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列伝 キ


夔(キ)【神】
の臣。楽正后。
伯夷の推薦により典楽となり、音楽・詩を司った。
有仍氏の美人玄妻を娶り、伯封を生む。
夔は初めて楽を作って諸侯の功を讃えたという。
夔(キ)【神】
雷神。
夔は牛の形をしていて、青い身体で足は一本しかなく、太陽や月のように輝いていた。
黄帝は宇宙の果てまでとどろく夔の雷鳴の力をほしがって夔を殺し、その皮で太鼓を作った。また別の聖なる雷獣も殺し、 その骨で太鼓のばちをつくり、太鼓を叩くと、500里まで響き、世界が恐れたという。
揮(キ)【公子】
魯の公子。翬とも書く。字は羽父。
B.C.719秋、衛の州吁は諸侯に鄭を討つよう要請した。 そこで宋殤公は使者を魯に遣わして鄭討伐の援軍を請うた。魯隠公は拒絶したが、 揮は勝手に兵を率いて参加し、鄭を破った。
B.C.715、12月、展無駭が没した。揮は展無駭のために諡と族名を賜わるよう隠公にお願いした。 隠公はこのことを衆仲に尋ねて、展無駭の王父の字をもって族名とし、展氏と名乗らせた。
B.C.713、5月、揮は隠公よりさきに斉と鄭と会合して宋を討った。
B.C.712冬、揮は隠公にへつらって「人民はあなたを徳としています。即位なさいますように。 わたしはあなたのため允(桓公)を殺しましょう。そしてわたしを太宰にしてくださいませ」と言った。 隠公は「先君の思召しなのだ。今、允は成人したので、わたしは菟裘の地で隠居しようと思う」と断った。
揮は太子允にこの話がもれることを恐れ、逆に允に「息姑は即位してあなたを退けようとしています。 わたしはあなたのために息姑を殺させていただきたいものです」と讒言する。
11月、隠公が大夫蔿氏の館に泊まった。
11月15日、揮は賊に命じて隠公を弑殺させ、允をたてて国君とした。
そして隠公を弑したのは蔿氏であると言ってこれを討った。
B.C.709秋、揮は斉に遣わされ、斉の公女を迎えた。
喜(キ)【王】
燕王(7代目)。孝王の子。
B.C.252宰相栗腹を遣わし趙に親善を約束させ、500金を献じて趙王の酒宴に供す。その後、栗腹の進言に従って大群を率いて趙を攻めるが、 廉頗に破られ、逆に国都薊を包囲される。そのため趙と和睦する。
燕王喜はさきに楽間の言を聴かなかったことを悔いたが、楽間はすでに趙にいるので書簡を送って「一家の中に不和があるとき、 家族が互いに誠を尽くして諌めもせず、これを近隣に告げ口をすることがあろうか。これはわたしが君のために残念に思うのである」と言った。しかし楽間は趙に留まった。
B.C.250趙将廉頗と楽乗に攻められ、薊を包囲される。またしても礼物を厚くして和睦を請うたので、趙は囲みを解いた。
B.C.244趙の李牧に武遂・方城を奪われる。劇辛に命じて趙を討たせるが破られる。
B.C.233秦の人質となっていた太子が逃げ戻る。
B.C.227荊軻が秦王を暗殺しようとすしたが失敗したため、秦に攻められる。
B.C.226秦に攻められ国都薊を失う。 代王が書簡を送って「秦が燕を追撃するのは、太子丹のせいである。いま王が丹を殺して秦王に献ずるなら、かならずや秦王の心は解け、 社稷は安泰でしょう」と言った。
燕王喜はそこで太子丹を斬って秦に献じようとしたが、秦の追撃は止まなかった。
B.C.222秦に攻められ捕えられる。ここに燕は滅亡する。
起(キ)【王】
衛公(20(30)代目)。霊公の子。
B.C.476斉は衛を攻め、斑師を虜にして、起を立てて衛の国君とする。 しかし石ホに放逐され、斉に出奔する。
忌(キ)【公子】
晋の公子。の子。
哀公の父。
己(キ)【文官】
魯の太師。
B.C.496斉が美人80人と馬30駟(120頭)を魯の君に贈った。季桓子はこれを受け取りたいと思い、 魯定公を誘ってそれを見物し、政事を怠った。
孔子はついに都を去った。己は孔子を見送り「夫子は何の過ちもないのに、どうして去られるのですか」と言った。
孔子は「わたしの意中を歌いましょう」と言ってうたった。
 かの女らの口のうとまし 逃げ去らずしてとどまるべしや
 かの女らの謁おそろし  敗け死なずして存ろうべしや
 なんぞ優游心のままに  この世を生きていのち終えざる

己は都に帰ると季桓子に孔子は何か言っていたかと聞かれた。己はありのままに答えると、 季桓子は「季桓子は端然として嘆息して「夫子は女どものせいにして、わたしを責めているのだわい」と言った。
キ(キ)【将軍】
楚の公子。司馬。
B.C.551公子キは楚康王に司馬に任じられた。
棄(キ)【女官】
平公の夫人。芮司徒の子。
芮司徒は女の子を生んだが、体が赤くて毛がはえていたので、堤の下に棄てた。それを共姫の侍女が拾い上げて公宮に入れ、 棄と名づけた。棄は大きくなると美人となった。
宋平公が母の共姫の宮殿にまいって夕方のご機嫌伺いをしたとき、共姫と一緒に食事をしている棄を見た。宋平公が棄をあまりにもじっと見つめたので、 共姫はこれを宋平公のとぎに入れた。棄はたいへん宋平公の寵愛を受けて、公子佐(元公)を生んだ。
箕遺(キイ)【武官】
晋の臣。〜B.C.552。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺・ 黄淵嘉父司空靖邴豫董叔邴師申書羊舌虎叔熊を殺した。
B.C.520閏月、箕遺・楽徴右行詭は先発隊に続いて周の前城を攻め取ってその東南に進み、 周王の軍は京楚に進撃した。
(一説では箕遺・黄淵・嘉父は叛乱を起こして殺されたとなっている)
祁盈(キエイ)【文官】
晋の臣。祁傒の孫。〜B.C.514。
B.C.514家臣の祁勝鄔臧が家を共有していてだらしがなかった。 そこで祁盈はふたりを捕らえようとして司馬叔游に相談すると、司馬叔游は「捕えると災いから逃れられないでしょう。 しばらく思い止まれてはいかがでしょう」と言った。しかし祁盈は「わが家だけで責め正してやろう。国には関係ない」と言って早速ふたりを捕らえた。 しかし祁勝は荀躒に賄賂を使い、 荀躒は彼のために晋頃公に取りなしたため、晋頃公は逆に祁盈を捕らえた。 祁盈の家臣は「どうせ主人もわたしも一緒に死ぬことになろう。それでは主人に勝と臧を殺したことを聞かせて満足させてあげよう」と言って祁勝と鄔臧を殺した。
6月、祁盈は殺されて、一族は族滅された。
季亹(キエイ)【公子】
衛の公子。衛武公の子。
季亹はィに領地を与えられてィ氏と称した。
魏嬴(ギエイ)【武官】
晋の臣。魏絳の子。魏の先祖。
釐王(周)(キオウ)【皇帝】
周王朝16代王。名は胡斉。荘王の子。〜B.C.676。
B.C.681即位する。
B.C.680斉は王命によって宋を討とうとして軍を周に願い出てきた。
夏、荘王は単伯を諸侯の軍に参加させ、宋を和平させた。
B.C.677晋曲沃の武公は晋湣公を討ち滅ぼし、その宝物をことごとく賄賂として周に献上した。 釐王は武公を正式に晋の君と承認し、諸侯の列に加わえさせた。
釐王(韓)(キオウ)【王】
韓王(3(9)代目)。名は咎。襄王の子。〜B.C.274。
B.C.293公孫喜に命じて周・魏の兵を率いて秦を攻めた。秦に24万の兵を破られ、公孫喜は伊闕で捕らえられる。
B.C.291秦に攻められ、垣を抜かれる。
B.C.290秦に武遂の地、方200里を与える。
B.C.286秦に攻められ夏山で破られる。
B.C.284秦昭襄王と西周で会同し、秦を援けて斉を攻めた。斉は敗北し、湣王は逃亡した。
B.C.282秦昭襄王と両周の間で会同する。
B.C.275暴鳶に命じて魏を救わせたが、秦に破られ、暴鳶は敗走した。
B.C.274趙と魏に華陽を攻められる。陳筮を秦に遣わせて援軍を請い、秦と共に趙・魏を破った。
魏鞅(ギオウ)【文官】
魏の臣。
魏鞅は春申君に「今、魏は滅亡に瀕しており、許・鄢陵・梧を維持することができず、割譲して秦に与えたならば、 秦と楚との隔たりは160里となり、楚にとって危険です」と忠告した。春申君はこれによって遷都を考えるようになった。
魏加(ギカ)【文官】
趙の臣。
諸侯が合従すると、趙は魏加を楚の春申君に遣わし「君には、よい将軍をお持ちでしょうか」と問わせた。
春申君は「私は臨武君を将軍にするつもりです」と答えた。
魏加はたとえ話をして「魏の臣更嬴が魏王に『矢をつがえず、弓弦を鳴らすだけで、鳥を落としましょう』と言い、はたしてそのとおりになりました。 魏王がその理由を問うと『あの鳥は飛び方が遅くて、鳴き声が悲しそうでした。古傷が痛んだからでしょう。ですから矢を避けようとして古傷が痛んだため、 落ちたのです』と申したそうです。ところで臨武君はかつて秦に痛めつけられた手負いの鳥です。秦を防ぐことはできますまい」と言った。
魏顆(ギカ)【武官】
晋の臣。魏シュウの子。
B.C.594潞の戦いで晋が潞と戦っているときに、秦が来攻してきた。
魏顆は身を賭して輔氏の地でこれを退け、秦の勇士杜回を捕らえて、晋を勝利に導いた。
季隗(キカイ)【女官】
文公の夫人。咎如(赤狄の別種族)の族長の娘。
B.C.653赤狄は討たれたため、季隗は文公に嫁いだ。
季隗は伯儵叔劉を生んだ。
公子の母杜キは、文公が狄にいたとき季隗に世話になったということで、 自分の位を季隗に譲った。
季簡(キカン)【王】
呉王。虞仲(仲雍)の子。
季桓子(キカンシ)【宰相】
魯の宰相。姓は季孫、名は斯。季平子の子。〜B.C.492。
B.C.505、6月18日、季平子が没した。季桓子は季平子に代わって領地を見て回ったが、仲梁懐が侮って無作法であったため、 季桓子は陽虎に「彼を追い払ってくれないか」と言った。
9月28日、陽虎が季桓子とそのまたいとこの公父文伯を捕らえ、仲梁懐を追い払った。
10月11日、陽虎が季氏の一族の公何藐を殺した。
10月13日、季桓子は陽虎と稷門のなかで盟った。
B.C.504夏、季桓子は孟懃子とともに鄭の捕虜を献上するため晋に行った。
季桓子は魯定公と陽虎と三桓と周社で盟った。
季桓子は孟懃子とともに軍を率いて鄆を攻め囲んだ。
B.C.503斉の国夏が魯を攻めた。季桓子はこれを防いだ。
B.C.502公山不狃と陽虎が乱を起こし、季桓子は陽虎に捕らえられたがいつわって逃れ、三桓と共同して陽虎を討った。
あるとき季桓子が井戸を掘ると、土のかめのようなものが出てきて、中に羊がいた。不思議に思い、孔子に尋ねて 「わたしが井戸を掘ったら、いぬが出てきました。これは何でしょう」と言うと、孔子は「わたくしの聞くところでは、それは羊です。木石の妖怪は夔と魍魎と言い、 水の妖怪は龍と罔象と言い、土の妖怪はヨウ羊と言います」と答えた。
B.C.498季桓子は費を取り壊そうとすると、費の代官の公山不狃と叔孫輒が費の人々を率いて魯を襲った。 魯定公は季孫・孟孫・叔孫の三人と季桓子の邸に入ったが、費の人々が攻め込んできて、魯定公のそばに迫った。 孔子が申句須楽頎に命じて台から下りてこれを防がせたため、費の人々は敗走した。 都の人々はこれを追撃して、姑蔑で討ち破った。公山不狃と叔孫輒は斉へ亡命し、季桓子は直ちに費を取り壊した。
B.C.497斉は、美人80人と馬30駟(120頭)を魯の君に贈った。季桓子はこれを受け取りたいと思い、魯定公を誘ってそれを見物し、 政事を怠った。
孔子は「やがて郊の祭の時期が来る。そのときに祭肉を大夫に分けるようならば、わしはひきつづきとどまってよいと思う」と言った。 しかし季桓子は斉の女を受け取って政事を怠り、また郊の祭に祭肉を大夫に分け与えなかったので孔子はついに都を去った。
太師に「孔子は何か言っただろうか」と問うた。己は孔子のうたった歌を告げた。季桓子は端然として嘆息して「夫子は女どものせいにして、 わたしを責めているのだわい」と言った。
B.C.493、2月、季桓子は叔孫州仇・孟懃子とともに邾を討って絞を攻めようとした。邾の君はその土地が惜しかったため、 郭東の田と沂西の田を魯に贈って和睦を盟った。
B.C.492、5月28日、司鐸という役所から火が出て、桓公釐公の廟に火が移った。 季桓子はかけつけて魯哀公の車の御者となって手綱を取り、雉門の両観のそとで魯哀公をお待ちし、火消しの者に命じて 「人が負傷するようであればやめなさい。財貨はあとで集めることができるから」といい、両観に掲げてある法令を保管させ「ふるい法令はなくしてはならぬ」と言った。
秋、季桓子は病気になった。季桓子は公子肥に「もしわしが死んだら、おまえはかならず魯の宰相となろうが、そのときにはかならず仲尼(孔子)を招くが良い」と言った。 また寵臣の正常に命じて「わたしが死んでも追い死にはするな。(妻の)南孺子の子が男であったら、 君に申し上げて後継ぎにしてくれ。女だったら肥(季康子)を立てて結構だ」と言った。
7月14日、季桓子が没し、肥が後を継いだ。葬式が終わって季康子が朝廷にいたときに、南孺子が男の子を生んだ。正常は季桓子の遺言を魯哀公に申し上げて衛に逃れ、 季康子は引退したいと願い出た。魯哀公が共劉を遣わしてその子を見させると、何者かに殺されていた。
桓子と諡される。
魏桓子(ギカンシ)【武官】
晋の臣。魏侈の孫。魏の先祖。
B.C.457魏桓子は荀瑶と藍台で宴会をしたとき、 魏の相段規韓康子とともに辱しめられた。
B.C.456荀瑶とともに趙毋卹を討つが、魏桓子は韓康子と謀って、 逆に荀瑶を討ち、その土地を分割した。
季姫(斉)(キキ)【女官】
悼公の夫人。季康子の妹。
悼公が魯に亡命したとき、悼公と結婚する。しかし季姫は季康子の叔父の季魴侯と密通していたため、斉に行くのを嫌がった。
B.C.487魯は斉に攻められ、結局魯は季姫を斉に渡すことになる。
季姫(羅)(キキ)【女官】
羅国の夫人。
羅国は季姫を夫人にしたため滅んだという。
季姫(ショウ)(キキ)【女官】
鄶の君の夫人。魯の公女。〜B.C.644。
B.C.646、6月、ショウに嫁いだ季姫は魯に里帰りした。しかしショウの君が来朝しなかったので魯釐公は怒って季姫を帰さなかった。 そこで季姫は魯の防でショウの君と遇って魯に来朝させた。
B.C.645、9月、季姫はショウに帰った。
B.C.644、4月、没す。
紀季(キキ)【公子】
紀の公子。紀侯の弟。
B.C.691、秋、紀季はケイをたずさえて斉に帰属した。これより紀は二分することとなった。
B.C.690兄の紀侯は斉に降服することをいさぎよしとせず、国を紀季に与えて、国から去った。ここに紀は滅びた。
魏リ(ギキ)【将軍】
晋の将軍。呂リ、厨武子ともいう。〜B.C.575。
魏リは公族になりたいと願っていたが、許されなかったのでこれを恨んでいた。
B.C.597、6月、晋が鄭を救援するため、楚軍と戦った(邲の戦い)。魏リは晋軍を負けさせようと考え、 命令に背いて楚に合戦を申し入れて帰った。楚の潘党が追撃してきた。潘党は熒沢まで来たとき6頭の鹿が目に入ったので、 その1頭を射止め、ふりかえって潘党に献上し「戦中のこととて、料理人も新鮮な肉にお困りであろう。従者にお届けさせよう」と言った。そのため潘党は追撃を中止して、 魏リは逃げることができた。
次に魏リは趙旃とともに夜に楚の陣地に攻め入ってきた。楚荘王はこれを追撃し、 楚は全軍を繰り出した。晋軍と楚軍は戦い、智罃が生け捕りにされた。 そのため智罃の父荀首は一族の兵を率いて取って帰した。魏リが荀首の御者を務めたので、 下軍の兵は多くこれに従った。荀首は矢を射るごとに、よい矢を選び抜いては魏リの背のえびらに入れた。魏リは立腹して「子を取り返そうとはせずに、 矢ばかり大切にする。矢などは国に帰ればいくらでもあるではないですか」と言った。荀首は「わが子を取り返せる時までに、むだによい矢を使わないためです」 と言い、連尹襄老を射殺し、 公子穀臣を捕えた。
しかし晋軍は楚軍に大敗した。
B.C.575鄢陵の戦いのとき、魏リは月を弓で射当て、あとにさがって泥の中に落ち込むという夢を見た。占ってみると「月は卑しい異姓の象である。 月を射たというのはきっと異姓の楚王を射るということでしょう。さがって泥に落ち込むというのは、きっとご自身が死ぬということでしょう」と出た。
戦いが始まると、魏リはみずから楚恭王の目を射た。 そこで楚恭王は養由基を呼び寄せて2本の矢を与えて魏リを射させ、1本目で魏リは首を射られて即死した。
魏頡(ギキツ)【将軍】
晋の臣。魏顆の子。令狐文子ともいう。新軍の佐。〜B.C.569。
B.C.573潞の戦いで、秦が来攻してきたとき、父の魏顆が身を賭して輔氏の地でこれを退けた功により、魏頡は新軍の佐に任命された。
B.C.569没す。
宜臼(ギキュウ)
平王
騎劫(キキョウ)【武官】
燕の将軍。
B.C.279恵王が即位すると、楽毅に代わって将軍に任じられる。
田単に即墨で大敗して、殺される。
鞠(キク)【神】
周王朝の先祖。不窋の子。
鞠武(キクブ)【文官】
燕の臣。太子の太傅。
B.C.233太子丹が秦から燕に逃げ戻った。秦王に軽んじられたためであった。
太子丹は秦の侵攻を憂え、太傅鞠武にその対策を尋ねたが鞠武は「秦の威力はすさまじく、立国もかないません。どうして冷遇されただけの恨みで、 秦の逆鱗に触れようとなさるのですか」と諌めた。
その後、秦の将軍樊於期が秦に罪を得て、燕に逃亡してくると、太子丹はこれを受け入れた。鞠武は燕王を諌めて「それはよくありません。 樊将軍が燕にいると、秦の禍を受けましょう。どうか太子には、はやく樊将軍を匈奴に入れて、秦の侵略の口実を無くし、五国と連合して秦にあたるべきです」と言った。
燕王喜は「そなたのはかりごとは、いたずらに長い月日がいる。また、樊将軍は窮して丹に身を寄せたのである。どうかそなたには、別のはかりごとを考えて欲しい」と答えた。
そこで鞠武は田光を推挙して、その策に従う事を進言した。
キ傒(キケイ)【文官】
晋の臣。字は黄羊。高梁伯の子。中軍の尉。公族大夫。キ奚とも書く。
領地がキであったことから、キ大夫と呼ばれた。
B.C.573悼公は即位すると、キ傒が果断でありながら邪淫でないのを知って、これを中軍の尉とした。
B.C.571悼公が群臣に登用すべき人材を問うたとき、キ傒は解狐を推挙した。 キ傒は解狐と仇讐の間柄であった。
解狐が死んだため、悼公がまた問うと、キ傒は「わたくしの子がよろしゅうございます。和平で落ち着き、恭敬を好み、下の人々に対して柔和でめぐみ深く、 大事に際しては鎮定させ、性質が正直で、放縦な心がなく、義でなければ変わるところがなく、礼でなければ動くことなく、もし軍事に臨むならば、 わたくしよりも勝りましょう」と言って、キ傒は自分も年老いたので職を辞して、自分の子のキ午を推挙した。
ある君子は「キ傒はえこひいきがない人だ。仇敵をも隠すことがなく、わが子も隠そうとしない」と評した。
B.C.557、1月、晋平公が即位すると、キ傒は公族大夫に任じられた。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、叔向をその一味として捕えた。 キ傒はこれを聞くと、すでに引退していたが早馬に乗って駆けつけて范カイに「彼(叔向)こそ実に国家を保つ柱石です。 十代の後までもその罪を赦して国のために働く人たちを励まし勧めるようにすべきです」と諫言したので范カイは喜んで共に参朝したので、叔向は赦された。 キ傒は叔向に会わないで帰宅し、叔向も赦してもらったお礼を言わずに朝廷に出仕した。
范カイが和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、 范カイは和大夫を攻めようとしてキ傒に尋ねた。キ傒は「公族と公室と宮中と大夫のことであればわたしの罪です。もし君の官をもってあなたの私事に従うのなら、 あなたは外面では受け入れても内心ではそうではないはずです」と答えた。結局、范カイは土地を和大夫に与えて仲直りした。
魏献子(ギケンシ)【宰相】
晋の宰相。正卿。魏の先祖。名は舒。魏嬴の子。〜B.C.509。
B.C.550、4月、斉に亡命していた欒盈がひそかに曲沃に入って叛乱を起こしたため、魏献子はこれを助けようとした。 魏献子は兵車の隊列を整えて車に乗り終わり、欒盈を迎えに出かけようとしたところに、范鞅がやってきた。 范鞅は「欒氏が賊を率いて都に攻め入りました。わたしの父と二、三の大夫が君のそばに居りますが、あなたをお迎えせよとのこと。 どうか一緒に乗ってください」と言うなり、魏献子の帯をつかまえて公宮に連れ帰った。范カイは魏献子を出迎え、 その手を取って曲沃の地をあげようと約束した。そのため欒盈の叛乱は失敗した。
B.C.548斉が晋に降服したため、魏献子は閻没とともに諸侯と会合した。
昭公に仕えた。昭公の没後、六卿は強大になり、公室が卑弱となった。
B.C.544呉の季札が晋を聘問して、趙武韓宣子・ 魏献子に会って、その人物に感服して「晋はきっとこの三族のものになるであろう」と言った。
B.C.541晋は無終と群狄と戦った。戦い始めるときに魏献子は「敵は歩兵、わが軍は兵車。出会うところは狭いので歩兵部隊をつくったらきっと勝てるでしょう。 また敵兵を狭い道に追い込めば、さらに勝てるでしょう」と言って自分の兵車隊をつくり、兵車5台分の15人を5人1組の3部隊に編成した。 しかし元帥の中行呉のお気に入りの者がこれに反対して作ろうとしなかったため、魏献子はその者たちを斬って見せしめにして、 歩兵部隊をつくらせた。狄の人はこれを見て嘲笑したが、晋軍は敵が陣形を整えないうちに急襲して大いに打ち破った。
B.C.514秋、韓宣子が没すると魏献子が代わって国政にあたった。魏献子は滅ぼされた祁氏・羊舌氏の領地をことごとく没収して、 祁氏の土地を分けて7つの県とし、羊舌氏の土地を分けて3つの県とし、司馬弥牟を鄔の大夫に、 賈辛を祁の大夫に、司馬烏を平陵の大夫に、魏戊を梗陽の大夫に、 知徐吾を塗水の大夫に、韓固を馬首の大夫に、盂丙を盂の大夫に、 楽霄を銅鞮の大夫に、趙朝を平陽の大夫に、 僚安を楊氏の大夫に任命した。賈辛と司馬烏は周の王室のために努力したためであり、 知徐吾・趙朝・韓固・魏戊は卿の庶子の中でよく職分を守り父祖の務めを守る者であるためにであり、すべて魏献子のお目にかかったからである。 魏献子は成鱄に「わたしは戊に県を与えたが、わたしのことを身びいきで行ったと言うだろうか」と尋ねると、 成鱄は「どうしてそんなことがありましょう。戊は君を忘れることなく、いばることなく、義にかなうことを考え、みだらな行為はありません。 あの人に県を与えても結構なことではありませんか」と答えた。 賈辛が任命された祁県に行こうとして魏献子に会いに来ると、魏献子は「昔、鄭の鬷蔑は顔の醜い男であったが、 その声は大変美しかった。叔向はその声を聞いて『あれはきっと鬷明であろう』と言って堂をおり、 その手を取って親しんだといいます。今、あなたは王室に手柄を立てたので、引き上げたのです。さあ出かけなさい。今までの手柄を落とすことのないように」と言った。 孔子は魏献子の人材登用を聞いて「身近の所では親族を見落とすことがなく、身に遠い所でも賢者を見落とさずに用いた。 義にかなったということができる」と批評した。
冬、梗陽の人が訴訟を起こし、魏戊は決裁できなかったので、魏献子に決裁を求めた。すると梗陽の人が魏献子に女楽を贈って賄賂とし、 魏献子もこれを許そうとした。閻没と叔褒はこれを諌めようとして、 朝廷が終わっても退朝しなかった。魏献子はふたりを呼んで食事をともに取ったが、ふたりは三度溜息をついた。魏献子がこのことを尋ねると、 ふたりは「われわれは欲深です。最初はご主人の食事が足りないのではないかと溜息をつき、 中ごろどうして足りないはずがあるかと思い溜息をつき、最後にわれら小人の腹をもって君子の心をしたいものだとして溜息をついたのです」と答えた。 魏献子は「よし」と言い、梗陽の人の申し出を断った。
