宰相。丞相。
蒯通(カイトウ)【在野】
縦横家。范陽の人。
B.C.209武臣陳勝の命で趙を討ち、ゆくゆく兵を手に入れて数万人に達し、趙の10余城を降した。
そして武臣は兵を率いて范陽を攻めた。蒯通は范陽の令に「公のお命は危ういようで、お悔やみ申し上げます。また、生き延びられますので、お祝い申し上げます」と言った。
令は「どういうことか」と言った。
「いまや天下は大いに乱れ、誰もが公を殺して名を挙げようとしているので、お悔やみ申し上げたのです。また、もし君が私を武信君(武臣)に遣わせたなら、 禍を福に転じられますので、お祝い申し上げたのです」
そこで范陽の令は蒯通を武臣のもとに遣わした。蒯通は武臣に「わたくしのはかりごとを聴き入れられますなら、攻めないで城を降し、 戦わないで地を奪うことができます」と言った。
武臣が「それはどういうことか」と問うと、
「いま范陽の令は、天下に先んじて降服しようとしております。ただ彼の恐れるのは、君が前の10城のときのように殺しはしないかということです。 だから君がわたくしに侯の印を持たせ、改めて彼を范陽の令に任じられたら、范陽の令は城を挙げて君に降りましょうし、若者どももあえて県令を殺そうとはいたしますまい。 その上で、范陽の令を燕・趙の地で駆け巡らせたら、地方の役人たちも安心しましょう。そうすれば各地の城も降るでしょう」と言った。
そこで武臣は、このはかりごとに従って、范陽の令に侯の印を賜った。趙の地はこれを伝え聞いて、戦わないで城を挙げて降伏したもの30余城に達した。
B.C.203漢将韓信は兵を率いて東進したが、 平原津を渡る前に既に酈食其が斉を降服させたと聞いたので、攻伐を中止しようとした。 蒯通は韓信に説いて言った「将軍は詔を受けておられますので、どうして将軍がこれをとめることができましょう。 まして酈生は一介の士ながら三寸の舌で斉の70余城を降したのに、将軍は数万の衆を率い、一年余りを費やして、ようやく趙の50余城を降したにすぎません。 将軍は一介の小僧っ子儒者の功に及ばないのでしょうか」
韓信はこれをもっともに思い、不意を襲って斉を破った。斉王田広は怒って酈食其を煮殺し、高密に逃げた。
韓信を恐れた項籍武渉をやって韓信を説かせたが、韓信は漢に背かなかった。 蒯通は天下を左右するのは韓信であることを知り、奇策をもって韓信を感動させたいと思った。そこでいつわって人相を見ると称して韓信を説いた。
蒯通「いま楚漢二王は疲れ果て、あなたがついた方が勝利します。わたしは、二王を両立させて天下を三分するのがよいと思います」
韓信「漢王はわしを遇することすこぶる厚い。利を追うて義に背くことができようか」
蒯通「将軍は間違っておられます。かつて常山王と成安君は刎頚の交わりをしていましたが、殺し合うことになりました。 いま将軍はかの二人以上に漢王と緊密にはなれませんし、争いの種は張黶陳沢の事よりもはるかに多いのです。 ことわざに『狡兎死して走狗煮らる』とありますが、大夫のように功を立て名を成しても、その身は亡びてしまうのです。 さらに『勇略、主を震えしむる者は身危うく、功、天下を蓋う者は賞せられず』といいます。いまあなたは主上を恐れさせる威力と、主上に賞せられないほどの功業があります。 わたくしはひそかにあなたのために危ぶまずにはおられないのです」
韓信「先生、しばらく休息されよ。よく考えてみよう」
しかし韓信は躊躇して蒯通の勧めを謝絶した。蒯通は自説が聴き入れられなかったので、狂人といつわり巫覡をよそおって去った。
