第10講.チトーのパルチザン

 ここで、ユーゴ史に燦然と輝くひとりの政治家が登場する。彼は、多くのユーゴの政治家の中で唯一、この国を国際舞台の荒波に揉まれる中規模国家から、国際舞台で自主的・積極的に動くことの可能な地位に押し上げた。
 彼はクロアチア農民出身で、第一次大戦でオーストリア・ハンガリー軍の一兵卒として東部戦線で捕虜となり、共産主義と出会った。名前はヨシップ・ブロズというが、本名を名乗れない間に名乗った名前……チトー……でよく知られている。

 さて、枢軸国による侵略・分解後、ユーゴスラヴィアのあった地域には主に二つの抵抗組織が発生した。一つはチトーの率いた人民解放軍……パルチザン……であり、もう一つはチェトニクである。
 チェトニクはユーゴ軍の生き残りであるドラジャ・ミハイロヴィチ将軍が結成した組織で、旧ユーゴ軍将校を中心としたものだった。
 ドイツ軍は迅速にユーゴの占領を完了すると、ギリシアに、そしてソ連へと転戦していった。ユーゴの占領や武装解除はかなりおざなりであったようだ。これが、チェトニクを芽生えさせる温床となった。
 ところで、ミハイロヴィチの行動は、チトーと好対照を為していた。ミハイロヴィチは西欧諸国と手を結び、共産主義を憎み、ユーゴスラヴィア王国の再建を望み、報復を恐れ表立った過激行為には走らなかった。

 チトーは1941年8月までに、セルビアの村落部のほとんどを手中に収めていた。そして、枢軸国とのさらなる戦闘に備えて、チェトニクとの同盟を模索した。だが、ミハイロヴィチはこの申し出を蹴り、むしろ共産主義者に敵意を見せた。
 11月、パルチザンは、ドイツ軍とチェトニクとの猛攻・軋轢のためにセルビア全土から撤退せざるを得なくなった。チェトニクは今や矛先を公然とパルチザンへと向けた。彼らはドイツやその傀儡であるネディチのセルビア国と公然と手を結びはしなかったが、中立的な態度をとり消極的に協力しあった。

 さて、パルチザンはセルビアから今やクロアチア領となっていたボスニアへと逃れたのであるが、ボスニアはセルビア以上にややこしい状況になっていた。クロアチア(名目上、イタリアのスポレト公がトミスラヴ二世として君臨する王制であった)はウスタシャ(反逆者)と呼ばれる過激派の手に委ねられており、ウスタシャはナチスユダヤ人狩りに倣ってセルビア人狩りを行っていた。
 セルビア人は森や山岳地帯に逃れ、パルチザンやチェトニクに合流した。チェトニクは枢軸国と折り合いをつけながら、ウスタシャと血みどろの内戦を行っていた。これに対しパルチザンは、民族間の差異を越え、侵略者である枢軸諸国と、その手先であるウスタシャやチェトニクとの戦いを主張した。

 1942年夏頃までに、パルチザンはボスニア全土を占領していた。そして、11月5日に陥落させたビハチで、チトーは初めて軍の組織化と行政組織の構築を行った。この時開催されたユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)……第一回会議はその開催地を取ってビハチ会議と呼ばれる……は、のちに戦後ユーゴ政府の母体となっていく。
 ビハチ会議は、チトーのパルチザンの活動を、社会主義革命のためではなく民主主義的な基盤に立ち枢軸国を追い出すための活動として正当化した。
 連合国側の態度は混乱を見せた。ユーゴスラヴィアの亡命政府は、イギリスに受け入れられてロンドンにあり、ミハイロヴィチを英雄として宣伝していた。だが、イギリスがこのころからチェトニクに人的なものを含む支援を行うようになり、チェトニクの実体……むしろ親独的であり、パルチザンとの戦闘にばかり専念しているに気づきはじめた。
 ソビエトの態度は更に冷たいものだった。ソ連ははっきりとパルチザンの敗北を予想していて、ほとんど支援を与えなかったのだ。このことは戦後、チトーとスターリンの間に溝を作る要因となっていく。