B.C.513秋、竜が絳の郊外に現れた。魏献子は蔡墨に竜について問うた。
B.C.512、6月23日、晋頃公が没した。鄭の使者が副使を連れて弔問しなかったため、 魏献子は士弥牟に命じて非礼を詰問した。
B.C.510、8月、周が晋に使いを遣わして成周に城壁を築きたいと申し入れた。范鞅が魏献子に「周を守備するよりは城壁を築くほうがよい。 後に事が起きても晋は知らぬ顔をしていてもよい」と言ったため、 魏献子は承諾して韓簡子に命じて敬王の使者にその旨を告げた。
11月、魏献子は韓簡子とともに周の都に出かけ、諸侯の大夫を阦泉に集めて平丘の盟い(B.C.529)を再確認し、そのうえで成周に城壁を築くことを命じた。 このとき魏献子は君の如く南面して言い渡したため、衛の彪傒は「魏子はきっと大きなとがめを受けるであろう。 君の位を犯して大事な命令を下した。やるべきことではない」と言った。
B.C.509、1月7日、魏献公は諸侯の大夫を狄泉に集めて、成周の城普請に着手しようとして一切を指揮した。衛の彪傒は「天子の卿大夫にかわって号令するのは筋道ではない。 魏子はきっと災いからのがれることはできないであろう」と言った。魏献子は仕事を韓簡子と周の原寿過にまかせて、 自分は大陸という沢地に出かけて焼き狩りをしたが、やけどにあい引き返す途中のィで没した。
キ午(キゴ)【武官】
晋の臣。キ傒の子。軍尉。
B.C.571悼公が群臣に登用すべき人材を問うたとき、父のキ傒は「わたくしの子がよろしゅうございます。 和平で落ち着き、恭敬を好み、下の人々に対して柔和でめぐみ深く、大事に際しては鎮定させ、性質が正直で、放縦な心がなく、義でなければ変わるところがなく、 礼でなければ動くことなく、もし軍事に臨むならば、わたくしよりも勝りましょう」と言ってキ午を推挙した。
悼公はキ午を軍尉としたが、平公の世を終わっても、軍事には悪政がなかった。
B.C.552平公は欒逞の一党を全部放逐して、キ午と陽畢に命じて、曲沃の欒逞を放逐させ、 欒逞は楚に亡命した。
范カイ和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、 范カイは和大夫を攻めようとした。キ午は范カイに会って「晋は諸侯の盟主であり、あなたはその正卿です。もしあなたが諸侯を安んじ正すならば、 晋国内であなたに従わない者がおりましょうか。なぜ親和しあって、大は諸侯を和し、小は国内の人々と和親しないのですか」と言った。 結局、范カイは土地を和大夫に与えて仲直りした。
B.C.541、1月、諸侯の大夫が鄭の虢で会同した。キ午は楚の公子の不信なやり方を見て 「あなたが用心しないと、宋の盟いの時と同じように楚に抑えられるでしょう」と進言した。趙武は 「ありがたい言葉をいただきました。しかし私は自分が信義を守らないことを気にやみ、楚のやり方などは気にしておりません」と答えた。
季寤(キゴ)【武官】
魯の臣。季桓子の弟。子言ともいう。
B.C.502季寤・公鉏極公山不狃叔孫輒叔仲志は魯で思うようにならず、陽虎を頼った。陽虎は三桓を追い払い、季寤を季氏に代え、 叔孫輒を叔孫氏に代え、自分は孟氏に代ろうと考えた。そして陽虎は叛乱を起こしたが敗れて国外に亡命した。
僖公(鄭)(キコウ)
釐公(魯)(キコウ)【王】
魯公(18代目)。僖公とも書く。名は申。湣公の庶兄。母は成風。〜B.C.627。
B.C.660、8月25日、慶父が湣公を弑すと、公子申は季友とともに邾に出奔した。
9月、慶父が莒に出奔すると、公子申は季友とともに帰国して即位する。
釐公は、その功により汶陽とヒンをもって季友を封じる。
慶父と淫通した哀姜は邾に出奔したが、斉桓公に殺された。
釐公は哀姜のなきがらを斉からもらい受けた。
B.C.659、9月、邾は哀姜のため魯を討とうとして虚丘に出陣していたが、その必要がなくなったため、帰ろうとしていた。釐公はこれを邾の偃で打ち破った。
10月、莒が魯に攻め込み、慶父を引き渡した謝礼を求めてきた。季友はこれを魯の酈で打ち破り、 莒君の弟を捕えた。
釐公は季友の功を賞して、汶陽の田地と費を与えた。
B.C.658春、桓公は諸侯とともに楚丘に城壁を築いて衛を復興させた。しかし釐公はこれに遅刻した。
5月、哀姜を葬った。
B.C.657、前年の10月から5月まで雨が降らず、6月になってようやく雨が降った。
秋、斉桓公は陽穀の会合に魯が参加しなかったので、人を魯に遣わして旧来のよしみを復活させようとした。
冬、釐公は季友を斉に遣って、斉と同盟した。
B.C.656春、釐公は斉桓公、宋桓公、陳宣公、鄭文公、 衛文公、許穆公、曹昭公と会合して蔡を討ち、 勢いに乗じて楚に攻め入った。連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
12月、釐公は叔孫戴伯に命じて、斉とともに陳を討たせた。
B.C.655杞の伯姫が魯に来て、その子を朝見させた。
夏、叔孫戴伯が牟に出かけて夫人を迎えた。
釐公は、斉桓公・陳宣公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹昭公・周の太子と衛の首止で会合し、 太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
8月、諸侯は首止で盟った。
9月、日食があった。
B.C.654釐公は、斉桓公・宋桓公・陳宣公・衛文公・曹昭公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
冬、釐公は帰国した。
B.C.653夏、小邾子が来朝した。
7月、釐公は、斉桓公・宋桓公・陳の太子・鄭の太子と魯のィ毋で会合し、 鄭に対する処置を相談した。
釐公は季友を斉に遣わした。
B.C.652釐公は斉桓公・宋桓公・衛文公・曹共公・陳の太子款・許僖公・周王の使者と会合し、 曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
7月、釐公は禘祭を行って哀凶の位牌を祖廟に納めた。
12月22日、周の使者がやって来て、恵王の崩御を知らせた。
B.C.651夏、釐公は、斉桓公・宋襄公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公・宰孔と葵丘で会合し、 同盟関係を温めた。
B.C.650、1月、釐公は斉に赴いた。
冬、大雪が降った。
B.C.649夏、釐公は夫人姜氏とともに斉桓公と陽穀で会合した。
8月、雨が降らなかったので、雨乞いの祭りを盛大に行った。
B.C.648、3月、日食があった。
B.C.647夏、釐公は斉桓公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公と衛の鹹で会合し、淮夷が杞を苦しめたことへの対応と、王室の騒ぎについて相談した。
9月、雨が降らなかったので、雨乞いの祭りをした。
B.C.646、6月、ショウに嫁いだ季姫が魯に里帰りした。しかしショウの君が来朝しなかったので釐公は怒って季姫を帰さなかった。 そこで季姫は魯の防でショウの君と遇って魯に来朝させた。
B.C.645春、釐公は斉に赴いた。
3月、釐公は斉桓公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公と斉の牡丘で会合して、葵丘の盟いを忘れないようにし、 楚に討たれた徐を救うことを相談した。
釐公は公孫敖に命じて諸侯とともに徐を救わせた。
5月、日食があった。
8月、いなご虫の被害があった。
9月、季姫がショウに帰った。
夷伯の廟に落雷があった。
B.C.644秋、周襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、魯は斉桓公の召集に応じて周を守った。
12月、魯釐公は、斉桓公・宋襄公・衛文公・鄭文公・許僖公・邢侯・曹共公と淮で会合し、淮夷に苦しめられているショウを救うことを相談した。
B.C.643夏、釐公は淮の会合の帰途に項を攻め滅ぼした。斉桓公はこれをとがめて、釐公は捕えられた。
秋、夫人の声姜が釐公を釈放してもらうため、斉桓公と声姜は魯の卞で会合した。
9月、釐公は釈放された。
B.C.642夏、釐公は斉を助けるために兵を出した。
B.C.640春、釐公は新たに南門を改築した。
夏、郜の君が来朝した。
5月、釐公の別邸の西宮が落雷で焼けた。
B.C.639夏、大旱魃があった。そこで釐公は雨乞いをした巫尩を焼き殺そうとした。 臧文仲が「工事を止め、贅沢な物は食べず、農事を盛んにするのがよろしい。彼を殺してもどうにもなりません」 と諌めたので、釐公は取りやめた。
邾が須句を攻め滅ぼしたので、須句の君が魯に逃げてきた。釐公の母成風は須句から嫁いできたので、成風は須句を復興させることを望んだ。
冬、楚成王子西を魯に遣わして、捷(戦利品)を献じた。
B.C.638春、釐公は邾を討って須句を取り、須句の君を国に帰した。
8月、邾が魯を攻めた。釐公は邾をあなどって十分な防備もせずに防ごうとした。臧文仲があなどってはいけないと諌めたが、 釐公は聴き入れなかった。
8月8日、両軍は升陘で戦ったが、魯軍は大敗した。邾人は釐公の兜をぶんどり、邾の城門に掲げた。
B.C.635、12月、衛が仲介して、魯と莒を仲直りさせ、洮で盟った。
B.C.634、1月、釐公は莒君玆丕公と衛のィ遠と会合して、魯の向で盟い、 前年の洮の盟いをあたためた。
斉が洮と向の盟いに立腹して魯を討った。釐公は斉軍を追撃したが追いつかなかった。
夏、斉が魯の北辺を討った。
衛は洮の盟いを履行するため、斉を討った。釐公は展喜に命じて斉軍をねぎらわせたので、斉軍は引き揚げた。
釐公は襄仲と臧文仲に命じて楚に援軍を願い出た。
冬、魯は楚とともに斉・宋を討って穀を取り、斉桓公の子をそこに置いた。
B.C.633杞共公が魯に来朝したが、夷狄の礼法を用いて無礼であった。
6月、斉孝公が没した。
8月、釐公は斉に恨みがあったが、斉に対する弔贈の礼をおろそかにしなかった。
9月6日、杞が無礼であったので、釐公は襄仲に命じて杞を討った。
冬、釐公は楚などの諸侯と会合して宋で盟った。
B.C.632、1月、晋が衛を攻めた。釐公は公子を派遣して衛を守備させたが、晋に勝てなかった。釐公は晋の報復を恐れ、 公子買を殺して晋に弁解し、楚に大しては公子買が守備の任を果たせずに帰国したので殺したと告げた。
5月28日、晋文公の号令で釐公は、周の王子虎・宋成公・ 斉昭公・蔡荘侯・鄭文公・衛・莒とともに践土の王宮で盟った。
秋、杞の伯姫が来朝する。
襄仲が斉に赴く。
冬、釐公は晋文公・宋成公・斉昭公・蔡荘侯・鄭文公・陳共公・莒の君・邾の君・秦人と温で会同し、 晋に服従しない衛と許を討つことを相談した。
10月10日、釐公は周襄王に朝見した。
10月15日、釐公は諸侯と共に許を攻め囲んだ。
晋文公が曹の領地を削減して、諸侯に分配するというので釐公は臧文仲を派遣した。臧文仲がいちはやく晋に到着したので、魯は諸侯よりも多くの領地を獲得した。
臧文仲が帰国して、重の地の公館の役人に助言をもらったと報告したので、釐公は重の館人を呼び出して大夫に取り立てた。
(『春秋左氏伝』では、曹の割譲はB.C.629のことになっており、『史記』『国語』と整合性が取れていない)
B.C.631春、介の君葛盧が魯に来朝した。釐公は会盟のため不在であったが、魯は礼をつくして対応した。
6月、釐公は、王子虎・晋の狐偃・宋の公孫固・ 斉の国帰父・陳の袁濤塗・秦の小子憗と会合して、 翟泉で盟いを結び、践土の盟を温め、鄭を討つ相談をした。
秋、雹が降り、被害があった。
冬、介の君葛盧が来朝し、釐公は饗宴を開き、引き出物を与えて礼遇した。
B.C.630晋文公が衛成公を捕らえて暗殺しようとした。 臧文仲が「衛君は無罪に近いでしょう。今、晋人が衛君を鴆薬で毒殺して死なず、また毒殺者をとがめないのは、 このことが知れるのを忌み嫌うためです。諸侯から請願があれば、きっと衛君を許すでしょう。
今、晋は覇者となったばかりです。『魯はその親しい友を見捨てない。魯を憎むことは出来ない』と言わせましょう」と言った。釐公は喜んで20対の玉を贈物として運動し、 成公の赦免がかなった。
そのため、この後晋が魯に使節を派遣する時には、諸侯より一等を加えて尊んだ。
冬、周の宰孔が来朝したので、釐公は襄仲を周に遣わせ、さらに晋に聘問させた。
B.C.629春、釐公は臧文仲を晋に遣わし、洮から南、東は済水に至る曹の領地を与えられた。釐公は、襄仲を遣わしてお礼を述べさせた。
4月、釐公は4たび郊祭の日を占ったが、いずれも不吉であったので、郊祭を行わなかった。しかし、三望の祭はおこなった。
B.C.627春、斉の国帰父が魯に来聘した。その作法がすべて礼にかなっていたので、臧文仲が「斉の国子が政治を行っているので、 斉はまだ礼が守られている。わが君は斉にお出かけになるのがよろしいでしょう」と言った。
夏、釐公は邾を討って訾婁を攻め取り、升陘の役(B.C.638)の報復をした。
秋、邾が魯に対する備えをしなかったので、襄仲に命じて再び邾を討った。
10月、釐公は斉に赴き、斉が狄の侵略を受けたことをお見舞いした。
12月、釐公は斉から帰国する。
釐公は小寝の地で没す。
釐公(斉)(キコウ)【王】
斉公(13代目)。名は禄甫、禄父とも書く。荘公の子。〜B.C.698。
B.C.730即位する。
B.C.720冬、釐公は鄭荘公と石門で盟約を結ぶ。
B.C.717、5月11日、釐公は魯隠公と艾で盟い、はじめて親和する。
B.C.716、釐公は魯との艾の盟約を温めるため、夷仲年を魯に来聘させた。
B.C.715春、釐公は宋・衛と鄭とを仲直りさせようとして会合の期日を定めた。
7月、釐公は計画通りに宋・衛を鄭と親和させ、斉・鄭・衛の三国が温で会合し、瓦屋で盟った。
冬、釐公は魯に使者を遣わして、三国を親和させたことを報告した。
B.C.714冬、魯は宋を討つことを検討するため、魯隠公は釐公と防で会合した。
B.C.713釐公は魯隠公、鄭荘公と魯の中丘で会合し、1月26日に魯のケで盟って宋を討つ期日を定めた。
5月、釐公は魯の公子と鄭と会合して宋を討った。
6月、釐公は魯隠公、鄭荘公と宋の老桃に会合した。
B.C.712許の荘公が周室を侮り、その職貢を怠った。
7月、釐公は魯隠公、鄭荘公と会合して許を討った。
7月3日、連合軍は許城に攻め入り、許荘公は衛に出奔した。
釐公は魯隠公に許を譲ろうとした。隠公は辞退して「斉侯が許の不供の罪を責めて討伐の軍を起されたから、それに従ったまでのこと。今や許がその罪に服したからには、 斉侯の御命令でも従うわけにはまいりません」と言った。そこで釐公は許を鄭に譲った。
B.C.710宋の宰相華督が宋殤公を弑した。
3月、釐公は魯桓公・陳桓公・鄭荘公と宋の稷で会合して、 宋の乱の後処理をする。
4月、華督は諸侯の支持を得るために斉に賄賂を贈ってきた。
B.C.709釐公は衛宣公と衛の蒲で会合した。
釐公は魯桓公と斉の嬴で会合し、斉と婚約を結ぶ。
9月、釐公は公女姜氏を讙に送り、釐公は魯桓公と讙で会合した。姜氏が斉から魯に入った。公女が嫁ぐとき、君主自身が送るということはないので、 この行為は批難された。
冬、釐公は夷仲年を魯に遣わした。
B.C.707夏、釐公は鄭荘公とともに紀を襲い取ろうとして紀に行ったが、紀の人々に見破られて失敗した。
B.C.706、6月、北戎に攻められたため、釐公は諸侯に助けを求め、その力により北戎を退けた。
その中で鄭の太子の功が最も高かったため、 釐公は文姜を忽に嫁がせようとした。しかし太子忽は身分不相応として辞退した。
B.C.705秋、釐公は鄭・衛とともに盟・向を征伐した。
B.C.702、12月、斉は衛・鄭とともに魯を討ち、魯の郎で戦う。
B.C.701春、鄭と斉と衛と宋は魯を攻めようとして悪曹(鳥曹)で盟った。
B.C.699魯と鄭と紀の連合軍と戦ったが、斉・宋・衛・燕は破れた。
B.C.698、12月、宋・斉・蔡・衛・陳は鄭を討つ。
この月、釐公は没す。釐公は諸侯の盟主として小覇と称された。
釐公(燕)(キコウ)【王】
燕公。〜B.C.373。
B.C.373斉を林営で打ち破る。
釐公(曹)(キコウ)【王】
曹公(13代目)。名は夷。荘公の子。〜B.C.662。
B.C.671即位する。
B.C.670、3月、釐公は荘公を葬る。
冬、曹は戎に攻められ、釐公は陳に亡命する。
釐公(陳)(キコウ)【王】
陳公(7代目)。名は孝。幽公の子。〜B.C.798。
B.C.834即位する。
釐公(杞)(キコウ)【王】
杞公(15代目)。名は遂。隠公の弟。〜B.C.494。
B.C.513隠公を弑して代わって立つ。
釐公(宋)(キコウ)【王】
宋公(8代目)。名は挙。の子。〜B.C.830。
B.C.858即位する。
釐公(鄭)(キコウ)【王】
鄭公(14代目)。名はツ。成公の子。〜B.C.566。
B.C.575、公子ツは、子罕と共に晋に出かけたが、公子ツは子罕をよく扱わなかった。 また公子ツは子豊と共に出かけた時も、子豊をよく扱わなかった。このことで公子ツはふたりからよく思われていなかった。
B.C.571、7月9日、鄭成公が没したので、公子ツは即位した。
冬、諸侯が戚に会合して虎牢に城を築いたので、釐公は諸侯と和睦した。
B.C.570、6月23日、鄭は晋に服従したので釐公は晋悼公・単頃公・ 宋平公・衛献公・莒の君・邾の君・ 斉の公子と会合し、鶏沢で同盟し、呉と仲良くしようとした。
このとき、子豊は傲慢な釐公を晋に訴えようとしたが、子罕がこれをとめた。
B.C.568釐公は子国を魯に遣わして、即位の挨拶をさせた。
9月23日、釐公は晋悼公・宋平公・陳哀公・衛献公・魯襄公・ 曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君、斉の公子光、呉の人、 ショウの人と戚で盟約し、陳を守ることを誓った。
11月12日、楚が陳を討ったので、釐公は晋・宋・衛・魯・曹・莒・邾・滕・薛・斉と鄭の城棣で会合して陳を救った。
B.C.566冬、楚が陳を攻め囲んだ。釐公は、晋・魯・衛・宋・莒・邾とともに鄭のイで会合して陳を助けた。 釐公の介添を子駟がしたが、釐公はまたも子駟をよく扱わなかった。側近の者が諌めたが、釐公は聴き入れず、その者を殺した。 12月16日、釐公はソウまで来たとき、子駟の放った者に夜、殺された。
(『春秋左氏伝』では、釐公は兄の公子髠頑と同一人物となっている。また毒殺ともいう)
釐侯(燕)(キコウ)【王】
燕公。恵侯の子。〜B.C.792。
B.C.828即位する。
釐侯(蔡)(キコウ)【王】
蔡侯(7代目)。名は所事。夷侯の子。〜B.C.762。
B.C.810即位する。
釐侯(衛)(キコウ)【王】
衛侯(2(9)代目)。頃侯の子。〜B.C.812。
B.C.854即位する。
釐侯(晋)(キコウ)【王】
晋侯(6(7)代目)。靖侯の子。〜B.C.824。
B.C.840即位する。
癸公(キコウ)【王】
斉公(4代目)。名は玆母。乙公の子。
紀公(キコウ)【王】
莒公。名は庶其。〜B.C.609。
紀公は年少の季佗を愛して、太子を退け、国政上無礼な振る舞いが多かった。
B.C.609紀公は公子僕に弑された。
キ侯(ケ)(キコウ)【王】
ケ侯。ケ曼の兄弟。楚文王の伯父。
B.C.688楚文王は申を討つ途中、ケに立ち寄った。キ侯は「わたしのおい子である」と言って文王をもてなした。 騅甥タン甥養甥が文王を殺すべきであると行ったが、 キ侯は聴かなかった。
はたして文王は申の討伐を終えると、その帰途にケを討った。
B.C.678楚文王に攻められて、ケは滅亡する。
僖公(キコウ)【王】
許公。名は業。〜B.C.622。
B.C.656即位する。
B.C.655夏、僖公は、斉桓公・魯釐公・陳宣公・ 衛文公・鄭文公・曹昭公・ 周の太子と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
8月、諸侯は首止で盟った。
B.C.654許は楚に攻められたが、斉桓公が諸侯と共に救援に来たので、楚軍は引き揚げた。
冬、僖公は蔡繆侯に連れられて楚の武城に赴き、楚成王に見えた。 そのとき僖公は両手を前で縛り、璧を口に加えて使者の様を示し、大夫は喪服をつけ、士は棺桶を背負った。成王は逢伯に対処を相談すると、 逢伯は「昔、微子啓がこのようにして周武王にまみえました。武王はみずから縄を解き、 手厚く扱って国へ戻らせました」と答えたので、成王はこれに従い、僖公は許された。
B.C.652春、僖公は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・曹共公・衛文公・ 陳の公子・周王の使者と会合し、曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
B.C.651夏、僖公は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・衛文公・鄭文公・曹共公・宰孔と葵丘で会合し、 同盟関係を温めた。
B.C.650夏、僖公は斉桓公とともに北戎を討った。
B.C.647夏、僖公は斉桓公・魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・曹共公と衛の鹹で会合し、 淮夷が杞を苦しめたことへの対応と、王室の騒ぎについて相談した。
B.C.645、3月、僖公は斉桓公・魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・曹共公と斉の牡丘で会合して、葵丘の盟いを忘れないようにし、 楚に討たれた徐を救うことを相談した。
B.C.644秋、周襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、許は斉桓公の召集に応じて周を守った。
12月、僖公は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・衛文公・鄭文公・邢侯・曹共公と淮で会合し、淮夷に苦しめられているショウを救うことを相談した。
B.C.622、10月20日、没す。
季甲(キコウ)【文官】
魯の臣。季公鳥の子。母は鮑文子の子。
魏公(ギコウ)【王】
魯公(5代目)。名はヒ。幽公の弟。〜B.C.923。
B.C.977幽公を殺して自立する。
魏絳(ギコウ)【宰相】
晋の宰相。魏の先祖。魏荘子ともいう。中軍司馬。新軍の佐、下軍の佐。魏シュウの子。
B.C.573晋悼公は即位すると、魏絳が勇敢で乱れないことを知って、これを中軍司馬に任じた。
B.C.570晋が鶏沢で諸侯と会同したとき、悼公の弟の楊干が行列を乱したため、 魏絳は中軍司馬として楊干の御者を誅殺して、楊干を辱めた。悼公は怒り「諸侯を会同させて晋国の光栄を開いたものを、いまわが弟を辱めた」と言って、 魏絳を誅しようとしたが、人に説得されて思いとどまり、ついに魏絳に国政をとらせ、戎狄を宥和させた。
B.C.569雞丘の会盟から帰国すると、魏絳は饗宴を賜った。
