水中考古学の調査を訴える 西谷 正

  私は地方公共団体の埋蔵文化財行政の充実度もしくは先進性を測るメルクマールとして、さしあたり三つを目安にしている。
 それは、第一に女性職員の充実度、第二に近世遺跡の調査件数、そして第三に水中考古学調査の有無などである。たとえば、福岡市の例を検証すると、その後進性が目立つ。水中考古学の調査一つを見てもほとんど行われていない。この点に関して、博多湾の水中考古学の分布状況が示された(林田憲三、1993「博多湾海底出土遺物とその意識」)の意義はひじょうに大きい。これを受けて一日も早く、博多湾における水中考古学調査の実施を訴えるとともに、さらには日本におけるこの分野の先頭に立つべく、関係者各位の一念発起を喚起したい。


博多湾出土の荒焼壷  高野 晋司

 
 
古来、博多は我が国における大陸との貿易の拠点であり、その表玄関である博多湾には、交易用の船そのものや、あるいは船からこぼれたであろう様々な遺物が相当埋没しているものと想像されるが、ここに紹介する壷も何らかの理由で海底に没した資料の一つである。

荒焼壺

荒焼壺刻印
荒焼壺実測図

 1992年1月、博多湾改修工事で潜水中のプロのダイバーである嶋田克海氏は海底下3mのシルト内から1個の陶器を発見した。
 嶋田氏は1988年以来、長崎県鷹島海底遺跡の発掘調査にずっと参加されており、仕事がら海底の古代遺物についてかなり注意しておられるとのことである。以下嶋田氏からの聞き書きによって遺物の出土状況を紹介しておきたい。
 遺物が発見された場所は、博多湾ペイサイドプレスの西南方向にあたる。現在は完全に埋め立てられており、その上を都市高速道路が走っている。中世の博多の旧海岸線から500m位沖合に相当するものと思われる。
 当該地は水深4m程の深さで、海底下には、壁が垂直になるほど粘性が強いシルトが厚く堆積しており、遺物はそのシルトの下3m程の所にほぼ直立して埋没していたという。海面からの水深は7m程になろう。
 嶋田氏のご好意によって遺物を実見したところ、肩の一部に蛎殻が付着するのみの保存状態良好な壷の完形品であった。蛎殻付着部分は且つて水中に露出していた部分であろう。
 壷は陶器で高さ47.8cm、口径12.7cm、胴部径32cm、底部径20cmを計る。口縁部は丸く外反し頚は短くしまり強い張りを持つ肩部に移行する。その部分には対称位置に2個の耳がつく。肩部以下はゆるく内反しながら安定した底部に到る。全体的にがっちりした作りである。
 色調は赤褐色で、全体的に丁寧なヘラナデを行うが、同下半部と底部にはヘラ削り調整をおこなっている。
 頚部と肩部にはヘラ先による沈線が巡り、その間に図に見るような刻印を施す外、墨書で円の中に「テ」の字を描いている箇所がある。
 壷の出自については、当初その色調と器形から備前焼ではないかと推定していたが、その後沖縄の荒焼壷ではないかとの教示を得た。
 事実、沖縄の読谷村の歴史民俗資料館に同種の壷が展示されているのを友人から教示いただき、その出自が分かった次第である。
 壷は壷屋という窯で焼かれたものらしい。壷屋という名称はもともと壷や甕を作る所という意味を有するようで、現在でも沖縄や八重山でもそのような場所を壷屋と呼んでいる。
 壷屋は湧田、宝口、知花という三つの窯場を1682年に統合したもので、且つては荒焼、上焼、アカムヌーと三系統の焼きものがあり、戦前までは荒焼が主流であったのが現在では上焼がそれにとって代わっているようである。
 以上、壷の特徴は壷屋で炊かれた製品であることを示しており、時期的に17世紀末以降が考えられる。
 また肩部のへラ先刻印は窯印と思われるが、資料がないので特定できない。また、墨書による「テ」の字は交易に際しての何らかの印であろうが、やはり類例に接しえない。
 冒頭に述べた如く、博多湾は古代から近世にいたるまで我が国に置ける一大交易港として、あるいは外敵の侵寇の最前線基地として重要な位置を占めてきた。
 また、外国ばかりでなく、国内交易についても今回紹介する壷がその一例であるように同様であり、そしてその手段が船であったことは、当然ながら沈没船に限らずあらゆる時代の種類の遺物、遺構等が海の中に残されている可能性を秘めている。
 言わば博多湾は日本の歴史を眺め続けた物言わぬ証人である。単なる一時期だけの歴史を誇示する場所ではない。歴史の重みが違うのである。
 しかし、博多湾における景観はここ僅か数年で一変してしまった。物を言わないまま博多湾は歴史のかなたに追いやられようとしている。
 経済活動は勿論大事であるが、未調査のまま歴史の生証人が埋められていくのを見るのは残念である。
 博多湾出土の壷を紹介するだけのつもりが余計なことまで述べた。
 なお、この小文を書くにあたり下記各位の御教示と協力を得た。記して感謝申しあげる。
 石原 渉・伊藤 晃・大橋康二・嶋田克海・下川達弥・外聞政行(敬称略)

(註1)図録「沖縄の古窯」1979年10月2日 やちむん会 編集



沈降伝説の島・高麗曽根調査の想い出 山本 愛三

はじめに
 「昔、高麗島と言う裕福な一小島があった。島には霊験あらたかなお地蔵様が、まつられていた。ある夜、お地蔵様が信仰の深い人の夢枕に立って「余の顔色が変わった時は、この島に一大事が起こる故、よく気をつけていて、この島を逃れよ」と言うお告があった。ある日、お地蔵様の顔が赤くなっているのを見つけた人はその旨を、村人に告げて廻ったが、だれも本気にしてくれない。やむなく、お地蔵様を担いで、久賀島に運んだ、その直後大音響とともに島は沈み、多くの村人は島と運命を共にした。」