 これに対し、枢軸国のAVNOJへの態度は鮮明で明快だった。ドイツ軍はパルチザンをボスニアやモンテネグロの山岳地帯へと追い込み、パルチザンと同様のゲリラ戦術を、パルチザン以上の物量でもって実施した。
 この1943年の枢軸国の大攻勢は、パルチザンをあと一歩まで追いつめた。事実、チトー自身戦闘で負傷を負い、ボスニアから北へと逃れざるを得なくなる。
 だが、これを乗り切ったとき、1943年9月、パルチザンに一つの転機が訪れた。
 イタリアの降伏である。

 1943年9月初旬のイタリアの降伏は、旧ユーゴスラヴィア王国領内の各勢力を競走に駆り立てた。
 イタリア軍が残したスロヴェニア、ダルマチア、モンテネグロの陣地やその軍装……イタリア軍10個師団分……を手に入れなければならなかった。この競走にパルチザンはおおむね勝利し、5〜6月の枢軸攻勢で失った分を取り戻すことが出来た。そしてまた、イタリアの支援を受けていた諸勢力……スロヴェニアの「白衛隊」「青衛隊」、ダルマチアやモンテネグロのチェトニク……も後ろ盾を失い崩壊した。

 1943年11月末、チトーはヤイツェで第二回人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)を招集した。この会議は142名の民族グループや政治団体の代表たちからなる代議機関にまでなっていた。すなわち、この時既に、立法・行政の機能を持っていたのである。
 その下部組織であり、実質的に行政を行う、いわば臨時政府の役割を果たしたのはユーゴスラヴィア解放全国委員会で、この委員会もまた第二回AVNOJで結成された。
 チトーはこの会議で元帥・首相に任命され、その本名がヨシップ・ブロズであることが公表された。また、会議は、将来ユーゴスラヴィアを連邦制によって再編し、王制に関しては「全土解放後、人民自身の意志によって決定される」こととし、ロンドンのペタル2世とその亡命政権に、それまではユーゴに戻らぬよう警告した。

 一方このころ、東部戦線でのドイツ軍の敗走が始まっていた。ユーゴスラヴィアのパルチザン勢力は、バルカンで最も大きな勢力として重要になってきていた。
 連合国は、チェトニクとパルチザンのどちらを支援するかの試金石として、ミハイロヴィチのチェトニクに、ドイツ軍の撤退を妨害するための鉄道破砕を依頼した。チェトニクはこれを無視あるいは拒否した。
 1944年1月、チャーチルはチェトニクへの援助打ち切りを発表、3月にはロンドンの亡命政権をチトー政権と合併させた。
 この時、奇妙な状況が発生した。西欧はこれで共産主義者を主体とするチトー政権に乗り換えたが、ソ連はチェトニクへの支援を更に継続したのである。これはセルビアのほぼ全域が今なおチェトニクの勢力下にあり、チェトニクが戦後ユーゴスラヴィアの主体となると信じていたからとも、ソ連と関係なく大勢力を築き上げつつあったチトーに対抗する勢力を用意しておきたかったからとも言われている。

 ともかく、パルチザンは、1944年5月の最後の枢軸攻勢を英ソの協力によって(ソ連製の飛行機で、イギリス占領下のイタリアに一時逃げた)乗り越えながら、この月の内にクロアチアとリエーカ(フィウメ)を、そして10月にはベオグラードを解放した。ミハイロヴィチは逃亡の末、1946年3月に捕らえられ処刑された。そして9月、パルチザンは国内から反抗する軍事勢力全てを一掃した。

 この時に重要なのは、1944年9月にチトーがソ連と結んだ協定である。この協定で赤軍は共同軍事行動のためユーゴ領内に進入することが認められたが、その解放した地域はユーゴの行政下におくこと、そして赤軍は軍事作戦の終了とともに領内から撤退することが決められた。

 ところで、この解放の過程において、ソ連の影響が弱々しかったことは指摘に値するだろう。それは内戦中のソ連の拙い行動とも相まって、戦後の両国間の関係に影を落とすことになるのだ。

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