魏頡が没した。悼公は張孟を卿に任じようとしたが、張孟は辞退して「臣は魏絳に及びません。 絳の知は卿の大官を治める能力があり、その仁は公家の利となり、その勇は刑を決断する才能があり、その学は祖先から受け継いだ職務を破棄しません。 その上、雞丘の会では、不法を犯さず、その言葉は恭順でした。賞しなければなりません」と言った。
悼公は5度任命しようとしたが、張孟は固辞したので、かわって魏絳がその徳を買われて新軍の佐に任命された。
冬、無終山の戎狄の頭目嘉父が魏絳をたより、孟楽を使節として晋との講和を希望してきた。
悼公「戎狄は親愛の情が薄く欲が深い。むしろ討ったほうがよい」
魏絳「今や諸侯がなついたばかりで、陳も和睦したばかりでこちらの行動を注視しています。晋に徳があればなつき、なければ離反しましょう。 戎を攻めて疲れたときに陳が楚に攻められれば、陳を助けることはできないでしょう。戎を手に入れて中国(陳)を失うというのは、 つまらないことではありませんか」
悼公「では戎と和睦するのが一番よいのか」
魏絳「和睦すれば5つの利があります。第一に、戎は財貨を貴び土地を軽んじるので、土地を財貨で買い取ることができます。第二に、戎に接する民の心配がなくなり、 収穫を豊かにすることができます。第三に、戎が晋に服従すると、諸侯は晋を恐れて服従します。第四に、徳をもって戎を治めるので、甲冑武器がいたみません。 第五に、正しい道を行うので遠国の人々は集まり、近国の人はその地に安住します」
晋悼公は喜び、魏絳に命じて戎の諸国と和睦した。かくて晋は文公以後、再び諸侯の覇となった。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討ち、魏絳は趙武とともに新軍を率いて杞人とゲイ人とともに並木の栗の木を切り倒して軍用に供した。
閏12月、晋悼公は国に帰ると、戦に疲れた民を休養させる方法を相談した。魏絳は恩恵を施し、労役を免じるよう申し出たので、 晋悼公は蓄えてある米穀を民に貸し与えた。公室を始めとして蓄えのある者は残らず出したので、国中の蓄えの米穀はなくなったが、困窮する民はいなくなった。 また公室が民の利益を独占することがなくなったので、利をむさぼる民もいなくなった。
B.C.563冬、諸侯の軍は鄭を討って鄭の虎牢に城壁を築いてそこを守った。晋軍は梧と制に城壁を築き、 魏絳は士魴とともにここを守った。
B.C.562冬、晋悼公は鄭を征伐してこれを降した。鄭人は晋悼公に贈り物をして、楽師の師悝師触師蠲の3人、特別な兵車30乗、普通の兵車100乗、 楽器、女の楽人16人を贈ってきた。すると晋悼公はその楽器と楽人の半分を魏絳に与えた。
晋悼公「あなたがわたしに戎狄と講和するよう教えてから、8年になります。その間に7回諸侯を会合して、 わたしの思い通りにならぬものはありません。ともにこの音楽を楽しもうではないか」
魏絳「戎狄と講和したのは君の幸いです。8年間に7回会合したのは君の徳であり、諸将の功労です。どうして臣が独占できましょうか」
晋悼公「あなたが居なければ、わたしは戎狄を受け容れることができず、鄭を討つこともできなかった。 どうかこれを受けてくだされ」
魏絳は3度まで辞退して、ようやく受けた。
(一説には、8年間に9回会合したことになっている。B.C.570鶏沢の会合とB.C.562の会合を2回と数えれば9回となる)
さらに安邑にうつって領地を治めた。
B.C.560中軍の将智罃と下軍の佐士魴が没した。魏絳は1位進めて下軍の佐に任じられた。
B.C.559夏、晋は諸侯と共に秦を討ったが下軍の将欒黶が勝手に帰国した。左史が魏絳に 「中軍の将中行伯(荀偃)をお待ちしないのですか」と問うと、魏絳は「中行伯どのは将の命に従えといわれた。 私の将は欒伯(欒黶)ですから、これに従います」と言った。これを聞いた荀偃は「わたしの命令は間違っていた。戦ったところでただ秦に捕虜を送るだけだ」 と言って全軍を引き揚げさせた。晋人はこれを退却しただけの戦いと呼んだ。
B.C.555晋は諸侯と共に斉を討った。
11月19日、魏絳は欒盈とともに下軍を率いてシを攻め落とした。
荘子(昭子?)と諡された。
季公之(キコウシ)【文官】
魯の臣。季平子の弟。
B.C.517季公鳥の夫人季姒は料理人と密通するようになり、 季公鳥の弟季公若に責められることを恐れて、自分を打って傷つけさせ、 秦姫に「公若(季公若)がわたしを自由にしようとしましたが、わたしがそれに従わなかったので打たれたのです」と言った。 秦姫はこれを季公甫に話し、季公甫は季公之に話したため、 季平子は公思展と季公鳥の家臣申夜姑を捕らえた。 季公若が泣いて釈放を請うたが、季公之はすぐに申夜姑を殺した。
9月11日、魯昭公が季氏を討ち、季公之は季氏の門で殺された。
季康子(キコウシ)【宰相】
魯の宰相。姓は季孫、名は肥。季桓子の子。季姫の父。〜B.C.468。
B.C.492、秋、季桓子が病気になった。季桓子は公子肥に「もしわしが死んだら、おまえはかならず魯の宰相となろうが、 そのときにはかならず仲尼(孔子)を招くが良い」と言った。また寵臣の正常に命じて 「わたしが死んでも追い死にはするな。(妻の)南孺子の子が男であったら、 君に申し上げて後継ぎにしてくれ。 女だったら肥を立てて結構だ」と言った。
7月14日、季桓子が没し、公子肥が後を継いだ。葬式が終わって季康子が朝廷にいたときに、南孺子が男の子を生んだ。 正常は季桓子の遺言を魯哀公に申し上げて衛に逃れ、季康子は引退したいと願い出た。 魯哀公が共劉を遣わしてその子を見させると、何者かに殺されていた。そのため季康子は正式に後を継いだ。
季康子は公父ショクの母敬姜に尋ねた 「おばあ様、わたくしにお教えくださることがありましょうか」 敬姜は「亡くなった姑から聞きました。君子はよく謙遜して労苦をいとわなければ、後世子孫が祭祀を絶やさないとのことです」と答えた。
B.C.490季桓子が没すると代わって立つ。孔子を招こうとしたが、 公之魚の諫言を聴き入れて冄求を登用した。
B.C.488呉王夫差が魯哀公を召して百牢の礼を要求した。 季康子は子貢を使者として呉の太宰伯嚭を説得し、呉の要求を退けた。
(『春秋左氏伝』では、魯は呉の要求を受け入れたことになっている)
季康子は邾を討とうと考え、大夫たちをもてなしてその相談をした。子服景伯は「大国(呉)に背いて盟いを破るのは不信であり、 小国(邾)を討つのは不仁です。信と仁の2つの徳を失う者は危ういでしょう」と言って反対した。孟懃子が「あなた方はどうお考えですか。 どうして(子服景伯のように)賢人ぶって反対しましょうか」と不満を言うと、大夫たちは「今、残っている諸侯は5、60もなく、それは大国が小国をいつくしまず、 小国が大国に仕えなかったからにほかなりません。魯の徳は邾にすぐれているとは思われません」と言った。かくして意見がまとまらず、一同は不快な心で宴会を退出した。
秋、魯は邾を討って邾隠公を連れて帰った。
B.C.484やはり孔子を思慕していたので、公華・公賓・公林に命じて、幣物を送って孔子を衛から招いた。
B.C.483季康子は軍備の賦課方式を改め、課税範囲を狭めて田ごとに馬1頭牛3頭を課す大改革を行った。 それに先だって季康子は孔子の門人冉有に命じて孔子に事の可否を尋ねさせた。孔子は返答せず、 非公式に冉有に「もし季孫どのが法を知りたいのであれば、周公の定めた典籍がある。もし法を犯そうとするならば、勝手に賦課したらよい」と言ったが、 季康子は聴き入れなかった。
康子と諡される。
季公若(キコウジャク)【武官】
魯の臣。季公亥ともいう。
季公若は兄の季公鳥が没したあと、 公思展と季公鳥の家臣申夜姑とともに季公鳥の家を世話した。 ところが季公鳥の夫人季似は料理人と密通するようになり、 季公若に責められることを恐れて、自分を打って傷つけさせ、季公若が自分をわがものにしようとしたと訴えた。 これを聞いた季平子は公思展を卞に拘留し、申夜姑を捕らえて殺そうとした。季公若は泣いて悲しみ 「夜姑を殺すのはわたしを殺そうとするようなものだ」と言って命乞いをしようとした。季平子は役人に命じて季公若を面会させないようにし、 季公之は早速に申夜姑を殺した。こうして季公若は季平子を恨むようになった。
B.C.517季公若は公子に弓を献上して、弓を射る遊びをし、季氏を追い出す相談をした。 そこで公子為は弟の公子・公子賁とともに魯昭公に相談した。魯昭公は郈昭伯を味方につけた。
9月11日、魯昭公は季氏を攻めて季公之を殺し、勢いに乗じて邸宅の中に攻め入ったが、結局敗れて斉に亡命した。
宜侯夨(ギコウソク)【王】
宜侯。
商の旧族であり、もとは虎侯。
康王のとき、宜の地に移封され、宜の地にある王室に属する多くの氏族、鄭の七伯とその隷下にある耕作者150人、 宜の庶人600余人を与えられた。
季公鳥(キコウチョウ)【文官】
魯の臣。季公若の兄。
季公鳥は妻を斉の鮑文子から迎えて季甲を生んだ。
季公甫(キコウホ)【文官】
魯の臣。季平子の弟。
B.C.517季公鳥の夫人季姒は料理人と密通するようになり、 季公鳥の弟季公若に責められることを恐れて、自分を打って傷つけさせ、 秦姫に「公若(季公若)がわたしを自由にしようとしましたが、わたしがそれに従わなかったので打たれたのです」と言った。 秦姫はこれを季公甫に話し、季公甫は季公之に話したため、 季平子は公思展と季公鳥の家臣申夜姑を捕らえた。
儀行父(ギコウホ)【武官】
陳の大夫。
B.C.600儀行父は陳霊公孔寧とともに夏姫と淫通した。 泄冶がこれを諌めたので、霊公は「改めよう」と言って孔寧・儀行父に伝えた。 しかしふたりは泄冶を殺そうとして、霊公もこれを止めなかったので、泄冶を殺した。
B.C.598冬、夏姫の家で酒を飲んでいたとき、霊公は戯れて「徴舒(夏姫の子)はおまえによく似ているぞ」と言うと、 儀行父は「徴舒はお上にも似ておりますよ」と言った。これを聞いた夏徴舒は怒り、霊公を射殺したので、 儀行父は孔寧とともに楚に出奔した。
荘王は夏徴舒を殺して陳を滅ぼしたが、すぐに復興させた。そこで儀行父は陳に戻された。
宜穀(ギコク)【公子】
楚の公子。
B.C.559秋、楚は呉を討ったが呉が出撃しなかったので、楚軍は引き揚げた。しかし呉軍が狭い険路を利用し、そこから伏兵を出して楚軍を攻撃してきたため、 楚軍は前後互いに救うことができず、敗れて宜穀は捕えられた。
鬼谷子(キコクシ)
鬼谷先生
鬼谷先生(キコクセンセイ)【在野】
縦横家の祖。鬼谷子ともいう。鬼谷は地名。
蘇秦張儀孫臏龐涓に縦横の術を教えた。
魏錯(ギサク)【武官】
魏の臣。
B.C.340秦と岸門で戦うが、捕えられる。
季札(キサツ)【公子】
呉の公子。寿夢の四子。
季札は有徳の誉れ高く、父は彼に後を継がせたいと思った。
B.C.561長子諸樊は父の喪がすんだので季札を国君に立てようとした。季札は辞退して 「曹の宣公が亡くなった時、諸侯は曹君(成公)を道の外れた者として排斥し、 子臧を立てようとしました。しかし子臧は亡命して君とはならず、時の君子は子臧は分を守ることができたと評しました。 わたしも子臧にあやかって分を失わないようにしたいと思います」と言った。それでも諸樊が立てようとしたので、季札は家を棄てて田舎で百姓仕事をした。 そこで諸樊は国君となった。
B.C.548諸樊が戦死すると、寿夢の意思を尊重して兄弟継承として最後には季札を王にさせるようにしようとした。
B.C.544夏、呉王余祭が殺された。余昧は弟の季札に継がせようとしたが、 季札が辞退して逃げ去ったため余昧は即位した。
季札は余昧の命により新しい君が即位したことを知らせるため諸侯を聘問した。季札は魯に赴いて諸国の音楽を聞いた。
次に斉に赴いて晏嬰に会い、その人物に感服して「あなたは早速に采邑と政権(官職)を返上しなさい。 そうすれば禍にかからないでしょう」と言った。晏嬰は田無宇に依頼して、采邑と官職を返上した。
季札は次に鄭を聘問して子産に会い、昔からの知り合いのように意気投合した。 季札は「鄭の執政(良霄)はおごり高ぶっている。政権はきっとあなたのものになるでしょう。 そうなれば礼儀を守って政治を慎むがよろしい」と言った。
次に季札は衛を聘問し、遽伯玉史狗史鰌・ 公子公叔発・公子に会い、 その人物に感服して「衛には君子が多い。まだ心配はない」と言った。
季札は衛から晋に行こうとして孫文子のいる戚に泊まろうとしたが、 孫文子の家の鐘の音楽を聞いて「わからぬことだ。あの方は君にとがめられてこの地に引きこもっている。ひたすら恐れ慎むべきなのに音楽を楽しんでいる」と言って、 泊まらずに立ち去った。孫文子はこれを聞いて、死ぬまで琴瑟の音すら聞かなかった。
季札は晋を聘問して、趙武韓宣子魏献子に会って、その人物に感服して「晋はきっとこの三族のものになるであろう」と言い、 叔向の人物に感服し、別れに際し「あなたは努力なされよ。あなたは剛直を好む人だから、 必ず禍にかからないように心されよ」と言った。
季札は兄弟から君位を譲られたが辞退したため、延陵に封じられて延陵の季子と称せられた。
B.C.515季札は呉王に命じられて中原の諸侯を聘問した。
4月、公子光が呉王僚を弑して自ら立った(闔閭)。季札は「亡くなった君がその祭りを廃されることなく、 国中の民が新しい王を排除せず、土地の神と穀物の神が大切に祭られ、国家が傾き衰える心配がないなら、それはわが君と仰ぐべきである。 死んだ人を悲しみ生きている人に仕えて、天命の定まるのを待つとしよう」と言って、帰国して呉王僚の墓で哭泣し、もとの地位に復して新王の命令を待った。
箕子(キシ)【公子】
商王朝の公子。受辛の叔父。名は胥餘。箕は国名。
太師となり、子爵に封じられ、箕に国した。よって箕子という。
受辛がはじめて象牙の箸をつくったとき、箕子は嘆息して「象牙の箸を作ったからには、必ず玉の杯をつくるに相違ない。玉の杯を作れば、 必ず遠方珍奇の品を欲しがるだろう。これからの奢侈はとめられないだろう」と言った。
箕子は受辛の荒淫逸楽を諌めたが聞き入れられなかった。「国を去るのがよい」と言われたが「人の臣下として諌めて聴き入られなかったといって去ってしまうのでは、 主君の悪を明らさまにし、人民に自分を弁解することになる。わしにはそれはできない」と言って、髪を振り乱し、狂人をよそおうて、奴隷となった。ついに世間を隠れ、 琴を鼓して、これに自分の悲しみを寄せた。世間ではその曲調を伝えて、箕子操と称した。 しかし受辛に見つかって幽閉される。
B.C.1023周武王は商を滅ぼした後、箕子を訪れて政治について問うたとき、 箕子は鴻範九等について答えた。そこで武王は箕子を朝鮮に封じ、周の臣としなかった。 そのためこの国は箕子朝鮮といわれる。
その後、箕子は周に参朝し、商の廃墟をよぎった。箕子は感傷に堪えず号泣しようとしたが、周への気兼ねがあるので、麦秋の詩を作って詠歌した。商の民はこの詩を聞いて、 みな涙を流した。
 <<麦秋の詩>>
 麦の穂秀でて漸々たり 禾黍の葉光て油々たり
 かの狡童(受辛) われと好からず
季子(キシ)
臼季
姫子(キシ)【女官】
憲公の夫人。魯の公女。
B.C.709出子を生む。
杞子(キシ)【武官】
秦の臣。
B.C.630杞子は、秦を説いた燭之武を護衛して鄭に帰らせ、自身も鄭に駐在した。
B.C.628杞子は鄭から秦に報告して「鄭人はわたしに北門の鍵を預けています。今、鄭を攻めれば、これを取ることができます」と言った。 そこで秦は出兵した。
B.C.627春、鄭の商人弦高が滑で秦軍に出会い、使者を鄭に出した。鄭繆公は秦にたくらみを知り、 杞子と逢孫揚孫の宿舎をさぐらせると、荷ごしらえをし、武器をみがき、馬にまぐさを与えていた。 そこで繆公は皇武子を遣わして「皆様にさしあげる食が乏しくなり、皆様をお立ちさせるようなことを致しました。 しかし鄭には牧地がありますので、その鹿を捕えてゆっくりされたらどうでしょう」と言わせた。
杞子は計画が露見したことを知り、斉に出奔し、逢孫と揚孫は宋に出奔した。
そのため秦軍は鄭に侵攻できず、滑を滅ぼしたが、帰国する途中、殽で晋に大敗した。
己歯(キシ)【在野】
思想家。墨家の一派。
五侯の北方グループと二派に分かれた。
季姒(キジ)【文官】
季公鳥の夫人。
季公鳥が没したあと、 季公鳥の弟季公若公思展と季公鳥の家臣申夜姑は季公鳥の家を世話した。 ところが季似は料理人と密通するようになり、季公若に責められることを恐れて、自分を打って傷つけさせ、季公若が自分をわがものにしようとしたと訴えた。 これを聞いた季平子は公思展を卞に拘留し、申夜姑を殺した。
魏斯(ギシ)
文侯
魏侈(ギシ)
魏襄子
魏子(ギシ)【在野】
孟嘗君の舎人。
孟嘗君が斉の宰相であったとき、魏子は封邑の租税を取り立てるため、三度封邑へ往復しながら、一度も収入を納めなかった。孟嘗君がわけを問うと「さる賢者がいて、 内密に貸したので納められないのです」と答えた。
孟嘗君は怒って魏子を退けた。
孟嘗君のことを湣王にそしる者があった。たまたま田甲が背いた。 湣王は孟嘗君がそそのかしたと思い、そのため孟嘗君は出奔した。魏子から粟を恵まれた賢者はこれを聞き「孟嘗君はけっして背いたりしません。どうか、 身をもって誓いを立てさせていただきたい」と上書し、宮門で首を刎ねて死んだ。
湣王は驚いて事情を調べると、はたして孟嘗君は無実であった。
弃疾(キシツ)
平王
棄疾(キシツ)【文官】
楚の臣。子南の子。〜B.C.551。
B.C.551楚康王は子南の罪を責め正して処罰しようとした。棄疾は王のそば役であったが、康王は棄疾を見るたびにきまって泣いた。
棄疾「君は三度もわたくしを見て泣かれましたが、いったいだれが罪人なのですか」
康王「国は令尹を処罰しようとしているが、そうなってもお前は仕えていてくれるか」
棄疾「父が処刑されたら、君はどうしてその子を用いることができましょう。しかし君の命令をもらしてしまうことはありません」
かくて康王は子南を朝廷で処刑した。その後、棄疾は首をくくって死んだ。
棄疾(キシツ)【武官】
楚の臣。宮廐。
B.C.536秋、楚は徐を討ち、これを助けた呉も討った。しかし楚軍は呉軍に破られて棄疾は捕虜となった。
蟣蝨(キシツ)【公子】
韓の公子。
B.C.298太子が没す。蟣蝨は公子咎と太子の位を争った。
そのとき蟣蝨は楚に亡命していたが、楚懐王は蟣蝨を韓に入れようとして、出兵して韓の雍氏を包囲した。
しかし韓が楚と友好を結んだため、楚は包囲を解き、蟣蝨は韓の太子となれなかった。
魏シュウ(ギシュウ)【将軍】
晋の将軍。畢万の子。魏の先祖。魏武子ともいう。
魏シュウは嫡子ではなく、公子重耳(文公)に仕えた。
B.C.653魏シュウは重耳に従って亡命した。
B.C.636魏シュウは帰国すると、重耳は魏シュウに魏氏の後を継がせた。
魏シュウは封ぜられて大夫の列につらなり、魏で領地を治めた。
B.C.633晋が三軍を編成すると、魏シュウは文公の戎右となった。
B.C.632、3月、晋が曹を占拠すると、文公は釐負羈の家に侵入してはならないと命令していたが、 魏シュウと顛頡は命令を犯して釐負羈の家を焼いた。文公は魏シュウを処刑しようとしたが、 その才能を惜しんで魏シュウが重態ならば殺そうとした。 魏シュウは胸を負傷していたが、布で胸を包んで使者に会って元気なところを見せたので、文公は魏シュウを許し、顛頡を殺してみせしめとした。
魏シュウの代わりに舟之僑が戎右となった。
魏シュウは魏より霍に移って、領地を治めた。
武子(悼子?)と諡される。
魏醜夫(ギシュウフ)【文官】
秦の臣。
魏醜夫は宣太后に寵愛されていた。
B.C.265宣太后が危篤に陥ったとき、魏醜夫を殉死させるよう命じた。魏醜夫はこれを聞いて悩んでいると、 庸芮が宣太后を説いて言った。
庸芮「死者に知覚があるとお考えですか」
宣太后「あるはずがない」
庸芮「知覚がないのであれば、どうして生前で寵愛の男を葬ろうとされるのでしょうか。もし死者に知覚があるのならば、先王は太后に対して怒りをためておられます。 魏醜夫をこっそり寵愛することはできないでしょう」
宣太后は殉死の件をとりやめた。
キ叔(キシュク)【公子】
周王朝の公子。周武王の子。
于氏、キ氏の始祖となる。
僖叔(キシュク)
叔牙
羲叔(ギシュク)【神】
の臣。南方の交趾で人民を教化させる。
姫叔繍(キシュクシュク)【王】
滕公(初代)。周文王の子。
魏寿余(ギジュヨ)【武官】
晋の臣。畢万の子孫。
B.C.614夏、晋の六卿は、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。 そして魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会をおびきよせようとした。
魏寿余はいつわって夜に乗じて秦に逃げ、その私邑をもって秦に帰服したいと願い出た。秦康公はこれを聴き入れた。
魏寿余は役所で士会の足を踏みつけて、計略はうまく運んでいるとひそかに知らせた。
魏寿余は康公に「もとは晋の人で、あの魏の役人たちと話せる者を出してください。わたしはその人と先発しましょう」と言ったので、 康公はその任に士会をつけた。士会らの一行が黄河を渡り終えると、魏の人々は士会が帰ってきたことを喜んで歓声を挙げ、士会は晋に帰った。
季杼(キショ)【公子】
夏の公子。少康の子。
季杼は少康の命で寒澆の弟寒キを誘い出して、過と戈(キの国)を滅ぼした。
魏処(ギショ)【在野】
田嬰の食客。
権の戦いのとき、秦は魏冄を趙へ行かせて、趙に燕を援けて斉を討つようにさせた。
魏処は田嬰の命で趙に行き、李向に説いて「もしあなたが燕を援けて斉を討てば、斉はきっと燕と和睦して趙を討つでしょう。 趙にしてみれば兵を送らず、燕・斉が疲弊するのを待ち、両方から土地を割き取るのが一番です」と言った。
魏舒(ギジョ)
魏献子
姫昌(キショウ)
文王
季勝(キショウ)【武官】
秦、趙の先祖。蜚廉の子。
祁勝(キショウ)【武官】
晋の臣。祁盈の臣。〜B.C.514。
B.C.514祁勝と鄔臧は家を共有していてだらしがなかった。そこで祁盈はふたりを捕らえた。 祁勝は荀躒に賄賂を使い、荀躒は彼のために晋頃公に取りなしたため、 頃公は逆に祁盈を捕らえた。そのため祁勝と鄔臧は祁盈の家臣に殺された。この事件をきっかけに、祁氏と羊舌氏は六卿に滅ぼされた。
箕襄(キジョウ)【文官】
晋の臣。韓宣子の一族。
魏相(ギショウ)【将軍】
晋の将軍。下軍の将。魏リの子。呂相ともいう。
B.C.578、4月5日、秦が晋との盟約に背いたため、魏相は秦に遣いして絶交した。
B.C.573晋悼公は即位すると、「魏リは上軍の将智荘子(荀首)を輔佐して、 楚の公子穀臣と連尹襄老を捕らえ、 荘子の子子羽(智罃)と捕虜交換した鄢陵の戦いでは、みずから楚王を射て楚軍を破って晋の覇権を決定させたのに、 彼の子孫で高位にあるものがない」と言い、魏相を下軍の将に任命した。
しかし魏相はこの年に没し、宣子と諡された。
魏章(ギショウ)【武官】
秦の臣。庶長。
B.C.312楚を討ち、これを丹陽で破り、楚将屈カイを捕虜にし、首級八万を挙げる。
B.C.310秦を出て魏に赴く。
魏襄子(ギジョウシ)【武官】
晋の臣、魏の先祖。魏侈、魏曼多ともいう。魏献子の子。
B.C.497、7月、荀寅范吉射が乱を起こして趙鞅の邸を討った。 魏襄子は韓簡子荀櫟范皐夷梁嬰父と相談して、荀寅を追い出して梁嬰父をその代わりに卿とし、范吉射を追い出して范皐夷をその代わりに卿にしようとした。