図
 

 これは、かつて五島行きの船に乗り、船が福江港に近づくと、五島の紹介の一節として、必ず船内放送されたものであった。海の上から鳥居が見えると言う人もいるし、高麗曽根で綱にかかったと言う陶器を持っている人はかなりいると言う。筆者は、五島の生物総合調査の一環としてこの高麗曽根の調査を思い立ち、組織団の編成にかかった。当時、NHKのベテラン潜水記者のT氏より電話があり、「先生、ニュージーランドからですが最近面白い話はありませんか。」とのこと、高麗曽根の調査団がほぼできたことを話すと、「それはニュースです。我々も参加したいので、本社に連絡し手配をとります。」とのこと、やがてNBCも参加すると言ってきた。あれやこれやで報道関係だけで10名を越すメンバーになった。地元長崎潜水クラブ10名、総勢20名を越すメンバーになった。このほか、本隊の生物調査40人は島づたいに福江島から北上する計画をたて筆者はこちらの企画、指揮で手いっぱいの状態になった。高麗曽根の直接指揮を当時長崎大学医学部第二解剖の坂田先生に、お
願いすることにした。日程もにつまってきた頃、突然ハプニングが起こった。
 T氏が東京で派出に宣伝したのに刺激されたのか、突然、小松左京氏のグループが調査団を組んで乗り込んできた。やがて各新聞で大々的に結果報道がなされた。曰く、高麗曽根はやはり沈んだ。海底に石垣が発見された。鳥居の一部も発見された。と写真入りで報道された。
 団員の中に動揺が起こり始めた。私のところに計画の取消しを談判にきた人がいた。私は、小松左京氏は日本沈没と言う映画の製作者として有名だが、調査意図、調査メンバーの構成も不明である。我々は我々の方法でやる。同じ結論になろうが反対の結論になろうが、どちらが、どれだけ学問的にやったか、過程と方法論のほうが重要だ、ここまできて取り消す意志はないと強硬に譲らなかった。

高麗曽根の位置
 高麗曽根は、北緯33度6分9秒、東経128度42分7秒に位置する。すなわち、五島列島の西の東シナ海上にあり、青方港から36km、小値賀港から33km、岐宿・三井楽港から40kmの所にある。小値賀島沖の瀬と言える。(図.1,2)

調査の要点
 以下、調査団の中村叉市氏の調査記録から
要点を抜粋する。
第10図昭和52年8月1日
 長崎県生物学会高麗曽根潜水調査団山村和久団長以下報道関係者を含め総勢16名は上五島青方の宿に集合。夜、坂田先生を中心にミーティング、次のT〜W項について打ち合わせる。
T.浅瀬を見つけてブイを入れて調査地点を決める。
U.4班に分かれて調査する。
V.石垣らしいものの発見につとめる。
W.大きい石があった場合、その根元に壷など人工的なものの発見につとめる。

8月2日
 8時40分出航。11時高麗曽根に着く。波の盛り上がりで浅瀬の位置を判断し、近づく。水深3〜4mで肉眼で海底が見える。流れの上と下の浅瀬に旗をつけたブイを投入する。海底は四角の石が点在し石材として切り出し、そこに置いたかの景観と、丸い石の礫底とが交緒する。人工遺物を必死に探すが発見出来ない。16時、第2回の潜水で石垣らしいものを発見したという班があり、緊張がみなぎる。

8月3日
 石垣の正体を見きわめよう、壷なども発見しようと全員はりきって出航する。
 昨日、石垣らしいものを見つけた地点に潜水する。水深17m一辺が40cm位の四角い石を重ねたような石垣らしきものが、数10mもつづいている。金てこを利用し、石をはずしロープや綱をつかって船に引き掲げる作業は難航をきわめた。(図.3〜9)

8月某日
 記者会見の日がやってきた。筆者は、地質専門の方の意見、考古学の堀田先生の意見をもとに次の発表をおこなった。
1.人工遺物は、今回の調査で何一つ発見されなかった。石垣と思われるものは自然のもので人工的加工の痕跡は一切認められなかった。石垣らしいものの延長末端は割れ目の無い基整に移行して石垣とは考えられない。(坂田)
2.石垣と言われたものは、砂岩性柱状節理で、柱状節理は火成岩ではよくしられているが、堆積岩でもまれではない、層理面に直交して発達する節理は収縮のとき生ずるものである。何れにしても島が沈降した地質学的証拠は発見されていない(地質K氏)
 以上から高麗島が沈降して高麗曽根になったとする根拠は、何も発見されなかった。と結論づけた。
 翌日の新開やテレビに注目したが一切これらに関する報道はなかった。NHKのT氏に電話すると「島が沈んだというのであればニュースになるが、沈まなかったと言うのではニュースにならない、各社同じと思う。」とのことであった。
 マスコミによって作られる社会、報道の一面性をつくづく考えさせられた。
 その後、坂田先生と話すうちに、久賀島にあるお地蔵様というのは何か、高麗島では優れた炊き物を作り、生計をたてていたという高麗焼とは何か。高麗曽根で綱にかかったと言う遺物は何か。これらを未解決のまま通りすぎるのはどうか。と言う事になり、坂田氏のお供をして、久賀島に渡ることになった。
村上干次郎
高麗焼
 村上千次郎氏(明治35年生)は高麗島から逃れて来た人の7代目にあたると言う。村上氏宅には高麗島から逃れる時、携えてきたと言う高麗焼が2個秘蔵されている。有田陶器美術館永竹氏の鑑定では、皿は大村領内(三股陶石?)の磁器で18世紀末?焼かれ、布袋像水差しは、大村領内長与窯で18世紀?焼かれた物ではなかろうかとのことである。(第10図)

高麗地蔵
 地蔵は首が異常に長く、頭は小さい、耳は異様な形をしている。口は無い。
 坂田氏はこの地蔵に再加工のあとがあることに注目、目と鼻の沈線が十字に交差することから、高麗島の伝説には、かくれキリシタンの人々が一翼をになっているとして、ノアの洪水のかわりに高麗島伝説を借り、マリヤ観音に高麗島地蔵を借りたのではないかとしている。
 なお、高麗島伝説については柳田国男集に「島の人生・高麗島の伝説」がある。坂田氏報文の詳細は五島の生物「高麗島の伝説の考古学的検討」がある。

 あとがき
第12図・第13図 島が沈んだと言う地質学的証拠とは何か。
 この調査は、ごく限られた場所での潜水調査の記録に過ぎないのではないか。石垣と言われた物が、砂岩の柱状節理であることが確かめられただけではないか。高麗焼も専門家の写真判定であり、実物との対比はなされていない。
 高麗地蔵も、何時、誰が二次加工を施したか、かくれキリシタンとの実際の関わりはどうであったのか。長崎県西彼杵郡外海町から久賀島へ、かくれキリシタンが渡ったのは寛永年間のことである。まだ未解決の事が現されていると言わざるを得ない。
 一方、別府湾の瓜生島と対比すると、瓜生島の方が古文書、地震、地質の資料がかなり豊富である。高麗島はほとんどこれらの資料は無いといってよい。
 瓜生島の調査では、石油資源開発株式会社の地質探査機ユニブームが有効に活躍し、古瓜生島の全貌を浮上させている。(図.12)
 2mの断層を発見し、その北側は煉瓦を重ねたような海底土砂の堆積を示しており、その南側は土石の流動も少なく、えぐられた状態であると言う。
 島沈没のそのメカニズムについては、年代は不明であるが非常に大きい地滑りが起こり、断層ができた。津波により年代を異なる堆積層の間に多量の地下水がたまり、これが地震によって液化状現象を起こし島は崩壊したとしている。(図.13)
 叉、長崎港にある香焼島の東には、海底に町並が有ると言う。潜水した山村氏の話では末端まで見とおせない規模で石灰の堀まで残っていると言う。炭坑の坑道の落盤事故によるとされている。
 近年、ヒドロアイソスタシーと遺跡が、にわかに騒がれるようになってきた。未だ納得しかねているが、島が沈む、陸が沈むということは何故か人のロマンをかきたてるものがあるようだ。

