いまだにピアノの発明は1709年とする資料が極めて多く、日本のインターネット上でもほとんどがそうなっていますが、実は・・・
ピアノは1700年までに発明されていたことが裏づけられており、ニューグローヴ
音楽事典にも、とっくに掲載されているのです(世界的には1698年頃という記載が徐々に増えつつあるようですが、信憑性は極めて
疑わしいです)
そしてそれは、単純にチェンバロに打弦機構を組み込んだだけの安直な思いつき制作、また雇い主のフェルディナント王子の意に従った
だけの試作にとどまることはなく、クリストーフォリ(クリストフォリ)は生涯を賭してこの新しい楽器の改良に努めて1726年までに極めて洗練された
完成度の高い楽器に改良したのでした。情報の少なさから、先入観や単純な発達史観でしか語られていない最初期のピアノの世界を、
できる限り史実に基づき、また演奏家の立場からも紹介します。(未完、随時拡充しています (..) )
最初期の鍵盤楽器に関する資料で最も重要なのは、
ズウォレのアンリ・アルノー(Henri Arnaut de Zwolle)が1440年頃に書いて
ブルゴーニュ公に提出したもので、クラヴィシンバルム(clavisimbalum)、クラヴィコルドゥム(clavicordum)、ドルチェ・メロス
(dolce melos)、オルガン、リュート、ハープの図面集(パリ、国立図書館所蔵)です。
アルノーは、
クラヴィシンバルムの図面に4種類の発音機構を提案しており、このうち3種類が
弦をはじく方法で、
1種類が弦をたたく方法なのです。このことは、チェンバロと同様に
ピアノに対する技術的興味自体が古くから存在していた証といえましょう。
すなわち
「弦を叩いて発音する」というのはことさらに新しい考え方ではなく、
ピアノの出現を「当時主流であったチェンバロが強弱がつかないことを不満に思って、強弱のつく鍵盤楽器を求めようとした」という
観点からのみ語るのは、必ずしも適切ではないのです。また、クラヴィシンバルムとは別にドルチェ・メロスも打弦式
鍵盤楽器であり、アルノーの図面が細部にわたって具体性があることからも、
ピアノの先祖と
言うべき楽器はすでにこのころに存在していた可能性は充分にあるのです。しかし、ドルチェ・メロスは一台も残っておらず、
コレこそがピアノの先祖である! と正面切って一般に主張するのには少々はばかられる存在であるのも事実です (^_^;
バルトロメーオ・クリストーフォリ(Bartolomeo Cristofori, 1655-1731)は、
1655年にイタリアのパドヴァに生まれました。1687年、ときのトスカーナ大公コジモ3世の長男フェルディナント王子
(Ferdinando de Medici, 1663-1713)がパドヴァに立ち寄った際にクリストーフォリの楽器をいたく気に入り、以後40年の長きに
わたってメディチ(Medici)家の楽器の管理を任されることになったのでした。
(なお、このフェルディナンド王子をトスカーナ大公、としている資料が多いですが、実は
トスカーナ大公になったのは、フェルディナンド1世・フェルディナンド2世、そしてコジモ3世とその次男すなわち
フェルディナンドの弟であるジャン・ガストーネなのです! 当ページも 2001.5.24. まで誤っていました (^^;;; )
ここでクリストーフォリは生活が完全に保証され、豊かな創意工夫の才能を存分に発揮できることになったのでした。彼の楽器は
2つとして同じ楽器がないほどに工夫が凝らされていて、そのなかで最も奇抜な楽器が後年
「グラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(Gravicembalo col piano e forte)」
と呼ぶことになる、
「強弱のつけられるチェンバロ」なのです。
ボローニャとフィレンツェで作曲家兼オルガニストであった宮廷音楽家:
マンヌッチ(Francesco Maria Mannuci)が日記の中で、クリストーフォリと出会ったときのことを
回想しています。
1698年春にマンヌッチはクリストーフォリと出会い、このときに
「ハンマーメカニックが取りつけられた鍵盤の模型」を見せられた、と書いている、という報告があります。
研究論文として初めて明らかにされたのは1964年、ファッブリ(Mario Fabbri)のイタリア語論文の一部分でした。ただ、
マンヌッチの日記の自筆は発見されておらず、
この Fabbri の主張の信憑性は
極めて疑わしいとされています。
一方、最も確実性の高い資料は、
1700年に編纂されたメディチ家の所蔵楽器目録です。
この中に「クリストーフォリ(クリストフォリ)の手による、ハンマーアクションを備えて強弱のつけられるアルピチェンバロ」に関する記載があることから、
ピアノの誕生は遅くとも1700年であるのは疑いありません。
この記載を翻訳すると(英語文献からの孫翻訳なので不正確な可能性があります)・・・
原文:イタリア語
バルトロメーオ・クリストーフォリの新しい発明による、強弱のつけられるアルピチェンバロ
(Arpicembalo)。1音は同じ(ユニゾンの)ピッチの2つの弦からなり、響孔(ローズ)のないサイプレス材の響板を持ち、
ケースの側面と湾曲部分(ベントサイド)は黒檀の帯で象眼され、弦に触れるところに赤い布がつけられたダンパーと、