B.C.196韓信が漢に謀叛して誅殺された。韓信は死ぬ間際に「わたしは蒯通の計を用いなかったため、こうして婦女子に欺かれることになった。」と言った。 高祖は蒯通を知っており、斉に詔して蒯通を捕らえた。蒯通が送られてくると、高祖はこれを煮殺そうとした。 蒯通は「盗跖の犬がに吠えるのは、 堯が不仁の人であるからではありません。ただ、その主人でない者を吠えるだけのことです。当時わたくしは陛下を知らなかったのです。そのうえ、 天下には陛下のまねをして天下を望む者が多くいました。こうした者をことごとく煮殺すことができましょうか」と言った。高祖は処刑をとりやめて、蒯通の罪を赦した。
夏説(カエツ)【宰相】
代王陳余の臣。代の宰相。〜B.C.205。
B.C.206陳余はひそかに張同と夏説に命じて斉王田栄に「願わくはわたくしに兵をお貸しいただきたい。 さすれば常山王(張耳)を討って地を趙王に返し、斉の防衛にしたいと存じます」と言った。
田栄はこれを許して兵を派遣し、陳余は常山王を討ち、大いにこれを破った。
陳余は張耳を破って趙を救うと、前王趙歇を代から迎えてふたたび趙王とした。趙歇は陳余を徳とし、立てて代王としたが、 陳余は趙歇が微力であり、国が安定したばかりなので、自分の領国に行かず、留まって趙歇の師傅となった。
代わりに夏説をやって代国の宰相として、代を守らせた。
B.C.205閏9月、漢将韓信に攻められて、鄔の東で討たれ、夏説は閼与で捕らえれて斬られる。
霍去疾(カクキョシツ)【宰相】
秦王朝の宰相。右丞相。〜B.C.208。
右丞相となる。
B.C.211始皇帝が出遊したとき、霍去疾は咸陽で留守をした。
B.C.208秦王朝に対する反乱者がますます多くなり、関中の兵卒を発して、賊を討つことが頻繁になった。霍去疾は左丞相李斯、 将軍馮劫とともに、阿房宮の造営や四方辺境の屯戍を減らすよう進言したが、二世皇帝は聴き入れなかった。 逆に二世皇帝は彼らの位を剥奪し、獄吏に下し、余罪を調べさせた。霍去疾と馮劫は「将相は辱められるものではない」と言って自殺した。
葛嬰(カツエイ)【武官】
張楚の臣。符離の人。〜B.C.209。
陳勝は葛嬰に命じて蘄以東を侵略させ、銍・酇・苦・柘・譙の諸県を取った。
葛嬰は東城で襄彊を立てて楚王としたが、陳勝が立っていると聞き、襄彊を殺して、報告のため陳に戻ってきた。 しかし陳勝に誅殺された。
華毋傷(カムショウ)【将軍】
斉の将軍。車騎将軍。
B.C.203華毋傷は田解とともに歴下に駐屯して漢の侵攻に備えた。
劉邦酈食其を遣わして斉に漢に降服するよう勧め、斉がこれに応じたため、 華毋傷らは防備をやめて大いに酒を飲み、漢と和平しようとした。
しかし漢将韓信は平原津から黄河を渡り、歴下を襲ったので、華毋傷らは破られた。
仮王(カリオウ)
呉広
灌嬰(カンエイ)【将軍】
前漢王朝の将軍。中涓。中大夫。御史大夫。太尉。丞相。車騎将軍。宣陵君。昌文君。昌文侯。潁陰侯。懿公。〜B.C.176。
睢陽の絹商人であった。
B.C.208劉邦が軍を率いて碭に陣取ったとき、灌嬰は中涓として劉邦に従い、東郡の郡尉を成武で撃破し、秦軍と杠里で激戦し、 功によって爵七大夫を賜わった。
灌嬰は劉邦に従い、秦軍を亳の南の開封、曲逆を攻めて力戦し、功によって爵執帛を賜わり、宣陵君と号した。
灌嬰は劉邦に従い、陽武以西洛陽に至るまでを攻め、秦軍を尸の北で破り、黄河の渡し場を遮断し、 南のかた南陽郡守呂齮を陽城の東で破り、ついに南陽郡を平定した。
B.C.207灌嬰は西のかた武関に入って藍田で戦い、力戦して覇上に至った。功によって爵執珪を賜わり、昌文君と号した。
B.C.206劉邦が漢王に封じられると、灌嬰は郎中に任じられた。
灌嬰は劉邦に従って漢中に入った。
10月、灌嬰は中謁者に任命される。