参考文献
加藤知弘(1978)瓜生島沈没、ぱぴるす文庫 葦書房、133pp.
中村叉市(1981)高麗曽根海底調査に参加して、五島の生物、長崎県生物学会
坂田邦洋(1981)「高麗島の伝説」の考古学的検討、五島の生物、長崎県生物学会
瓜生島調査会(1977)沈んだ島別府湾・瓜生島の謎、301pp.
山田鉄雄、他、(1971)高麗曽根漁場の地形、長崎大学水産学部研究報告、2号、長崎大学
柳田国男(1966)島の人生・高麗島の伝説、定本柳田国男集、筑摩書房

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代の刳船 塩屋 勝利

 

 この秋、中国を旅行した。楊州市博物館を訪問した際、唐代の刳船と積荷が展示してあった。刳船はクス材を用いた単材式のもので、長さ13.65m、幅0.75m、深さ0.65mの巨大な船である。積荷は唐代の陶磁器が殆どであった。運河の底から出土したということで、生産地あるいは中継地から消費地へ商品を輸送する途中に沈んだものらしい。
 私はかつて福岡市立歴史資料館で『古代の船』の展示会を企画したこともあり、この唐代の刳船に出会い、大いに感動を覚えた。同時に、いつか協会で古代の船を訪れるツアーを組んだり、実際に水中から沈没船を発見できればと思ったものである。



鷹島町神崎地区潜水調査:1993年度調査 林田 憲三

.はじめに
 今回行なった神崎地区の海底調査地点は「鷹島海底遺跡」として1981年7月に「周知の遺跡」として定められた海域内にある(Fig.1)。「周知の遺跡」は鷹島の南海岸の雷岬から干上鼻までの約7.5km、汀線より沖合200mまでの範囲に含まれる約150万km2の海域をさす。この海域ではこれまでに2度の学術調査@「水中考古学に関する基礎的研究」1980〜82(昭和55〜57年)、A「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」1989〜91(平成元〜2年)が行なわれている。更に長崎県文化課及び鷹島町教育委員会による緊急調査がこれ迄9回行なわれている。その内、4回は発掘を伴う調査で、@1983(昭和58)7〜9月、A1988(昭和63)9月、B1989(平成元年)6〜8月、C1992(平成4年)7〜9月にかけて床浪港改修工事に伴う護岸建設に先立って行なわれた。
「鷹島海底遺跡」で行なわれた学術調査及び緊急調査では、元寇に関係する沈没船や船体の一部は未だ検出されていないが、しかしこれ迄出土した遺物は多量である。中国陶磁器以外にも鉄刀、船釘、鉄インゴット、銅碗、石弾、石臼、片口乳鉢、磚、碇石、木製品、石製品、鉄製品、人骨及び獣魚骨等がある。これら出土した遺物以外にも、その数は少ないが銅鏡や高麗製品がある。更に縄文土器や近世陶器を含めると、現在までに出土した遺物の総数は2,000点以上に達している。
Fig.1 鷹島 鷹島が日本の水中考古学の実践の場所として築き上げた歴史的環境の中で九州・沖縄水中考古学協会は「鷹島海底遺跡」の調査を協会活動の一環として捉え、1989(平成元年)の床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査に初めて参加し、海底遺跡を発掘調査する機会に恵まれた。更に1992(平成4)年度の「鷹島海底遺跡」(床浪港)緊急発掘調査では全面的に鷹島町教育委員会及び長崎県文化課に協力を行なった。この発掘調査の結果、縄文早期の包含層を約−25〜−26mで確認した。この深さでの縄文早期の遺物検出は日本で初めてのことであり、日本の水中考古学が専門の学問分野として海底で約1万年前の人間の生活の痕跡を証明したことは非常に意義のあることである。鷹島は地球最後の氷河期の終焉、海水面の上昇、その結果朝鮮半島と日本列島の分離といった地球数万年の時間の流れの中で、人類の足跡を考古学的に解明する貴重な機会・場所を提供した。鷹島は水中考古学にとって元寇関係遺物を埋蔵する海底遺跡であるばかりではなく、縄文遺跡までも海底に包括する「鷹島海底遺跡」である。この認識は鷹島が世界の水中考古学における日本の海底遺跡として将来を担う責務を負わなければならない使命を持つことになる。
 この様な状況下で九州・沖縄水中考古学協会は1992年に初めて目視による遺物確認の潜水調査を鷹島町の理解の基で行なうことができた。今年度は第2回目で、鷹島町との間で調査委託契約が結ばれ、昨年度に引き続いて「鷹島町神崎地区潜水調査」を行うことができた。九州・沖縄水中考古学協会の独自の活動として、また協会員相互の研修をも含めて「鷹島海底遺跡」の元冠関係遺物確認調査を1993年7月23日〜25日に実施した。
 日本の水中考古学の現状は決して好ましい状態とは言いがたい。緊急調査は調査担当者や調査資金の面ではその条件をある程度満たしてくれるが、その反面、調査日程などに制限があり、十分に満足のいく調査ができないこともある。だが大学や研究機関の行なう学術調査ではその状況が逆転することがある。豊富な調査時間に比べて調査資金が際立って少ない。この様な状況の中で九州・沖縄水中考古学協会は日本の水中考古学に係わった緊急調査や学術調査の問題点を検討し、不備を改めて、両者の存在や貢献を評価し、日本の水中考古学の在り方に可能な限り貢献するため、水中活動を鷹島で行なうことができることは、水中考古学への「鷹島海底遺跡」を通じて、鷹島町の取り組みの姿勢を高く評価しなければならない。

.調査の目的
 鷹島は歴史的に元寇の役の舞台となったところとして知られているのは周知の事実であり、重要な史蹟の島である。元寇が歴史的な事件としてこれ迄多くの文献資料、考古資料の検討が行なわれ、史実として日本の歴史のなかに登場する。
 この歴史的な事件を水中考古学の学問領域で解明していく為に、この鷹島が重要な手がかりを提供している。鷹島で起きた歴史的重大な事件を鷹島海底で確認することの意義を理解し、これ迄人々の目に触れることの少なかった人間の海への歴史について水中考古学も貢献することができる。鷹島海底は元寇関係遺物ばかりではなく古代環境への諸学問の領域からも意義のある縄文早期の遺物が1992年の床浪港の緊急調査で出土している。
 今回行なった調査は「鷹島海底遺跡」(神崎地区)の遺構及び遺物の確認のために目視による確認の潜水調査である。この地区では「管軍総把印」の青銅印が海岸で採集された所であり、大量の中国陶磁器が潮間帯の海岸で、採集することが出来る。この様な理由から九州・沖縄水中考古学協会は、前年度(1992)平成4年6月27日、28日両日に潜水調査を実施した。その結果元寇遺物を海底で確認することができた。また昭和55年から57年迄の3年間にわたり行なわれた「水中考古学に関する基礎的研究」は、この神崎地区の海域もその調査対象区域となり、その時多くの遺物が海底から引き上げられている。これまでの調査区域より更に東側の地区に今回の調査対象区域を設け、遺構及び遺物を海底面で検出することにした。この海域で確認調査を実施することは、今後の精密な海底調査を行なう場合の重要な基礎的資料を提供する。調査対象区域の海底を目視による潜水確認調査で海底環境や遺物・遺構の分布状況を把握する。この調査結果の資料を分析し評価することは、将来この地区で行なわれる本格的な海底調査に多くの資料を提供することになる。