強弱を可能にするハンマーを持っている。
メカニック全体は黒檀で象眼されたサイプレス材で覆われ、ナチュラルキーはツゲ材、シャープキーは分割鍵盤になっておらず黒檀材で、
下のCから始まって49の黒鍵と白鍵を経て上のcで終わる。鍵盤の両端には黒い木のブロックがついており、その上部に黒いつまみが
ついている。楽器の長さは217.6cmで、幅は98.6cm、譜面台はサイプレス材で、外ケースは白ポプラ材、そして赤い革のカバーは緑色の
布地(タフタ)で裏打ちしてあり、金のリボンで縁取りされている。
このあと、
マッフェイ(Scipione Maffei)侯爵による有名な紹介記事があらわれます。
これは、1711年にヴェニスで出版された「イタリア文学(Giornale de' letterati d'Italia)」紙上に発表されたもので、
マッフェイが1709年にクリストーフォリと会って実際に楽器を見て書いた紹介記事です。
この中で、マッフェイは「彼はすでに3台の普通サイズの新しい楽器を作っていた」と書いています。
すなわち、
1709年の段階で既にクリストーフォリは少なくとも3台の
ピアノを作り上げていたというのが史実であるのに、これがなぜか誤解されて、1709年にピアノが発明された、という
誤った認識が広がったのです。この、
後世の人間が勝手に思いこんだ間違いは、21世紀に
なった現在ではもはや訂正されなければなりません。
なお、この紹介記事は、わずかな印刷上の訂正をほどこしたうえで1719年にヴェニスで再出版されています
(Rime e Prose del Sig. Marchese Scipione Maffei, Parte raccolte da varij libri, e parte non pi stampate)。
ここで、1711年版には楽器の名称が「
Gravecembalo col piano e forte」
となっていて、1719年版では「
Gravicembalo col piano e forte」
となっていることは知っておく必要があります。
そしてその後ようやくドレスデンの宮廷詩人ケーニヒ
(Johann Urlig K嗜ig)が
ドイツ語に翻訳し、
1725年にドイツ・バロックの代表的な作曲家で理論家でもあった
マッテゾン(Johann Matteson, 1681-1764)の主宰する音楽雑誌「音楽批評(Critica Musica, 1722年創刊)」に所収されて
ハンブルクで出版されています。すなわち、ドイツ語圏にクリストーフォリの発明が印刷物の形で伝わったのは、ようやく
1725年以降、しかもそれは1709年当時の最新情報(^^;が16年も遅れて伝わったのでした。
さてもう一点、
マッフェイはあくまでも文筆家であり、自分自身メカニズムを理解して
記述することが困難であったことを認めています。しかもドイツ語版が出版された1725年の翌年の1726年に
クリストーフォリは決定版の楽器(現ライプツィヒ大学楽器博物館所蔵)を作り上げているわけですから、文献に記載されていた
当時の楽器とはそもそも次元の違うレベルに達していたのでした。クリストーフォリの楽器の斬新な構造が正しく伝えられず、
結局はピアノの歴史の中で誤解に満ちた認識をされている理由の一つが、この紹介文献とのタイムラグでもあったのでしょう。
下に記載しているアクション図を見比べても差は歴然としています。
したがって、
マッフェイが1709年に実際にクリストーフォリに会って楽器を見た
とはいえ、その結果出版された図面を全面的に信用するわけにはいかないのです。現時点では、クリストーフォリの
アクションの初期型がどのような機構であったのか、確認するすべはないのです。
さて、このマッフェイに基づいたケーニヒのドイツ語文献に目をつけて制作意欲を燃やしたのが、かの有名な鍵盤楽器制作家:
ゴットフリート・ジルバーマン(Gottfried Silbermann, 1683-1753)でした。ジルバーマンは、おそらくこの論文のみを
基本資料としてピアノの試作を開始して、手始めに2台制作したところで大バッハ(J. S. Bach, 1685-1750)に見せて批判されたのです。
これが良く言われる
「高音部が弱すぎるうえに、弾きづらい」という指摘だったのです。
しかし大バッハがその際に
楽器自体の響き自体を褒めていることは、なぜか忘れられがち
なのです。ジルバーマンは自分の仕事にケチをつけられるのに我慢ならないタチであって、しばらくは大バッハにムカついていた(^^;
ようですが、結局は打弦機構について改良することに成功
(実は、現在残っている
ジルバーマンのピアノのアクションは、クリストーフォリの1726年製楽器のアクションと形態はおろか寸法に至るまでまるで
同じことから、独力で行ったのでないのはほぼ確実です。この詳細については裏を取っているところですので、今しばらくお待ち
くださいまし)してプロイセンのフリードリヒ大王のもとに多数(フォルケルの「故人略伝」によれば15台!
ちょっと誇張されているような気がする・・・(^o^;;)納入されるに至ったのでした。
ジルバーマンはその改良品を再び大バッハに見せたのですが、このときには
「申し分のない保証」を与えられたのでした。
以下、白水社、バッハ叢書10『バッハ資料集』1983年 からの引用です