11月、韓簡子・荀櫟・魏襄子らは晋定公の命令を奉じて、范氏・中行氏を討ったが勝たず、かえって攻められた。 しかし都の人々が晋定公を助けたため、二氏は敗れた。人々は逃げる二氏に追い討ちをかけ、二氏は朝歌に敗走した。
12月12日、魏襄子・韓簡子は趙鞅を許してほしいと願い出たので、趙鞅は絳に入り、晋定公と公宮で盟った。
B.C.488春、魏襄子は晋に服従しない衛に攻め入った。
魏昭子(ギショウシ)
魏絳
岐踵戎(キショウジュウ)【武官】
夏王朝の臣。
岐踵戎は桀王の佞臣とされる。
跪尋(キジン)【文官】
周王朝の臣。の弟。
B.C.530、10月1日、絞は暴虐であったため原の群臣に放逐され、代わって跪尋が原伯に立てられた。
帰生(キセイ)
子家
冀芮(キゼイ)
郤芮
魏斉(ギセイ)【宰相】
魏の公子。宰相。
須賈が斉に使いし、范雎も随行した。斉襄王は、 范雎が弁舌に巧みであることを聞き、范雎に金十斤と牛・酒を賜った。范雎は辞退したが、しかし須賈は范雎が魏の秘密を漏らしたためであると疑った。
須賈は帰国して、魏斉にこれを告げた。魏斉は大いに怒り、舎人に命じて范雎を鞭打ち、あばら骨を折り歯をくじいた。范雎が死んだふりをすると、 体を簀(スノコ)で巻いて厠の中に置き、かわるがわる放尿した。
范雎は簀の中から千金を与える約束で番人に救いを求めた。番人はこれを容れて、簀の中の死人を棄てたいといつわって請うた。魏斉は酔っていたこともあり 「よろしい」といったので、范雎は脱出できた。後日、魏斉は范雎の死を確認しなかったことを後悔し、捜し求めた。 鄭安平はこれを聞くと、范雎をともなって逃亡し、潜伏して名を変え、張禄と名乗った。
のち范雎が秦の宰相となり、須賈を通じて魏王に「はやく魏斉の首をもってこい。さもなくば、大梁を屠ってやろう」と言ったので、魏斉は出奔し、 平原君の下に身を隠した。
昭襄王は范雎の仇を報いてやろうと思い、平原君を秦に招きいれて、魏斉を渡すよう脅迫した。しかし平原君のもとにすでにいなかったので、 趙孝成王に書簡を送って魏斉の首を求めた。考烈王は不意に平原君の家を囲んだが、魏斉は夜陰にまぎれて脱出し、 虞卿に救いを求めた。虞卿は宰相の印綬を解いて魏斉と共にひそかに逃げ、信陵君をたよった。 信陵君は秦を恐れて、受け入れるかどうか悩んだが、侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。 しかし魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、憤ってみずから首をはねて死んだ。
魏成子(ギセイシ)【宰相】
魏の宰相。文侯の弟。
俸禄千鐘の十分の九まで人に与えて、自分はその一つしか得なかった。
卜商田子方段干木を推挙して、宰相となる。
蛾析(ギセキ)【文官】
晋の臣。
B.C.645、11月、秦の捕虜となった晋恵公が晋に帰国することになった。蛾析は慶鄭に言った。
蛾析「君が捕虜になったのは、あなたの罪です。どうして待っているのですか」
慶鄭「軍が負ければ死に、大将が捕虜となれば部下は死ぬと聞いています。さらに梁繇靡を誤らせて、その君を失いました。私は3つの大罪があるのに、 どこへ逃げられましょう。もし君が帰られるならば、処刑を受けましょう。もし君が帰られなければ、ひとりで秦を討ち戦死しましょう」
晋恵公は都城絳の近郊まで来て、慶鄭が都に居ると聞き、家僕徒をやって慶鄭を呼び寄せた。
恵公「鄭よ、罪ある身で、まだ都に居たのか」
慶鄭「わが君が秦の徳に報いていたら、国勢は傾かなかったでしょう。戦っても賢良の人を用いられたら、敗れなかったでしょう。わたしはこのことをお怨みします。 また有罪の人を逃がすようでは、国を守ることさえできません。わたしは君をお待ちして処刑を受け、君の政を成就させようと存じます」
恵公「処刑せよ」
蛾析「進んで刑を受けようとする臣は、罪を赦して仇敵に報いさせる方がよいと申します」
梁繇靡「いけません。戦で勝てずに賊を使って報いようとするのは武ではありません。処刑するのがよろしいでしょう」
結局、恵公は慶鄭を処刑した。
季然(キゼン)【武官】
楚の臣。
B.C.517、12月、季然は楚平王に命じられて巻に城壁を築いた。
魏冄(ギゼン)【宰相】
秦の丞相。相国。穣公。宣太后の弟。
兄弟、甥の中でももっとも賢く、恵文君武王の時から職に任ぜられ、国事にたずさわった。
B.C.307武王が没し、その弟たちが王位を争った時、ただ魏冄だけが昭襄王を立てようとした。
昭襄王が位につくと、魏冄は将軍として咸陽を守った。
B.C.305公子を誅して謀叛を鎮め、その一味であった武王の后を魏に追放し、まつろわぬのものをすべて滅し、 その威勢は国中にふるった。
昭襄王は若かったので、宣太后が摂政し、魏冄に政治を委ねた。
B.C.297趙の人楼緩が秦に来て宰相となった。
B.C.295趙はこれを自国の不利と考え、仇液を秦に遣わせて、魏冄を宰相とするように請うた。そこで秦は楼緩を罷免し、 魏冄を秦の宰相とした。
B.C.294魏冄は呂礼を誅しようとしたが、呂礼は斉に出奔した。
呂礼が斉の宰相となったので、これを憎み、斉を討った。そのため呂礼は斉を出奔した。
B.C.293魏冄は白起を登用した。白起は向寿に代わって将軍として韓・魏を攻め、 これを伊闕で破った。
B.C.292魏冄は病のため、請うて宰相を辞め、客卿の寿燭が宰相となった。
B.C.291寿燭は罷免され、魏冄はふたたび宰相となった。穣に封じられ、さらに陶に増封して穣侯と号した。
B.C.290魏を討った。魏は河東の地、方四百里を献じたが、魏冄は魏の河内を攻略し、六十余城を陥れた。
B.C.288魏冄は丞相となった。
B.C.283丞相を免ぜられる。
B.C.281三度丞相となる。
B.C.278白起に命じて楚を討たせ、郢を落とし、南郡を置き、白起に封じて武安君とした。
白起を登用することを推挙したのは魏冄であったので、二人はたがいに意気投合した。また魏冄の富は王室を凌ぐものがあった。
B.C.276相国となる。
兵を率いて魏を討ち、魏将芒卯を敗走させて北宅に入り、魏都大梁を包囲した。 しかし魏の大夫須賈の説得で、包囲を解いた。
B.C.275魏が秦に背いて斉と従親したので、魏を討ち、大梁に迫り、暴鳶の軍を破って首級四万を斬り、暴鳶を遁走させる。 魏の三県を取り、その功で封邑を追加された。
B.C.274白起や客卿胡傷とともに、趙・韓・魏を攻め、魏将芒卯を華陽の城下で破り、首を斬ること十万、魏の巻・蔡陽・長社、 趙の観津を取った。
趙に観津を還し、趙に援軍を求め斉を討とうとした。 斉湣王は恐れて蘇代に命じて魏冄に書信を送って 「わたしは秦が斉を討たないと斉王に断言しました。第一に、斉を討って趙を肥やすことになりますし、第二に弱小の斉を討つのに晋・楚は疲れないこと、第三に秦が斉を討てば、 斉は恐れて晋・楚につくこと、第四に晋・楚が強大になること、第五に斉と秦が疲弊することがあげられるからですと」と言った。
そこで魏冄は兵を引いて帰った。
B.C.271魏冄は客卿のことばを聴き入れ、斉を討ち剛・寿の二県を取って自己の封邑陶を広めたいと思った。 しかし范雎が昭襄王に取り立てられ、 宣太后が専制であること、魏冄が諸侯に対してほしいままに権力を振るうこと、陽君高陵君らがすこぶる奢侈で王室よりも裕福なことを言上した。
B.C.265、9月、そこで昭襄王は、魏冄の相国を罷免し、陽君らを函谷関の外に出して、それぞれの領地に住まわせた。魏冄が関を出たとき、 その輜車は千乗余りもあったという。
魏冄は陶で没し、そこに葬られた。秦は陶を回収して県とした。
儀楚(ギソ)【文官】
徐の臣。
B.C.536秋、儀楚は楚を聘問したが、楚霊王に捕らえられそうになったため逃げ帰った。 そこで楚は徐を討った。
魏荘子(ギソウシ)
魏絳
季孫意如(キソンイニョ)
季平子
季孫行父(キソンコウホ)【宰相】
魯の宰相。正卿。名は行父。季友の子。季文子とも呼ばれる。〜B.C.568。
季孫行父は三桓の首席で、文公の初めに卿となり、宣公成公襄公時代の宰相として国政を執った。
あるとき仲孫它が「あなたは魯の上卿であり、宣成二君の相となられましたのに、質素にしておられます。 人々はあなたをけちであるといい、国家の光栄にもならないでしょう」と言った。季孫行父は「民をみると彼らの父兄で粗衣粗食の者が多くいるので、 わたしは派手にしないのです。民が粗衣粗食なのに、わたしの妾と馬とをもって国家の華とするとは聞いたことがありません」と答えた。
この後、仲孫它は妾に粗末な服を着させ、馬には雑草しかやらなくなった。季孫行父はこれを聞いて「過去があっても反省して改められる人は、民の上に立つべき人だ」と言い、 仲孫它を上大夫に任命した。
B.C.621夏、季孫行父は陳に赴き、国交を修め、さらに自分の妻を陳から娶った。
秋、季孫行父は晋に赴いた。
B.C.615冬、季孫行父は軍を率いて諸と鄆に城壁を築いた。
B.C.612春、季孫行父は晋に出かけ、斉に捕えられている単伯と叔姫について晋の力をかしてもらおうとした。
秋、斉が魯の西境を侵略した。季孫行父は晋に行って、このことを報告した。そこで諸侯は新城の盟い(B.C.613)を再確認して斉を討つ相談をしたが、 斉が晋霊公に賄賂をつかったので、斉討伐はとりやめとなった。
B.C.611、1月、魯は斉と和平を結んだ。文公が病気であったので、季孫行父は斉懿公と斉の陽穀で会合したが、 斉懿公は「魯公の全快するのを待ちましょう」と言って、盟いを結ばなかった。
B.C.609莒の太子が莒紀公を弑して魯に出奔してきた。 宣公はこれを登用しようとしたが、季孫行父はこれを追放した。
宣公にこの理由を尋ねわれると、季孫行父は大史に「わたしは臧文仲からこう教えられました。 『自分の仕える君に礼のある者を見たら、孝子が父母につくすように仕えなさい。その反対に、君に対して無礼を行う者を見たら、その者を攻め殺しなさい』と。 莒の僕は自分の君であり父である人を殺しましたし、莒の宝玉を盗んだ罪人です。 だから追放したのです」と答えさせた。
B.C.608夏、季孫行父は斉に赴いて贈物を届け、斉恵公に魯宣公との会合のお願いをした。 そこで斉と魯は平州で会合を行い、友好を修めた。
B.C.599斉頃公が即位したので、季孫行父は斉を聘問した。
B.C.591、10月28日、魯宣公が没した。すると季孫行父は「嫡子(公子)を殺して庶子(宣公)を立て、 斉の援助を失わせたのは襄仲のしわざである」と中傷した。 臧宣叔は怒って「その時に襄仲をおさえられなかったのに、 今になってその子孫を罰することなどできない。どうしても帰父を除こうとするなら、わたしに任せてもらおう」と言って、 東門氏(公孫帰父の家)を追放した。
B.C.589春、魯は斉に攻められたため、晋に援軍を求めた。晋軍がやって来ると季孫行父は軍を率いてこれに合流し、斉軍を鞍で破った。
B.C.587夏、魯成公が晋に出かけて晋景公と会見したが、 景公は無礼であった。季孫行父は「晋侯はきっと無事な死に方はできないでしょう。覇者としての晋侯の天命は諸侯を敬して、これを心服させることです。 諸侯を大事にしないでよかろうか」と言った。
B.C.585、2月17日、季孫行父は鞍の武功を伝えるために武宮を建てたが、礼にかなっていないとそしられた。鞍の戦いの戦功は晋にあって魯になかったからである。
冬、季孫行父は命により晋に赴き、晋が都を移したお祝いを述べた。
B.C.583春、韓穿が魯に赴き、汶陽の田を斉に返すよう命じた。
季孫行父は送別の酒宴を催し、個人的な立場で韓穿に尋ねた。
「貴国は時宜にかなったことを行って盟主となっておられる。しかし汶陽の田はもともとわが国の領地であり、斉と戦争して、その結果、返してもらったものです。
しかるに今、これを斉に帰せと仰せになります。信があってこそ義が守られるものであり、義に合してこそ命令が定められるのです。 だからこそ小国は大国を信頼してなついているのです。もし貴国がこのように軽率な行動をすれば、諸侯の信望を失うことになります」
しかし晋は汶陽の田を斉に与えた。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・杞の君と衛の蒲で会合して、 馬陵の盟いを忘れないようにした。季孫行父は士燮に言った。
季孫行父「徳を施すことを努めないで、盟いを温めたところで何になりましょう」
士燮「諸侯を努力して手なずけ、寛大に扱い、忍耐強く裁き、謀反者を討伐することは徳に次ぐやり方です」
夏、季孫行父は共姫を宋に送り届けて帰って報告した。魯成公が宴を開いて労をねぎらったとき、成公の母穆姜が部屋から出てきて、 厚くお礼を述べて「大夫にはたいへんご苦労様でした。先君をお忘れにならず、君にも忠誠を尽くし、このわたくしにまで心をつくして下さいました」と言った。
B.C.580夏、季孫行父は晋に赴いて、春に晋の郤犨が聘問した返礼と晋で行う盟いに立ち会った。
B.C.575叔孫喬如が郤犨に人を遣わして季氏、孟氏を讒言した。 そのため季孫行父は晋に苕丘で捕えられた。魯成公は公孫嬰を遣わして季孫行父の釈放を求めた。 士燮は欒書に「季孫(季孫行父)は魯で二君にわたって宰相を務めていますが、倹約で誠実な人物です。 しかし喬如の言を信じて忠良な人を棄てるようでは、諸侯に非難されます。子叔嬰斉(公孫嬰)は君命を奉じて自身のことを考えず、国家のためを考えて二心がありません。 うまく取り計らってください」と言った。そこで晋は季孫行父を釈放した。
12月3日、季孫行父は郤犨と扈で和平の盟いを結んだ。
12月24日、季孫行父は叔孫喬如のいちみであるを殺した。
B.C.573、11月、晋は楚に攻められた宋を助けるために出兵した。晋の士魴が魯に遣いして援軍を願った。 季孫行父はどれくらいの軍を出すべきか臧武仲にたずねた。臧武仲は「昨年、 鄭を討った時は下軍の佐の知伯が来朝しました。今も下軍の佐の彘季です。前と同じようにすればよいと思います」と言ったので、 季孫行父はその意見に従った。
B.C.571、5月19日、定姒が没した。以前、穆姜が自分のために作っていた棺と頌琴があったが、 季孫行父は穆姜に恨みを懐いていたので、これを横取りして定姒の葬儀に用いた。君子は「礼にそむいたことだ」と批判した。
B.C.568、12月20日、季孫行父は没した。葬式のとき、絹物を着ている女もなく、穀物を食べている馬もおらず、金玉の貯えもなく、道具が複数あるものもなかった。 君子は「三代の君に卿として仕えながら個人の貯えがない。忠と言わないでよかろうか」と許した。
季孫紇(キソンコツ)【文官】
魯の臣。名は紇。季悼子ともいう。季武子の子。
季武子には正妻の生んだ子がなく、年下の季孫紇を愛して後継ぎにしたいと思い、臧武仲に相談した。 臧武仲は酒宴に招かれたとき、卿をもてなす座席を設けて季孫紇を呼び、みずからは階段を下りて季孫紇を迎えた。こうして季孫紇は季孫氏の後継ぎとなった。
季孫氏の家老職を継がずに死に、子の季平子が継いだ。
悼子と諡される。
季孫斯(キソンシ)
季桓子
季孫夙(キソンシュク)
季武子
季孫肥(キソンヒ)
季康子
季孫弥(キソンビ)【宰相】
魯の宰相。左宰。季武子の子。
季孫弥は庶子の中で一番年長であった。季武子は年下のを後継ぎにしたいと思い、 臧武仲に相談した。臧武仲は酒宴に招かれたとき、卿をもてなす座席を設けて季孫紇を呼び、 みずからは階段を下りて季孫紇を迎えた。また今度は季孫弥を呼んで、 大夫たちと一緒に並ばせて庶子の扱いをさせた。
その後、季孫弥は馬正の役に任じられたので、腹を立てて家に閉じこもった。閔子馬が「そんなことはなさるな。 禍福は人が自ら招くものです。人の子たる者は親に不孝なことを心配すべきで、地位のないことを気にすべきではありません。 父の命令を慎んでお受けすべきです。そうすれば、その財は本家の倍にもなりましょう」と諌めたので、季孫弥はもっともだと考えて、朝な夕な、 いつも身をつつしんで官舎に居り、職務に励んだ。季武子はこれを喜び、季孫弥に酒宴の道具をもって出かけ、それをそのまま季孫弥のところに置いた。 かくて季孫弥は本家よりも富むようになり、さらに出仕して魯襄公の左宰となった。
B.C.550、8月10日、孟荘子が没した。孟孫氏の御騶の豊点が 「もしも羯(孟孝伯)を後継ぎに立てる加勢をしてくれるなら、あなたを妨げた臧氏に仕返しをしてやりましょう」 と言ったので、季孫弥はその気になって、季武子に「(孟孫の)嫡男の秩は後を継がれる方ですが、もしも羯が立つなら、季氏はそれこそ臧氏よりも有力者になりましょう」 と言ったが、季武子は返事をしなかった。しかし結局、季武子は孟孝伯を後継ぎに立て、孟孫秩は邾に出奔した。
季孫平子(キソンヘイシ)【文官】
魯の臣。
子叔詣が宰相を辞して自分の子弟を後釜に据えた時、季孫平子は「実に妙な男だ。自分の子弟を卿にすえるとは何事だ」と言った。
季佗(キタ)【公子】
莒の公子。季他とも書く。紀公の子。
季佗は紀公に愛された。
B.C.609そのため紀公は太子に弑された。
季仲(キチュウ)【神】
いにしえの賢人。八元のひとりといわれる。帝嚳の子。
季仲はに仕えたとされる。
羲仲(ギチュウ)【神】
の臣。
東方の晹谷で日の出を導き、春の農作を教えた。春分の日を標準として、老幼に強壮を助けることにさせた。
吉光(キツコウ)【神】
古代の神。『山海経』にみえる。
木製荷車を発明したとされる。
箕鄭(キテイ)【将軍】
晋の将軍。新上軍の佐。上軍の将。箕鄭父ともいう。〜B.C.618。
あるとき晋に飢饉があった。晋文公は箕鄭にどうすればよいか尋ねた。
箕鄭「信です」文公「何に信があればよいか」
箕鄭「君の心に信があり、文物制度の名に信があり、政令に信があり、民事に信があればよいのです」「そうすればどのようになるのか」
箕鄭「君の心に信あれば善悪こえず、名に信あれば上下犯さず、政令に信あれば農時は功を奪うことなく、民事に信あれば仕事をするに次第があります。 こうなれば民は君の心を知って貧しくても恐れません」
そこで文公は箕鄭を箕の大夫に任命した。
B.C.629狐毛が死んだので、清原の蒐がおこなわれ、文公は趙衰を後任に命じたが、 趙衰は「城濮の戦いで、先且居はよく軍を輔佐しました。戦功には賞があり、君を善導すれば賞があり、 その官職に有能なら賞があります。且居にはこの三賞があって放置できません。その上、 臣の同輩には箕鄭・胥嬰先都がいます」と言って辞退した。 そこで文公は箕鄭を新上軍の佐に任じた。
B.C.621夷の蒐のとき、晋襄公は箕鄭を昇進させようとしたが、 先克が「狐偃や趙衰の功績を忘れてはなりません」 と諌めたので、襄公はとりやめた。
B.C.620趙盾は公子を帰国させないため、軍を発し、 箕鄭は上軍の将として都の留守を預かった。
B.C.619箕鄭は、先克に不平を持つ先都・士縠梁益耳蒯得らとともに乱を起こした。
B.C.618、1月、箕鄭らは賊を放って先克を殺した。
3月29日、箕鄭は晋人に殺された。
箕鄭父(キテイホ)
箕鄭
儀狄(ギテキ)【女官】
堯の皇女。
儀狄は酒を造ってに進めた。禹はこれを飲んで美味としたが「後世、必ず酒をもって国家を滅ぼす者があるだろう」と言い、 これを疎んじて酒を断った。
季悼子(キトウシ)
季孫紇
魏悼子(ギトウシ)
魏シュウ
義伯(ギハク)【文官】
商王朝の臣。誼伯とも書く。
義伯は湯王を補佐した三賢臣のひとり。義伯は典宝(国家の宝典)を作ったという。
姫発(キハツ)
武王
魏伯陽(ギハクヨウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
呉の人。若いころから道術を愛好した。あるとき弟子の心構えを試そうとして、自分の作った丸薬を飲んで即死した。弟子たちの多くは丸薬を飲まなかったが、 虞という弟子はそれを飲んでまた即死した。弟子らが去った後、伯陽はすぐ起き上がり、虞を蘇生させてふたりとも仙人になった。
季羋畀我(キビヒガ)【女官】
楚の公女。楚昭王の妹。
B.C.506、11月28日、楚は呉軍に大敗し、楚昭王は季羋畀我を連れ出して都を出て、雎水を渡って逃げた。 楚昭王は長江を越えて雲夢の沢中に入った。楚昭王が眠っていると賊が攻め込んできたため鄖に逃げた。 季羋畀我は鐘肩に背負われてあとに従った。
楚昭王は季羋畀我をある人に嫁がせようとすると、季羋畀我はことわって「女というものは男に遠ざかっておくべきです。ところが鐘肩はわたしを背負ったことがあります」 と言ったため、鐘肩に嫁いだ。
綦毋恢(キブカイ)【文官】
西周の臣。
B.C.293秦は魏を伊闕で破り、先年、西周が秦を討った韓を支援したことを理由に、西周に攻めてきた。 周の君は魏に出かけて魏昭王に援軍を請うたが断られた。周の君はその帰りに、大梁の囿(鳥獣苑)に遊んで、 そこで楽しんだ。綦毋恢は周の君に「わが君のために温の囿を手に入れて差し上げましょう」と言い、引き返して昭王に謁見した。
昭王「周王はわたしを怨んでおられるだろうか」
綦毋恢「他に誰をお怨みしましょう。周君はきっと秦に仕えるでありましょう。そうすれば上党の地は孤立してしまいます」
昭王「どうすればよいか」
綦毋恢「周君は内心は些細な利を好む人です。いま王が、国境の兵3万を周に派遣し、温の囿を周君にご贈呈になれば、周君は百官にもしめしがつき、 自分も楽しめるので、秦と結ぶことはしないでしょう。温の囿の利は年に80金と聞いておりますが、周君からの返礼は年に120金にもなりましょう。 王にとって上党は安泰であり、しかも差し引き40金の利があがることになります」
そこで魏昭王は孟卯を使者として温の囿を周君に贈呈し、さらに周への守備兵の派遣を承諾した。
釐負羈(キフキ)【文官】
曹の臣。僖負羈とも書く。
B.C.642晋の公子重耳が曹に亡命したとき、曹共公は彼を礼遇しなかった。釐負羈は 「晋の公子は賢明な方であり、また晋は曹と同姓の国であり、君と対等の身分の方です困窮してわが国を通過されるのに、 礼遇しないでよいものでしょうか」と言ったが聴き入れられなかった。
さらに釐負羈は「賓客を礼遇せず、また困窮の人を憐れまないのはいけません。玉帛酒食などは糞土のようなもので、 これらを惜しんで常道(政事の幹、礼の宗、国の常)をやぶってはなりません」と諌めたが、またも聞き入れられなかった。
釐負羈の妻は釐負羈に「公子は賢人で、その従者はみな一国の宰相の器です。かれらはきっと晋国を得るでしょう。そうなると曹は一番に討伐されます。 あなたは君と別行動を取るべきです」と言った。そこで釐負羈はひそかに重耳に料理を贈り、その下に玉璧をしのばせておいた。 重耳は料理だけを受け取って玉璧を返してきた。
B.C.632、3月晋軍が曹を攻めたとき、晋は釐負羈を用いないことを責め、そして軍には釐負羈の宗族の家に立ち入ることを禁じて、その徳に報いた。
季武子(キブシ)【宰相】
魯の宰相。姓は季孫、名は夙、宿ともいう。諡を季武子という。季孫行父の子。〜B.C.535。
B.C.567晋人が魯にやってきて、魯がショウを助けなかった罪を責め正した。季武子は魯襄公に命ぜられて、 晋に使いして魯襄公が即位した挨拶をさせ、さらにショウを滅ぼした罪の裁きを受けようとした。
B.C.566秋、季武子が衛に出かけて、衛の子叔の来聘に対する返礼を行い、挨拶が遅れたことを弁解した。
夏、季武子は南遺の進言により費に城壁を築いた。
B.C.565、5月7日、晋悼公は諸侯の大夫を邢丘に会合させ、晋に朝聘すべき回数を命じた。 魯からは季武子が出席した。