3.調査の組織
 今回の調査は九州・沖縄水中考古学協会が鷹島町より依頼を受けて、鷹島町神崎地区地先公有水面の海底を目視により潜水調査を行い、元寇に関係する遺構や遺物を海底で確認し、記録するために実施したものである。調査組織は協会員と職業潜水士(2名)からなる、全15名で構成された。前回に引き続き協会顧問の荒木伸介氏からは調査地点のグリッド設定及び潜水調査方法、更に潜水調査地点に関して多くの貴重な助言をいただき、潜水調査を無事に終了することができた。調査参加者以下の通りである。
@
 荒木 伸介(協会顧問)
A 林田 憲三(協会会長)
B 石原  渉(協会副会長)
C 塩屋 勝利(協会事務局長)
D 高野 晋司(協会運営委員)
E 井上 隆彦(協会運営委員)
F 折尾  学(協会員)
G 向原 要一(協会員)
H 村川 逸朗(協会員)
I 小川 光彦(協会員)
J 高野 美子(協会員)
K 松尾 美代子(協会員)
L 石本 充子(協会員)
M 山崎 達也(潜水士)
N 岩垂 博文(潜水士)

4.調査区域
 今回、協会の行なう潜水調査地域は長崎県北松浦郡鷹島の南岸7.5kmに及ぶ周知の遺跡として定められた海域にある。所在は鷹島町神崎地区地先公有水面となっている。この調査地では潮の干満の差が比較的大きいため、この地区では潮間帯が広い範囲で出現する。前年度1992年6月に潜水調査を行なった海域は今回の地点から西へ直線にして550m隔たって位置する(Fig.2)。


Fig.2 平成4年度及び5年度調査区域図 

 九州・沖縄水中考古学協会による前年度の調査地区と今年度の調査区の間には来年度(1994)予定の緊急発掘調査が行なわれる地域である神崎港がある。ここでは改良工事・防波堤拡張及び荷揚げ場の建設のために海底調査が当然必要となる。
 この緊急発掘調査予定地のすぐ東側の海域は1980〜82(昭和55〜57年)に行なわれた文部省科学研究費による鷹島海域で第1回目の学術調査において選ばれた調査地点の一つである。この学術調査の最終年度にあたった昭和57年(1982)の8月3日(火)〜6日(金)にかけて神崎地区海底で潜水調査が実施されたのが、この地点である。この海底調査では元寇関係遺物が東西200m、陸上から沖合200m迄(200×200m)の40,000uの海域の海底面で数多く発見されたという報告が8月7日の会議資料として「水中探査発見物リスト」が提出されている。この調査地域は護岸堤から拳大の礫が潮間帯にはぎっしり見られ、更にその沖側に行くに従って、水深は深くなりシルトの海底地質に変わる。
 「水中探査発見物リスト」による遺物の分布範囲を調べると、西側半分100mと沖合100mの範囲の海域に遺物の出土が偏していることが読める。
 今回、協会の設定した潜水調査区域は遺物の出土した区域の更に約100m東に位置している。このようにこれ迄行なわれた神崎地区海域の調査区域と重ならない区域を潜水調査地点として選定する必要があった。
 今回は協会活動としての潜水調査研修をも兼ねているために、会員の潜水技量も十分に把握する必要もあり、水深は15m以下で、陸から沖へ100m以上越えない範囲での海底調査を行なった。
 海底の調査区域を正確に設定するため、陸上に測量可能な良好な条件を持つ場所を決定しなければならない。そのために今回は「神崎港海岸計画平面図」を利用することにした。鷹島町教育委員会より1/500図面の提供を受け、この図面を参考にして、以上の緒条件を満たす調査区域を今回決定した。

5.調査の方法
調査区設定(Fig.3)
1)潜水調査対象地点は長崎県北松浦郡鷹島町神崎地区であり、その調査対象は10,000uである。前年度(1992)潜水調査を行なった対象面積は26,000uであった。この面積は2日間の調査予定では対象面積の全海底を潜水調査することは不可能であった。この結果を今年度は考慮して、調査対象面積を約半分の面積にし、調査区域の海底に設定した。調査対象区域の選定の理由は既に(4.調査区域)で述べているので、ここではその説明を省略する。
Fig.3 調査地点全景(西側より
Fig.3 調査地点全景(西側より)
Fig.4  Fig.5
Fig.6  Fig.7
Fig.8  Fig.9
Fig.10 潜水調査区域設定図
Fig.11 潜水調査準備風景
Fig.11 潜水調査準備風景
Fig.12  Fig.13
2)調査区の設定は陸上の定点からトランシットにより方向を定め、海上に100×100mの調査区を設定する。先ずは基準点A(BM)から西北西へ地点Bを結んだ直線をベースライン(0度)とする。基準点Aと地点B間の距離は100mである。
3)基準点Aは新しく建設された護岸堤の東側によった位置にあり、久保ノ鼻にある小さな港から西側へ約100m隔たった場所である。その場所には海岸へ下りる階段があり、その階段の最上面に僅かであるが、広く造られた平坦な場所にトランシットをたてることが出来た(Fig.4)。ここに設定した後、海上に向かってベースラインから左90度を設定し、先ずA地点より沖へ向かって潮間帯で海底が露出する地点に10.6mを測る。これは先ず@陸上の護岸堤と海岸には約3m程の高低差があるため、この誤差を修正することにある。更にA潜水調査を必要としない陸上部の地域を除くことである。この2点の理由から、潮間帯にあたる海岸に杭を立て、仮地点としてA′を定める(Fig.5)。この地点より水平距離100mを測り(Fig.6)、その地点をDとする。
4)B地点より海上に向かってベースラインから右90度を設定し、先ずB地点より沖へ10.6mを測り、海岸に杭を打ち、この杭を仮地点B′として、これを定める。このB′地点から沖へ水平面距離100mを測り(Fig.7)、それをC地点とする。
5)以上のA′、B′、C、D地点で囲んだ面積10,000uの範囲が今回の調査対象区域である。
6)海底に調査区の範囲を設定するために地点C、Dは鋼管を海底シルト層の中に深くに打ち込み固定させ、海面には鋼管よりロープに結んだ橙色のφ200mmのブイを上げる。更に潜水調査区の中グリッド区域(10×100m)に分け、100mライン、90mライン、80mラインと70mラインを100mロープを使って東西方向に海底に設置する。此等の地点を示す橙色のφ200mmのブイを海底より海面に上げ、設置する(Fig.8)。因みに此等のブイは調査終了後改収し、調査海域より撤去した。
7)更に地点A′とB′間の50m地点、地点C、D間の50m地点を南北方向に“中央縦ライン”を100mロープを用いて海底に設置し、調査区の中グリッド区を更に小グリッド区に細分した。この海底の調査区域及びグリッドの設置等の作業及び潜水調査に調査船の「ひさご丸」を使用した(Fig.9)。