灌嬰は劉邦に従い、三秦を平定し、櫟陽を降して塞王司馬欣を降服させ、 また引き返して章邯を廃丘で包囲したが、陥れるに至らなかった。
B.C.205灌嬰は劉邦に従って東のかた臨晋関を出て、殷王司馬卬を降して、その地を平定した。
この年、陳平が漢に降って重用された。
周勃・灌嬰らは陳平を讒言し「平は美男子ですが、冠の飾玉にすぎません。 平は家にいたころ嫂と私通したと聞いておりますし、魏に仕えたが逃亡して楚に投じ、楚に用いられずに漢に投じました。大王は彼を高官に任じておられますが、 平は諸将から金を受けております。まことに平は反覆常なき乱臣であります」と言った。劉邦は陳平を疑ったが、結局これを信じて手厚く賞賜し、 陳平を護軍中尉に任じ、すべての諸将を監督させた。諸将はもう何も言おうとしなかった。
灌嬰は西楚の将竜且と魏の宰相項他の軍を定陶の南で討ち、激戦してこれを破った。 功により列侯を賜わり、昌文侯と号し、食邑として杜の平郷を与えられた。
灌嬰は中謁者として劉邦に従い、碭から彭城に至る地方を降した。
4月、項籍が大いに劉邦を破り、劉邦が西に遁走したとき、灌嬰は劉邦に従い、引き返して雍丘に陣取った。
王武・魏公申徒が漢に謀反したので、灌嬰は劉邦に従ってこれを撃破し、 せめて外黄を降し、西行して兵を整え滎陽に陣取った。
劉邦は騎兵の将になる人物を軍中で選んで、 もと秦の騎士である李必駱甲を任じようとした。しかし李必と駱甲が辞退したため、 劉邦は年少ではあるが灌嬰が歴戦のつわものであるとして、灌嬰を中大夫とし、李必・駱甲を左校尉・右校尉とした。そこで灌嬰は郎中の騎兵を率い、 滎陽の東で楚の騎兵を大いに破った。
灌嬰は詔を受け、別部隊として楚軍の後方を討って糧道を断ち、陽武から襄邑に行った。
灌嬰は項籍の将項冠を魯の城下で破り、部下の卒が敵の右司馬、騎将を各1人を斬った。
灌嬰は柘公王武の軍を南燕の西で破り、部下の卒が騎将5人と連尹1人を斬った。王武の別将桓嬰を白馬の城下で破り、部下の卒が都尉1人を斬った。
灌嬰は騎馬をもって黄河を渡り、劉邦を送って南の洛陽に行き、また北に使いして韓信の軍を邯鄲に迎え、帰還して敖倉に至った。
灌嬰は御史大夫に遷任された。
B.C.203灌嬰は列侯として食邑を杜県の平郷を与えられた。
灌嬰は御史大夫として詔を受け、騎兵を率いて東行し、韓信の麾下に属して斉軍を歴下で撃破した。部下の卒が華毋傷と将士軍吏46人を捕虜とした。
灌嬰は韓信に従って臨淄を降した。
灌嬰は東行して韓信に従い、竜且・留公を高密に攻めた。部下の卒が竜且を切り、右司馬・連尹各1人と将10人を生捕り、 灌嬰みずから周蘭を生捕った。
さらに灌嬰は守相田光を捕らえ、宰相田横を追って嬴・博に至り、 その騎兵を撃破した。
部下の卒が騎将1人を斬り、4人を生捕り、嬴・博を降し、田吸を千乗に破って、部下の卒が田吸を殺した。
韓信が自立して斉王となると、劉邦は灌嬰を別将として楚将を討たせ、灌嬰はこれを魯の北で破った。
灌嬰は転じて南の薛の郡長を破り、みずから騎将1人を捕虜とした。
灌嬰は傅陽を攻め、進んで下相とその東南の僮・取慮・徐一帯を平定し、淮水を渡ってことごとく所在の城邑を降し、広陵に至った。
項籍が、項声薛公郯公をやって、 再び淮北を平定したので、灌嬰は再び淮水を渡って項声、郯公を下邳で破り、薛公を斬って下邳を降した。
灌嬰は楚の騎兵を平陽で破り、彭城を降し、柱国項它を捕虜とし、留・薛・沛・酇・蕭・相を降し、 苦・譙を攻め、ふたたび周蘭を捕らえた。
灌嬰は劉邦と苦県の頤郷で会合し、劉邦に従って項籍を陳の城下で撃ち破り、部下の卒が将2人を斬り、騎将8人を捕虜とした。 灌嬰は功により食邑2500戸が加増された。