冬、魯の范カイが来訪して、鄭に軍を出すことを告げた。このとき范カイは標有梅の詩を歌って、 戦いの時期に遅れないで欲しいという意を寓した。季武子はその意を悟り「どうしてその時期に遅れましょうか。わが君と晋君の関係は全く一体です。 喜んでご命令をお受けいたします」と答えた。
B.C.564夏、季武子は晋に赴き、前年に晋の范カイの来聘に対する返礼をした。
10月、晋が諸侯とともに鄭を討ったので、季武子は命ぜられてこれに参加した。
閏12月、魯襄公は晋悼公が戦いから帰るのを見送ったので、晋悼公は魯襄公と黄河のほとりで酒宴を開いた。
悼公「魯公は、いくつになられましたか」
季武子「沙随で会合した年に生まれました」
悼公「12歳になられましたな。国君は15歳で子を生むきまりですが、元服してから子を生むというのがさだめです。君には元服をなさるのがよい。 あなたたちはその用意をされてはどうですか」
季武子「君が元服されるときは先祖の廟で行うものです。いまは旅先ですので用意をいたしかねます。兄弟の国で道具を借りて行いたいと思います」
悼公「よろしい」
魯襄公は引き揚げて衛に着くと、衛成公の廟で元服の式を行った。
B.C.562春、季武子は叔孫豹に「三軍を作ってそれぞれ一軍を支配し、それが所属する民から税を取り立てることとしよう」 と告げた。叔孫豹は「魯の政はやがてあなたが執ることになるでしょうが、そうなれば三軍を三家で分けることはできなくなるでしょう」と言った。 しかし季武子は強くこれを望んだ。叔孫豹が「それなら約束を変えないと盟いますか」と言ったので、魯釐公の廟門で盟い、 大衆に見えるように五父の辻で神に誓った。
正月、季武子は三軍を作り、公室の支配する民を三分して、そのひとつずつを三家が支配することとし、それまでそれぞれが私有していた軍を廃止した。
季氏は軍に属する民で夫役や租税を季氏に納める者には公税を免じてやり、季氏に納めない者には倍額の税を取り立てるようにした。 孟氏は軍に属する民の子弟の半分を自分の臣とし、叔孫氏はその子弟をすべて自分の臣とした。
B.C.561、2月、莒が魯の東境に攻めてきて台を包囲した。そこで季武子は台を救い、勢いに乗じて莒の鄆に攻め入り、 鐘を取り上げて魯襄公のたらいを作った。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。季武子は晋・宋・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。
冬、季武子は晋・宋・衛・鄭・莒・邾と戚で会合し、衛の公子の即位を認めた。
B.C.558夏、斉が魯の北境に攻め入り、成を包囲した。季武子は叔孫豹と共に軍を率いて成の城外に城壁を築いて斉の攻撃に備えた。
宋の子罕が宋に亡命していた司臣を人物と見込んで逃がして季武子にあずけた。 季武子はこれを卞にかくまった。
B.C.554季武子は晋に出かけて、斉を討った出陣のお礼を述べた。
季武子は斉を討って取り上げた武器で林鐘を作って魯の武功を彫り付けた。しかし臧武仲に「礼にそむいたことだ。 銘文は諸侯の場合、事業が時にかない、功績があればそれをするのである。今回は他国の力を借りたものであり、 民の農時を妨げてしまった。これを見せびらかして大国(斉)を怒らせるのは、国を滅亡に導くやり方である」と諌められた。
B.C.553冬、季武子は宋に出かけて、先年に向戌が来聘したことに対する返礼をした。 宋の褚師段が季武子を迎えてもてなした。
B.C.552邾の庶其が漆と閭丘の邑をもって魯に逃げてきた。季武子はこれに魯襄公のおばを妻として与えた。
このころ魯には盗人が多かった。季武子は臧武仲に言った。
季武子「あなたはどうして盗人を取り締まろうとなさらないのか」
臧武仲「わたしにはどうすることもできません」
季武子「あなたは司寇だ。盗人を除くことが職務でしょう」
臧武仲「あなたは他国の盗人(庶其)を礼遇しておられる。どうして国の盗人をやめさせることができましょう」
さて、季武子には正妻の生んだ子がなく、 年下のを愛して後継ぎに立てようとして家老の申豊に尋ねた。 申豊は返答もせずに走り退いて家に帰り、家財をまとめて立ち去ろうとした。季武子はまたも尋ねると申豊は「どうしてもそうなさるなら、立ち去る所存です」 と答えたので、話はうちきりになった。季武子は臧武仲に尋ねると、臧武仲は承諾して季孫紇を後継ぎにした。 その後、季武子は年長のを馬正の役に任したが、弥は朝な夕な、いつも身をつつしんで官舎に居り、職務に励んだ。 季武子はこれを喜び、弥に酒宴の道具をもって出かけ、それをそのまま弥のところに置いた。
B.C.550、8月10日、孟荘子が没した。季武子は弔いに行って、終わってから「あとつぎの秩はどこにいる」と尋ねたが、 弥が「後継ぎの羯(孟孝伯)はここにいます」と言った。季武子は「嫡男の秩の方が年上だ」と言うと、 弥は「それは問題になりません。ただ才能の有無が問題です」と言った。かくて孟孝伯が立てられたので、 孟孫秩は邾に出奔した。
孟孫氏が「臧氏が謀叛を起こそうとしている」と言ってきたが、季武子は信じなかった。臧武仲はこれを聞いて警戒した。
11月、孟孫氏は埋葬の墓道を切り開こうとして、人夫を臧氏から借りた。臧武仲は人夫を貸したが、警戒して武装兵を従えて工事を監視した。 これを孟孫氏が季武子に告げたので、季武子は立腹して臧武仲を攻めた。臧武仲は邾に出奔した。
B.C.546諸侯が宋で会合し、叔孫豹が参加した。季武子は使者を遣わして君命を告げて「邾や滕と同じように(小国として貢賦を少なく)してもらえ」と言った。 しかし叔孫豹は「わが国は諸侯と同様、一本立ちの国だ。どうしてそんな属国のようなことができよう」と言って盟いに参加した。 のちに叔孫豹は君命に背いたと批難された。
B.C.544夏、魯襄公が楚に朝見し、季武子は留守を預かっていた。季武子が公の領地である卞邑を襲撃して占領した。 そして一族の季冶を遣わして魯襄公の安否を問わせた。そしてあとから封印した書状を人に持たせて季冶に渡したが、 そこには「卞を守っている者が背こうとしたので、わたくしが討伐して土地を取り治めました」と書いた。 栄欒はこれを見て「国家のことは、あなたが処理しています。何も卞だけではありません。 どうしてわざわざ報告することがありましょう」と言い、虚偽の報告をした季武子を暗に批判した。
5月、魯襄公が帰国すると、季冶は季氏から与えられた采邑を返上して、その後は死ぬまで季氏の家に出入りしなかった。
B.C.542襄公が没すると、季武子は叔孫豹の反対を聴かず公子チュウ(昭公)を擁立した。
B.C.541季武子は莒を討って、鄆を占領した。
B.C.540春、晋の韓宣子が来聘し、魯昭公はこれをもてなした。季武子はその宴席が終わってから韓宣子を季氏の邸宅でもてなした。
秋、晋平公の夫人少姜が没した。季武子はすぐに晋に出かけて襚服(なきがらに着せる服)を贈りとどけた。
B.C.539秋、小邾穆公が来聘した。季武子は諸侯の扱いをせず、それ以下の低い礼で扱おうとしたが、 叔孫豹が「それはいけません。曹・滕・大邾・小邾はわが魯に対する修好を忘れないでいる国だ。仲むつまじい小邾を粗末に扱っては、 どうして他の親しい国を迎えることができましょう」と言ったため、季武子はこの意見に従った。
B.C.537、1月、季武子は中軍廃止の議を施氏に提案させ、それを藏氏に賛成させて決定した。中軍を廃止すると季武子は公室の民を四分して、 勝手にそのふたつを選び取り、他の二氏はそれぞれ一ずつを所有した。三家とも民のすべてに税をかけ、その幾分かを公室に入れた。
季武子は仲壬を叔孫豹の後継ぎに立てようとしたが、南遺が 「叔孫氏が強くなることは季氏が弱くなることです。叔孫の家は乱れておりますが、あなたは知らぬふりをなさいませ」と言った。 そこで南遺は国人に命じて豎牛を助けて仲壬を大庫の庭で攻め殺した。
B.C.536夏、季武子は晋に出かけた。前年に莒の土地を受けてもとがめられなかったお礼をするためであった。晋平公は特別に料理の数を増した。 季武子は「わが君でさえこのようなご接待にあずかったことはありません。ましてわたしは、わが君のいやしい家来です」と言って固く辞退して料理をさげてもらった。 晋人は季武子は礼をわきまえているとし、よい引出物をたくさん贈った。
B.C.535魯昭公が楚に出向いたため、晋人はこれを恨みに思って魯にやってきて、魯が杞に返さなかった土地を調査した。 季武子は孟釐子が楚に行っている隙に孟孫の邑である成を与えようとした。 成を守っていた謝息が断ったため、季武子は桃の地に萊と柞の山を付け加えて孟孫に与え、成を杞に与えた。
11月14日、季武子は没し、武子と諡された。
魏武子(ギブシ)
魏シュウ
析文子(キブンシ)【文官】
斉の臣。子家ともいう。
B.C.555、10月、晋が諸侯と共に斉を討った。晋の范カイが析文子に申し入れて「わたしはあなたと懇意の仲であるから実情を申します。 魯と莒は兵車千乗ずつの大軍を率いてそれぞれの方面から攻めることになりました。その大軍が攻めれば、斉侯はきっと国を失います。 あなたはどうして善処しないのですか」と言った。析文子はこれを斉霊公に告げると、斉霊公は恐れてひとり先に逃げ帰った。
季文子(キブンシ)
季孫行父
季平子(キヘイシ)【宰相】
魯の宰相。姓は季孫、名は意如。季孫紇の子。〜B.C.505。
B.C.533冬、魯では郎に苑囿を築いた。季平子は工事が早く完成することを望んだが、叔孫ジャクは「早く完成させようとすれば、 民を疲弊させることになります。苑囿はなくなってもよいが、民がなくなったら大変です」と諌めた。
B.C.532、7月、季平子は莒を討ってロウを攻め取った。季平子は捕虜を宗廟に献上し、初めて亳社で人を生贄にして祭りをした。 斉にいる臧武仲はこれを聞いて「魯は道ならぬことをしている。人を牛や羊と同様に生贄に用いては、 神は幸いを下さないであろう」と言った。
B.C.531秋、季平子は晋の韓宣子、斉の国弱、 宋の華亥、衛の北宮佗、鄭の子皮、 曹人、杞人と衛の厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.530叔仲穆子が季氏と叔孫氏を争わせようとして、季平子に「(叔孫ジャクが)三命の卿となって、 その父や兄を超えた待遇を受けているのは礼にはずれている」と讒言した。季平子はそのとおりだと言って叔孫ジャクを辞退させようとしたが、 叔孫ジャクは先手を打って朝廷に出仕して役人に命じ訴訟争いをしようとした。季平子は恐れて罪を叔仲穆子になすりつけた。
季氏の家臣南蒯が費で叛乱をおこした。
B.C.529春、叔弓が南蒯が叛乱を起こしている費を攻め囲んだが、勝つことができなかった。 季平子は怒って費の人を見つけたら捕らえるよう命令したが、冶区夫が「それは礼に背いています。逆に費の人を親しんだら、 南氏は滅びましょう」と諌めたため、季平子はこれに従った。はたして費の人は南氏に背いた。
8月、諸侯が平丘に集まり会盟した。そこで先年(B.C.541)に季武子が莒を侵略したことを咎めたため、 晋昭公は魯昭公の出席を辞退させた。 子服椒が季平子に「是非とも上卿を使節として晋へ謝罪させるべきです」と言った。 季平子は「それではわたしが行こう。晋はきっとわたしを捕らえるでしょうが、だれが副使となりますか」と言うと、子服椒は「言い出した以上、 危難から逃げ出したりしましょうか。わたくしがお供いたします」と言った。晋に到着すると、季平子は捕らえられた。子服椒は晋の韓宣子に会って「かつて欒氏の乱のとき、 先君襄公は斉の脅威も恐れず晋を救いました。今蛮夷の莒を信じて魯を棄てるならば、 諸侯は何を目当てに晋君に忠勤しましょうか。蛮夷を味方につけても、諸侯の信義を失うのではないでしょうか」と言った。韓宣子はこれを聞いて喜び、 季平子を帰国させた。
B.C.528、1月、季平子は晋から帰国した。
B.C.526夏、子服昭伯は晋から帰国したが、季平子に「晋の公室は間もなく衰えるでしょう。 君は幼弱で六卿が盛んでおごり高ぶっています」と言った。しかし季平子は「お前はまだ若い。どうして国のことが分かろう」と言って信用しなかった。 はたして晋昭公は没した。
10月、季平子は晋に出かけたが「子服回の言ったことはやはり本当だ。子服氏にはよい子があるわい」と言った。
B.C.525春、小邾穆公が来朝した。季平子は采叔の詩を歌って立派な君子の来朝を歓迎するという意を寓すると、 小邾穆公は菁菁者莪の詩を歌って、季平子のような君子にお会いできて楽しいという意を寓した。
6月1日、日食があった。叔孫ジャクが「日食のときは天子の御馳走の品を減らし、鼓を社で打ち鳴らし、諸侯は幣帛を社に供えて鼓を朝廷で打ち鳴らすのがきまりである」 と言ったが、季平子はそれを禁止して「やめなさい。ただ正月のみそれを用いるのがきまりである」と言った。また大史も反対したが、季平子は聴き入れなかった。 叔孫ジャクは「あの方はよからぬ心をおこそうとしている。君を君とも思っていない」と言った。
B.C.521夏、晋の范鞅が来聘した。このとき叔孫ジャクが政権を担当していたが、季平子は叔孫ジャクを晋に悪く思わせようとして、 役人に命じて斉の鮑国に対した礼と同じ礼で范鞅を接待させた。はたして范鞅は立腹して「鮑国の位は私より低く、 その国もわが国より小さい。これはわが国を卑しむものだ。このことをわが君に報告しよう」と言ったため、魯人は恐れて4つの御馳走を増やして11牢にした。
B.C.517季平子は季似の讒言を信じて公思展申夜姑を捕らえた。 季公若は泣いて悲しみ「夜姑を殺すのはわたしを殺そうとするようなものだ」と言って命乞いをしようとした。 しかし季平子は役人に命じて季公若を面会させないようにし、季公之は早速に申夜姑を殺した。そのため季公若は季平子を恨んだ。
季平子と郈昭伯の家は近かったため、両家の鶏がけんかをした。 そこで季平子は鶏の胸に革をよろいのようにかぶせると、郈昭伯は鉄の爪をつけさせた。 季平子は立腹して邸宅を郈昭伯の家のほうに広げて、逆に郈昭伯が自分のほうに広げたと責めた。そのため郈昭伯も季平子を恨んだ。
臧昭伯のいとこの臧会が悪事を働いて季平子のところに逃げてきたが、 臧氏は臧会をつかまえた。季平子は立腹して臧氏の家老を捕らえた。
このようなことから、魯の大夫たちは季平子を恨むようになった。
9月11日、魯昭公が季氏を攻めて季公之を季氏の門で殺し、勢いに乗じて中に攻め入って来た。季平子はたかどのに登って許しを請うたが昭公は許さなかった。 季平子が費に閉じ込めてほしいと請うたが許さず、逃亡させてほしいと願ったが許されなかった。子家懿伯が「お許し下さい。季氏は政治を執って久しく、 民の多くは季氏から施しを得ており、季氏の徒党となっている者が多くいます。日が沈んでそのような者たちが季氏を助けると、きっと君には後悔なさるでしょう」 と諌めたが昭公は聴き入れなかった。叔孫氏が季氏の邸を囲んでいた西北の一角を破って邸内に入った。魯昭公の兵卒はよろいを脱いで酒を飲みながらしゃがんでいたため、 すぐに追い払われた。これを聞いた孟懃子は郈昭伯を捕らえて都の南門の西で殺し、続いて魯昭公の兵を討った。 そのため魯昭公は斉に出奔した。
叔孫ジャクは闞から都に帰って季平子に会った。季平子は頭を地にすりつけて魯昭公にまた仕えたいと言ったため、 叔孫ジャクは魯昭公のところに行って季平子が後悔していることを話した。しかし季平子は心変わりをして魯昭公を魯に入れようとしなかった。これに憤慨した叔孫ジャクは自殺した。
B.C.516斉の公子鉏が魯昭公につきって軍を進めてきた。成の大夫公孫朝が成の軍を率いて斉軍にあたりたいと望んだため、季平子はこれを許した。 また季平子は亡命した昭公が帰国しようとするのを賄賂などを使ってそれを阻んだ。
B.C.513季平子は毎年、馬や魯昭公の供人らの衣服や履物まで揃えて贈り届けていたが、魯昭公は馬を贈り届けた者を捕らえてその馬を売ったため、季平子は馬を贈ることをやめた。
B.C.511春、晋が季平子を呼び寄せた。晋の范鞅がこっそりと人を遣わして内意を告げ「あなたは必ずやってきなさい。とがめを受けないように保証します」と言ったため、 季平子は晋に赴いて適歴で荀躒と会合した。荀躒は「なぜ主君を追放したのですか」と問うと、季平子は「わが君に仕えようとしても、 帰国されないためどうにもかなわないのです。決して裁きから逃れようとは思いません。ただ先代のことを考えていただけるなら、季氏の家を断絶させずに、わたくしだけに死を賜ってください」 と答えた。そこで季平子は荀躒とともに魯昭公のいる乾侯に行った。荀躒が「わが君は意如(季平子)を責め、意如も決して死を逃れようと致しません。国にお帰りなさい」 と申し上げたが魯昭公は「晋君にはお仕えは致しますが、あの男(季平子)には会う気にはなれません」と言った。荀躒は驚いて耳をふさいで走り「もう魯国の騒ぎには関係致しません。 わが君に報告しましょう」と言って、季平子に「ご主君の怒りはまだおさまっていません。あなたは国に帰ってお祭りの世話をするのがよいでしょう」と言った。
B.C.510魯昭公は晋の乾侯で没した。
B.C.509叔孫成子が魯昭公のなきがらを乾侯に迎え取りに来た。出発のとき、季平子は叔孫成子に「子家子はたびたび意見してくれたが、 わたしの心に的中しないことはなかった。わたしは彼と一緒に政治をしたいと思っている。あなたは彼をひきとめなさい」と言った。これを聞いた子家懿伯は叔孫成子に会おうとせず、 結局、他国へ去った。
季平子は人夫に命じて闞邑にある公室の墓地に行って魯昭公の墓を代々の墓と隔離するため周囲に溝を掘らせようとした。栄欒が 「君の在世中は追い出して仕えることができず、亡くなると先代から引き離すのは、みずから自分の悪事を世に明らかにするものだ。あなたは平気でも子孫が恥ずかしがるでしょう」と諌めたため、 季平子は中止した。また季平子は栄欒に「悪い諡をつけて子々孫々によからぬ君であったことを知らせてやろう」と言うと、栄欒は「君の在世中はこれに仕えることができず、 亡くなってから悪い諡をつけるのは、自分の悪を明らかにするものだ」と諌めたため、それを取りやめた。
B.C.505、6月18日、季平子はその領地の東野を見て回り、都に着かないうちに房で没した。
忌父(周)(キホ)【文官】
周王朝の臣。太宰。周公。
B.C.661神が莘の地に降下した。恵王は忌父に命じて傅氏と祝史をつれて犠牲と神酒を盛る玉器をささげて、 神前に往って献上させた。
B.C.650、4月、周王朝の命で、斉・秦の大夫と会同のうえ、晋恵公を礼遇した。
B.C.636冬、周は狄に攻められ、忌父、原伯、毛伯、富辰が捕えられ、譚伯が殺され、 周襄王は鄭の氾に出奔した。
忌父(虢)(キホ)【王】
虢公。周の卿士。
B.C.715夏、忌父ははじめて周の卿士となった。
釐王が忌父に命じ、晋武公が一軍(12,500人)をかまえて晋侯になれるように世話させた。
忌父は周の乱のため、虢に出奔した。
B.C.676周恵王が即位すると、忌父は周に呼び戻された。
儀父(ギホ)【文官】
邾の臣、または公子。
B.C.695、2月、魯桓公は儀父と魯のスイで盟い、蔑の盟いを復活させた。
魏戊(ギボウ)【文官】
晋の臣。魏献子の子。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、魏戊は梗陽の大夫となった。魏献子は成鱄に 「わたしは戊に県を与えたが、わたしのことを身びいきで行ったと言うだろうか」と尋ねると、成鱄は「どうしてそんなことがありましょう。戊は君を忘れることなく、いばることなく、 義にかなうことを考え、みだらな行為はありません。あの人に県を与えても結構なことではありませんか」と答えた。
あるとき梗陽で訴訟があり、魏戊は決裁できなかったので、父の魏献子に決裁を求めた。そのため梗陽の人が魏献子に女楽を贈って賄賂とし、魏献子もこれを許そうとした。 そこで魏戊は魏献子の下役の閻没叔褒に賄賂を受け取らないようにさせた。
(一説には、閻没と叔褒が自ら諌めたことになっている)
季魴侯(キホウコウ)【武官】
魯の臣。季康子の叔父。
季姫と密通する。
キ瞞(キマン)【武官】
晋の臣。〜B.C.632。
B.C.632城濮の戦いのとき、晋の中軍は沢中で大風にあい、その際、キ瞞は軍令に背いた行動をした。そのためキ瞞は司馬に殺され諸侯に知らされ、 茅茷がその後任となった。
嬀満(キマン)
胡公(陳)
魏曼多(ギマンタ)
魏襄子
綦毋張(キムチョウ)【武官】
晋の臣。
B.C.589夏、晋・魯・衛連合軍が斉軍と鞍で戦った。この戦いで綦毋張は兵車を失ったが韓厥の車に乗り込み、 斉頃公を追撃した。
季冶(キヤ)【文官】
魯の臣。季孫氏の一族。公冶ともいう。
B.C.544夏、魯襄公が楚に朝見したとき季武子は留守を預かったが、卞を襲撃して私邑とした。
季武子は卞を占領すると、季冶を派遣して封印した書を与えて嘘の報告を魯襄公に行った。魯襄公が「わたしは国に帰ってもよいであろうか」と尋ねると、 季冶は「君こそ実に国を保たれる方です。誰が君に背く者がありましょう」と答えた。そこで魯襄公は季冶に卿大夫の礼服である冕服を与えた。 季冶は分に過ぎるものと考えて堅く辞退したが、許されなかったためようやく頂いた。
そして季冶は季武子に対して「わたくしに君を欺かせておいて、わたくしを才能があると言う。 才能があって君を欺いたからには、俸禄を受けて朝廷に立つことができようか」と言い、恥じて出仕することをやめ、 季武子から与えられた采邑を返上して死ぬまで季氏の家に出入りしなかった。季冶は季氏に会うと季氏の家政の話をしたが、 季氏に会わなければ決して季氏の家政について語ることはなかった。季冶は病気になったとき、家臣を集めて「わたしが死んだら、 君から拝領した冕服を着せて納棺するな。また、季氏に葬儀の世話をさせるな」と遺言した。
毀隃(キユ)【神】
周王朝の先祖。差弗の子。
季友(キユウ)【公子】
魯の公子。荘公の弟。成季ともいう。〜B.C.644。
生まれたとき、友という字が掌のすじに表れていたので、友と命名された。
また季友は生まれるときの占いで「公室の輔佐となる。この季友が滅ぶならば魯は栄えないでしょう」と言われた。
B.C.669冬、季友は陳との友好関係のため陳を訪問した。
B.C.667季友は君命ではなく勝手に陳に出かけて、旧友の原仲の葬儀に参加した。
B.C.662、7月、荘公は病気が重くなると、公子叔牙に後継ぎについて尋ね、 叔牙は「慶父は才能があります」と答えた。 荘公は季友に尋ねると、季友は「公子をもりたてましょう」と答えた。
荘公は「叔牙は慶父を推したのだが…」と言うと、季友は君命であると言って叔牙を鍼巫氏の邸宅に呼び寄せ、 毒酒をすすめて「これをお飲みになれば、後継ぎは立ち、お飲みにならなければ、後継ぎは絶えるでしょう」と言った。 そこでやむなく叔牙は毒酒を飲み、逵泉(曲阜の南)で死んだ。
8月5日、荘公が没すると、季友は荘公の遺命に従い公子斑を擁立した。
しかし慶父が斑を弑殺したため、季友は陳に亡命した。
B.C.661、8月、魯湣公は斉桓公と落姑で盟い、 湣公は季友を魯に戻すよう請うた。桓公はそれを許した。そこで湣公は郎に泊まって季友を待ち迎えた。
B.C.660、8月25日、慶父が湣公を弑したので、季友は公子申(釐公)を連れて邾に亡命した。
慶父が莒へ出奔すると、季友は帰国して、公子申を擁立した。
季友は財貨を使って莒に慶父を引き渡すよう求めたので、莒は慶父を魯に帰した。慶父が命乞いをしたが、季友は許さなかったので、慶父は自殺した。 そして季友は釐公の宰相となった。