潜水調査方法(Fig.10)
 A′、B′、C、D地点を囲んだ調査対象区域内を考古学者及び潜水士計9名による潜水調査行なう(Fig.11)。
 海底の透明度は決して良好ではなく、透明度は3mである。調査区域の海底は概ねシルトが堆積した底質を呈する。しかし陸地の0〜沖30mの間の底質は拳大の礫である。また0mから西へ40mの地点では3〜4mの高さの岩壁が南北に延びている。このテラスを越えると水深も比較的浅くなり海底はシルトが堆積する。しかし東側より堆積状況は若干異なり、このシルト層は思ったほど厚く堆積していない。調査区の水深は最も深い箇所で17m、逆に浅い箇所は干潮時に海底が現れる。
 目視による調査区域の潜水調査は各調査担当者が海底に張られた小グリッド(10×50m)のロープに沿ってその両側2〜3m幅の範囲で海底を目視しながらゆっくりしたスピードで移動し、潜水調査を行なう。100mロープには10m毎に距離の数字を印したテープを付け、調査員が遺物を確認した場合には、海底で遺物の位置関係を把握したり、記録するのに役立つようにした(Fig.12)。海底で確認された遺物については、海底からの引き上げは原則的に行なわず、遺物の出土状況を記録するために35mm水中カメラ及びビデオカメラによる撮影を行う。更に重要遺物であると、評価したものについてはその位置を計測する作業を行なう。つづいてグリッド内の具体的な目視による潜水調査を時間的な経過を追いながら説明すると、以下のとおりである。
1)沖側の100mラインのロープに沿ってC、Dの両端地点のブイマーカーからそれぞれ1名の調査員が潜水開始する。中央地点(50m)迄潜水する。更に陸側に設置されている隣の90mラインのロープ迄の幅10×50mグリッドの内側500uを自由に潜水しながら遺物確認の目視調査する。
2)90mラインのロープに沿って東端0m地点と西端100m地点から中央地点(50m)迄をそれぞれ1名の調査員を配置し、潜水調査を行なう。潜水調査は調査員の担当した各グリッド内側500uの目視調査を(1)と同じように行なう。
3)80mラインのロープに沿って両端地点(0m、100m)から各1名の調査員が中央地点(50m)迄潜水調査を行う。更に500m2のグリッド内を目視しながら、遺物確認の潜水を行なう。
4)70mラインのグリッドでも同様に2名の調査員によって遺物確認の潜水調査を行なう。
5)以上の遺物確認の目視による潜水調査は陸より沖へ、南北方向に海底に設置された0m、50m及び100mラインのロープに沿っても行なった。

6.調査作業の安全対策
1)調査中の調査補助及び安全対策として調査船を調査対象区域に常時待機させ、他の船舶に十分注意をし潜水調査を行なうことにする。
2)警戒船はその船上に、国際信号旗A旗を表す信号(旗)板を示す標識や形象物を掲げ、常に協会員を数名乗船させ、警戒に当らせる。
3)海上の状況を天気予報等で事前に調べる。

7.調査作業の安全基準
1)下記事項時には作業を中止する。
   風速12m/秒以上の時
   波高1.5m以上の時
2)その他、大しけの時には、調査船は鷹島町阿翁浦港を避難港として定め回避し、しけがおさまるまで待機する。

.調査の成果
 鷹島町神崎地区海底に設定した調査地区を目視により潜水調査で対象とした面積は10,000uである。そのうち、目視により潜水調査した面積の範囲は沖合70m〜100m×lOmの調査区を含む3,500uであった。更に調査対象区に設定した区域には干潮時に海底が露出する地域(0〜20m)迄もあり、この面積が2,000uになる。露出した海岸では調査員が踏査して、元寇関係遺物を表採している。
 今回の調査区域で目視による確認調査した面積は調査対象総面積の35%に達した。残りの6,500u(65%)は今後更に海底調査を必要とするが、その内、沖合20m迄の海底は潮間帯にあり、干潮時には海底は露出する。この面積は2,000uで、調査対象面積20%を占める。しかるに今回の調査区での調査面積は5,500uに達する。この調査の結果、目視した調査区域の海底では施釉陶器の壷の胴部破片や鉢等の元寇関係遺物を確認できた。近世陶器では醤油甕やタコ壷等も発見した。
 元寇関係遺物は今回潜水調査を行なった調査区内では多量には確認できなかった。しかも殆どの調査グリッドは軟弱なシルトが堆積しているために遺物を海底面で確認することは困難である。しかし元寇関係遺物は700年の間に相当数がシルト層に埋没したため海底面で発見されるのは少数となるのである。この海域で大きなしけが幾度とない限り、決して海底下に埋没した元寇関係遺物は発見されることが困難である。陸地に近い海底では礫あるいは砂混じりの底質であるため、遺物は海底下に沈まず発見される機会が多くなる。そのような海底状況下で発見されたのが、今回の碇石である。発見された地点の海底の状況はシルトではなく砂質層の上面で検出された。重量のある碇石が海底下に沈んでいかなかった理由がここにある。この碇石は調査対象区域の東側にある久保ノ鼻付近の海底の目視の調査を緊急に行なった際、この岬の沖70m付近の水深7〜8mの海底で両側から大きな岩の間に挟まれるように碇石(Fig.13)が発見された。長さは約1m未満の比較的扁平な形状をなしている。おそらく半折れの碇石と思われる。この海域は久保ノ鼻の岬が海底に落ちて、沖へ延びていき、岩石が海底の景観を尾根のように形成する要因となっている。遺物はこの様な環境の海底で岩の間に挟まれるようにして発見されることが想定される。この海域の潜水調査は将来実施されるべき課題となるであろう。九州・沖縄水中考古学協会の今後の海底調査は神崎地区海域における今回の調査域よりもさらに東側の久保ノ鼻の岬沖を含む海域で行なう必要があるであろう。
 神崎地区海底の元寇関係遺物の確認調査は、協会による前年度(1992)の地区。更にその調査区域のすぐ東側で来年度(1994)に行なわれる予定の神崎港改修工事に伴う緊急調査がある。この調査予定区域の東側海域では第1回学術調査の昭和57年度(1982)における潜水調査が行なわれ、つづいて今回の調査を、この調査区の更に東側の海域で行なった。これ迄の調査区を「鷹島海底遺跡」の周知された海域の範囲の中で、その調査地点を正確に地図上におとすことであり、遺物の分布状況を把握することである。
 この様に、一連の神崎地区における海底調査の成果を評価し、今後行なわれる総合的な海底調査の基本資料となるための分布調査はこれからも鷹島海域で行なう必要があるであろう。