項籍が垓下で破れると、灌嬰は御史大夫として詔を受け、車騎を率いて項籍を追撃し、東城でこれを破った。 部下の卒5人が項籍を斬り、いずれも列侯を賜わった。
灌嬰は周勃とともに鐘離に食邑を賜った。
灌嬰は左司馬、右司馬各1人、卒1万2000人を降服させ、その将士軍吏をことごとく手に入れ、東城・歴陽を降した。
灌嬰は長江を渡り、呉の郡長を呉の城下で破ってこれを捕え、呉・予章・会稽の三郡を平定した。
灌嬰は引き返して淮北を攻略し、およそ52県を平定した。
B.C.202劉邦が皇帝となると、灌嬰は食邑3000戸が加増された。
秋、灌嬰は車騎将軍として高祖に従い、燕王臧荼を破った。
B.C.201灌嬰は高祖に従って陳に至り、楚王韓信を捕えた。帰還すると、灌嬰は割符をわかって世襲が許され、食邑として潁陰2500戸を与えられ、 潁陰侯と号した。
灌嬰は車騎将軍として高祖に従い、謀反した韓王信を代で討ち、馬邑に行った。
灌嬰は詔を受けて別将として楼煩以北の6県を降し、代の左相を斬り、匈奴の騎兵を武泉の北で破った。
灌嬰は高祖に従い韓王信に所属する匈奴の騎兵を晋陽の城下で討った。部下の卒が将1人を斬った。
灌嬰は詔を受けて燕・趙・斉・梁・楚の車騎をあわせ、これを率いて匈奴の騎兵をサ石で撃破した。
B.C.200灌嬰は平城で匈奴に包囲されたが、高祖に従って引き返して東垣に陣取った。
B.C.197灌嬰は高祖に従い陳豨を討った。灌嬰は詔を受けて、 別に陳豨の丞相侯敞を曲逆の城下で破り、部下の卒が侯敞と将5人を斬った。灌嬰は曲逆・盧奴・上曲陽・安国・安平を降し、 東垣を降した。
B.C.196黥布が謀反すると、灌嬰は車騎将軍として先発し、黥布の別将を相で破り、副将ら3人を斬り、 進撃して黥布の上柱国と大司馬を破り、黥布の将肥銖を破った。灌嬰はみずから左司馬1人を生捕り、部下の卒は小将10人を斬った。
灌嬰は追撃して淮水のほとりまで行き、功によって食邑2500戸を加増された。
黥布が破られると、灌嬰は潁陰の5000戸を与えられ、他の食邑は除かれた。
灌嬰は高祖に従って、2000石の者を捕えること2人、軍を破ること16、城を降すこと46、国を平定すること1、郡は2、県は52に及び、将軍を捕えること2、 柱国、相国各1人であった。
B.C.195高祖が崩御すると、灌嬰は列侯として恵帝に仕えた。
B.C.180、7月、呂后は崩ずると、呂禄らが叛乱しようとした。
8月、斉哀王はそれを聞き、呂氏一族の誅滅を名目として挙兵した。
9月、相国呂産は灌嬰に兵を率いて斉王を攻撃させた。 しかし灌嬰は滎陽に着くと一同とはかり「呂氏一族は自立しようとしている。 今わしが斉王を破っても、呂氏を有利にするだけである」と言って滎陽に駐屯し、使いをやって斉王や諸侯と連合し、呂氏一族が事変を起したら、 一緒に呂氏を誅しようと告げた。斉王はこれを聞くと、兵を斉の国境に引き帰した。
辛酉の日、周勃らが呂氏一族を族滅すると、周勃は斉王に報告したので、斉王は兵を引き揚げた。 そこで灌嬰も兵を引き揚げて帰った。
10月、劉恒が即位すると、灌嬰は太尉に任じられる。
呂氏一族を族滅した功で、灌嬰は加封3000戸と黄金2000斤を賜った。
B.C.178、11月、灌嬰は丞相に任じられ、太尉の官をやめてその職務を丞相に所属することになった。
B.C.177、6月、匈奴が北地郡に侵入し、河南(オルドス)で寇掠したので、灌嬰は辺境の吏騎8万5000人で匈奴を討った。匈奴は退却した。
済北王劉興居が謀反したので、灌嬰は詔により帰還した。
B.C.176灌嬰は丞相のまま卒去し、懿侯と諡された。
桓嬰(カンエイ)【武官】
王武の臣。