B.C.659、10月、莒が魯に攻め込み、慶父を引き渡した謝礼を求めてきた。季友はこれを魯の酈で打ち破り、 莒君の弟を捕えた。
季友は功績を賞せられて、汶陽の田地と費を与えられた。
B.C.657秋、斉桓公は陽穀の会合に魯が参加しなかったので、人を魯に遣わして旧来のよしみを復活させようとした。
冬、魯釐公は季友を斉に遣って、斉と同盟した。
B.C.653釐公は季友を斉に遣わした。
B.C.647冬、季友は斉を訪れた。
B.C.644、3月、没す。
季友の子孫が季氏である。
伋(キュウ)【公子】
衛の公子。急とも書く。宣公の子。母は夷姜。〜B.C.701。
B.C.701宣姜と異母弟のに讒言され、斉に使いに出される。 異母弟の寿が危険であるから、行かないように助言したが、伋は 「父上の命に逆らってまで生きようとは思いません」と言って出発した。
寿が伋の身代わりとなって盗賊に殺されたが、伋は盗賊に「おまえらが殺さなくてはならないのは、このわしだ」と言い、共に殺される。
摎(キュウ)【将軍】
秦の将軍。
B.C.256韓を討ち、陽城・負黍を取り、首級4万を挙げた。
B.C.254魏を討ち、呉城を取る。
求(キュウ)【王】
霍公。
B.C.659晋献公に攻められて、斉に出奔する。
そのとき晋に大旱魃が起こったため、晋の趙夙に迎えられて帰国し、霍の太山の祭祀を続けた。
晋の大旱魃はおさまった。
咎(キュウ)【公子】
西周(諸侯)の公子。西周武公の子。
楚の司馬昭翦は公子咎を太子に擁立しようとした。
九嬰(キュウエイ)【神】
古代の怪獣。
大食の怪獣で、羿に成敗される。
仇液(キュウエキ)【宰相】
趙の臣。宋の宰相。仇赫とも書く。
趙の人。
B.C.305武霊王は中山の地を攻略し、寧葭に行き、西行して胡の地を攻略し、楡中まで行った。
林胡王が馬を献上した。
帰途、楼緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、 趙爵を斉に遣わした。
B.C.297秦で孟嘗君に代わり楼緩が丞相となる。
B.C.295趙は楼緩が秦で宰相をしていることを自国の不利と考え、仇液を秦に遣わせて、魏冄を宰相とするように請うた。 出発にあたって客人の宋公が「事がどうなろうとも、楼緩は必ずきみを恨みましょう。されば楼緩に『魏冄のことは、 きみのため秦へは取り次ぎますまい。』と言われるのがよいでしょう。秦王はあるいはきみのことばを聴き入れないかもしれませんが、もしそうなっても楼緩に徳とせられ、 成功すれば魏冄に徳とせられるでしょう」と言った。仇液はこれに従った。
はたして楼緩は丞相を免ぜられた。
仇液は宋の宰相となり、趙と宋の仲をとりもった。
臼季(キュウキ)
賈佗
咎季(キュウキ)
賈佗
九侯(キュウコウ)【王】
商王朝の三公のひとり。
九侯の娘は受辛の妃であったが、受辛の言うことを聞かなかったため殺される。 父の九侯もその罪を着せられ殺されて醢(しおから)にされる。
宮侯(キュウコウ)【王】
蔡侯(3代目)。蔡伯荒の子。
休公(キュウコウ)【王】
宋公(29代目)。名は田。悼公の子。〜B.C.375。
B.C.398即位する。
B.C.385韓に攻められ彭城を抜かれて捕らえられる。
牛賛(ギュウサン)【文官】
趙の臣。
B.C.305武霊王は胡の原陽を破って、そこを胡服・騎射の士を俸邑とした。牛賛は「国家には固有の法典があり、 用兵には不変の法則があります。法典を変えれば国家は乱れ、法則を失えば軍隊は弱くなります」と諌めたが、武霊王は「陰と陽では法則も同じでないし、 四時それぞれよいものは一様ではない。だから賢人は時世を観察して時世に観察されず、軍隊を統率して軍隊を統率されはしない。きみは器具の性能には通じていないのだ」 と言って聴き入れなかった。
宮之奇(キュウシキ)【文官】
虞の臣。姓は宮、之は語助(意味なし)、名は奇。
B.C.658晋の荀息が虢を討とうと考え、献公に屈の良馬4頭と玉を虞に贈り、 道を借りることを願い出た。
献公「虞には宮之奇という忠臣がいるから、うまくはゆくまい」
荀息「宮之奇は性格が弱く強く諌めることができません。また幼少から虞公と共に成長したので、馴れ合っています。虞公は諫言に従わないでしょう」
そこで献公は荀息に命じて道を借りさせた。すると虞公はこれを許したばかりではなく、晋軍の先に立って虢を攻撃すると言い、晋は虢を討った。
B.C.655晋献公が再び虞に道をかりて虢を討とうとした。宮之奇は「晋に道を貸してはいけません。これでは虞を滅ぼすことになりましょう」 と虞公を諌めたが虞公は聴き入れなかった。
さらに宮之奇は「虞と虢の関係は唇と歯のようなものです。唇が滅びれば、歯が寒くなりましょう」と諌めたが、 虞公は「晋と虞は同姓。どうしてわが国を害することがあろう」と言って聴かなかった。
宮之奇は「晋は宗家を犯してこれを乗っ取ったのです。他国である虞を滅ぼすのは当然です」と言ったが、やはり聴き入れなれなかった。
宮之奇は退出して、その子に「虞は滅びるだろう。国内が安定していないうえに、外国の軍を留めようとしている。 晋はわが弱点を知って帰り道にわが国を攻略するだろう。国を去らなければ大難に遭う」と言い、妻子を連れて西部国境へ避難した。
結局、3ヶ月後に虞は晋に滅ぼされた。
九子母(キュウシボ)
女岐
丘弱(キュウジャク)【文官】
邾の臣。
B.C.519邾は翼に城壁を築いたが、その帰りは魯の武城を通って邾の離姑から都に帰ろうとした。公孫鉏が 「魯はわれわれを防いで通さないであろう」と言って諌めたが、 丘弱・徐鉏茅地は「(公孫鉏の勧める)道は低い。 もし雨があったら動けなくなるであろう」といって武城を通ったが、 はたして武城の人に邾軍は捕えられ、丘弱・徐鉏・茅地も捕らえられた。
臼任(キュウジン)【武官】
宋の臣。華貙の家来。
B.C.521宋元公華多僚の讒言を信じて華貙を追放しようとした。
5月15日、華貙が出発するとき華多僚が華費遂を車に乗せているのに出会った。 張カイは立腹のあまり臼任・鄭翩とともに華多僚を殺し、 華費遂をおどして謀叛を起こした。
牛臣(ギュウシン)【武官】
巣の臣。
B.C.548、12月、呉の諸樊が巣を討って、楚が前年に呉を討った報復をした。呉軍が巣の門まで攻め入ると、 牛臣は「呉王は勇気があるが軽率だ。おびき出したら、自分から攻めてくるだろう。そこをわたしが射ればきっと殺せるだろう。この君さえ死ねば、 国境あたりは少しは平和になるだろう」と言ったので、巣の人々はこれに従った。はたして諸樊は攻め込み、牛臣は低い土塀のかげにかくれてこれを射た。 諸樊はそのため戦死した。
宮嵩(キュウスウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
琅琊の人。文才があって百余巻の書を著した。仙人の于吉に師事した。雲母を服用して数百歳になっても少年のような顔色であった。
仇生(キュウセイ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
湯王の時代に木正となり、30余年たっても一段と壮健であった。
窮ゼン(キュウゼン)【神】
帝顓頊の子。
牛セン(ギュウセン)【将軍】
趙の将軍。
B.C.304武霊王は中山を攻める。
趙ショウを右軍とし、許鈞を左軍とし、公子を中軍とし、 王はそれらすべてを統率する将軍となる。牛センは車騎の将軍となり、趙希は胡軍と代の軍をあわせてその将軍とし、 趙与は陘山に行った。これらの軍は曲陽で合流し、攻めて丹丘・華陽・鴟の塞を取る。
宮他(キュウタ)【文官】
西周の臣。
宮他は西周の君に説いて「むかし宛は秦の援けをたのみにして晋に滅ぼされ、鄭は魏の援けをたのみにして韓に滅ぼされました。邾と莒は同様に斉に滅ぼされ、 陳と蔡は楚に滅ぼされました。
これらはみな援けになる国があることをたのみにして近くの敵国を軽んじたためです。いま君は韓・魏をたのみにして強い秦を軽んじておられます。 君には周最に命じて、さらに趙とも手を結び、秦に備えなされませ」と言った。
宮他は罪を得て国を去った。
宮他は西周の内情を東周に打ち明けた。そのため西周の臣馮雎が使者に金といつわりの手紙を持たせ、宮他に送らせた。 手紙には「宮他に告ぐ。事が成功しそうなら、しっかりやれ。成功しそうになければ急いで逃げ帰れ。事が漏れるであろう」とあった。
馮雎は一方で別の使者をやって東周の見張りの役人に密告させ「今夜、きっと怪しい者が城に潜入しますぞ」と言わせた。
そのため見張りの役人は宮他あての金と手紙を持った使者を捕えた。手紙を見て東周は大いに怒ったため宮他は殺された。
牛談(ギュウダン)【武官】
趙鞅の家臣。
少室周が趙鞅の戎右であったが、牛談の力が強いということを聞いて、少室周は彼に力比べを願い出たが、勝てなかった。 そこで少室周は戎右の役を牛談に譲った。
牛畜(ギュウチク)【文官】
趙の臣。
公仲連に推挙されて烈侯に侍り、仁義の道を説き、王道を要約して説いた。 烈侯は悠然として聴き、牛畜は烈侯の師となった。
休天君(キュウテンクン)【王】
康王の夫人。
宮伯侯(キュウハクコウ)【王】
曹公(4代目)。仲平君の子。
咎犯(キュウハン)
狐偃
宮嬖綽(キュウヘイシャク)【文官】
甘の臣。〜B.C.530。
悼公の一味。
B.C.530甘悼公は甘成公・甘景公の一族を除こうとしたため彼らに殺された。宮嬖綽も王孫没劉州鳩陰忌老陽子とともに殺された。
休父(キュウホ)【武官】
周王朝の臣。程伯。
走馬の職であった。
夷王の命を受けて、遠征に随行した。
休甫(キュウホ)【文官】
周王朝の臣。
虞の時代に天文・星暦を司らせた重・黎の子孫。
牛父(ギュウホ)【文官】
宋の臣。司寇。皇父の子。
狄のチョウ瞞が宋に攻め入った。牛父は皇父の4人乗りとして同乗した。
宋軍は狄軍を宋の長丘で討ち破り、長狄縁斯を討ち取ったが、皇父と牛父は戦死した。
仇牧(キュウボク)【武官】
宋の臣。〜B.C.681。
B.C.681南宮万湣公を弑したのを聞き、 兵を率いてかけつける。しかし南宮万に殴り殺される。牧の歯は門の扉に食い込んだという。
キュウ由(キュウユウ)【王】
北狄の君。
智伯がキュウ由を討とうとして、逆にキュウ由に大きな鐘を贈った。キュウ由はそれを運ぶために道を広げたが、 智伯はその道を利用して軍を出したため、キュウ由は滅ぼされた。
咎繇(キュウヨウ)
皋陶
禦(ギョ)【公子】
宋の公子。成公の弟。〜B.C.620。
B.C.620、4月、成公が没した。公子禦は太子を殺し、自立して国君になろうとしたが国人に殺された。
圉(ギョ)【宦官】
晋の宦官。
B.C.655杜原款は晋献公により死を賜った。 杜原款は死ぬ間際に圉をやって申生に告げさせた「讒言のためにその身は死んでも、かまいません。後までもなお令名が残ります。 死んでも人に愛され、死後も民に思慕されるのは、よろしいではありませんか」。そして申生も自殺した。
語(ギョ)【公子】
鄭の公子。の弟。字は子人。
B.C.698夏、語は魯に遣わされ、武父の盟いと曹の会合の友好を深めた。
魚(ギョ)【公子】
魯の公子。奚斯ともいう。
B.C.660慶父は魯湣公を弑したため、莒に亡命した。 魯釐公を立てた季友が財貨を使って莒に慶父を引き渡すよう求めたので、莒は慶父を魯に帰した。 慶父は密まで来ると、公子魚に命じて命乞いをさせたが、釐公は許さなかった。そこで公子魚は泣き声をあげて戻ってきた。 慶父はその泣き声を聞いて「あれは奚斯(公子魚)の声である」と言って、首をくくって死んだ。
疆(キョウ)【文官】
商王朝の少師。
紂王の悪政を見て、祭儀の楽器を抱いて周に逃げる。
彊(キョウ)【公子】
斉の公子。
B.C.591春、晋が衛とともに斉を討ち、陽穀に攻め入った。
頃公は 晋と会合して、盾ナ和睦して盟い、公子彊は晋の人質となった。
共(キョウ)(東周)【王】
武公(周)の太子。
武公より先に没す。
敫(キョウ)【文官】
田斉の臣。莒の太史。
B.C.284斉湣王が殺されると、その子法章(のちの襄王)は姓名を変えて、 敫の傭人となった。
楚将淖歯が莒を去ってから、莒中の人や斉の亡臣が相集まって、湣王の子を捜し求めると、法章を出して立てた。
このとき敫の娘(君王后)は法章と私通し、王后となった。
敫は「娘は媒人を用いないで、自分で嫁いだ。わたしの同類ではない。わたしの代をけがした」と言って、生涯会わなかった。
興(キョウ)
叔興父
挾(キョウ)【文官】
魯の臣。〜B.C.714。
B.C.714没す。
堯(ギョウ)【神】
五帝のひとり。陶唐氏。名は放勲。帝嚳の子。母は陳鋒氏。
その仁は天の如く、その知は神の如く、人々がこれに就くこと日の如く、これを望むこと雲の如く、富みて驕ならず、貴くして舒(他人をあなどる)ならずと讃えられる。
帝嚳の後を継いだ帝から禅譲で帝位を継ぐ。
『容成氏』では、堯は帝嚳の時代、丹府と藋陵の間に封国を持つ一諸侯であった(堯は帝嚳の子ではない)。堯は善政を施して治績を上げ、帝嚳の死後、 天下の人々に天子に推戴された。しかし堯は自分よりもふさわしい人物がいるかもしれないと考え、禅譲すべき賢者を探した。そして賢者の要件を天下に示し、 この要件をすべて満たした者に天子の位を譲ると宣言した。しかし応募者の中には誰一人として適格者がいなかったため、堯は改めて天子に推戴された。
堯は日月星を観察して暦を作った。
堯の時代、天下は黄河の洪水に悩まされていた。堯は「ああ四岳よ、河の洪水は天下を害している。水は山を包み込み、丘を飲み込んでいる。天下に洪水が氾濫している。 下民はこれを嘆き、治める人がおればよいのにと言っている」と言った。諸臣は「はどうでしょう」と言った。 堯は「それはいかん。鯀は命に背き、一族をあやめている」と言うと、四岳は「試みで可であれば用い、不可なればやめればよろしいでしょう」と答えた。
そこで堯は鯀に命じて「ゆけ、そしてつつしんで行うように」と言った。しかし鯀は治水に失敗し、 堯はこれを罰して羽山に流して祝融に命じて処刑した。
そこで堯は治水にを起用した。
舜が父母に孝行を尽くし、その感化は親族の子弟や国中の子弟にまで及んでいるという評判を聞いた堯は、15乗の車列を組み、三度も田野に耕作中の舜を探し出した。 堯は舜と政治、音楽、礼を語り、大いに満足して帰った。堯は老衰を迎えた。堯には9人もの息子がいたが、自分の子に王位を継がせようとはせず、舜を天子に立てた。
後世、孟子により堯、舜の世は理想化された。また堯の鯀の登用と処罰に関して疑問が起こり、屈原の『天問』には 「何ぞ課(こころ)みずして之(鯀)を行(や)る」と問われている。
恭(共)王(キョウオウ)【皇帝】
周王朝6代王。名は繄扈、伊扈ともいう。穆王の子。〜B.C.903。
B.C.940即位する。
B.C.929水のほとりに密国の康公と共に遊幸したとき、土地のものが康公に3人の女をたてまつった。
恭王はその女を欲したが、康公がその女を献上しなかった。
B.C.928恭王は密国を滅ぼした。
恭王はよく昭王と穆王の過失を掩護したので、恭と諡される。
恭(共)王(キョウオウ)【王】
楚王(7(23)代目)。名は審、箴ともいう。荘王の子。母は荘夫人。〜B.C.560。
B.C.591、7月8日、荘王が没し、公子審は即位した。
魯は楚とともに斉を討とうとしたが、荘王が没したため、晋から軍を借りて斉を討った。そのため恭王はこれを恨みに思った。
B.C.589冬、子重は衛を討ち、勢いに乗じて蜀に出陣していた魯軍を攻撃した。 楚軍は陽橋まで進撃すると魯の孟献子が楚軍に赴き、贈り物をして楚と交流したいと願い出て、 大工・女工・機織女・それぞれ100人を贈り、公子を人質として和睦を申し出た。 楚はこれを承諾した。しかし公子衡は魯に帰国した。
巫臣夏姫を奪って晋に亡命した。 これを聞いた子反は贈り物をつかって巫臣の仕官の途を防ごうとしたが恭王は「よしなさい。 彼のやり方は彼自身のためには誤っているが、父君(荘王)のためには忠義というべきである。彼がもし晋で役に立つ人物であれば、 いくら贈り物をしても晋は聴き入れないだろうし、無益な人物であれば、晋はやがて捨てるであろう」と言った。
11月、子重は魯成公は衛の孫良夫・蔡景侯・ 許霊公・秦の右大夫説・宋の華元・陳の公孫寧・ 鄭の公子子良・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟った。
B.C.588邲の戦いで晋が捕らえた楚の公子穀臣襄老と楚が捕えた晋の智罃とを人質交換することとなった。 恭王は智罃を見送って言った。
恭王「わたしを恨んでいるか」
智罃「君はわたしを国に帰って処刑を受けるようにして下さいました。どうして恨みましょうか」
恭王「それなら恩義に感じているか」
智罃「両国が捕虜の縄をといて友好を結ぼうとしているのです。どうして恩義を感じましょうか」
恭王「国へ帰ったら、わたしにどんなお礼をするつもりか」
智罃「恨みも恩義もないのに、どうして恩返しをしなければならないのでしょうか」
恭王「そうはいっても、ぜひとも聞かせてくれ」
智罃「もし処刑することを許されずに父の職を継ぎ、国政に関与し、君の軍とお会いすることがありましたら、 その時は全力を尽くし一命をささげて戦いましょう。これが君への返礼です」
これを聞いた恭王は「晋はまだ争うことの出来ない強国である」と言って、手厚いもてなしをして智罃を晋に返した。
B.C.586許霊公が、鄭がしきりに許を討つということで鄭を楚に訴えた。
6月、鄭悼公も楚に出かけて霊公を訴えたが、恭王は鄭を敗訴とし、 鄭を罰するために鄭の皇戌子国を捕らえた。 そのため鄭は楚に反して晋と和睦した。
B.C.584、8月、呉の寿夢に攻められ、州来に侵入された。恭王は子重、子反に命じてこれに対応させた。
B.C.583晋の欒書が蔡を討ち、さらに楚まで侵略してきた。楚の申驪はこれに対応したが、 晋に捕えられた。
B.C.582恭王は鄭に財貨を沢山出して、公子を鄭成公と会合させて鄭を楚につかせた。
秋、晋が鄭成公を幽閉したので、子重が晋の与国である陳を討って鄭を助けた。
11月、子重はさらに進んで莒を討った。
晋が捕えていた鐘儀を楚に送り返してきた。
12月、恭王は公子を晋に遣わして和睦を申し入れた。
B.C.581春、晋の糴茷が楚に使いし、前年の楚の公子辰に対する答礼をした。
B.C.579、5月4日、楚と晋は宋の西門で盟い、互いに戦争をしないこと、両国を攻める国があればその国を討伐すること、使者を往来させ道を防ぐことのないようにすること、 晋楚に和合しない者を討伐することとした。
12月、恭王は公子を晋に遣わして盟約した。
B.C.576恭王は鄭・衛を討とうとした。
子嚢「晋と盟ったばかりなのに、これに背くのはいけないことではありませんか」
子反「敵に対しては利を見て進むべきだ。盟いの義理など考える必要があろうか」
6月、そこで恭王は鄭に攻め入り、鄭の暴隧まで進撃し、勢いに乗じて衛に攻め入り、衛の首止まで攻め込んだ。
鄭の子罕が楚に攻め入って楚の新石を取った。
冬、許霊公は鄭の圧力を恐れて楚に移らせてほしいと楚に願い出た。
11月3日、公子は許を楚の葉に映した。
B.C.575春、恭王は武城におり、公子を鄭に遣わして、汝水の南の地を与えるとして和睦を申し込んだ。そこで鄭は晋に背いた。 鄭の子駟がやって来て、恭王は武城で盟った。
4月13日、晋は鄭討伐の軍を発した。鄭は使者を楚に遣わして危急を告げた。恭王は子反を中軍の将、子重を左軍の将、子辛を右軍の将として鄭を救う軍を発し、 東夷の兵も率いた。
6月、楚軍は鄭の鄢陵で晋軍と対峙した。
6月29日、楚軍は早朝に晋軍をだしぬいて布陣したため、晋軍は驚いた。戦いが始まると、恭王は晋の魏リに目を射られた。 そこで恭王は養由基を呼び寄せて2本の矢を与えて魏リを射させると、1本目で魏リの首を射て即死させた。
この戦いで東夷は日和見を決め込んで、戦列に加わらなかった。楚晋両軍は鄢陵で朝早くから夜になるまで壮絶な激戦を展開し、 楚軍は晋軍に追われて追い詰められた。叔山冉が養由基に射ることを頼んだので、養由基は矢を射ると2度とも命中した。 さらに叔山冉が敵兵を手打ちにして投げつけたので、晋軍はひるんで追撃をやめた。しかしこの日、公子茷が捕えられた。
晋の苗賁皇の策略によって、晋に捕えられていた兵が釈放され、晋軍が次の日も合戦する準備をしていると報告した。 恭王は子反を呼び寄せて相談しようとしたが、子反は酒に酔っていたため呼び寄せに応じることが出来なかった。 恭王は「天が楚を負けさせようとしているのか、わたしは待っておれない」と言って夜のうちに退却した。晋軍は楚の陣地に攻め入り、 3日も宿営して楚軍の残した食糧を食べた。
楚軍は楚の瑕まで引きかえした。恭王は子反のところに人をやって「城濮では王は参加しなかったが、今回はわたしが参加してのことであるから、おまえの罪ではない」 と言ったが、令尹子重が子反のところに人をやって「以前、大敗した将(子玉は、その責任を取って自殺した。 どうして君は自決しないのか」と言った。恭王はこれを聞いて自殺を止めようとしたが、間に合わなかった。
鄢陵の戦いのとき、晋の郤至は恭王の兵を追い、恭王を見ると必ず下車して走った。戦いの後、 恭王は工尹を使者として、 郤至に弓を贈って「戦の真っ最中にだいだい色のはかまの方が居て、礼儀正しい君子でしたが、傷はありませんか」と慰労させた。 郤至は恐縮して、礼儀正しくこれを断った。
B.C.574、5月、鄭は諸侯に攻められたため楚の援助を得ようとして、 太子髠頑侯ドウを楚に人質として差し出した。 そこで恭王は公子成と公子を派遣して鄭を守備した。
6月、子重を遣わして鄭を助けるため鄭の首止に陣どったが、諸侯の軍は引き揚げた。
10月13日、諸侯が再び鄭を包囲した。恭王は公子申を遣わして鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。翌月、諸侯の兵は引き上げた。
冬、楚が鄢陵で敗れたことで舒庸が呉人を案内して巣を包囲し、駕を討ち、釐・シを包囲した。舒庸は楚をあなどり呉を頼りにして警備を怠っていたので、 恭王は公子橐師に命じてこれを討ち、舒庸を滅ぼした。
B.C.573、6月、鄭成公が宋を討った。恭王は鄭成公と会合して宋を討って朝郟を攻め取った。 子辛に命じて鄭の皇辰とともに宋の城郜に攻め入らせ、幽丘を攻略した。
11月、子重に命じて楚の全軍は鄭軍とともに彭城を攻撃して、楚に出奔していた魚石向為人鱗朱向帯魚府を彭城に入れた。
宋は晋に援軍を請うたので、晋は援軍を出した。楚軍は晋軍と宋の靡角の谷あいで出会ったが、晋軍を恐れて退却した。
B.C.572、1月、諸侯が彭城を包囲したため、彭城は降服し、魚石らは晋に送られた。
5月、晋は諸侯とともに鄭を討ち、勢いに乗って諸侯と連合して楚の焦夷に攻め込んできた。
秋、恭王は子辛に命じて鄭を助けるため宋の呂、留に攻め入り、鄭の子然は宋に攻め入って犬丘を取った。
B.C.571、公子申が楚人に殺された。
B.C.570春、子重に命じて呉を討ち、鳩玆の戦いに勝利した。子重はケ廖を将として深く攻め込ませたが、 伏兵に会ってケ廖は殺され、わずかに組甲の士80人と被練の歩兵300人だけ逃げ帰った。呉軍は楚に攻め込んで駕を占領した。 そのため子重は責められて気の病にかかって死んだ。
恭王は子辛を令尹に命じた。
恭王は司馬何忌に命じて陳を討った。陳が楚に背いて晋についたためであった。