.まとめ
調査の現状と今後の課題
 協会による今回の海底調査の目的の一つは目視による潜水調査を行ない、海底に遺構及び遺物の存在を認確するために考古学者が自ら潜水調査を行うことにある。更に協会による会員の研修を奨め、海底調査に必要な技術や知識を習得する機会を設けることを、その目的としている。この様な協会活動は日本の水中考古学の現状を考えると、重要なことである。
 水中考古学の調査方法のひとつとして、海底の遺構及び遺物を目視によって確認する潜水調査は莫大な調査費を必要としない。この方法は遺構及び遺物を海底で確認する作業としては最も確実で、その為の準備期間も多くを必要としない。しかも少ない調査費で実施できることがその特徴である。遺物及び遺構の発見はこの方法が最も確立が高い。1960年代より地中海で盛んになった水中考古学に於いても、その発達は科学探査による遺構及び遺物の発見よりも、地元の潜水士、漁師やアマチュア・ダイバーによる偶然の発見のほうが多く、その結果重要な海底遺跡や遺構及び遺物、更に沈船が数多く調査されている。
 この目視による潜水調査は海底の地質の違いが、その成果に大きく左右する。底質が砂質や礫質であれば、シルトなどの軟弱質な底質とは異なり比較的安定して、遺構や遺物は海底面に残るものである。しかし日本の海底の環境は殆ど後者の底質を呈するものと考えられる。この底質では海底に沈んだ遺物がその上層部では安定せず、時間の経過と共に徐々に下の層へ沈んでいく場合と、堆積層が海流によって移動し、二次的な堆積が遺物を覆いながら進行する場合もある。これら遺物を海底面で発見できない原因となる。遺物が海底下に自ら沈んでいく、その動きを起こす要因は物理的に何であるかを考えなければならない。潮の干満が海流を生じさせ、更に強風や台風などが波浪をつくり海底に潮の強い流れの動きを生じ、これが要因となって遺物は海底を動き回ることもある。その結果、遺物の集中した箇所が海底に出現する。この場所は遺物ばかりでなく、海流に交じる浮遊物や塵なども一緒に集中し、沈澱する時には、遺物はその中に混じり込むと考えられる。また陸上からの土砂や生活廃棄物の海への流れ込みは遺物ばかりではなく、海底の地形状況を変え、海水の透明度をも下げる。環境破壊の一つに海の汚染があり、人々の意識には遺物と環境が直接係わるなどは全く想像することはできない。
 今回は調査対象面積(10,000u)の35%(3,500u)しか目視により海底調査ができなかった。今回の潜水調査を行なった面積の数値が意味するのは、先ず水中の透明度や透視度の善し悪しが必然的に海底調査に影響を与えていることである。このような条件のもとで潜水による確認調査を行なうと考古学者のストレスは増加し、その結果目視能力に重大な影響を与える。しかも水中考古学の方法論に厳格に対処することを意識すれば、曖昧な潜水調査を否定しなければならない。例えば、グリッドの各地点の設定を海底でより正確に行ない、そのグリッド・ロープを確実に海底地形状況を考慮しながら、目視による潜水調査に最大の効果をあげるために各地点間を適切に張る必要がある。ここには潜水調査を始める前の作業量の多さが当初協会が見積もったよりも調査日数・時間の不足が実際の調査面積を減少させる。このことも今回の調査面積の現れなかった数値に含まなければならない。そして今後同様の潜水調査を行なう場合には、調査日数には十分配慮しなければならない。
 今回は調査区域の海底で元寇関係遺物を確認することができた。更に潜水調査をした区域では海底下に埋没した遺構や遺物の存在を調査しなければならない。この調査区の東半分の区域の海底にはシルトがかなりの厚さで堆積しているため、元寇関係の遺構や遺物が海底下に埋没している可能性がある。それは「元軍」の船体の一部であることもある。調査をしなかった残りの65%(6,500u)に関しては今後更に海底調査を必要とするが、その内には沖合20m迄の海底が岩質の地域が含まれている。この地域の面積は2000uになる。この岩底質の地域は今後調査対象区域から除外することができる。
 沖合30〜100mの海底には堆積したシルト層をエアーリフトによる発掘調査を行なうべき対象区域7,000uが今後海底下に埋没している可能性のある元遠道物や更に時代が下る遺物あるいは遺構の確認をしなければならない調査区域となる。そのためには事前に科学的なデータの集積が必要となるであろう。例えばサブボトム・プロファイラーやボーリング、或いは試掘トレンチを数箇所に設定しエアーリフトを用いて発掘するなどである。これらの予備調査のデータから本調査への資料を作成し、その資料を十分に検討したのち本調査候補地を設定する。
 今回、この調査区域における目視による元寇遺物の確認調査は今後本調査に向けての複数の問題を提起することになった。
 九州・沖縄水中考古学協会はこの地区での本格的な発掘調査への可能性をおおいに期待したい。



1993年度神崎地区潜水調査:出土遺物  石原  渉


採遺物についての考察
 今回調査区の陸上部からは、表採資料3点を採取した。遺物はいずれも破損品でありいくぶん磨滅が目立つ。したがって、ある程度の期間にローリングを受けているが、ほぼ原形をとどめており、器形の確認は容易である。(参考資料1)
参考資料1 表採陶器破片
参考資料1 表採陶器破片
参考資料2

 遺物は共に褐釉壷であり、特に暗褐釉色の四耳壷の破片で、茸笠を呈する口緑部破片と、肉厚な黒褐釉爪形壷の側底部破片、及び胴部破片の3点である。四耳壷の耳部分は欠損しているが、同遺物にも見られる特徴的な茸笠形の口緑部分は四耳壷特有のものである。(参考資料2)
 さて、この種の遺物は、鷹島沿岸からの採集遺物として、かなり引き揚げられており、その大きさも数種類に大別されるが、本遺物はいずれも比較的中程度の褐釉壷の破片であろう。
 類似品は中世の博多遺跡群からも、かなり出土例が知られており、流通時期は宋代から元代にいたる貿易陶磁の日用雑貨である。
 以上の観点から類推すると、今回の表採資料はおそらく元寇関連遺物と考えて差し支えないであろう。