B.C.205桓嬰は漢将灌嬰に白馬の城下で破られ、部都尉1人が斬られた。
韓王信(カンオウシン)
韓信
韓広(カンコウ)【王】
秦王朝、趙の臣。燕王。遼東王。〜B.C.206。
もと秦王朝の土谷郡の卒史(郡属)であった。
B.C.209趙王武臣の命で、兵を率いて燕の地を従えた。燕の貴人豪傑らは韓広に「楚はすでに王を立て、趙もまた王を立てております。 燕は小国ながらも、万乗の国です。こんどは将軍自らがお立ちになって、燕王となられますように」と言った。
韓広は「わたしの母は趙にいるので、都合が悪い」と言うと、燕人は「趙は西に秦の心配があり、南に楚の心配があります。かの楚も趙王の将相の家族を殺すことができないのです。 どうして趙は将軍の家族を害することができましょう」と言った。そこで韓広はもっともに思い、そこで自立して燕王となった。 数ヶ月すると趙は韓広の母と家族を燕に送り届けた。
B.C.207項籍は秦を滅ぼすと、韓広は燕王から移されて遼東王に封じられた。
B.C.206燕王臧荼が燕に来て、韓広に封地へ行くように促したが、韓広は聴かなかった。そのため臧荼に無終で殺された。
韓終(カンシュウ)【文官】
秦王朝の臣。
B.C.215始皇帝は韓終、侯公石生に仙人の不死の薬を求めさせた。
韓信(カンシン)【王】
戦国韓の大尉。韓王。前漢王朝の臣。韓襄王の妾腹の孫。〜B.C.196。
韓信は身の丈8尺5寸(約2m)あった。
B.C.207劉邦は陽城を討ち、張良をやって韓の司徒であった故縁で、韓の旧領を降服させた。 張良は韓信を韓の将軍とし、韓信はその兵を率いて劉邦に従って武関から関中に入った。
B.C.206劉邦が立って漢王となると、韓信は劉邦に従って漢中に入った。
劉邦が引き返して三秦の地を平定すると、韓信は韓王になることを約束された。そこでまず韓の大尉に任命され、韓信は兵を率いて韓の地を攻略した。 項籍はこれを聞くと、鄭昌を立てて韓王とし、漢軍を防がせた。
B.C.205劉邦が河南に到着すると、漢将韓信が鄭昌を陽城に急襲して、これを降した。そこで劉邦は韓信を立てて韓王とし、 韓信はそれ以来、常に韓の兵を率いて劉邦に従った。
劉邦が彭城で項籍に破られると、韓信は命ぜられて広武に駐屯した。
B.C.204、6月、劉邦が滎陽を出ると韓信は周苛らとこれを守った。
楚に滎陽を破られると、韓信は楚に降服したが、やがて逃亡して漢に復帰し、また韓王に立てられた。
B.C.202春、劉邦が天下を平定すると、漢は割符を韓信に与えて韓王とし、潁川を都とした。
B.C.201春、高祖は韓信が才能と武勇があり、またその地が天下の強兵のいる所であるのを考え、詔を下して韓信を太原の王に遷し、匈奴に備えて晋陽に都させた。 韓信は上書して「かの地はしばしば匈奴が侵入します。晋陽は遠く不便ですから、治所を馬邑に置かせて頂きたい」と言うと、高祖はこれを許した。
秋、匈奴の冒頓単于が大挙して韓信を包囲した。韓信はしばしば匈奴に使者を遣って和解を求めた。
漢は兵を派遣して韓信を救援したが、韓信がたびたび密使を遣ったことから、二心があるのではないかと疑い、使いをやって韓信を問責した。韓信は誅殺されることを恐れ、 匈奴と密約して漢に背いて馬邑もろとも匈奴に投降し、太原を討った。
冬、高祖は親征して韓信の軍を銅鞮で破り、その将王喜を斬った。韓信は匈奴に遁走した。
韓信の将曼丘臣王黄らは趙王の後裔趙利を立てて王とし、 韓信の残兵をまとめて韓信・冒頓単于とともに漢を攻めようとはかった。匈奴は左賢王と右賢王に一万余騎を率いさせ、王黄らとともに広武に駐屯し、 さらに南下して晋陽に到った。
漢は大いにこれを破って離石まで追撃し、またこれを破った。