B.C.569、3月、陳成公が没した。恭王は陳が喪にあるため戦をやめて去った。
しかし陳は依然として楚の命令に従わなかった。
夏、陳が無礼であったため、恭王は彭名に命じて陳を討った。
冬、恭王は頓に命じて陳の隙を狙って陳に侵攻させた。そのため陳は頓を包囲した。
B.C.568秋、楚人は陳が楚に背いた理由を調べて、令尹子辛があまりにも陳に欲を求めすぎているからであると判断したため、恭王は子辛を処刑し、 子囊を令尹に任命した。
冬、子囊に命じて陳を討った。
11月12日、中原の諸侯が鄭の城棣に会合して陳を救った。
B.C.566冬、恭王は子嚢に命じて陳を攻め囲んだ。晋・魯・宋・衛・曹・莒・邾が鄭のイで会合して陳を助けた。 陳の慶虎慶寅が公子を差し出して内応を求めたので、 恭王は公子寅を捕えた。
B.C.565、4月、鄭が晋の機嫌を取るために蔡を討った。
冬、恭王は子囊に命じて鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。そこで鄭は楚についた。
B.C.564、秦景公士ケンを遣わしてきて、晋を討つ援軍を請うた。恭王は承諾したが、 子囊が諌めた。恭王は「もう許してしまった。遠く晋までは出陣させないが、必ず援軍は出す」と言った。
秋、恭王は軍を楚の武城に進めて秦軍を後援した。
閏12月、鄭が晋についたので、恭王は鄭を討った。鄭は楚と和睦したので、恭王は公子罷戎を遣わして同盟を結んだ。 この時、荘夫人が亡くなったので、恭王は鄭を十分に平定しないで帰国した。
B.C.563、6月、子嚢が鄭とともに宋軍を宋の訾毋で討ち、宋の都を囲んで桐門(北門)に攻め入った。
7月、子嚢は鄭とともに魯の西境に攻め入り、引き返して宋の蕭邑を攻め落とした。
11月、恭王は子嚢を鄭の援助に出かけさせた。子嚢は諸侯の軍と潁水をはさんで対陣した。すると鄭は楚に服従した。
B.C.562、7月、鄭は諸侯に攻められたため、諸侯と同盟を結んだ。子嚢は援軍を秦に請うた。 かくて秦の右大夫は軍を率いて鄭を討つことになったが、鄭は先に楚に降服した。
7月27日、恭王は宋を討った。
9月、鄭は諸侯に攻められたため、良霄と大宰の石チャクが楚にやって来て、 晋に降服しようとしている旨を報告してきた。そのため恭王はふたりの使者を捕えた。
B.C.561冬、恭王は子嚢に命じて秦の庶長無地とともに宋を討ち、楊梁に軍を進めさせた。
恭王は秦景公の妹秦嬴を娶った。 そこで恭王は司馬子庚を秦に遣わして夫人の代理として帰寧の礼を行わせた。
B.C.560恭王は重病となり、大夫らを呼んで「わたしは不徳の身でありながら、年若くして国君となったため、先君の覇業を失い、軍を失ったのはわたしの罪です。 わたしの諡をどうか霊または獅ニしてほしい」と言った。大夫たちは返事ができなかったが、恭王が5度も言いつけたので、大夫たちはようやく承諾した。
9月庚辰、恭王は没した。子嚢は大夫たちと諡について相談すると、大夫らは「王が命令されました」と言った。しかし子嚢は「いけません。 君に仕える者は君の善行を先に考えるべきです。王は南方の部族を鎮撫し、その訓令は中華の諸国に達し、その光栄は大きなものです。この光栄がありながら、 自らの過失を知っておられたのは恭と申し上げるべきです」と言った。そこで大夫らはその意見に従った。
匡王(キョウオウ)【皇帝】
周王朝20代王。名は班。頃王の子。〜B.C.607。
B.C.613頃王が崩御し、匡王は即位した。
宰孔王孫蘇が政権を争っていた。 匡王は王孫蘇に味方して尹氏とタン啓に命じて宰孔の無実の罪を晋に裁いてもらうように取り計らせた。 晋の趙盾は王室の騒動を治めて元どおりにした。
魯の襄仲が使者を遣わしてきて、周の力添えで叔姫を斉から取り戻したいと願い出た。 そこで匡王は単伯を斉に遣わして叔姫を渡して欲しいと願い出た。しかし斉人は周と魯の工作に立腹して単伯を捕え、叔姫も捕えた。
B.C.610秋、匡王は甘ショクに命じて戎が酒を飲んで酔っているところにつけこんで、これを周の邥垂で破った。
B.C.607、10月8日、崩御した。
共華(キョウカ)【文官】
晋の臣。七輿大夫のひとり。〜B.C.650。
B.C.650晋恵公は即位すると、邳鄭を秦に使いさせた。このとき邳鄭が共華に 「帰国しても大丈夫でしょうか」と問うた。共華は「われわれはみな国内にいますが罰せられず無事です。大丈夫でしょう」と答えた。 しかし邳鄭は帰国すると郤芮らに殺された。
そこで共賜が共華に「お逃げなさい。きっと罪を受けて殺されます」と言った。
共華「あの方(邳鄭)の帰国はわたしの考えでした。わたしも殺されるべきです」
共賜「そのことは誰も知りません」
共華「自分で知っていて良心に背くのは不信です。人を死なせながら自分だけ生きることはできません。あなただけは逃げてください」
結局、共華は他の七輿大夫とともに郤芮に殺された。
羌瘣(キョウカイ)【武官】
秦の臣。
B.C.229代を討つ。
B.C.228王翦、羌瘣は趙の地を平定し、趙王遷を虜にし、趙を滅ぼす。
キョウ姫(キョウキ)【女官】
周の王女。斉桓公の夫人。
B.C.683キョウ姫は、斉桓公に嫁いだ。
共姫(キョウキ)【女官】
共公の夫人。魯宣公の娘。母は穆姜。伯姫ともいう。〜B.C.543。
B.C.583共姫は宋の華元に迎えられて、宋共公に嫁ぐことになった。
B.C.582、2月、共姫は宋に嫁いだ。
共姫は宋平公を生んだ。
芮司徒は女の子を生んだが、体が赤くて毛がはえていたので、堤の下に棄てた。 それを共姫の侍女が拾い上げて公宮に入れ、と名づけた。棄は大きくなると美人となった。 宋平公が母の共姫の宮殿にまいって夕方のご機嫌伺いをしたとき、共姫と一緒に食事をしている棄を見た。宋平公が棄をあまりにもじっと見つめたので、 共姫はこれを宋平公のとぎに入れた。棄はたいへん宋平公の寵愛を受けた。
B.C.543、5月6日、宋で大火事が起こった。共姫は付き添いの女官を待っていたため焼け死んだ。これについて君子は「共姫は、未婚の娘としての道はわきまえているが、 人妻となった婦人の道はわきまえていない。未婚の娘は付き添いの指示に従うものだが、婦人は臨機応変の処置を取ってよいものだ」と批評した。
死後、共姫と諡された。
蟜極(キョウキョク)【神】
玄囂の子。帝嚳の父。
橋牛(キョウギュウ)【神】
の祖父。
彊鳩夷(キョウキュウイ)【王】
呉王。柯相の子。
恭君(キョウクン)
申生
姜原(キョウゲン)【女官】
有邰氏の娘。帝嚳の元妃(正夫人)。
周王朝の始祖后稷を生む。野原で巨人の足跡を見て、それを踏みたくなった。踏んでみると体の中に何か動くものを感じた。 不思議なことに妊娠しており、それで生まれたのが后稷であった。姜原は恐ろしくなって、赤ん坊を捨てたが、自然や動物たちがどうやっても彼を生かそうとした。 姜原は不思議なことだと感じて彼を育てることにした。棄てるつもりであったからこれを「弃」と名づけた。
共工(キョウコウ)【神】
人面蛇身朱髪に描かれる古代の神。名は康回。
中国古代に度々出現し、反乱を起こして為政者を困らせ領地を侵略する。しかしそのつど撃退されている。
また祝融に敗れたとき、悔しさのあまり不周山に頭をぶつけた。不周山にあった天注が折れてしまい、 地の維が切れたので天は東南に傾いてしまった。現在の中国の地形が西北が高くて東南が低くなったのはそのためといわれる。
共公(魯)(キョウコウ)【王】
魯公(29代目)。名は奮。穆公の子。〜B.C.355。
共公(燕)(キョウコウ)【王】
燕公。悼公の子。〜B.C.524。
B.C.529即位する。
共公(曹)(キョウコウ)【王】
曹公(15代目)。名は襄。昭公の子。〜B.C.617。
B.C.653即位する。
冬、昭公を葬る。
B.C.652春、共公は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・ 陳の太子・衛文公・許僖公・ 周王の使者と会合し、曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
B.C.651夏、共公は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・衛文公・鄭文公・ 許僖公・宰孔と葵丘で会合し、同盟関係を温めた。
B.C.647夏、共公は斉桓公・魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公と衛の鹹で会合し、 淮夷が杞を苦しめたことへの対応と、王室の騒ぎについて相談した。
B.C.645、3月、共公は斉桓公・魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公と斉の牡丘で会合して、葵丘の盟いを忘れないようにし、 楚に討たれた徐を救うことを相談した。
7月、共公は斉とともに獅討った。
冬、宋に攻められる。
B.C.644秋、周襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、曹は斉桓公の召集に応じて周を守った。
12月、共公は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・衛文公・鄭文公・邢侯・許僖公と淮で会合し、淮夷に苦しめられているショウを救うことを相談した。
B.C.642、1月、共公は宋襄公・衛・邾とともに斉を討ち、宋に出奔していた公子を斉に入れようとした。
3月、斉人が無詭を殺したので、共公は諸侯とともに戦いをやめて引き揚げた。
晋の公子重耳が亡命して曹を通過したが、共公はこれを礼遇しなかった。 しかも共公は重耳が一枚あばら(重耳は肋骨が密着して一枚に見えたという)であると聞いて、それを見ようとして入浴時にすだれを掛けて見物した。
大夫釐負羈に諌められたが、共公は「亡命中の公子はたくさんいる。 どうして彼ら全部を礼遇する必要があろうか」と言って聴き入れなかった。
B.C.639秋、共公は宋襄公・楚・陳穆公・許の君・蔡荘侯と宋の盂で会合した。このとき宋襄公は楚に捕えられ、 宋は楚に攻められた。
B.C.632、3月、晋文公(重耳)に攻められ、曹は包囲された。曹は晋兵の屍を城壁の上にさらしたので、晋文公はこれを気に病んだ。 そのとき兵卒が曹人の墓地に陣取れと言っていたので、晋文公は軍を墓地に移した。これを見て曹人は夢をあばかれることを恐れて、 晋兵の屍を棺に入れて城外に運び出した。
3月10日、晋軍はこれにつけこんで曹軍を攻め、城内に攻め入った。
共公は捕らえられ、晋文公に会ったとき「わたしのあばら骨を見せようか」と言われた。
冬、ある人が晋文公に説いて「斉桓公は異性の諸侯を復興させました。しかるに君は曹の君を捕らえ、 しかも同姓(晋も曹も姫姓)の諸侯を滅ぼしました。これではどうして覇者として諸侯に号令できましょう」と言った。そこで晋文公は共公を復帰させた。
(『春秋左氏伝』では、小臣侯ジュが晋文公の病気の原因は、曹を滅ぼしたことであると言ったたため、 共公は復位できたとしている)
共公は早速諸侯に加わって許を攻めた。
B.C.623共公は晋に出かけて、天子に奉る貢賦を定める会合に出席した。
B.C.620、8月、共公は晋の趙盾と斉・宋・衛・陳・許・鄭と鄭の扈で会盟した。
共公(陳)(キョウコウ)【王】
陳公(18代目)。名は朔。穆公の子。〜B.C.614。
B.C.632即位する。
冬、共公は晋文公・宋成公・斉昭公・ 蔡荘侯・鄭文公・魯釐公・莒の君・邾の君・ 秦人と温で会同し、晋に服従しない衛と許を討つことを相談した。
B.C.627、12月、共公は鄭・晋とともに許を討ち、許が楚に通じていることを責めた。
楚の子上に攻められたため、共公は楚に和を請うた。
B.C.626、5月、衛が晋に攻められて衛成公が陳に救いを求めた。共公は「もう一度晋に攻め入りなさい。 そうすればわたしが和解の口をきいてあげましょう」と言ったので、衛は晋を討った。
B.C.625共公は、晋を攻めた衛の孔達を捕えて、晋に衛と和睦するよう願い出た。
冬、共公は轅選に命じて、晋・宋・鄭とともに秦を討って汪を攻め取った。
B.C.624春、沈が楚に服従したので、共公は晋・魯・宋・衛・鄭と会合して沈を討ち、沈は潰滅した。
衛成公が陳に来て、晋と和睦できたお礼を述べた。
B.C.621魯の季孫行父が陳に赴いて国交を修め、さらに自分の妻を陳から娶った。
B.C.620、8月、共公は晋の趙盾、魯・斉・衛・宋・鄭・許・曹と鄭の扈で会盟した。
B.C.618夏、陳が晋に服従していたので、楚穆王に攻められて壺丘で破られた。
秋、楚の息公が東夷の方から進んで陳に攻めてきた。共公はこれを破って公子を捕らえたが、 楚の報復を恐れて楚と和睦した。
B.C.617秋、共公は楚穆王と鄭繆公と息で会合した。
B.C.616鄭の子家が鄭の太子夷(霊公)の介添えとなって晋に赴き、陳が晋と交わるようにさせた。
B.C.614、5月1日、没す。
共公(杞)(キョウコウ)【王】
杞公(7代目)。靖公の子。
B.C.637即位する。
B.C.633共公は魯に来朝したが、夷狄の礼法を用いて無礼であった。
9月6日、共公が無礼であったので、魯の襄仲に攻められた。
共公(宋)(キョウコウ)【王】
宋公(23代目)。名は瑕または固。文公の子。〜B.C.576。
B.C.589、8月28日、文公が没したので、公子瑕は即位した。
B.C.588春、共公は晋景公・魯成公・衛定公・ 曹宣公とともに鄭を討ったが、鄭の伏兵にあって打ち破られた。
2月24日、共公は文公を葬った。
B.C.587春、共公は華元を魯に遣わして、即位の挨拶をさせた。
B.C.586魯の孟献子が宋に来て、華元が来聘した返礼をした。
秋、公子囲亀が華元の身代りとして楚に人質となっていたが、帰国した。華元はその労を慰めかつ自分への恨みを和らげようと宴を開いた。 公子囲亀が「これからは家を出るときも入るときも、太鼓を鳴らし、ときの声をあげるようにしたい」と共公に願い出た。共公はなぜかと尋ねると、 公子囲亀は「華氏を攻める練習のためです」と言った。そのため共公は恐れて公子囲亀を殺した。
12月24日、共公は晋景公・魯成公・斉頃公・ 鄭悼公・衛定公・曹宣公・邾定公・ 杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.585春、晋の伯宗夏陽説、衛のィ相孫良夫、鄭人、伊雒の戎、陸渾の蛮氏に攻められた。
秋、魯の孟献子と叔孫喬如に攻められた。
B.C.583共公は華元を魯に遣わして、魯の共姫を妻に迎えた。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は共公や魯成公・斉頃公・衛定公・鄭成公・ 曹宣公・莒渠丘公・杞桓公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
2月、共姫が嫁いできた。
B.C.581、5月、共公は晋の太子州蒲・魯成公・斉霊公・衛定公・曹宣公と会合して鄭を討った。
B.C.578、5月、共公は晋詞・衛定公・斉霊公・曹宣公・鄭成公・邾・滕と会合して秦を討った。
5月5日、共公は諸侯と共に秦軍と秦の麻隧で戦い、これを大破した。諸侯の軍は勢いに乗って水を渡って侯麗まで攻め入って引き揚げた。
B.C.576曹の公子欣時が宋に出奔してきた。
6月、共公は没した。
共公(鄭)(キョウコウ)【王】
鄭公(20代目)。名は丑。声公の弟。〜B.C.429。
B.C.459鄭人が哀公を弑し、丑を立てる。
共公(秦)(キョウコウ)【王】
秦公(11(16)代目)。名は稻。康公の子。〜B.C.605。
B.C.609春、康公が没したので、共公は即位した。
B.C.608冬、晋は秦と和睦しようと考えた。晋の趙穿が「秦の与国である崇を攻めましょう。 秦がこれを助けた機会に乗じて和睦を申し込みましょう」と進言した。そこで趙穿は崇に攻め入ったが、その計略を見抜いた共公は晋の和睦に応じなかった。
B.C.607春、共公は晋を討ち、崇の役の報復をした。秦軍は焦を包囲した。
夏、晋の趙盾が焦を救った。
B.C.605春、没す。
共公(莒)(キョウコウ)【王】
莒公。
B.C.523秋、斉の高発に攻められた。かつて共公が夫を殺したためやもめになった女がいて、老いてから紀の城中に身を寄せ、 麻をつむいで縄をない、城壁の高さを測ってその縄をしまっておいた。斉軍が攻めてきたとき、女は縄を場外に投げて斉軍に利用させようとした。 斉の孫書はそれを使って城壁を登って紀に攻め入った。共公は恐れをなして西の城門を開いて逃げ出した。
共公(萊)(キョウコウ)【王】
萊公。〜B.C.567。
B.C.568、4月、斉の晏弱が東陽に城壁を築き、そこから進んで萊に攻めてきた。
4月29日、斉軍は萊の城壁の周囲に土を積み上げて、城壁の上のひめ垣までとどいた。
B.C.567、3月15日、共公は王湫正輿子に命じて棠の人と共に斉軍と戦わせたが、大敗した。
3月27日、斉軍が萊の都に侵入したので、共公は棠に逃げた。
11月10日、斉の晏弱は棠を攻め囲んだため、共公は殺された。
共侯(キョウコウ)【王】
蔡侯(8代目)。名は興。釐侯の子。〜B.C.760。
B.C.762即位する。
羌甲(キョウコウ)【皇帝】
商王朝14代王。祖辛の弟。
『史記』では、沃甲とされる。
狂狡(キョウコウ)【武官】
宋の臣。〜B.C.607。
B.C.607大棘の役のとき、鄭の兵が誤って井戸に落ちたので、狂狡は戟を逆さにして、その柄で引き揚げてやったが、逆にその戟を奪われて殺された。
君子は「軍のおきてを破り、敵兵を殺せという命令に背いたからには、敵兵に殺されたというのはもっともなことだ」と批評した。
匡句須(キョウコウ)【文官】
魯の臣。施孝叔の臣。
施孝叔が匡句須を家宰に任じたが、匡句須はその町を鮑国に譲った。施孝叔が匡句須に「君が吉なのだ」と言うと、 匡句須は「忠良な人物に与えることができれば、それにまさる吉はございません」と答えた。鮑国は施孝叔を忠実に助けた。
鞏朔(キョウサク)【将軍】
晋の将軍。鞏伯、士荘伯ともいう。上軍大夫。
B.C.610晋霊公は諸侯を扈に集めて宋の乱を平らげようとした。 このとき霊公は鄭繆公が楚に心を寄せていると思って繆公に会わなかった。 鄭の子家がとりなしたので、霊公は鞏朔を遣わして鄭と和平を結び、 趙穿公聟池を人質として鄭に行かせた。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、鞏朔は上軍の大夫に任じられた。
しかし晋軍が到着する前に鄭は楚に降服した。 そこで荀林父は魏リと趙旃に命じて和睦しようとした。
上軍の将士会は「防備をしておくのはよいことだ。もしも楚が悪意を持って攻めてきても、防備があれば破られまい」と言い、 鞏朔と韓穿に命じて敖山の前に伏兵を7ヶ所に設けさせた。はたして楚軍は晋軍に攻め込み、中軍と下軍は大破されたが、 上軍は破られなかった。
B.C.589冬、鞏朔は晋景公に命じられて鞏朔が斉の戦利品を周に献上した。しかし周はこれを非礼として正式に受けず、 鞏朔は責められて一言も答えることが出来なかった。周定王は三公に鞏朔の接待を委ねたが、 その接待は覇者が敵に勝って大夫を遣わして戦勝の喜びを報告させる場合と同じようにさせ、卿を接待する礼より一等下げたものであった。 しかし定王は晋を恐れたため、鞏朔と私宴を開いて、こっそりと引き出物を賜わった。
B.C.588、12月27日、晋は初めて六卿を設けて、鞏朔は卿に任じられた。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。 楚の公子と公子が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。 鞏朔は諸将とともに決戦をするよう進言したが、韓厥荀首士燮が諌めたため、中軍の将欒書はそのまま引き揚げた。
姜氏(キョウシ)【女官】
幽王の王后。申侯の娘。
幽王が褒娰を寵愛するようになり、王后を廃される。
共賜(キョウシ)【文官】
晋の臣。
B.C.650晋恵公は即位すると、邳鄭を秦に使いさせた。 このとき邳鄭が共華に「帰国しても大丈夫でしょうか」と問うと、共華は帰国しても大丈夫と答えた。 しかし邳鄭は郤芮らに殺された。
そこで共賜は共華に「お逃げなさい。きっと罪を受けて殺されます」と言った。
共華「あの方(邳鄭)の帰国はわたしの考えでした。わたしも殺されるべきです」
共賜「そのことは誰も知りません」
共華「自分で知っていて良心に背くのは不信です。人を死なせながら自分だけ生きることはできません。あなただけは逃げてください」
結局、共華は他の七輿大夫とともに郤芮に殺された。
共叔(キョウシュク)
欒成
強鉏(キョウショ)【公子】
鄭の公子。
B.C.678、9月、鄭祭仲一派の公子を殺し、 強鉏を足切りの刑に処した。
君子は「強鉏はその名に似ず、自分の足を守ることができなかった。(鉏は鍬で、その柄を足という。強鉏は強い足という意味)」と言った。
喬如(キョウジョ)【王】
チョウ瞞(長狄)の君。長狄喬如ともいう。〜B.C.616。
B.C.616喬如は斉に攻め入り、乗じて魯を攻めた。 魯文公叔孫得臣に命じて討伐させた。
10月4日、魯軍は狄軍を魯の鹹で打ち破り、喬如は魯の臣富父終甥に喉を戈で刺されて殺された。
叔孫得臣は喬如の首を魯の子駒の北門の側に埋め、生まれた自分の子に喬如という名をつけて、わが功績を明らかにした。
矯子庸(キョウシヨウ)【在野】
江東の人。名は疵、字は子庸。
カン臂子弓から易を伝授される。
これを燕人周子家に伝授する。
匡章(キョウショウ)【武官】
斉の臣。
B.C.314斉湣王の命で国外の五邑の兵を率い、北辺の衆を引き連れて燕を討つ。
燕の士卒の士気は奮わず、城門も閉じなかったため斉軍は大勝し、燕王を殺す。
匡章(キョウショウ)【在野】
『孟子』に見える。
孟子は匡章を賢人として親しんだ。
鞏成(キョウセイ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.543、5月5日、鞏成は尹言多単蔑甘過劉毅らとともに公子佞夫を殺した。
狂接輿(キョウセツヨ)
接輿
キョウ巣(キョウゼン)【在野】
孔子の弟子。字は子家。
匡俗(キョウゾク)【神】
江南の仙人。
武王の時代、匡俗は神仙の術を心得ていたので召された。武王の使者が訪問したが、匡俗は現れず仕えなかったという。
一説に、匡俗は漢初の人であるともいう。
戯陽遬(ギヨウソク)【武官】
衛の臣。戯陽速とも書く。
B.C.496夏、太子蒯聵は衛霊公の夫人南子を殺そうとして 戯陽遬に「わたしについて夫人に挨拶をしなさい。その時、わたしが振り向いたら夫人を殺しなさい」と言った。しかし実際に挨拶をしたとき、 太子蒯聵が三度も振り向いたが、戯陽遬は進まなかった。南子は太子蒯聵の顔色が変わったのを見て悲鳴をあげて逃げ 「蒯聵がわたしを殺そうとしている」と言った。太子蒯聵は宋へ逃げ、太子蒯聵の一味は残らず追放された。
太子蒯聵は人に「戯陽遬のやつがわたしをひどい目にあわせた」と言った。これを聞いた戯陽遬は「太子こそわたしをひどい目にあわせようとした。 わたしに母君を殺させようとし、断ったらわたしを殺そうとされた。もしも夫人を殺したら、わたしを殺して言い訳をしようとした。だから私はいったん承知して殺さず、 自分の死を救ったのだ」と言った。