 海底の石材について
 久保ノ鼻の沖合、水深7〜8mの海底で発見された石材は、今回の調査では引き揚げておらず、今だ、海底に存在する。石材が発見された海底は久保ノ鼻から延びる岩棚が切れ込んだ所で、しかもテラス状の岩棚の陰の部分にあたる。石材自体は四角柱で表面には牡蛎殻が付着し、正確な法量は確認しえない。
 水中で観察すると、先端部に沿ってやや先細りぎみに幅が薄くなっているように見える。しかし正確なところは引き揚げ以後の実測作業で明らかにするしかないであろう。
 さて類似の遺物は、鷹島沿岸からいわる「碇石」として引き揚げられた遺物が数点存在する。いずれも四角柱で、断面は長方形。先端に沿って先細る傾向をしめす。
 さて、これが碇石とすれば、実際は欠損した部分も同様の形態を持つ左右対称の−本の石柱の残片であり、両端部分は中央部に比べてやや先細りぎみ、逆に中央部は肉薄で、2本の木製鉤爪を左右2本づつの鍵で上下に留めて装着する仕様のものであったろう。(参考資料3)



参考資料3 碇石復元図


 したがって、碇石ならば欠損した片方の部分も付近の海底に存在するはずである。これに反し、鉤爪をもつ木製部分は、おそらく朽ち果てたのであろう。「碇石」は博多湾や小値賀島、壱岐などでも出土例があるが、いずれも石材部分のみの出土であり、木部の発見は無い。また鷹島出土の碇石の特筆すべき特徴は、そのいずれも完形品ではなく、中央部から折れた状態で、しかも片方のみの出土ということである。他地域のものが、木部を除く完形品であるのに対して、これは異様な感じを受ける。古来より大型船は大きさが異なる数種類の碇を数本装備して係留していたようで、引き揚げが困難な場合は、碇の綱を切断して放置することも、多々あったようだ。
 したがって、海底下に碇石が残存することは何ら不思議ではない。ただ「碇石」が中央部から割れた状態で出土するということは、何らかの外的要因が働き、海底下の碇石自体に、かなり強烈な負荷が加わって折れたとしか考えられない。特に岩礁が存在する海底に沈められた碇石は、岩礁が障害物となってかなり海底下で破損する確立が高いであろう。
 さて、その外的要因であるが、碇自体は海底下に安定しているわけであるから、問題は碇によって係留された舟自体に負荷が加わって、その影響が係留綱を伝わり碇に反映したとしか考えられない。
 例えば、海上にある舟が波浪の影響で激しく翻弄され、その圧力が舟を安定係留しようと働く碇部分へと伝わり、舟に引きずられる形で動こうとすれば、碇はおのずから海底の地勢と摩擦を起こし、ひいては破壊してしまうに違いない。
 したがって碇石破壊の原因が、強烈な波浪が巻き起こしたのだとすれば、鷹島で想起できる原因はただ一つ、弘安四年に鷹島南沿岸を襲った大暴風雨だけであろう。するとこの碇石もあるいは元寇舟の碇であったのだろうか。

 ただ碇石は中国だけのものでなく、世界各国に姿形を変えて存在するし、我が国にもその存在が記録されている。したがって事実関係を正確に知るためには、いずれこの遺物を引き揚げて、石質や形態を十分確認した上で判断する必要があろう。

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マラッカの宝船 石原 渉

 

 マラッカ海峡の底から、英国船籍の「ダイアナ号」が発見されたという情報が飛び込んで来た。時価200億ドル相当の陶磁器を積み、1817年に沈んだ船である。現在、マレーシア政府が調査中と聞く。先頃、筆者はこのマラッカを訪ね、海峡を眺めて来た。
 市街は、骨董屋が軒を並べる古都でもある。一軒の店を覗くと、韓国新安沖沈船のものと同じ、元代の青磁皿があり、それも海揚がりの品らしかった。
 今、アジア諸国は、海の調査に積極的である。その成果を大いに期待したい。それにつけても、遅々として進まぬ我が国の状況と比較して、唯々、空しさを覚えるのは、筆者だけであろうか。


九州文物紀行 常松 幹雄

 

 は遺跡から出土する土器、何の変哲もない土器で倭人伝を語る日も遠くないと考えている。「そうでも思わんと年中発掘現場にへばりついておれんでしよう」といわれそうだが、それには理由がある。土器の多くは模倣を繰り返しながら変化してゆくが、今日風の創作がいる余地は少なかった要で、我々が時として「すばらしい造形」などといって感心している弥生土器は本来大変なストレスの固まりなのかもしれないのである。また形態的な分布や胎土に含まれた砂礫の分析から土器の生産と消費が通常小平野を単位としていたことも分かってきた。つまりこの壺は糸島で作られたというような地域性も明らかになろうとしているのである。ここでは弥生時代後期に本州方面へ運ばれた北部九州の土器の話をしよう。
 この数年、土器の移動をテーマにした集まりに幾度か出席する機会があった。その際、弥生後期、九州の土器はあまり他所へ動きたがらなかったようですねと言われることがあった。こうした集まりには関西方面の人の参加が多いのだが、関西人への対抗心ではなく、学問的動機(北部九州と本州域の土器の関係をハッキリさせて、相対年代の物差しをつくる基礎にしよう!)から今回の企画を思い立った次第である。91年7月、カメラと土器の計測道具を携えて松江行きの夜行バスに乗り込んだ。

第一次調査1991年7月
鶴山遺跡(島根県太田市)出土の壺形土器
隠岐島沖海底採集の壺形土器

第二次調査1992年6月
海運橋遺跡(新潟県柏崎市)出土の壺形土器

第三次調査1993年10月
纏向遺跡(奈良県桜井市)出土の壺形土器

第四次調査1994年2月
カンボウ遺跡(島根県安来市)出土の壺形土器

 単身赴いて数時間話を聴きながら資料調査をするだけなので、第〜次調査というのは少し大袈裟かもしれないが、それでもいくつかの所見を得ることができた。
 このうち北部九州から持ち出されたといえるのは、隠岐島沖海底採集と開運橋遺跡、カンボウ遺跡出土の3点である。旧国名では隠岐、越後、出雲となるので日本海側に偏っているようにもみえるが、纏向の資料は実物にあたっていないし、未報告で解禁になっていない吉備出土の壺があることも付言しておきたい。
本州島域へ運ばれた北部九州の壺
1. 隠岐島沖海底採集の壺形土器は、1983年11月、松葉蟹漁を操業していた生洋丸の網にかかって引揚げられたものである。水深260mの泥中だったというが、表面にはフジツボの類の生痕が観察でき、内面にシルトが沈殿した部分がスジ状にのこっている。ほぼ完形で高さ49.5cm、底部は不安定な平底である。口縁の屈曲部がせり出し、口頸部よりも胴部以下に重心をおく形状は、遠賀川以東の土器にみられる特徴である。後期中ごろ、二世紀中ばから後半にかけての時期と考えられる。