匈奴はふたたび兵を楼煩の西北に集結した。漢は車騎将軍を遣わしてこれを討たせた。匈奴は戦のつど敗走し、漢は勝ちに乗じて追撃した。
B.C.200匈奴は高祖を包囲したが、囲みを解いて去った。
B.C.197韓信は王黄らを遣り、陳豨を説得して謀叛させた。
B.C.196春、韓信はふたたび匈奴の騎兵とともに侵入して参合におり、漢軍を防いだ。
漢は柴武にこれを討つよう命じ、柴武は韓信に書簡を送って「陛下は寛仁で、背いて逃げた諸侯でも復帰すれば、 位階称号をもとに戻して誅殺されません。これは王もご存知ではありませんか。王は戦いに敗れたため出奔されたのであって大罪があるわけではありません。 急いで帰還されよ」と言った。
韓信は「陛下はわしを村里から抜擢されたのに、滎陽の戦いで死ぬことができなかった。これが第一の罪です。匈奴が馬邑を攻めたとき、城もろともに降りました。 これが第二の罪です。そして今、兵を率いて将軍と一旦の命を争っています。これが第三の罪です。 かの大夫は一罪もないのにその身は死亡しました。わたしが帰るのは許されないことです」と答えた。
韓信はついに戦い、柴武は参合を屠り、韓信は斬られた。
韓成(カンセイ)【王】
韓王。横陽君。〜B.C.206。
B.C.208燕・斉・趙・魏にもすでに王はあったが、ただ韓だけ後継の王がなかった。 劉邦の将張良が楚将項梁に説いて 「韓の公子のひとり横陽君成は賢明です。彼を立てて王とし、味方を多くしたほうがよいでしょう」と言った。項梁は張良に命じて韓成を捜させ、これを立てて王とし、 張良を韓の申徒(司徒)とし、韓の旧領を懐柔安定させようとした。
韓成は張良とともに1000余人を率いて韓の故地を攻略して数城を得た。
しかし秦軍に攻められ、韓の数城を失う。
項梁が定陶で敗死すると、韓成は楚懐王のもとに走った。
B.C.207劉邦が韓の10余城を降したので、韓成は劉邦の命で陽翟を守備した。
項籍が秦を滅ぼすと、韓成は韓王に封じられ、もとの都の陽翟に都する。
B.C.206、4月、諸王は封じられて封国に赴いたが、韓成は項籍の入関に従わず、また格別の功労もなかったので、国に赴くことを許されず、 また位を侯に降格させられ、殺される。
桓楚(カンソ)【武官】
西楚の臣。
秦王朝の時代、沢中に逃亡していた。
B.C.209、9月、会稽郡守殷通は、桓楚と項梁を将軍にして、秦に叛乱しようとしたが、項梁に殺され、 桓楚は項梁の配下となった。
B.C.208項籍は上将軍宋義を殺すと、桓楚に命じて楚懐王に報告させた。
韓談(カンダン)【宦官】
秦王朝の宦官。
趙高は公子に秦の宗廟で玉璽を受けさせようとした。嬰は子供2人と相談し 「丞相趙高は二世を望夷官で殺したので、うわべをごまかし、義理でわしを王にした。 わしは趙高が楚と密約し、秦の宗室を滅ぼして、関中の王になろうとしていると聞いた。わしを祖廟に行かせるのは廟の中でわしを殺そうとするのであろう。 わしが病気と言って行かなければ、丞相はきっと自分から出かけてくるだろう。来たら殺してやろう」と言った。
はたして趙高が自らやって来たので、嬰は韓談に命じて趙高を斎宮で刺し殺し、趙高の三族を咸陽で皆殺しにした。
甘徳(カントク)【文官】
趙の臣。天文官。
B.C.206張耳陳余に破れ、国を失った。諸侯に頼れる者がないと考え、 「漢王はわしと旧交はあるが、項羽も強盛で、わしを立てて王とした。わしは楚に行こう」と言うと、 甘徳が「漢王が函谷関に入った時、五星が東井に集まりました。東井は天文で秦の分野に当りますから、まっさきに秦に入った者が覇者となりましょう」と言ったので、 張耳は漢に向かった。張耳は劉邦に謁見すると、手厚くもてなされた。