『史記』では、その場で後悔して躊躇したため命を果たすことができなかったとしている。
共太子(キョウタイシ)【公子】
西周(諸侯)の公子。武公の子。
共太子は世継であったが、早逝した。
恭太子(キョウタイシ)
申生
共仲(鄭)(キョウチュウ)【武官】
鄭の臣。
B.C.584秋、楚の子重は鄭を討ち、鄭軍は氾で戦った。
諸侯は鄭を助けようとしたが、共仲は侯羽と共に楚軍と単独で戦い、 楚の鄖公と鐘儀の二将を虜にして晋に献上した。
共仲(魯)(キョウチュウ)
慶父
共伯(キョウハク)【王】
衛侯(2(10)代目)。名は余。釐侯の子。〜B.C.812。
B.C.812即位するが、弟の和(武公)に釐侯の墓地で襲われ、墓道に入って自殺する。
鞏伯(キョウハク)
鞏朔
共伯和(キョウハクワ)【宰相】
周王朝の臣。名は和。
周から共国に封じられ伯爵に任命された。
大乱により脂、が逃亡した際にその代わりに政務をとる。 王位を簒奪したという説と天子亡命後の混乱をしずめた名摂政とする説がある。彼の政務は14年に及ぶ。その後実権を棄てて故郷の丘首山に隠棲をしたとされる。
共孟(キョウモウ)
趙公明
共劉(キョウリュウ)【文官】
魯の臣。
B.C.492、7月14日、季桓子が没した。季桓子は夫人の南孺子が男子を産めばそれを後継ぎにし、 女子であれば季康子を後継ぎにするよう遺言していた。南孺子が男子を産んだため、 魯哀公は共劉を遣わしてその子を見させたが、何者かに殺されていた。
俠累(キョウルイ)【宰相】
韓の宰相。
列侯に仕え、厳仲子と仲違いしたために、彼に恨まれる。
B.C.397厳仲子の放った刺客聶政に殺される。
蘧瑗(キョエン)【文官】
衛の臣。呉の季札に君子と評される。
許偃(キョエン)【武官】
楚の臣。
B.C.597、6月、邲の戦いのとき、許偃は右の部隊の御者となった。
B.C.579、5月、許偃は公子とともに晋の士燮と会合した。
莒恒(キョカン)【将軍】
斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、莒恒はその第二陣となった。
渠丘公(キョキュウコウ)【王】
莒の君。名は朱。〜B.C.577。
B.C.583晋の巫臣が呉へ使いする途中に莒国に立ち寄った。ふたりは城池のほとりに立った。
巫臣「この城壁はたいへん粗末です、堅固にされてはどうです」
渠丘公「わが国は中国を遠く離れており、だれも攻めようと思っておりません」
巫臣「領土を拡張して国利を図ろうとする者はどんな国にもおります。ですから今の世に大国が多いのです」
しかし渠丘公は聴き入れなかった。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、 晋景公は渠丘公や魯成公・斉頃公・ 衛定公・宋共公・鄭成公・ 曹宣公・杞桓公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
11月、莒は楚に攻められ、渠丘が包囲された。渠丘の城壁は粗悪であったので莒軍は敗れて莒の都に逃走した。
11月6日、楚軍は渠丘に入城した。この戦いで、莒軍は楚の公子平を捕虜にして殺してしまった。そこで楚軍は莒の都を包囲した。
11月18日、莒の都の城壁も粗悪であったので、都は陥落した。
楚は勢いに乗って鄆にも攻め入った。
B.C.577、1月、没す。
魚莒(ギョキョ)【文官】
宋の臣。公孫友の子。
許鈞(キョキン)【武官】
趙の臣。
B.C.304武霊王は中山を攻める。
趙ショウを右軍とし、許鈞を左軍とし、公子を中軍とし、王はそれらすべてを統率する将軍となる。 牛センを車騎の将軍とし、趙希は胡軍と代の軍をあわせてその将軍とし、 趙与は陘山に行った。これらの軍は曲陽で合流し、攻めて丹丘・華陽・鴟の塞を取る。
玉子(ギョクシ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
姓は韋、名は震。南郡の人。周幽王に召されたが出仕せず、仙人に師事して、くわしく各種の術を授かった。 五行に精通し、性を養し病を治し、災禍を消すことができた。のち丹薬をつくり白日昇天して去った。
キョ侯(キョコウ)【王】
商王朝の諸侯。
周の克殷後、周成王に討たれる。
許行(キョコウ)【在野】
農家。戦国時代の楚の人。
許行は神農氏の説いた道を説いた。
文公が仁政を行っていると聞き、許行は数十人の門人を率いて滕に行き、文公から土地を与えられた。
滕に来ていた儒者の陳相陳辛らは許行と知り合うと、 陳相らは許行の説に共感して儒家の道を捨て、許行のもとで神農氏の道を学ぶようになった。
渠孔(キョコウ)【武官】
衛の臣。
B.C.660、12月、衛は狄に攻められる。
渠孔は衛懿公の御者となり、子伯は右となり、 黄夷は先陣となり、孔嬰斉はしんがりとなったが、狄軍に大敗して衛は滅びた。
禦寇(ギョコウ)【公子】
陳の公子。宣公の子。〜B.C.672。
B.C.672春、禦寇は太子であったが、宣公が款(穆公)を立てようとしたため、宣公に殺される。
渠子(キョシ)【文官】
衛の臣。斉豹の家老。〜B.C.522。
B.C.522斉豹が孟縶に恨みを持つ北宮喜褚師圃・ 公子とともに謀叛を起こした。渠子は一味の北宮喜を呼びに行ったが、北宮氏の家老は謀叛に乗らず、策をめぐらせて渠子を殺し、 斉氏を討ってこれを滅ぼした。
去疾(莒)(キョシツ)【王】
莒公。犂比公の子。母は斉の公女。〜B.C.528。
B.C.542、11月、公子展輿が国人の助けを受けて攻め込み、犂比公を殺して君の位についた。 去疾は斉へ出奔した。展輿は即位すると公子たちの禄を取り上げたため、公子たちは去疾を呼び戻して君に立てようとした。
B.C.541秋、去疾は斉の公子の助けを借りて帰国したため、展輿は母の里の呉に出奔した。 展輿の一味である務蔞と瞀胡と公子滅明は斉に出奔した。
B.C.538、9月、去疾が君となってから、莒はショウをいつくしみ治めなかったため、ショウは莒に背いて魯になついた。
B.C.528、8月、没す。
去疾(鄭)(キョシツ)
子良
御戎(キョジュウ)【公子】
宋の公子。〜B.C.522。
B.C.522、6月9日、華氏と向氏が反乱をおこし、公子御戎は華亥に殺された。
許叔(キョシュク)【公子】
許の公子。荘公の弟。
B.C.712斉・魯・鄭に攻められ、荘公は衛に出奔した。鄭荘公は許叔に命じて許を治めさせた。
B.C.697夏、許叔は許に帰った。
御叔(ギョシュク)【武官】
魯の臣。名は叔。御の大夫。
B.C.551春、臧武仲は晋に行こうとして出発した。その途中に雨にあい、御叔のところを通り過ぎた。御叔は臧武仲の姿を見て 「わたしは酒を飲もうとしているが、あの人は雨になるとも知らずに出かけて、雨の中を濡れていく。聖人なんか役に立つものではない」とからかった。 臧武仲はこれを聞いて「使いものにもならないくせに、使者をからかっている。国にあだをなす者だ」と立腹して、御叔の国に納める税を倍にした。
去斉(キョセイ)【王】
呉王。句卑の子。
魚石(ギョセキ)【宰相】
宋の宰相。左師。公孫友の子。
B.C.576、6月、宋共公が没した。 司馬蕩沢が宋の公室を弱体と見て公子を殺した。 華元が晋に出奔したので、魚石は華元を引きとめようとした。 しかし魚府が「右師が引き返したらきっと蕩沢を討つでしょう。 そうしたら桓氏(桓公の子孫)は全滅するでしょう」と反対した。魚石は「右師は帰ることさえできたら、 桓氏の恩を感じて蕩沢を討たないでしょう。それに彼には大功が多いので、民は彼に味方している。彼が帰国できなければ、桓氏は宋の祖先の祭りができなくなるだろう。 もし右師が蕩沢を討っても向戌がいるから全滅はしないだろう」と言い、みずから華元を追って黄河のほとりで引きとめた。
華元が蕩沢を討たせてほしいと求めたので、魚石はそれを許した。華元は宋に帰り、 華喜公孫師に命じて国人を率いて蕩氏一族を攻めて蕩沢を殺した。
魚石は大司寇向為人、少司寇鱗朱、 大宰向帯、魚府ら桓氏一族とともに都を出て雎水に行った。華元は引きとめようとしたが魚石らは聴き入れなかった。
10月、華元はみずから出むいて出奔した桓氏一族を引きとめたが、聴き入れられなかったため引きかえした。魚府は「右師はほかのことを考えているにちがいない。 もし我らを戻す心がないなら、今ごろは馬を走らせているだろう」と言って眺めると、華元は馬を走らせていた。5人も馬を走らせて都に帰ろうとしたので、 華元は雎水の堤防を決壊して都を防備したので、5人は楚に出奔した。
B.C.573、6月、楚恭王は鄭とともに宋の彭城を陥れ、楚に亡命していた魚石らは彭城に封じられた。
7月、宋の老佐と華喜に攻め囲まれた。
B.C.572、1月、晋・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛が彭城を包囲したため、魚石らは諸侯に降服した。そこで魚石らは晋に連れられて晋の瓠丘に留め置かれた。
禦孫(ギョソン)【文官】
魯の臣。
B.C.670、3月、魯荘公は桓宮の垂木に彫刻をした。禦孫は「倹約はつつましさを表す徳です。 先君はつつましい徳を持っておられたのに、君がその廟を飾り立てて大悪なものにされるのは、いけないことではありませんか」と諌めたが、荘公は聴き入れなかった。
(『国語』では、この言葉は匠師慶が言ったことになっている。この場面は整合性が取れていない)
8月3日、荘公は同姓の大夫の妻に命じて哀姜に見えさせた。その時に幣帛を献上させた。 禦孫は「男と女がまみえる時の品物は異なります。これを同じくするのは、男女のけじめがないことになります」と諌めたが、荘公は聴き入れなかった。
挙伯(キョハク)【文官】
楚の臣。
イ相が朝廷で士亹に会おうとしたが、士亹は出てこなかったので、 イ相はこれを非難した。挙伯はこれを士亹に告げると、 士亹は怒って「きみはわしが老いぼれたとして、わしを非難するな」と言った。
イ相は「あなたが老齢になったので、お目にかかって戒めたかったのです。かつて衛の武公は95歳になっても卿大夫に 『わしを捨てるでないぞ。わしを教導してくれよ』と言ったそうです。今あなたは老いたことをいいことにして、安楽をほしいままにされて、 戒諌する者を拒否されます。このようなことでは楚は治められません」と言った。
士亹は「わたしがまちがっていた」と言い、たびたびイ相に会った。
渠伯糺(キョハクキュウ)【文官】
周王朝の臣。大宰。姓は渠、名は伯糺、字が糺伯ともいう。
B.C.708桓王は渠伯糺を魯に遣わした。このとき、渠伯糺は父がまだ健在で宰の官についているのに、 その官名を称して魯に赴いた。
遽伯玉(キョハクギョク)【文官】
衛の大夫。名は瑗。蘧伯玉とも書く。
B.C.559孫文子は衛献公にあなどられたため遽伯玉に 「わが君の暴虐ぶりはあなたもご存知の通りです。これでは国が危ない。あなたはどうお考えですか」と尋ねた。遽伯玉は 「どうして臣下たる者がたてつくことができましょう。もしたてついたとしても、今日よりよくなるとは思われません」と答えた。 結局、孫文子は衛献公を攻めた。遽伯玉は孫文子の内乱が起こると、考えてすぐに都を去り、最も近い国境の関所から国外に出奔した。
B.C.547ィ喜が衛献公を帰国させることを遽伯玉に話すと、 遽伯玉は「わたしは君がどうして亡命されて帰国されるのかわかりません」と言って、国外へ亡命した。
B.C.544呉の季札が衛を聘問し、遽伯玉・史狗史鰌・ 公子公叔発・公子に会い、 その人物に感服して「衛には君子が多い。まだ心配はない」と言った。
B.C.495孔子は衛に来て、遽伯玉の家に寄寓した。
B.C.491孔子は再び衛に来て、また遽伯玉の家に寄寓した。
魚鳧(ギョフ)【王】
蜀王。
柏灌の後を継ぐ。
湔山へ狩に出かけ、仙人の道術を会得し、昇仙した。
蜀の人は彼を思慕し、彼のために祠を建てた。
魚府(ギョフ)【文官】
宋の臣。少宰。
B.C.576、6月、宋共公が没した。 司馬蕩沢が宋の公室を弱体と見て公子を殺したため、華元は晋へ亡命しようとした。 魚石が華元を引きとめようとしたので魚府は「右師が引き返したらきっと蕩沢を討つでしょう。 そうしたら桓氏(桓公の子孫)は全滅するでしょう」と反対した。魚石は「右師は帰ることさえできたら、 桓氏の恩を感じて蕩沢を討たないでしょう。それに彼には大功が多いので、民は彼に味方している。彼が帰国できなければ、桓氏は宋の祖先の祭りができなくなるだろう。 もし右師が蕩沢を討っても向戌がいるから全滅はしないだろう」と言い、みずから華元を追って黄河のほとりで引きとめた。 華元が蕩沢を殺したので魚府は大宰向帯、魚石、少司寇鱗朱、 大司寇向為人ら桓氏一族とともに楚に出奔した。
B.C.573、6月、楚恭王は鄭とともに宋の彭城を陥れ、楚に亡命していた魚府らは彭城に封じられた。
7月、宋の老佐華喜に攻め囲まれた。
B.C.572、1月、晋・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛が彭城を包囲したため、魚府らは諸侯に降服した。そこで魚府らは晋に連れられて晋の瓠丘に留め置かれた。
蘧富猟(キョフリョウ)【文官】
宋の臣。
B.C.500秋、公子は蘧富猟を愛し、自分の財産を11等分して、その5を与えた。
ギョ方(ギョホウ)【王】
噩侯。
B.C.863夷王の南征に従い、王の前線基地で饗醴を献ずる礼を行った。
しかしギョ方はにわかに周に叛いて南淮夷・東夷を率いて周に侵攻した。
周の武公は公直属の戦車百乗、戦士徒兵をに与え、西の六師、 殷の八師を率いて殲滅せよとの厳命を下した。禹は勇戦したので、ギョ方は大破され捕らえられた。
許由(キョユウ)【神】
から帝位を譲ると言われたが、それを断り潁水の北で隠遁生活を営んだ。 この禅譲の話を聞いて「耳が汚れてしまった」と言って潁水で耳を洗ったという。
許歴(キョレキ)【将軍】
趙の将軍。国尉。
B.C.269秦軍が韓を討つため閼与に駐屯した。趙奢がこれにあたり、許歴は軍士として随行した。 趙奢は軍事について諌める者は死刑という軍令を出した。
しかし許歴は「真っ先に北山の頂上に拠ったほうが勝ち、遅れたほうが敗れましょう」と進言した。趙奢はそれに従い、すぐ一万の兵を出し北山に赴かせ、 秦軍よりも先に制圧した。
許歴はこの功により、国尉に任じられた。
季狸(キリ)【神】
いにしえの賢人。八元のひとりといわれる。帝嚳の子。
季狸はに仕えたとされる。
騎竜鳴(キリュウメイ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
竜の子10余匹を手に入れて養っていた。ある日、彼は竜にまたがってあらわれ「われは馮伯昌の孫なるぞ。このあたりの者は立ち去らないと500里にわたって死んでしまうぞ」 と告げた。はたして8月に洪水になり、死者は万を数えた。
季梁(キリョウ)【文官】
随の臣。
B.C.706楚武王に攻められ、瑕で和睦の会同をもった。
少師は楚の軍中に入り、その弱小ぶりを見た。季梁は戻って随武公にこれを討つよう請うたが、 季梁は「天は今や楚を助けようとしております。これは楚の策略です。大切なのは人君が民を心からいつくしみ、神に対していつわらないことです」と言った。
武公は「わが祭祀の犠牲は肥え太り、黍稷も豊かである。どうして神をいつわろうか」と言った。
季梁は「古はまず民の生活を豊かにしてから、神を祭ることに力をそそいだのです。今、民の心は一致せず、生活に困窮しています。 わが君にはどうぞしばらく政治に励まれるならば、危難をのがれることができましょう」と言った。ついに武公は楚の計略に乗らず、和睦を結んだ。
B.C.704楚が再び攻めてきた。
季梁「楚に降参しましょう。許されなかったら、そこで戦いましょう。その方がわが軍の士気が上がり、敵の士気が下がります」
少師「戦いましょう。楚の軍を逃がしてしまいます」
随武公は戦うことに決め、楚の軍を見渡した。
季梁「楚人は左を尊びますから、楚君は左翼にいるでしょう。弱い右翼を攻めましょう。右翼が破れると楚軍は混乱しましょう」
少師「楚君と決戦しなければ敵と戦ったとはいえません」
少師は随武公の右として討って出て随の速キで戦ったが、大破した。
秋、随は楚に親和を求めた。楚武王は聞き入れまいとしたが、楚の臣鬭伯比が 「すでに少師は除かれ、季梁がまだ健在です。もう随に打ち勝つことはできませぬ」と言ったので、楚は随と和睦した。
杞梁(キリョウ)【武官】
斉の臣。〜B.C.550。
B.C.550斉は莒と戦ったとき、隘路で多勢の莒の君に出会った。莒の君は杞梁と華周を殺せば大事に至ると考え、贈り物を送って退くようとりはからった。 しかし華周が「財貨を欲張って君命を破るのは、君もいやでしょう」と言って拒絶した。そのため莒の君に追撃されて杞梁は戦死した。 斉荘公は帰路に杞梁の妻に出会って悔やみを言ったところ、 妻は野外での悔やみを拒否したので、荘公は杞梁の家まで弔問に行った。
また杞梁の妻は悲しんで城壁に向かって泣いたところ、その心情が通じて城が崩れたという。この話は、 秦の孟姜女の故事のもとになった。
宜僚(ギリョウ)【文官】
宋の臣。華費遂の側役。
B.C.521宋元公華貙を追放しようとして宜僚を呼び寄せて、このことを華費遂に告げさせた。 不思議に思った華貙の家来張カイは宜僚に剣を突き付けてわけを問いただすと、宜僚は一切を白状した。 そのため華貙は先手を打って謀叛を起こした。
キ慮癸(キリョキ)【文官】
魯の臣。
B.C.528キ慮癸は司徒老とともに南蒯に「協力しようと思っておりましたが、 持病がおこって参加できませんでした。これから盟いましょう」と言った。南蒯はこれを許したがキ慮癸らは人々が集まると南蒯を脅かして 「あなたが善処しなければ、費の人々はあなたを恐れないでしょう」と言った。そのため南蒯は5日の猶予を願って、やがて斉に出奔し、費は魯に返された。
季歴(キレキ)【王】
古公亶父の末子。母は太姜。〜B.C.1068。
王季とも呼ばれる。
古公亶父の残した道を修め、義をおこなうことが篤かったので諸侯が服従した。
太壬と結婚して姫昌を生む。古公亶父は姫昌の代で周は栄えると予言したため、 季歴に後を継がせようとした兄弟太伯虞仲は出国してしまう。 残った季歴が後を継ぎ、季歴死後、周は姫昌の時代となる。
季連(キレン)【神】
楚の先祖。陸終の六男。
羋姓を名乗る。
楚の公室は季連の後裔となる。
羲和(ギワ)【女官】
古代の神。太陽の女神。
全能の太陽の女神で、10個の太陽を生んだという。羲和は天空を一日旅した後の太陽を管理していた。また羲和は太陽の御者であったともいう。
羲和は神話上で、によって天文と暦を管理することを命ぜられた羲氏と和氏に神話変化し、彼らは農業の暦の運用を行った。 また羲和はのときの史官であったともいい、日月星辰を歴象し、春分、夏至、秋分、冬至の日を確定して1年を366日とし、 閏月をもうけることとした。
厪(キン)【皇帝】
夏王朝14代王。の子。
麋(キン)【武官】
楚の臣。工尹。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚の潜を攻め囲んだ。 工尹麋と莠尹然は軍を率いて潜を救った。
憗(ギン)【公子】
魯の公子。子仲ともいう。
B.C.530南蒯は公子憗に「わたしは季子を追い出してその財産を公室に返し、私も費の長官として公室の家来になりましょう。 あなたは季氏にかわってその地位について下さい」と言った。公子憗はこれを聞き入れた。 そして公子憗は南蒯・叔仲穆子と季氏を討つ相談をし、このことを魯昭公に報告した。
公子憗は晋に赴いて新しく即位した晋昭公に挨拶した。
公子憗が晋に行っている時に南蒯が費で季氏に背いた。
9月、公子憗は晋から帰って衛まで来た時に南蒯の乱の話を聞き、副使の役をすっぽかして先に帰り、郊外まで来てそのまま斉へ出奔した。
禽滑釐(キンカツリ)【在野】
墨子の弟子。二代目鉅子(指導者)。
魏の人。
墨子の第一の門人。禽滑釐は田子方段干木呉起らとともに魏の西河で子夏に教えを受けたともいわれる。
墨子に信頼された高弟で、墨子の死後、二代目の鉅子となった。
墨子から守城術を伝授されており、楚の公輸盤が雲梯をつくって宋を討とうとしたときは、300人の防禦部隊を指揮して宋を守った。
琴高(キンコウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
趙の人。よく琴を弾いたので、宋康王の舎人(俸禄・財政を司る)となる。涓子彭祖の術を実践し、 200余年もいた。赤い鯉に乗ってあらわれ、水中に去ったという。
欣時(キンジ)【公子】
曹の公子。子臧ともいう。
B.C.578、曹宣公が秦討伐の陣中で没した。曹人は公子負芻に都を守らせて、 公子欣時に宣公のなきがらを迎えさせた。
秋、公子負芻は太子を殺して自立した(曹成公)。
冬、公子欣時は国外に亡命しようとし、国人の中にこれについて行こうとする者もあった。曹成公は事態を心配して、公子欣時に自分の罪をわび、国に留まって欲しいと願った。 そのため公子欣時は国に留まった。しかし公子欣時は成公の禄をはむことを潔しとせず、その領地を曹成公に返した。
B.C.576、3月、諸侯は曹成公の罪を正して周の都へ送り、公子欣時を曹の君に立てようとした。公子欣時は「聖人の次が賢者で、その次が愚者である。 わたしは聖人にはなれないが、せめて愚者にはならないようにしよう」と言って辞退して宋に出奔した。ときの君子は、公子欣時は分を守ることができたと評した。
B.C.575秋、曹人は公子欣時を帰国するよう晋に申し入れた。
曹がたびたび晋に申し入れたので、晋は公子欣時に「国に帰りなさい。君が帰ればわたしもお前の君をお帰しする」と言い、 公子欣時は曹に帰り、曹成公も帰国した。
公子欣時は曹に変えると、領地と卿の位を朝廷に帰して、出仕しなかった。
禽処(キンショ)【王】
呉王。夷吾の子。
靳尚(キンショウ)【武官】
楚の臣。懐王の近侍。上官大夫。
靳尚は三閭大夫屈原と位を同じくし、その君寵を憎んだ。そこで靳尚は王に讒言して「王が屈平に法令を作らせれば、 平は自分の功を誇り、自分でなければ誰もできないと自負しています」と言った。そのため懐王は屈原を遠ざけた。
また靳尚は秦の宰相張儀と親しかった。
B.C.311張儀が楚に赴くと懐王に捕えられた。張儀はひそかに靳尚に会った。靳尚は張儀のために懐王に「張儀を捕えれば、秦はかならず怒りましょう。 さらに諸侯は秦の助けのない楚を軽んじましょう」と言った。一方で、懐王の愛姫鄭袖に 「秦は張儀のために上庸の六県を楚に与えるばかりか、美女を娶らせようとしています。王は土地を重んじておられますから、必ず秦の女を尊ばれ、あなたは退けられるでしょう。 王に申し上げて張儀を放してやるのがよろしいでしょう」と言った。鄭袖は王にとりなして張儀を放免させた。
禽鄭(キンテイ)【武官】
魯の臣。
B.C.589晋軍が鞍で斉軍を破り、斉と和睦することとなった。
禽鄭は晋軍とともに戦っていたが、軍中より帰国して魯成公を迎えて晋軍に会合させた。
琴張(キンチョウ)【在野】
姓は琴、名は張、字は子琴。
子桑戸が死んだ時、琴張はその喪に臨んで歌った。
琴張(魯)(キンチョウ)【文官】
魯の臣。名は牢、字は子開。
B.C.522琴張は衛の宗魯の死を聞いて弔問に出かけようとすると、孔子に 「彼は斉豹に養われた盗賊であり、孟縶を殺した悪人である。 どうして弔問する必要があろうか」と言われた。
琴張(キンチョウ)
顓孫師
金投(キントウ)【将軍】
趙の将軍。