2. 海運橋遺跡は、JR柏崎駅の北、石川の河口から約2km内陸に入った海運橋の西のたもとに位置している。ここから日本海をのぞむことができる。壺形土器は、1955年、橋の架け替え工事にともなって、川底で発見されたという。見学時の第一印象は、まさに北部九州の土器そのものであり、900kmの距離と、18世紀あまりの時を隔てた邂逅に驚きをおぼえた。河川採集のためか器壁は磨滅していたが、ほぼ完形で、高さ22.7cm、口径14cmの小型品である。底部は、不安定な平底で、同時期の福岡平野出土の土器と並べても全く違和感はないと思う。後期前半の新段階、二世紀前半の時期と考えられる。

3.カンボウ遺跡は鳥取との県境、標高13m前後の低丘陵上に位置する。壺は、谷部の包含層に流れ込んでいたといい、山陰地方の後期弥生土器を伴っている。調査者の丹羽野氏によると、在来の器種に混ざった見慣れない異系統の土器というのが最初の印象だったそうである。壺は口縁部と頚部、胴部下位に分かれており、口径21cm、高さ40cmに復元される。底部は遺っていないが凸レンズ状であったと推定する。後期中ごろ、二世紀中ばから後半にかけての時期と考えられる。
 さてここに紹介した資料はすべて壺形土器である。壺がもっとも個性的な形態をしているということにもよろうが、やはり旅する容器は壺に落ち着くということだろうか。口に布や皮をあてがって紐で縛れば、少しくらい船が揺れても大丈夫のはずである。弥生から古墳時代の移行期に庄内式の薄甕や東海系のS字甕が列島内を動いたのとは一味違った意味を見出すべきかもしれない。
 倭国あるいは倭人に関する記事は、弥生時代も後期になると古代中国の史書に度々登場するようになる。まず後漢の建武中元年(57)に奴国王は印綬を授けられた。天明年間に志賀島(福岡市)で発見された「漢委奴国王」の金印がそれである。次いで安帝の永初元年(107)、後漢に生口百六十人を献じたとある。さらに倭国大乱をへて卑弥呼の共立にいたる。たとえばこのときの生ロはどこから集められた人々だったのか。私は使訳通じる国々の力関係に応じて供出されたのではないかと推測する。
 奈良県東大寺山古墳出土の中平年銘(184〜189)のある鉄刀も卑弥呼への下贈品の可能性のある文物である。ここで断言できるのは、これら全てが船で運ばれたということである。もしアクシデントがあれば海に沈んだに違いないこと、そして我々の知らない大変な遺物がまだまだ海底に眠っていることも想像に難くない。
 ひとつの壺は、時代背景を重ねることによって様々な情報を発信しようとする。また中味は、厖大、多岐にわたるが、さらに洋上に消えた古代船の軌跡を追いたいと思う。
 これら遺物の紹介は、『福岡考古16号』掲載の「本州島域における北部九州の壺形土器」に詳しく、福岡市博物館のミュージアムショップでもお求めいただけます。



筑前糸島郡烏帽子島沖海底引き揚げ遺物 山村 信榮



 今回報告する遺物群は福岡県二丈町吉井浜在住の釘本伊勢光氏によって糸島郡志摩町烏帽子(えぼし)島沖で採集され、太宰府市宰府の太宰府天満宮文化研究所が所蔵保管する中国産の輸入陶磁器であり、後述のとおり本誌第1巻第3/4号に前原市教育委員会の岡部裕俊氏が紹介した資料と一連のものと考えられるものである。資料紹介にあたっては太宰府天満宮のご高配をいただいた。
Fig.1 資料は中国同安窯系青磁小皿5点、無釉長胴壺1点、大型の褐釉壺1点の計7点である。長胴壺の口縁の一部が欠ける他は完形を保っている。青磁皿は内2枚の内底にクシ描きの文様が見られる。釉はくすんだオリーブ色に近い緑色を呈する。長胴壺は波のあるナデ(ミズビキ)後に下半部分はヘラケズリを施す。底部は設置に難があるほど雑なヘラキリを残す。褐釉壺は肩衝き型で胴部中央は焼成時の歪みのため縦に10cmほどの亀裂が見られる。壺の内外面にはフジツボなどの寄生痕跡が付着するが、青磁皿にはほとんど見られない。陶磁器の組み合わせとしてはD期=12世紀中葉から13世紀前半(山本信夫の区分;1989年)に属す。
 検出の状態は釘本伊勢光氏によれば、1993年9月糸島郡志摩町烏帽子島沖の西約10kmの地点で福漁丸、登恵丸の2隻による底引き網漁によって水深約50mほどの海底から魚とともに引き揚げられた。氏によれば1987年に福岡県前原市の伊都歴史資料館に寄贈したものと同じ漁場で揚がったものであるという。87年の資料は中国龍泉窯系青磁碗7、白磁碗1、陶器皿1、と碗の中に付着していた銅銭50枚以上、それら製品を入れていたと思われる竹籠の断片であった。底引き網漁という方法であげられたので特定の地点はドットを落とすようには設定できないが、遺物の状態から、青磁碗に銅銭が内包されたままの状態であったこと、青磁皿はフジツボなどが付着していない、竹籠の断片も回収されたことから、本来は特定の場所に一部の遺物が砂に埋もれ、一部は潮に洗われた状態で、ある程度の現位置を保ったまま水没しているものと考えられる。前回の報告にもあるが寄贈資料の他にも白磁壺、陶器壺などが揚がったことがあるらしい。
 改めて遺物の組み合わせをみると多少の白磁を含み、青磁碗には蓮弁文様の様式のものが含まれないことから、これらの資料の時期は鎌倉時代前半期に位置づけられる。海図から遺物が引き揚げられた場所は壱岐水道の深所にあり、潮の流れが最も速い所でもある。この海域のすぐ北側には「バク瀬」「ガブ瀬」の岩礁が存在し、航行には注意を要する海域でもある。烏帽子島は壱岐・対馬航路の途上で目安とされている灯台があり、岡部氏指摘のごとく遺物が存在する箇所はまさに大陸と博多港とを結ぶライン上に載っている。回収された陶磁器は、当時の日本で最も大量に消費された輸入商品の一つで、かなり頻繁に陶磁器を満載した交易船がこの航路を通過したことと思われる。今回報告した資料はその事実を証明する貴重な資料である。
 今回の報告にあたり太宰府天満宮の味酒安則氏、木本満氏、二丈町の釘本伊勢光氏には遺物に関する取材に快くお答えいただき、田中克子女史には遺物実測、撮影に御協力いただきました。常松幹雄氏には資料紹介の機会をいただきました。記して感謝申し上げます。


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